第一章 6
どうしても訓練中は監督官としての立場上、メリアーヌの鍛錬の時間が限られてしまう。
メリアーヌは大概において朝の訓練が終わり昼食までの間、自主的な訓練を行っている。今日は体力づくりの為の走り込みだ。メリアーヌ自身も公務自体は休憩時間にあたるのでなんら問題はない。
メリアーヌは、北門を抜けて城外に出る。直ぐに現れる右手の小道へ、一応道は均してあるものの石畳が敷かれている事はない山道を下り海浜に向かう。砂浜を海を眺めながらぐるりと走るのだが、これが中々に気分が良い。砂に足をとられるために鍛錬にもなるし、裸足で走ると更に良い。
潮の香りがほのかに漂う砂浜に、陽がゆっくりと降り注いでいた。波はまるで深呼吸をするように静かに寄せては返し、白く小さな泡を残して砂の上に溶けていく。
靴を脱ぎ捨てたメリアーヌが素足で歩くたび、陽の光を浴びた砂が微かな熱とともに心地よい感触を返してくる。
風は穏やかで、まるで誰かがそっと頬を撫でるようだった。耳を澄ませば、波の音の中に時折、風に運ばれてくる貝殻の転がる微かな音、木陰で揺れる葉のささやきも聞こえてくる。夜に集中して営業する酒場はひっそりと、人の気配を感じない。店主はまだ眠っているのだろう、メリアーヌは静かで穏やかなこの風景を独り占めできるこの瞬間が気に入っている。
何度か深呼吸をしてから、いざ走ろうと身構えたメリアーヌは、背後から声をかけられた。
「ご一緒しても宜しいですか」
振り返ると、ルシェルの姿がある。
「一人?」
「はい」
「よく立てたな?」
くすくすとメリアーヌが笑うと、ルシェルもまた、苦くではあるが笑った。
「実は、足が既に震えています」
「立てただけ大したものだ。付いて来られるなら、好きにするといい」
たまには誰かと走るのも悪くないが、果たしてきつい鍛錬を終えたばかりのルシェルが付いて来られるだろうか、とは思う。
訓練は、午前のものが一番体力的にはつらい。午後からは武器を使用した鍛錬に代わり、他者の実技を見学する時間も含まれるために動きっぱなしという事はない。
メリアーヌは、少し様子をみるようにゆっくりと砂浜を走り出す。
「何か話でも?」
後ろに続く気配に向かって声をかけると、ルシェルが応じる。
「はい。昨日の非礼を」
「またそれか。今朝弟の方にも謝ってもらった。もういい」
食い下がられないように、億劫を前面に出して言ったメリアーヌに、ルシェルは口ごもる。それ以外に用はなかったのか、二人分の足音が波間に聞こえる事暫し、メリアーヌは段々とおかしくなってきて一人、くすりと笑ってしまった。
「ふっ。あはは、たったそれだけの事の為に、余計な鍛錬をする羽目に? 引き返しても良いんだぞ」
付いて来ざるを得なくなっていると思われるルシェルは、既に息が上がっている。速度を落としているとはいえ、震える足でよくついて来るものだ。
「……言い出した、手前。私にもプライドが」
「あははは。そうか、なら頑張れ」
「は、話をしても宜しいですか」
「話せるもんならな」
ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返すルシェルに会話を楽しむ余裕があるとは思えないが、一応耳は傾ける。
「五曹は、我々が採用された理由を、御存知でしょうか」
問われ、メリアーヌは我知らずぴたりと足を止める。
あまりにも急に立ち止まったせいで止まりきれなかったらしきルシェルが、わ、と悲鳴のような声を上げて尻もちをついた。なんとかメリアーヌにぶつからずに済んで安堵している様子のルシェルの前に仁王立つと、メリアーヌは部下の腰元を跨ぐようにして真下に見下ろした。
「意味深だな?」
「……特に、深い意味は」
「嘘吐け。どういう意味だ?」
は、は、と荒い息を整えるルシェルは、跨がれている手前動きようがないらしく、後ろ手を浜についたままごくりと生唾を呑んだ。
「えーっと、実は」
ルシェルは目を泳がせるようにして、たはっと眉尻を下げて笑う。
