第一章 2
訓練が終了した事もあって、わらわらと他の部隊の者達が自室に戻っていく廊下は汗臭い男で溢れて目に狭いが、実際は広々とした廊下に肩がぶつかるような事はない。否、メリアーヌの姿を認めて皆が道を譲るので、ことメリアーヌに至っては決してぶつかるような事はない。
後ろに続く双子を物珍しそうに眺める視線を浴びながら、メリアーヌは二人の「先輩兵士の呼び名」に対する疑問に、背で応じる。
「一兵卒同士だと、基本的には名の後に『陸士』を付けて呼び合うかな。シャーリ陸士でも構わないが、二人はややこしいので名で呼ばれる事になるかな。気心知れた間柄や目下の人間に対しては名だけを呼び捨てる事もあるので、まあ、加減は周りの人間を見て学ぶと良い」
「他の隊との交流はあるのでしょうか」
ある、とメリアーヌは擦れ違う他の隊の者達をちらりと見遣りながら、やはり背中で答える。
「何ヶ月かに一度、全隊での合同演習がある。でなくとも共に生活する者達だから、直に嫌でも大概の顔は覚える」
「こちらにはどのくらいの数が?」
「このシャーリ城内には千五百だが、うち二百ほどは兵士ではない。ここは本拠地にあたるが、他にも同様の訓練を行う城がシャーリ領内に無数に点在している。いざ戦火が起こった際には、まず最も物理的距離の近しい城が対応にあたるが、序列はこのシャーリが最も上だから、他城と連携をとって軍を率いる場合、役職が変わったりする。このあたりはややこしい」
おいおい、とメリアーヌはもう何度目になるやら、説明を後回しにしながら北門を抜ける。全てを一気に説明できる程単純ではない。
夜の街には既に、灯がともり始めていた。
「街へはこのまま真っすぐ、こちらは遊歩道が続き、海へ出る」
門を出たところで、メリアーヌは直ぐ右手に見える小道を示す。
「シャーリは海に面している立地を活かし、海で汗を流せるように海水浴場が整備されている。海浜にも酒場があるので、汗を流しがてらそちらに向かうのも割と人気がある。いずれ行ってみるといい。今日はこちらだ」
折よく後ろから来た者が海浜の方へと小道を行ったので、双子はへえ、と物珍しそうに眺めていた。
広く真っ直ぐに整備された石畳の道を、メリアーヌは先陣をきって進む。なだやかな山間に広がる街で生活をする市民は主に、シャーリ城に住まう者達に憩いを提供して生計を立てる。酒場が圧倒的に多く、閉門に間に合わなかった者の為に宿がちらほら、あとは歓楽宿が並ぶ。
十八時から二十四時までの六時間、街には一斉に明かりが灯る。
各家々の主人が松明に火を入れていく瞬間は壮観で、城の主塔からこれらを見下ろすとまるで山に突如火の龍が現れたように見える。
酒場の一つに入ると、そこには既にメリアーヌ配下の兵士達で賑わっていた。
「待ってましたよ!」
ハジムが早く早くと手招く席に向かうと、そこにはハギーギもいる。メリアーヌを視認するなり全員が一斉に起立する中、双子を振り返り言う。
「二人は今日は主賓だ、同席を許す。こちらへ」
双子は促されるまま、少し気まずそうにメリアーヌと同じ卓の側に立つ。階級によって卓が分けられているが、酒が回って来ると無礼講になる事が多い。とりあえず始めだけだ。
メリアーヌおらずして先に酒が振る舞われているような事はない。メリアーヌが着席して声をかけると皆が一斉に座り、それと同時にどっと酒が各席へと運ばれる。
「ひとまず、ルシェル・テリーアとクルール・テリーアの任官に祝杯を。好きにせよ」
メリアーヌが杯を掲げると、皆が自身の杯を掲げる。――宴は、始まった。
どんどん運び込まれてくる食事に手を伸ばしながら、酒場は一気に活気に満ちる。席を移動しながら騒ぐ先輩兵士達を眺めながら、メリアーヌは身を固くしたまま酒にすら口をつけない二人に苦く笑う。
「そんなに固くならずとも。酒の席では皆わりと無礼に寛容だぞ」
「筆頭の五曹が寛容ですからね。居心地はそう悪くない隊だと思いますよ」
のんびりと酒を煽りながら言うハギーギに、ジョッキに手を伸ばすルシェルは、やはりどこか気まずそうにではあるが酒で喉を潤した。
