第一章 4
シャーリの朝は早い。
朝の訓練が始まるのは八時からだが、食堂の利用は早朝五時より始まる。全員が入るだけの席はないので、五時から三十分おきに四回と、七時からの五回に分かれて入替制で朝食をいただく。曹の役職を持つ者が最も遅い七時と決まっているので、一兵卒は五時から七時の間に振り分けられる。話し合い、と言いたいところであるが、朝は少しでも長く眠っていたいものである。基本的には年功序列、つまり双子は五時から朝食をとる事になる。
昨晩、歓迎される側であるはずの双子の片割れは、結局一度も起きることなく寝続けた。
折角なのでメリアーヌが背負って帰る意地悪をという案が出たものの、ルシェルが死に物狂いで阻止し、自らが背負って帰った。
そのルシェルに説明をしていた事もあってか、双子は無事に五時に朝食の場に現れたようであった。メリアーヌの食事は七時から、六時過ぎまで眠っていたので後で聞いた話である。
「おはようございます」
朝食に向かおうと部屋を出たところ、廊下に佇んでいた人影に声をかけられ、メリアーヌは朝一番から悲鳴が喉を突きかけた。
「びっ、くりした。――ああ、なんだ。おはよう、クルール」
おはようございますと再度繰り返したのは双子の片割れ、昨日世話をしたクルールであった。
「昨日は大変な粗相をしたそうで。――謝罪をと」
深々と頭を下げたクルールに、メリアーヌは自室の扉を閉めつつ苦笑う。
「ああ。気にしなくていい」
「いえ。無礼講の範疇を超えていたと」
「ルシェルが?」
「喧々囂々、朝から耳が痛いです」
あははと笑いながら、メリアーヌは歩き始める。後ろにくっついてくるクルールを時折振り返りながら、メリアーヌは言う。
「私にとっては無礼講の範疇、気にしなくて良い。軽かったし」
「……軽かった?」
怪訝そうな顔をするクルールに、メリアーヌは首を傾げる。
「聞いてない?」
「何も。とにかく酷い粗相だったと。……聞くのが恐ろしいですが、お伺いしても?」
「なら聞かないでおけ」
やはり笑ったメリアーヌを追い抜くようにして、クルールはメリアーヌの前に立ち塞がった。
「分かりました、では聞かないでおきます。聞かないでおきますが、覚えている件については再度謝罪を」
「どれを覚えてる?」
腿を枕にしたことだろうか、御姫様抱っこをされたことだろうか、それとも上着をかけてやったことだろうかなどと考えるメリアーヌに、クルールは真剣な顔で言う。
「誤解を招くような発言をした事です」
「――ああ、それか」
正直忘れていたなと蟀谷をかくメリアーヌは、クルールを追い抜いて階段を下る。
「絶対に勘違いをされたと、気が気ではなくて。言い訳させて下さい」
クルールが追いかけて来ている気配がある。
「分かったわかった。自分でも男らしいと思ってるんだ、そう気を遣われると逆に虚しい」
はは、と我ながら虚しい空笑いが漏れたメリアーヌに、いえ、とクルールは鋭く言った。
「女性だと思ったんです」
「……は?」
男だと思っていたはずのクルールだ。何の言い訳だと折り返し階段の中腹、踊り場で足を止めて振り返ったメリアーヌを、クルールが見下ろして来る。
「最初、自分も女性だと思ったんです、ちゃんと。線が細くて、華奢で」
「……華奢」
一体誰の話をしてるのだろうと呆気にとられるメリアーヌに、クルールは続ける。
「でも本城の五曹にまで上り詰めた方が女性のはずがないと、自分に言い聞かせてしまったんです」
クルールは目を伏せるようにしてメリアーヌを見下ろす。
視線が交差すると、クルールは気まずそうに、しかしやはり最終的にはメリアーヌの目をじっと見つめながら言った。
「ずっと男だと思っていて驚いたわけじゃないんです。女性に見えなかったわけでもない。そこだけは、どうしても伝えておきたくて」
「男だと思った、と言っただろ」
「男だと思い込もうとしました。でも、やはり――と、そう申し上げたかと」
「聞いた覚えはないが?」
クルールは心底驚いたように目を見開き、完全に目を伏せてしまった。
「……言ってませんか。言った、つもりで」
言ってたかなと記憶を辿るメリアーヌは、そんな大切な言葉を聞き逃すはずはなかろうと思う。「男かと思った」と「男かと思い込もうと思った」ではえらい違いだ。
(あー。朦朧と喋ってるクルールの言葉を、そういや遮ってしまったような? 勝手に足らぬ言葉を補完したような? ……きちんと聞いてやらなかったかも)
言おうとしていたのかなとメリアーヌが考えているうちに、クルールはとん、と一段下りて来る。
「あくまで思い込もうと思っただけで。しかしながら言葉が足らなかったのは事実、言い方がまずかったなと、いずれにせよ後悔が」
「目を剥いて驚いてなかったか?」
「女性でハジム六曹に勝てる力量をお持ちなんだという事に、驚いたんです」
「あー、分かった。もう気にするな」
自分にも過失があったかもしれないと思い至るだに、もう謝罪の言葉は聞きたくないメリアーヌに、クルールはまたとん、と一段下りてきた。――あと、三段。何故かぞわりとする。
「五曹が自分の言葉をどう捉えられたか分かりませんが、やはり勘違いをさせてしまいましたよね?」
また、一段。
ひやりと、メリアーヌの背筋が冷え込む。我知らずごくりと飲み込んだ生唾と一緒に言葉をすっかり飲み干してしまったのか、声が出ない。かわりにじりっと、足が勝手に後退した。
「だから、謝罪を。もう良いと言わず、なかった事にと軽く流さず、きちんと自分の謝罪を真剣に聞いていただいた上で、受け入れていただきたいのです」
また一段。
メリアーヌはつっと、冷や汗が額に浮かんだのを感じながらまた一歩下がり、踊り場の壁に背をぶつけた。後がない。
クルールはとうとう段を下り終えて、メリアーヌと同じ踊り場に立った。それ以上近付いてくる様子はなかったが、そもそも狭いのでメリアーヌに言わせると心臓の音が聞こえてしまいそうな程に近かった。
「申し訳ございませんでした、――メリアーヌ五曹」
少し腰を折ってメリアーヌの目を一度覗き込んだクルールは、そのまま流れるように頭を下げた。
メリアーヌは壁にへばりついたまま、視線だけを落としてクルールの後頭部を凝視する。
(まずい、腰が抜けそう)
覗き込んできた目に、まさに心臓を射抜かれた気がする。足が震えて、心臓が労働過多で今にもぷつんと止まりそうだ。
「……ゆ、ゆる、許す。許したっ」
頼むからどこかへ行ってくれと祈るような気持ちで絞り出すメリア―ヌに、クルールはゆっくりと頭を上げるなり、ふっと目を細めるようにして笑った。
「では五曹。後程、訓練を宜しくお願い致します」
良かったと子供のように笑って一礼をすると、クルールは残りの階段を下りて行く。その背中が完全に見えなくなったのを確認して、メリアーヌはずるり、と壁に背を預けたまま崩れ落ちた。
「……笑った」
仏頂面の男が、親に褒められた子供のように初めて笑った。
ふわふわと足元が覚束ないメリアーヌは、両手で顔を覆う。顔が、耳が、熱くて堪らない。
くそっ、とメリアーヌは舌打ちする。誠に遺憾ながら、弟候補にときめかされた事は認めたくない。