第一章 16
ハギーギは、怪我の具合についての報告を続ける。
「蹴った人間を完全に特定する事は出来ませんが、絞る事は出来そうです」
手にした紙に一度目を落とし、ハギーギは言う。
「報告を」
「ルシェルの背中には、靴底の溝と思われる特徴的な跡が確認されました」
跡があったとしても靴は支給品である。蹴った人間を絞り込めないはずだがとすぐさま思ったが、ハギーギがそんな分かりきった事を念頭に置いていないはずがない。メリアーヌは口元を固く引き結んだまま、続きを待つ。
「使用によって靴底は摩耗していきますが、昨日ルシェルが身に付けていた服を考慮して検証してみたところ、あまり消耗していない靴であると考えられます」
「……新しい靴、という事か?」
ハギーギは頷きながら言う。
「最近新しく靴を支給したのは、新人のテリーア兄弟を除けばごく僅か。激しい消耗による破損により、新しいものを申請した記録があります。リストの中にレオ・ガリヴァンの名前を発見。十日ほど前に靴を新調しています」
ふう、とメリアーヌは詰めていた息を吐き、前のめっていた体を後ろに倒す。ぎ、と背凭れが鳴らしながら天井を仰いだメリアーヌは、ぼそりと言う。
「個人を特定する証拠はないが、軍議にかけるには値する」
「可能性のない者を排除していけば、自ずと残る中に犯人が」
「双子に明らかなる傷が現存する以上、消去法は有効だ」
軍議において、双子は実際に顔を見ているので明確に犯人を名指す。被害者の証言により八割方、ほぼ確実に容疑者として扱われる一方で、濡れ衣ではない事の証明は求められる。容疑者の自白は決定的だが、否認した場合には、ある程度信憑性の高い証拠や証言、あるいは「矛盾しない」と周囲を納得させられるだけの「何か」は必要だ。
「キファの証言もある事だし、レオに関しては問題ないな。ヨシュアが短剣の柄を紛失したある程度の時間だけ確定しておきたい。ハジムを手伝ってきてやってくれ」
「承知しました」
ハギーギは手持ちの報告書をメリアーヌの前に残し、一礼して退席して行った。
メリアーヌが溜息を吐くと、ふう、と小さく、隣に置物のように座したままの記録官もまた、詰めていた息を吐いた。
「ふふ。すまないな、一日中詰めっ放しで」
ちろりと目線をやると、記録官のサリーは苦く笑った。
「記録官として、どう思う。しておいた方が良いのではという助言はないだろうか?」
「わたくしは、中立公正な立場ですので」
「御尤も」
何も言えない、という訳だ。ふうとまた息を吐いたメリアーヌに、うふふとサリーは笑う。
「お疲れですね、五曹」
「長い一日だ」
「記憶というものは薄れ、人同士の思惑が絡み合うと口裏を合わせ罪を逃れようとする動きが生まれます。此度の件、五曹が早急に動かれた事が功を奏すものと思います」
どうも、と苦く笑うメリアーヌは、うふふと愛らしく笑うサリーを、頬杖をついて眺める。
いかにも女の子、といった愛らしさだ。華奢で小さく、ほわほわと笑う。男ばかりの環境にあってまさに一輪の花、女のメリアーヌでさえ和む。
「サリーは記録官として、長いの?」
「四年ほど」
「軍議における有罪率を聞いても?」
「ほぼ百パーセントですわ」
目を丸くするメリアーヌに、うふふとサリーはやはり可愛らしい。
「昨今では軍議自体が殆ど開かれませんが、被害者の証言で殆どが有罪確定です。冤罪に関しては容疑者自らが余程の証明をしない限り、通らぬもの」
「……私は、証拠集めに躍起になりすぎている?」
サリーは微笑む事で明言を避けたが、そこまでせずとも、と顔に書いてあるようだった。
「ここだけの話、ヨシュアとレオの有罪は明らか。ただ、五曹が部下の為にこんなに懸命に、必死に、食事も一切とらず駆けずり回られた姿勢が他の者にどのような印象を与え、今後にどう活きるのか。決して無駄とは思いませんわ。それに肝心なところはなにも、始まってすらいません」
じっと見つめるメリアーヌを見返し、サリーは目を細めた。
「コーロー六曹に関する証言は、まだ一切」
「――ああ」
それだ、とメリアーヌは頬杖にて支えていた頭を、ごん、と机の上に落とす。
現状、コーロー六曹に関して問えるのは、部下の「監督不行き届き」、これに尽きる。ヨシュアとレオに対して双子、あるいはメリアーヌ配下の者への攻撃を示唆する証言が得られない場合、それ以上の罪に問う事は不可能である。実際に、ヨシュアとレオの個人的な思惑があっての攻撃である可能性だって現況高い。
「これはわたくしの独り言ですけれど」
ぼそりと言ったサリーに、メリアーヌは頭を机に落としたまま顔だけを向ける。
「わたくしなら、テリーア兄弟に関するもっと詳細な報告書を作ります」
「……というと?」
「これは独り言ですけれど」
サリーはメリアーヌに目を向ける事なく、自身が記録した用紙に視線を落としてぽつりと再度言った。
「テリーア兄弟、つまり被害者の証言調書がありません。被害者の証言の信憑性を証明する目撃者も、証言も、物証もありません」
目を見開くメリアーヌをやはり見る事なく、サリーは続ける。
「軍議においては被害者の証言にて殆どの場合有罪が決まる。逆に言えば、被害者の証言の信憑性の高さが重要になって来る。テリーア兄弟には確かに他害の形跡が傷として残っており、軍医様の調書があるものの、本当に西の備品倉庫に行ったのか、時間は十八時十分頃であったのか、証言を裏付けるものがございません。それに」
サリーは真顔で、ゆっくりとメリアーヌに視線を向けた。
「ヨシュアとレオがテリーア兄弟に何を言ったのか。嘲笑された? 五曹の話が出た? 非常に曖昧ですわ。一言一句辿ればあるいはコーロー六曹に辿り着ける発言が飛び出しているかもしれぬものを、調書におこさぬ理由がわたくしには分かりませんわ」
「……独り言?」
「独り言ですわ」
サリーはふふと笑って、のろりと立ち上がった。
「少しだけ失礼しても? 朝から座りっぱなしで、用を」
「ああ、もちろん。気が付かなくてすまない。食べるものも運ばせよう」
「恐れ入りますわ」
ぺこりと一礼をする姿は人形のよう、しかしふふと笑う時に細める目には、強い意志と知性が浮かぶ。
「サリー。貴官、結婚は」
「生憎と」
「誰か紹介させてくれ。女の私が言うのもなんだが、最高に可愛いな」
「まあ」
サリーは少し赤くなって、花のように無邪気に笑った。