「理性のあるうちは良いのですが、酔いに任せた記憶のない無礼は、ちょっと新人からすると恐ろしいものがありまして」
「弱い?」
「あまり強くは。弟は更に」
乾杯の際に口をつけただけのクルールは、促されてもジョッキに手をつけない。余程弱いと見える。
「じゃあその分食べな」
メリアーヌが料理を取り分けようと手を伸ばすと、さっとハジムが皿を奪う。
「流石にこちらでやりますよ、五曹。五曹こそ、さあ食べて食べて」
「じゃあ、まあ」
メリアーヌが手をつけなければ他の者は食べにくいかと、骨付きの肉に豪快にかぶりつく。つくづく逞しくなったものだと自分を客観的に総じ、メリアーヌはちらりとハジムを見遣る。視線の意図に気が付いたのか、ハジムは自身も肉を食んでいたが、あー、と鼻先を掻きながら言った。
「二人は、懇意にしている女は?」
女の話かとは思わないではなかったが、酒の席で、しかも歓迎と懇親の意を込めた席でいきなり仕事絡みの話は始めたくない。ハジムに場の流れを任せようと振ったのはメリアーヌであるので、大人しく双子の出方を窺う。
「私は、一応」
ルシェルがやんわりと答え、おお、とメリアーヌは目を輝かせる。恋の話となるとメリアーヌの残された僅かな女心が疼く。
「妻子はいないと聞いているが、どこに?」
急に前のめるメリアーヌに、ルシェルは可笑しそうだ。少し肩の力が抜けたようにも見える。
「テリーヌ子爵のご厚意で、親類筋のお嬢さんとの縁談をまとめていただいて」
「婚約中?」
「そうなりますね」
おおお、とメリアーヌは床を踏み鳴らすように足をばたつかせる。
「お幾つのお嬢さん? いつ婚約を? 会った事は?」
わくわくと胸弾ませながら益々前のめるメリアーヌに、ハギーギがおっとりと笑う。
「五曹の心に火をつけてしまったようですねぇ。古今東西、恋愛の話は場が和む」
「あははは、違いない。しかしながらこちらのメリアーヌ五曹は女性であらせられる。生々しい話は控えてもらわねば困るぞ、ルシェル・テリーア?」
ハジムが高らかに笑いながら言うので、メリアーヌは口を尖らせる。
「そう子供扱いしてくれずとも、私は二十三だ、ハジム六曹」
「男同士しか出来ぬ話というのはどうしてもありまして。失礼ながら」
女の身で男の軍隊に入れられて都合の悪い時には女扱いとは些か不満だが、場の空気を壊す事はないとちらりと双子に目を戻すと、くすくすと笑うルシェルの向こうで、零れ落ちんばかりに目を見開いているクルールと目が合った。
「なにか? クルール陸士」
「……あ、いや」
恐ろしいものを見るかのように硬直したまま小さく首を何度も振るクルールに、メリアーヌは怪訝そうに言う。
「はっきり言え、何?」
いや、と繰り返すばかりのクルールだったが、再三のメリアーヌの要求に対し、意を決したようにジョッキを傾け一気に煽る。
いい飲みっぷり、と笑うハジムだったが、クルールは目に見えて真っ赤になった。耳まで朱に染め上げたクルールは、あっという間に少し虚ろになった目を泳がせる。朦朧としてくる頭をぷるぷると何度も振ったが、目は虚ろになっていくばかり、そのうち観念したようにクルールはぽつりと言った。
「……男、と、……思い、……でも、」
「誰が」
のろのろと言うクルールの言葉を遮ったメリアーヌをぽやっと見つめ、クルールは言う。
「……五しょう」
五曹と言ったつもりのようだが、呂律が回らなかったらしい。
「おと、こ。男!? 名で分からないか!?」
あまりの事に怒りよりも驚きが口をつく。
「めりあーぬ!」
クルールが子供のように叫んだので、メリアーヌはぎょっとする。五曹と呼ばれる事が圧倒的に増えたメリアーヌを、しかも父以外の人間が呼び捨てたのは記憶になくて呆気にとられると共に、ふつふつと心を高鳴らせるものがある。照れ、だ。俄かに赤くなっていくメリアーヌに、クルールは続ける。
「めりあーーーぬさんなんて、名前、今、初めて聞きました!」
「……そ、そう、だったかな」
メリアーヌは火照って来る頬の赤みを誤魔化そうと酒を一気に煽る。クルールの豹変ぶりに、怒りが入る隙がなかった。
「これはこれは、見事な豹変」