「採用時期が、微妙だったでしょう」
「まぁね」
「しかも、採用されたのが我々だけで。だから、メリアーヌ五曹の婚約者候補なのではという、噂がたっているらしく」
「……は?」
まさか弟候補だとばれているのかと疑ったメリアーヌだが、ひとまずそうとばれていなかったのは良し、しかして聞き捨てならない事を言われた。
「なんだって?」
「ですよね?」
「シャーリからの兵士募集にあたり、双子が偶々採用されたというだけで。テリーア子爵からの推薦があったことは」
表向きの採用理由は、そのように統一されているはずだ。
「そうと思っているのですが、募集をかけたわりには我々しか採用されなかったので、変な噂が立ったみたいで」
「あー」
実際の目的はただ双子を雇い入れる事であり、正確には現在兵士の募集は行われていない。
まさかそのような噂が立つとは夢にも思わず、完全に詰めの甘さが露呈した形だ。
(どうするかな)
メリアーヌは一人、唸る。
何か言い訳はしておくべきだろうと思うが、それいかんではまた余計な噂が立つ。他意がない事を明確に、このルシェルから全体に伝わるようにうまく誘導しておかねばならない。
「……五曹」
「なに」
今考え中だとばかりに泳いでいた視線を戻すと、ルシェルは苦く笑う。
「とりあえず、……立ってもよいですか」
「――ああ」
跨いだままだった。三歩程後ろに下がると、ルシェルはのろりと立ち上がり体中の砂を払う。
立ち上がると、ルシェルもやはり、メリアーヌよりも少しだけ背が高い。双子はおそらく同じような身長だ。
「その噂を確かめる為についてきたのか?」
「……まあ?」
曖昧に笑ったルシェルに、メリアーヌは肩を竦める。腹に一物ありつつも嘘が下手な男らしい。
「まず、二人共、私の婚約者候補としてここに呼ばれたわけではない事だけは、ここに明言しておく」
はい、とこちらを見たルシェルは、そうでなくて良かったとはおくびにも出さない。
「率直に言えば、戦時下でない事もあり、最近では大きな採用は行っていない。今も、だ。今回二人の雇い入れを行った経緯としては、偶々テリーア子爵と面談をする機会があり、腕の立つ双子がいると聞き、シャーリに新しい風を入れるも悪くないと試しに雇い入れてみることにした、ただそれだけのこと。深い理由など、ない」
「正直に申し上げるなら、安心しました」
「ルシェルには婚約者がいるものな?」
それもありますが、とルシェルは苦く笑う。
「シャーリ伯爵位の号は、重すぎます」
ああ、と今度はメリアーヌが苦く笑う番であった。
「やはり重い?」
「とてつもなく」
メリアーヌは徐に走り出す。のろりと、後ろに続くであろうルシェルの体力を慮るスピードで。
ルシェルは直ぐに呼吸を乱し始めたが、やはりそれでも付いて来る。プライドか、会話が続きそうな中途半端さが残る故の配慮か、波間に自分の物ではない呼吸音を聞いている事は存外悪くない。
「婚約者殿は、そういえばお幾つの? 結局昨日は聞きそびれた」
「十九になる、お嬢さんで。実はまだ会った事がなく」
「テリーア子爵の親戚筋と言っていたな。きちんとした家柄のお嬢さんだろう」
十九か、とメリアーヌは心の奥底の方で独白する。そのくらいの年の頃、メリアーヌはまだシャーリを出るものと信じていたし、嫁ぎ先は選び放題、まさか後に売れ残ろうとは夢にも思っていなかった。シャーリの名にそれだけの価値があると信じて疑わず、まさか女としての魅力のなさが御家の名を上回ってこようとは、正直今でも信じたくない。
(私の女としての価値よりも、シャーリの名が重かったという理由も、あったのかな)
添い遂げる女としての魅力の乏しさで蹴られたのではなく、ルシェルが「とてつもなく」と断言したように、シャーリ伯爵位の任責の重さを持て余した結果縁談を断ってきた者がいてくれたらと、メリアーヌはぼんやりと思う。その方がメリアーヌとしては救いがある。
