第97話 酒場と物流と盗賊の件(十五)
土曜の朝は、金曜より少しだけ遅く始まった。
それでも、寝すぎたというほどではない。体の奥に残っていた重さが、ようやく人並みの疲れへ落ち着いたくらいだ。目を開けた時、窓の外はすでに白く明るんでいて、薄い陽が床の端を照らしていた。
マリナは寝台の上で一度だけ大きく息を吸った。
肺に入る空気が、昨日の朝よりずっと軽い。張り詰めたものが無いわけではない。けれど、それは街道へ向かう前の硬さではなく、営業日の朝に店へ向かう前の静かな集中に近かった。
隣では、レイナももう起きていた。
「おはようございます」
「おはよう」
声はまだ少し低い。だが、寝不足の重さはもうない。昨日、借家へ戻ってすぐに休んだのが効いたのだろう。
「足、大丈夫ですか」
レイナが布団を整えながら訊く。
「ええ。少し張ってますけど、動けば問題ないくらいです」
「私もそんな感じです」
言いながら立ち上がる。床へ足をつけた瞬間に分かる。河原の小石を踏んだ足裏も、渡し場の冷たい水も、まだ完全には消えていない。けれど、痛みではない。働ける体の重さだ。
顔を洗い、髪を整え、支度をする。
土曜の朝の動きは、金曜とはまた少し違う。金曜は「間に合うか」が強かった。今日は、ちゃんと始めるための朝だ。慌ただしさではなく、準備の落ち着きがある。
隣の部屋からは、ユウトとダインの気配が聞こえる。革の擦れる音、卓に置かれた何かの小さな音、それから低い会話。日常の音なのに、仕事へ向かう前の体温をちゃんと持っている。
借家の戸を開けると、外の空気は思っていたより澄んでいた。
空はよく晴れている。朝の光が石畳をやわらかく照らし、家々の屋根の端を白くしていた。通りを行く人影はもう少なくない。昨日は昼前に閉まったとはいえ、魔王さんのケーキ屋の土曜を知っている客は早い。
借家の前には、すでにガルドがいた。
自宅から出てきたばかりなのだろう。朝の空気がそのまま服に馴染んでいる。弓を背負い、いつものように落ち着いた顔で立っていた。
「おはようございます」
マリナが声をかける。
「ああ」
ガルドが頷く。
「よく寝られたか」
「なんとか」
「なら十分だ」
そのやり取りに、無理な気遣いはない。けれど、こういう一言があるだけで、朝の体は少しだけ動きやすくなる。
「今日は普通に営業ですね」
レイナが言う。
「普通に、な」
ガルドの返事は短かった。
その「普通に」の中に、この数日の色々が全部入っている気がして、マリナは少しだけ口元を緩めた。
五人で店へ向かう道は、金曜よりずっと静かだった。
昨日は街道帰りのまま急いで歩いた。今日は営業へ向かう足だ。急いではいるが、慌ててはいない。空気の質が違う。
通りを二つほど曲がったところで、前方のざわめきが少し変わった。
人が集まっているわけではない。だが、道の端へ自然と寄るような流れが出来ている。何かが来る時の空気だ。
マリナは足を少しだけ緩めた。
すると、角の向こうから金属の擦れる音が聞こえた。
軽い音ではない。短剣や鎧の金具が鳴るような高さではなく、もっと重く、引きずるような音だ。石畳に金属が触れ、硬く短く鳴る。その音の間に、足を引きずる気配と、低い呻きが混じる。
レイナの足も止まった。
「……何ですか、これ」
声が自然に落ちる。
角を曲がって現れたのは、鎖で繋がれた男たちの列だった。
首に鉄の輪を嵌められ、そこから伸びた鎖で前後を繋がれている。手も自由ではない。昨日まで街道で刃を向けてきた顔が、その中にいくつもあった。腫れた頬、割れた唇、肩へ巻かれた粗い布。歩くたびに鎖が引かれ、前の者がよろめけば後ろの者の足まで乱れる。
街の兵がその列を挟むように歩いていた。槍を持ち、余計な言葉は交わさない。何度も見た光景なのだろう。緊張も、同情も、顔には乗せていない。
ユウトの視線が、その列へ吸い寄せられる。
昨日、渡し場で川へ叩き落とした男。橋の向こうで呻いていた男。街道で後頭部を地面へ打ちつけた男。顔の腫れ方や歩き方に、記憶が重なる。
同じ人間だ。
だが、もう戦う側の顔ではない。
「昨日の連中だな」
ガルドが低く言った。
マリナとレイナが同時にそちらを見る。
ガルドは列から目を外さないまま、続ける。
「共和国じゃ、ああなる」
説明口調ではない。ただ、知っている者の声音だった。
兵の一人が、こちらへちらりと視線を寄越す。冒険者ギルドで何度も顔を合わせたことがあるのだろう。ほんの少し顎を動かした。
「お前らが捕えた連中だ」
事務的な声だった。
マリナは短く頷く。
「処分が決まったんですね」
「ああ」
兵は前を向いたまま答える。
「犯罪奴隷だ。鉱山か港湾都市だな」
鎖が引かれる。