「無礼講で良かった」
六曹二人が可笑しそうにクルールを眺め、ルシェルが頭を抱えるようにして弟に水を勧めている。
「申し訳ありません、五曹。私達は上官については何も聞かされていなくて。いえ、だからといって見れば分かるだろうにという話なんですけど」
必死のフォローを試みようとする、メリアーヌを女だときちんと気付いていたらしき兄が気の毒で、メリアーヌは片手をあげる。
「あー、別に構わない。名を知らなかったなら、そうと勘違いしても仕方のない事。普通、女が紛れているとは思わないだろうし」
「とすると、もしやこちらのメリアーヌ五曹がシャーリ次期伯爵候補という事も知らない?」
「「――ええ!?」」
双子の声が揃った。
誰かそのくらいの事は教えておいてやれよという場の空気をまっさきに掻き消したのは、年嵩のハギーギであった。
「我らが五曹は、シャーリ現伯爵の御令嬢にして次期シャーリ伯爵の、メリアーヌ・シャーリ嬢です。れきとした御令嬢ですがその腕前は自他ともに認められるところ、しかして御令嬢ですので、そういった意味でご無礼のないように、今お話ししておけて良かったですねぇ」
「いやあ、いかにもいかにも。男だと思って襲い掛かって女だった暁には姦淫罪だからなー」
「五曹に襲い掛かっても一捻りでしょうが」
「心の傷というものがありますよね、五曹!」
「……絶妙なフォローを、どうも」
褒められているんだか貶されているんだか、双子の非礼を掻き消さんばかりの非礼を重ねて来る六曹達に、一気に蒼褪めていた双子は漸く息をすることを思い出したようで、とりあえずは不問としておく。
「それはその、これまでのご無礼を、」
「ああ、そういうのはいい」
ルシェルの謝罪の言葉を遮り、メリアーヌは肩を竦める。
「今日来たばかりなのだから、知らぬも知らせておらぬも不問だ。今言った、今知った、それでいい」
男に見えた、などと本来大いに傷つくところであったが、クルールの豹変ぶりと六曹達の軽口に救われた。おかげさまで苦い言葉が心の奥に届く前に払拭出来た。――と、思っておく。
場の空気が重々しくならなくて良かったと、少し、ほんの少しもやもやとする心の奥底の燻りを誤魔化すメリアーヌは、がたん、と突如立ち上がったクルールにぎょっとする。全員の目がそちらに移る中、対面に座っていたクルールはメリアーヌの前までひょこひょこと歩いて来る。
今度はなんだ、と同じ卓につく全員の心の声が聞こえるようであった。メリアーヌも思った。
メリアーヌの前で立ち止まったクルールを、メリアーヌは座ったまま居住まいを正して体を向け、見上げた。見下ろされる事もまた随分久しぶりなような、などと考えているうちに、クルールはその場に跪く。
「申し訳、ございませんれした」
「……いや」
やはり呂律の怪しいクルールに苦く笑うメリアーヌを、今度は見上げて来る。
とろんとした目が愛玩動物のように無垢で穢れなく、吸い込まれるようにそれに見入ったメリアーヌに、舌のうまく回らぬ男は続けた。
「でも、きっと、傷つけたから」
うん、とメリアーヌは心の中で我知らず、頷いていた。
本当は、誤魔化そうとしたけれど、ほんの少しだけ、傷ついた。怒りよりも驚きが先にたったのは本当だが、軽口にささくれ立とうとしていた心が凪いだ事も嘘ではないが、やはりどこか奥底の方に、ちくりと胸を刺す針が打ちこまれた事にメリアーヌは気付いている。気付かないふりをして蓋をしようとしただけで、謝られると余計に、真摯に許しを請おうとするこの綺麗な目を眺めていると余計に、じわじわと心の涙が蓋を溶かして針が胸に突き刺さって来る。
「もう、いい」
謝られると、駄目だ。逆に泣けてくる。
本当は傷ついたなどと、今この場では言えない。言い出せない。場の空気を壊すばかりか、立て直す事が出来なくなる。
ハジムなんとかしてくれと目で訴えようとしたメリアーヌは、ごめんなさい、と消え入るような声を膝元で聞いた。どっと何かが腿の辺りに落ちて来るのを感じ、ハジムに向けかけていた視線を戻すと、クルールが眠っている。――メリアーヌの腿を枕にして。