第一章 3
あまりに自然に、唐突に、クルール・テリーアはメリアーヌの腿に頭を落とした。
ぽかんとそれを見下ろすメリアーヌより先に言葉を発したのは、ハジムだった。
「……おお、やるな新人」
中腰になって覗き込むハジムが感心し、「どうします、それ」とハギーギが可笑しそうに、同様に身を乗り出しながら言う。
メリアーヌの足に凭れかかって来るようにして頭を腿に預けたクルールは、子供のような寝顔ですやすやと寝息を零す。
「け、蹴り飛ばして下さい、五曹!」
ルシェルが青くなって立ち上がるも、下手に手を伸ばすとメリアーヌにも触れる事を躊躇っているのか、おろおろと叫ぶ。だからと言って蹴り飛ばす事も身動きも出来ず、呆然とクルールを見下ろすメリアーヌの元に、わらわらと何事かとばかりに他の卓からも部下が寄って来て笑う。
「初日から五曹の足の間でお眠りとは。これはこれは」
「無礼講で済みます? 誰か伯爵様呼んで来いよー」
「気軽に呼べるもんならお前が呼べ」
その方が命がないわー、などと口々に言い合ってげらげらと笑っている部下達はすっかり酒が回っているらしく、何がおかしいのやら冗談を鱈腹漏らしながらきゃっきゃと楽しそうだ。
(この馬鹿騒ぎ、……助かるな)
メリアーヌは、気恥ずかしい気持ちを懸命に押し殺す。
腿がじんわりと温かく、遙か遠き、幼い頃母に抱かれていた記憶が沸々と甦った。人肌の暖かさがあまりにも懐かしく衝撃的で、硬直しきった体をどう動かしたものやら混乱を極めた頭で、メリアーヌは必至で考える。無邪気に寝こけたこの男をどうすべきか、ない知恵を懸命に絞る。
(今更蹴り飛ばすのもな。そっと頭をずらしてみる? いや、なんかこう、豪快で、クルールが後々困らないような)
明るく笑って冗談で済ませられるような策はないものかと唸るメリアーヌは、どどどどと高鳴る胸の動悸を悟られまいと躍起だ。この年でこの風貌で、真っ赤になって照れるなどと乙女のような反応は出来ない。五曹としての体裁、沽券に関わる由々しき問題だ。
(冗談で済ます、絶対に冗談で流す! 私ならではの、私だからこその)
恥ずかしくて堪らない。今すぐ飛び退きたくて堪らない。この頭を蹴り飛ばしてでも離したい欲求と、このまま寝かせておいてやりたい、この穏やかな寝顔を眺めていたいという仏心の狭間で、ぴんとメリアーヌは閃く。
メリアーヌは腰を屈めて上半身を丸めると、寝入るクルールの膝下に右手を差し込む。
何をするのかと見守る部下達の前で左手をクルールの背中に回すと、よっと勢いよく、抱き上げ立ち上がる。
「誰か、その辺に何か敷いてやれ。この騒ぎで寝られるものなら寝かせといてやろう」
ぐいと酒場の隅を顎でしゃくるメリアーヌを、しん、と座ったままのハジムが、ハギーギが、馬鹿騒ぐ部下達がぽかんと口を開けて眺める。蒼白になったルシェルだけが慌てて上着を脱ぐなり、メリアーヌの背後の壁際にそれを敷いた。
静まり返ってしまった部下達に、滑ったかと内心ひやりとしたメリアーヌだったが、ハジムが噴き出すように苦く笑った。
「さーすが、我らが五曹。懐が深い!」
「寝かせておいてやりましょうとも、疲れているはずですからね」
ハギーギがすかさず場を取りなすように言葉を足し、席に戻るように促してくれる。幸せな奴だなと笑いながら席に戻っていく部下達の背中を見送って胸を撫で下ろすメリアーヌは、クルールを抱えたまま身を丸め、こっそりと二人の六曹に問う。
「……何が変だった?」
何も、とメリアーヌの六曹二人は声を揃えて笑う。
「五曹の実力は皆が認めているところではありますけど、そうはいっても、女性は女性」
「大の男をあまりにも容易く抱えられたので、狐につままれたまで」
「……ああ」
メリアーヌは今なお抱えたままのクルールを見下ろす。背丈は自身よりも多少高いように思えるが、正直に言えば、――軽い。
「重がった方が良かった?」
「いえいえ、頼もしい限り」
ハジムが豪快に笑ってくれるので空気が和み、なんとか場の雰囲気は保たれた。とりあえずルシェルの敷いた上着の上にクルールを転がす事にしたメリアーヌは、そろりとクルールの体を我が身から離す。こてんと頭が垂れて床にぶつけそうになったので、びくんとメリアーヌは身を強張らせる。
そっと下ろそうとすると、流石に腕が重みに震えた。ルシェルに手を添えられてなんとか床に寝かせると、クルールは眉根を寄せるようにして「んー」と唸り、身を丸める。
(寒そうだな)
メリアーヌが上着を脱ぐのを見守っていたルシェルだが、クルールにかけようとしていると知るやまた蒼白になる。
「私が脱ぎます、全部脱ぎますから、着てらして下さい!」
「全部脱がれたら困る」
メリアーヌは苦く笑って、ぱさりと自分の上着をクルールにかけた。あああ、と頭を抱えるようにしてしゃがみ込んだルシェルと穏やかに眠るクルールを眺め、可愛いもんだな、と未だ弟か分からぬながら、メリアーヌは思った。