第一章 26
軍議とは、シャーリにおいては軍人による軍人のための裁定機関だ。
規律違反や命令の逸脱を、記録に基づいて公正に裁く場であり、判決は絶対とされている。
所属する軍人を軍規に則って裁く為の機関は、大きく分けて三つある。懲戒審問会、軍務聴聞議会、軍部審理会である。懲戒審問会では、重大な規律違反を犯した者の進退を決める為の会議であり、余程の事がない限り開かれる事はない。軍部審理会は昇進あるいは降格を中心とした位に関する審議を行う会議であり、小さな諍いの裁定なども行われる。
今回メリアーヌがコーローに対し訴え出たのは、軍務聴聞議会。
三から五名程度の四曹以上の軍人と、文官系の監査役で構成される機関で、 審問対象は部下への暴行や不正、虚偽報告など、重大な規律違反と思しき事案において開催される。軍部審理会よりランクが高い裁定を行う機関と考えておけば概ね誤りではない。
議会開催においては議長を選出するところから始まり、調査官の調査をもとに、記録官の記した記録を中心に議会が開かれる。メリアーヌは今回、この「調査官」を任された形だ。
議会が開かれる部屋、軍議場に入れるのは機関構成員と容疑者であり、容疑者には弁明の機会が与えられる。
「調査官は軍議場には入れない。調査官が調査した結果は全て記録官による記録に記され、口頭での報告は行えない」
夕刻、ヴァレリー二曹を訪ねたメリアーヌは、そもそも軍議とは、という今更過ぎる質問をした。
正直、軍人を裁く為の機関、程度にしか認識していなかったのだが、二曹は概ね正しい、と優しく肯定してくれた。
「そもそも議会を開くかどうか、軍部審理会が判断するものなのだが、此度は訴え人がメリアーヌ姫ときた。私の采配で軍務聴聞に回したが、裁定自体は公平に行うぞ、五曹?」
「ヴァレリー二曹も、構成員なのですか?」
「議長だ」
メリアーヌは目を丸くする。では、コーローに最終的な裁定を下すのは、ヴァレリーという事になる。
「だから折角現状報告の為に足を運んでくれたところ悪いが、私は調査官の話を一方的には聞けない。五曹が調べた結果は、記録官の記録で拝見する」
「二曹が議長というのは、適当なのですか? それとも、調査官が私だからでしょうか」
「シャーリ一曹が議長を務める最高諮問会以外においては、二曹以下の人間が担当すると決まっているので、不適当という事はない。だが調査官が五曹でなかったら、他の者に任せただろう。五曹の調査結果を見たいと思うが故に自ら名乗り出た次第」
喜べば良いのか、やはりシャーリの名に負けたと落ち込むべきか微妙だが、ここは好意的に受け取っておく。ハジムならきっと「儲けたじゃないですか」と言う。
「父が諮問する事もあるんですか」
「国賊レベルの大事をやらかしたらな」
ヴァレリー二曹の執務室は、雑多な宿舎の雰囲気に馴染んだメリアーヌにとっては、あまりにも静かだ。机の上には簡素な器が一組と、軍の印が刻まれた筆記具のみと質素ではあるものの、壁に掛けられた一枚の風景画が軍人らしからぬ趣味をほんのわずかに滲ませている。
(まあ、宿舎とは比べ物にならないけど)
清潔で明るく、良い香りがする。髪に香を移していた頃もあったな、などと考えながら香りの元を探すメリアーヌの鼻腔を、油燈の炎がわずかに揺れ、灯りとともに漂う蜜蝋の甘い匂いが掠めて行った。
「飲む物でもいかがかな」
ヴァレリー二曹は、軍人というにはあまりに柔らかい笑みをたたえ、のろりと椅子から腰を上げる。
それに応じて頷いた瞬間、緊張が走っていた背中の力が少しだけ抜けて、メリアーヌは僅かに椅子に凭れた。
「軍部は右を見ても左を見ても、男ばかりでしょう? メリアーヌ姫殿下」
まあ、と苦く笑うメリアーヌに、ヴァレリーは二曹としてではなく、幼き頃よりメリアーヌを見守ってきた父にも近しい親族の顔で優しく続けた。
