第32話 隣国に行くことになったので出発まえにレオンさんに挨拶してきた件
夜の王都は、昼間とはまるで別の街のようだった。
冒険者ギルドの前の通りも、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。酒場の明かりがいくつか灯り、遠くから笑い声や楽器の音が聞こえてくるくらいだ。石畳の上には夜露が降り始めていて、街灯の光をぼんやり反射している。
俺たちはギルドの外に立っていた。
さっきまで中にいた新人狩りは、すでにギルドの奥に連れていかれている。ダインさんが奪った冒険者証も、金も、すでに処理は済んでいる。
ギルドの扉が閉まる音を聞いたとき、ようやく今日が終わった気がした。
体の疲れもある。
でもそれ以上に、頭の奥に残っている感覚が消えない。
松明の炎。
夜の山道。
刃物の光。
あの男たちの目。
ダインさんが腕を組んだまま言った。
「とりあえず、隣国へ行く」
簡潔だった。
でも、それで話の方向は決まった。
「はい」
俺は頷く。
玲奈と先生も同じように頷いた。
ダインさんは少しだけ夜空を見上げた。雲の切れ間から、星がいくつか見えている。
「すぐには出ない」
「準備がいる」
確かにそうだ。
街を出るだけじゃない。国境を越えるとなると、それなりに装備や食料も必要になる。
「そうですね」
俺は素直に答えた。
ダインさんは少しだけ考え、それから言った。
「二日後」
「ギルド前で合流」
必要なことだけを並べた打ち合わせだった。
でも、それで十分だった。
「分かりました」
玲奈が言う。
先生も頷いた。
「二日あれば準備できそうね」
ダインさんはそれ以上何も言わなかった。軽く手を振るだけだ。
「じゃあ二日後だ」
それだけ言うと、さっさと通りの暗がりの方へ歩いていく。
相変わらず、必要以上のことは言わない人だ。
俺たちはその背中をしばらく見送ってから、自然と歩き出した。
安宿へ戻るためだ。
夜の石畳を三人で歩く。
しばらく誰も喋らなかった。
靴底が石を踏む音だけが静かに続く。
やがて玲奈がぽつりと言った。
「……さっきの人たち」
その言葉で、さっきの光景が頭に戻る。
松明の火。
荒い息。
刃物。
先生が静かに言った。
「怖くなかった?」
俺は少し考えてから答えた。
「怖くなかったわけじゃないです」
本当のことだ。
怖くないわけがない。
でも、それでも。
「でも……」
言葉を探す。
「それでも先生を傷つけようとされたら、俺は同じことをすると思います」
先生が少し驚いた顔をした。
「黒崎くん……」
すると玲奈が言った。
「いや、わたしは?」
俺は思わず言葉に詰まった。
「あ、いや」
「先生と玲奈は渡さないって意味で」
玲奈が少し笑う。
「女たちも、ですね?」
俺は小さくため息をついた。
「……そういうことにしておきます」
先生は困ったように、でも少しだけ安心したように笑った。
そのまま俺たちは宿へ戻った。
⸻
翌朝。
扉を叩く音で目が覚めた。
「起きてますかー?」
玲奈の声だった。
「起きてます」
ドアを開けると、玲奈と先生が廊下に立っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
俺は軽く伸びをする。
昨日の疲れはまだ残っているけど、体は普通に動く。
「今日は準備ですね」
先生が言った。
「そうですね」
玲奈が言う。
「なんか本当に旅って感じですね」
確かにそうだ。
ついこの前まで王都の中で依頼をこなしていただけなのに、気がつけば国境を越える話になっている。
人生って分からない。
俺たちはまず通りへ出た。
この宿は安い代わりに食事は出ない。
だから朝食はいつも屋台になる。
朝の王都はすでに活気づいていた。
パン屋の香り。
屋台の煙。
行き交う人々。
玲奈が屋台を指差す。
「あ、この串焼き美味しいですよ」
俺も一本買う。
一口食べる。
「……確かに」
肉の脂と塩がちょうどいい。
先生も食べて頷いた。
「美味しいわね」
玲奈が少し得意そうに言う。
「でしょ?」
屋台の前で立ったまま食べながら、俺は通りを眺めた。
この街にも、もうだいぶ慣れてきた。
最初は何も分からなかったのに。
先生がぽつりと言った。
「王都の屋台も食べ納めね」
玲奈が少し驚く。
「あ、そっか」
俺も頷いた。
「そうですね」
もうすぐこの街を出る。
しばらく戻らないかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと思い出した。
「そういえば」
二人がこちらを見る。
「出発前にレオンさんに挨拶しておきたいですね」
先生がすぐ頷いた。
「そうね」
玲奈も言う。
「お世話になりましたし」
騎士団の訓練場は王城の近くにある。