(飛び付いてでも欲しい号かと、思っていたが。そうか、重すぎると捉える者も、あるか)
目の色変えて飛び付きたかろう玉だと思っていたが、責任感なるものの持ち合わせがあるきちんとした者ほど、重く思うものかもしれないなとメリアーヌは思う。理由がどちらであれメリアーヌが独り身を突き付けられた事実に変わりないため虚しい憶測だが、それでも、自らの機嫌をとる要因の一にはなる。
「五曹の伴侶に選ばれるという事は光栄な事ながら」
ルシェルは、考え事をして間を持つメリアーヌに言う。
「どうしても、シャーリという伯爵位について考えれば考える程、その重責に我が身が押し潰される不安が頭を擡げるものと推察します。ただの玉の輿とは思えない、重責です」
「まぁな」
ルシェルは一息に言ってから暫し息を整える時間を作り、また続けた。
「五曹が男性で、妻になる女性を探されたなら五万と名乗り出るものはあったでしょう。ですが夫にと、シャーリ伯爵にと言われたら、尻込みしますよ、普通の感覚なら」
「慰めようとしてる?」
「……事実を、言っているまでです」
割と嘘が下手だな、とメリアーヌは可笑しくなって、ふふふと忍び笑う。
「そうであってくれたら嬉しいと、率直に思わないではないが。いかんせん、ドレスは壊滅的に似合わなかった。それが自分でも分かっているだけに、シャーリという名のせいだけには出来ない自分が残念ながらいるんだな」
誰がどう見ても可憐な乙女であったなら、こんな事は思わなかったろう。たとえ伯爵位に尻込みしたが故であっても、それでも妻にと言わせるだけの美貌があったならやはり結婚相手は見つかったろうと思う。
「ドレスが似合わない事など、理由になりますでしょうか」
メリアーヌは、強く言ったルシェルが足を止めた事を足音で悟り、仕方なく自らも足を止めた。のろりと振り返ると、肩で息をしながらルシェルが真っ直ぐにメリアーヌを見据えて来る。
「何故、女性だからというだけで皆が皆、ドレスが似合う道理が? 男だから皆鎧が似合うと? 私も弟も、男らしい立派な肩幅に憧れたものですが叶わず、鎧が似合う体つきではありませんが、それでも戦えると思っています。屈強な体がなくても、戦えると信じてます」
呼吸を整える間もなく一気に言葉を紡ぐルシェルは、肩を上下に激しく動かしながらも真っ直ぐに、メリアーヌを見る。
「シャーリを担おうという気概が、決断する勇気が、ただ、なかっただけです。ご自身の中に原因を探される必要なんてありません」
じわりと、メリアーヌの心の琴線に触れるものがある。
綺麗ごとだと、分かっている。ルシェルが想像するより遙かにメリアーヌは縁談を断られて来たし、皆が皆シャーリの重責について深く思案したとは思えない。もっと安直に遙か高みの玉にしがみつこうと思った者とて山のようにいたはずであるし、実際、メリアーヌを見て縁談を断った者もまたわんさかいた事を事実として知っている。
それでも、じわりと、胸に堪えた。
(……思ったよりも、傷ついてたんだな)
傷ついている。
それは、分かっている。
伯爵の一人娘でありながら縁談がまとまらなかった自分を不甲斐なく思うと同時に、付加価値をもってしても欲して貰えなかった事に深く傷ついた。分かっているつもりで、思っていたよりもずっと、ずっと深く傷ついていたのだなと、メリアーヌはぐっと涙を堪えるようにルシェルに背を向けた。
シャーリという名のせい、その重責のせいと自分を慰めてみても、心の奥底では自分が一番、誰よりも分かっていた。――自分に魅力が足らなかったからだ、と。
(否定してくれる誰かの言葉が、思ったよりこう。……欲しかったんだな)
思えば、誰もそれをメリアーヌに言ってくれなかったように思う。
原因はメリアーヌにはないと、誰もが思いつくような励ましの言葉を貰った覚えがない。
メリアーヌは、黙って走り出す。
胸の奥から込み上げてくる苦しみが涙となって流れてしまいそうで、メリアーヌは走る。そんなメリアーヌに、ルシェルはただ黙って付いて来た。