「良い男はいませんかな?」
五曹ではなく、メリアーヌをシャーリ令嬢として話すヴァレリーに、メリアーヌはどっと体から力が抜ける。
「良い悪いと考える事すら、やめてしまいましたわ」
「転がるは芋ばかり?」
「芋畑ですわ」
ふふと笑うメリアーヌは、頭で考えずとも口調ががらりと昔に戻る。厳かな部屋の雰囲気のせいか、良い香りが懐古の情に火をつけたのか、メリアーヌは頭を背もたれに預けるようにして天井を仰いだ。
「泥にまみれ、剣を揮い、殿方を怒鳴りつけて睨む。足を振り上げ、振り乱す髪からはぱらぱらと土が落ちて、……女である事など、忘れていくようで」
心地が良いような、虚しいような。それで良いのだと思うのに、未練が顔を出す瞬間があり。
――ふっと、メリアーヌの脳裏に一つの影が過った。
メリアーヌは組んでいた足を下ろし、膝を揃える。胸元に垂れるぱさついた髪に手櫛を通すと閊えたが、時間をかけて梳いた。
ことんと置かれた飲み物からあがる湯気を見下ろしながら、メリアーヌはぽつりと言う。
「……ねぇ、ヴァレリー」
「はい」
二曹と五曹ではなく、頼もしい家族の一人として、メリアーヌはヴァレリーを見上げた。
「今、私はどう見える。五曹を預かる軍人に? それとも」
「私にとってはいつでも、愛らしい姫殿下ですよ」
ほほと笑いながらメリアーヌの前に腰を下ろヴァレリーに、メリアーヌは眉尻を下げて苦く言う。
「あなただけだわ、いつまでも幼い姫殿下の幻影を見ているのは。よく見て、こんなに逞しく、筋張った血豆の潰れた汚らしい手を」
メリアーヌは自分の手を眺め、情けなくなる。突き指を重ねてごつごつと太くなる一方、関節が歪み、おそらく入る指輪がない。
「あなた、……だけ」
ぽつりと言いながら、メリアーヌの脳裏にまたふっと、影が過る。
「今、誰を想像しましたかな」
「え?」
「誰か、過ったでしょう。私だけではない、誰か」
目を見開くメリアーヌに、ヴァレリーはおっとりと笑う。
「十分に女の顔をなさっている。誰を、思い浮かべましたか? メリアーヌ姫殿下」
耳まで熱くなったメリアーヌに、ほほとヴァレリーは笑った。
「結構結構、恋は女を女にしますよ、メリアーヌ姫殿下。甲斐性のある男なら、シャーリを継がせれば宜しい。このヴァレリーの目の黒いうちに、ご紹介下さいな」
「そ、そういう、事じゃなくて」
自分でも驚く程に動揺するメリアーヌは、気を紛らわせようとカップに手を伸ばす。
「私がシャーリ令嬢をしていた頃の姿を知らないからっ。なんだかこう、新鮮な事を言うというか!」
ヴァレリーは目を見開き、すっと表情を曇らせた。
「……ははぁ、テリーア子爵のとこの」
そうですか、と低く呟きながら俯いたヴァレリーだったが、次の瞬間にはまた元の笑顔に戻って、メリアーヌに言った。
「相手の名を問うのは、無粋というものでしょうな。ただ一つ、申し上げておきます」
カップを卓に戻し、まっすぐにメリアーヌを見据える。
「姫殿下がどれほどご自身を貶めようと、その御身を好ましいと思う者は、きっとおりますよ」
「……好きとか、嫌いとか、そういう感情が、まだ自分にもあるのだと思うだけで、もう、面倒で」
「ならば、いっそ向き合ってご覧なさい」
微笑をたたえたまま、しかしその声音はまるで父のように静かで温かい。
「感情は隠したところで澱むばかり。戦の剣と同じく、心もまた、使わねば鈍りますよ」
言葉の意味を咀嚼するように、メリアーヌは何度もその言葉を反芻する。カップの湯気にのって、甘い香りが胸の奥にじんと沁みていく。
「いやいやしかし、メリアーヌ姫殿下の恋が花咲くと思うと、些か寂しいものですなぁ」
大げさに肩を竦めるヴァレリーに、メリアーヌは「そんなんじゃないってば」と口を尖らせ――そして、ふっと笑った。