俺たちは食事を終えると、そのままそちらへ向かった。
⸻
騎士団の訓練場に近づくと、遠くから木剣のぶつかる音が聞こえてきた。
乾いた音が一定のリズムで響く。
それに混ざって、騎士たちの掛け声が聞こえてくる。
朝の訓練だ。
騎士団の訓練はかなり早い時間から始まる。まだ街の屋台が開き始めたばかりの時間なのに、ここではすでに汗を流している騎士が何十人もいた。
俺たちは訓練場の端で少し様子を見る。
騎士たちは木剣を振り、組み手をしている。
その中央で指示を出している男がいた。
レオンさんだ。
腕を組んだまま訓練を見ている姿は、相変わらず岩みたいに動かない。
しばらく様子を見ていると、レオンさんがこちらに気づいた。
俺たちを見ると、軽く顎を動かす。
来い、という合図だ。
俺たちは訓練の邪魔にならないよう端を歩き、レオンさんのところへ向かった。
「レオンさん」
俺が声をかける。
レオンさんは短く答えた。
「どうした」
いつも通りの調子だ。
俺は少し背筋を伸ばして言った。
「隣国へ行くことになりました」
レオンさんは一瞬だけ目を細めた。
それからゆっくり頷く。
「そうか」
それ以上、驚いた様子はない。
少しだけ考えるように訓練場を見渡してから言った。
「まあ、お前たちなら問題ないだろう」
玲奈が小さく笑う。
「ありがとうございます」
レオンさんは続ける。
「隣国は冒険者が多い」
「腕のいい連中も多い」
そして俺を見る。
「油断するな」
「はい」
俺は頷いた。
レオンさんは俺たち三人を順番に見た。
玲奈。
先生。
そして俺。
「冒険者は自由だ」
「好きにやれ」
それから少し間を置いて言った。
「死ぬなよ」
短い言葉だった。
でも、妙に重い。
「はい」
俺たちは三人で頭を下げた。
騎士団に来たばかりの頃、俺たちは何も分からなかった。
この世界のことも、戦いのことも、冒険者のことも。
それでもここまでやってこられたのは、間違いなくこの人のおかげだ。
顔を上げると、レオンさんはもう訓練場に視線を戻していた。
「行け」
それだけ言う。
俺たちはもう一度軽く頭を下げて、その場を離れた。
⸻
騎士団を出ると、朝の王都はさらに賑やかになっていた。
通りには人が増え、荷車の音や商人の呼び声があちこちから聞こえてくる。
玲奈が言った。
「レオンさん、いつも通りでしたね」
「そうですね」
俺は苦笑する。
あの人はあまり感情を表に出さない。
でも、さっきの言葉はちゃんと伝わってきた。
先生も小さく頷いた。
「きっと、あれがあの人なりの送り出し方なのね」
それから俺たちは王都の通りをゆっくり歩いた。
準備はほとんど終わっている。
収納スキルのおかげで荷物も多くない。
あとは二日後にダインさんと合流するだけだ。
その日の夜。
俺たちはまた屋台で食事をしていた。
王都の屋台は種類が多い。
串焼き、スープ、パン、揚げ物。
湯気と香りが混ざり合って、通り全体が食事の匂いに包まれている。
玲奈が言う。
「ほんとに王都ともお別れですね」
俺は串焼きをかじりながら頷いた。
「そうですね」
先生は通りを眺めていた。
「短かったけど、色々あったわね」
確かにそうだ。
騎士団の訓練。
初めての依頼。
冒険者ギルド。
薬草採取。
そして新人狩り。
この街で経験したことは多い。
玲奈が少し笑う。
「でも」
「なんだか次も楽しみですね」
「隣国」
俺も少し笑った。
「そうですね」
まだ何があるか分からない。
でも、それでも。
少なくとも俺たちは、ここまでやってこられた。
⸻
二日後。
俺たちは冒険者ギルドの前に立っていた。
朝の空気はまだ少し冷たい。
通りにはすでに冒険者や商人の姿がある。
そしてギルドの前には、すでに一人の男が立っていた。
ダインさんだ。
腕を組んで壁にもたれている。
俺たちを見ると、短く言った。
「来たか」
「はい」
俺は頷く。
玲奈も言った。
「準備できました」
先生も続く。
「お待たせしました」
ダインさんはそれだけ聞くと、体を起こした。
「じゃあ行くぞ」
迷いはない。
すぐに歩き出す。
俺たちはその後を追った。
王都の通りを抜ける。
商人の声。
荷車の音。
屋台の煙。
それらを背に、城門へ向かう。
やがて王都の大きな城門が見えてきた。
門番の騎士が立っている。
その横を通り抜ける。
石造りの門をくぐると、王都の外の空気が広がった。
振り返る。
王都の城壁が朝日に照らされていた。
この街で、俺たちは多くのことを経験した。
騎士団。
冒険者。
戦い。
仲間。
そして今。
俺たちはその街を離れる。
俺は小さく息を吐いた。
そして前を向く。
ダインさんはもう街道を歩き始めている。
玲奈と先生もその後を追う。
俺も歩き出した。
王都を背にして。
隣国へ向かって。