列の中ほどの男が足をもつれさせ、石畳へ膝を打ちつけた。鈍い音がして、首輪の鉄が引かれ、後ろの男まで半歩分だけ引きずられる。だが兵は止まらない。止めるのは列を整えるためだけだ。倒れた男の肩を槍の柄で押し起こし、また前へ歩かせる。
マリナはその動きを見て、喉の奥が少しだけ硬くなるのを感じた。
死刑ではない。
それで終わりではない。
働かされて、使われて、それで潰れるまで続く。それがこの国の形なのだと、目の前の鎖の重さがはっきり見せてくる。
「……港か鉱山か」
レイナが小さく繰り返す。
その声に答えたのはガルドだった。
「重い方へ回されるだろうな」
淡々とした言い方だった。
「大抵、一年も保たん」
その一言が、朝の空気の中でやけに重く落ちる。
ユウトが、そこで初めて小さく息を吐いた。
「死ぬまで、ですか」
問いというより、確かめるような声だった。
「ああ」
ガルドは短く返す。
「この街じゃ珍しい話じゃねえ。犯罪の程度で差はあるが、盗賊で、しかも街道を潰してた連中だ。軽くは済まん」
列は止まらない。
石畳に鉄が擦れる音が、少しずつ遠ざかっていく。けれど、その音はすぐには耳から消えなかった。重い。引きずるような重さだ。人間が前へ運ばれていく音なのに、どこか荷車の鎖にも似ている。
マリナは、しばらく言葉が出なかった。
自分たちが捕えた者たちが、こうして別の場所へ送られていく。それは頭では分かっていた。だが、石畳の上で実際に見ると、理解の形がまるで違う。
ユウトも黙っていた。
視線は列を追ったままだったが、追いかける気配はない。ただ見ている。たぶん、今目の前にあるものと、街道で自分がやったことの先を、初めて繋げているのだろう。
「黒崎くん」
マリナは低く呼んだ。
「はい」
声はすぐ返ってきた。
「これも、私たちが受けた依頼の先です」
言葉を選ぶ。軽くは言えない。だからといって、説教にしたくもない。
「街道で人を止めて、流れを潰して、刃を向けてきた。その先が、これです」
ユウトは少しだけ目を伏せ、それからまた前を見た。
「……はい」
それだけだった。
だが、その短さの中に、ちゃんと重さがあった。
列が角を曲がり、見えなくなる。
最後尾の兵の靴音が消えたあとも、しばらくは誰もすぐに歩き出さなかった。朝の街の音が遅れて戻ってくる。荷車の軋み、店を開ける戸板の音、人の話し声。そのどれもが、今はさっきまでより少しだけ遠く聞こえる。
最初に歩き出したのはガルドだった。
「行くか」
それだけ言う。
引きずらないための声だった。
「はい」
マリナも頷いた。
歩き出すと、さっきまで止まっていた血がまた流れ始めるような感覚があった。店へ向かう足は変わらない。けれど胸の中に、さっきの鎖の音がまだ残っている。
レイナが少し歩いてから、小さく言った。
「きついですね」
「ええ」
マリナは隠さずに答える。
「でも、見た方が良かったとも思います」
「そうですね」
レイナも頷く。
街道で切って終わりではない。その先に国の仕組みがある。優しさではない。だが、甘くもない。そういう場所で自分たちは冒険者をやっているのだと、改めて分かる。
ユウトはまだ少し静かだった。
魔王さんのケーキ屋が見える通りへ入っても、いつもなら厨房や売り場へ向く気配が、今日は一拍だけ遅い。
マリナはその横顔を見てから、声を掛けた。
「黒崎くん」
「はい」
「考えるのは大事です」
そこで一度言葉を切る。
「でも、引きずりすぎないでください。今日は今日で、こっちの仕事があります」
ユウトは少しだけ目を見開き、それから頷いた。
「分かりました」
「今日の店も、誰かの生活です」
「はい」
その返事は、さっきより少しだけはっきりしていた。
魔王さんのケーキ屋の前まで来ると、そこにはもう土曜の熱が出来始めていた。
通りに漂う甘い匂い。扉の前で待つ客の気配。朝の明るい空気の中で、店だけが少し早く一日の中心になっている。
その流れを見た瞬間、マリナは自分の中の何かがきちんと繋がるのを感じた。
街道を守ることと、この店を開けることは、別の話ではない。
列へ並ぶ客も、王都から来る荷も、港へ向かう流れも、全部がどこかで繋がっている。だから、今自分たちはここに立つ。
扉を開ける前に、ユウトが小さく息を吸った。
「先生」
「何ですか」
「今日は、ちゃんとやります」
「昨日もやってました」
「今日は、もっとです」
その言い方に、マリナは少しだけ笑った。
「そうしてください」
そう返すと、ユウトの目からさっきまでの沈んだ色が少しだけ引く。
扉の向こうから、魔王さんの声が聞こえた。
「お、来たな」
その声の明るさに、朝の冷たい空気がやわらぐ。
マリナは一度だけ呼吸を整え、それから店の中へ足を踏み入れた。
⸻
(続く)




