第一章 15
すっかり憑き物が落ちたようにすっきりとしたメリアーヌだが、すっかり平静を取り戻すと少しばかり気恥ずかしい思いをした。
そんなメリアーヌに気を遣ってか、二人はメリアーヌ一人を見張り台から下りるように促してその場に残った。途中で見張り番と擦れ違ったが、見張り台の下に待機していたために叫び声が聞こえたのか、「見事な咆哮でした」と訳の分からない事を言われた。
メリアーヌは晴れ晴れとした心で廊下を進みながら、ゆっくりと時間をかけて頭を切り替えていく。
戻ったメリアーヌに対し、誰もどこに行っていたのかと問わない。
「西の備品倉庫の昨日の管理担当はキファ・ランデル。ルシェルがレオ・ガリヴァンに背を蹴られて倒れるところをはっきりと目撃したそうですが、巻き込まれる事を懸念して倉庫の奥に身を潜めた為に以後に起こった事は知らないとの事。レオは一旦個室に移し、記録官の前で調査書としてまとめておきましたので、報告まで」
おらぬ間に出来る事を済ませておいてくれたらしいハギーギに礼を述べ、メリアーヌはそれから三時間かけて、次々に持ち込まれる目撃情報の精査を行った。
報告の山は膨れ上がり、記録官の手元には「東で見た」「西で見た」「そもそも見ていない」など、似たような筆致がずらりと並んでいく。
これだけの報告があればと思ったものだが、精査すればするほどに不穏な空気が漂っていく。一日の訓練終わり、直ぐにでも酒場に向かいたいという浮足立った気持ちが記憶を曖昧にし、似た制服を着る兵士たちが行き交う訓練場では、誰と正確に覚えている者の証言がなかなか出ない。
メリアーヌが大々的に動き始めて、かなりの時間が経とうとしている。目撃者を集める過程で既に、ヨシュアとレオを見かけた者を探している事は、外壁内の殆どの者に周知されているに近しい状況にある。それが何故かを知っている者はなかろうが、コーローが隔離拘束されている事実がある以上、日頃の確執から邪推が広まっても不思議ではない。
ヨシュアが短剣を持っていた事、東ではなく西にいた事を証明する者が現れた事は大きな進捗である。
キファの証言からレオもまた東ではなく西にいた事は確実であり、容疑者二人が一度は西に現れているという事実はこれで証明されたと言えよう。
「今宜しいですか、五曹」
考え込んでいたメリアーヌは、声をかけられはっと顔を上げる。
「ああ、ハジム六曹。何か?」
「証拠出ましたよ」
「証拠?」
思わず腰を浮かせたメリアーヌの前につかつかと歩いて来て、ハジムは机の上にことんと短剣の柄を置いた。
「ヨシュアの短剣を証拠品として押収はしたものの、支給品ですからね。同じものは五万とあるもので残念ながらクルールの傷口と一致するものの、ヨシュアの短剣と断ずる事は出来かねました。ところがどっこい、ヨシュアの短剣には柄がなかった。で見つけたのがこれ」
「……西で発見されたとか?」
「まさに。西の備品倉庫横の茂みにころり。しかしながら他の誰かのものだとしらを切られたら困るので、全ての短剣を確認したところ、柄を紛失しているのはヨシュアただ一人でした。本日訓練に参加していないヨシュアが柄を失くしたのは昨日以前、更に言えば、おとといも短剣訓練はありませんでした」
「その更に前と言われたら?」
自然と身を乗り出すメリアーヌに、ちっちっちっ、とハジムは舌を鳴らしてにやりと笑う。
「三日前には確かに短剣訓練がありましたが、誠に幸運な事に、その日の東兵装庫の管理担当はハギーギ六曹だったんですよ」
目を見開くメリアーヌに、ハジムはどうだとばかりに胸を張る。
「ご存知でしょう、ハギーギ六曹の仕事の細かいこと! あ、いや、正確にして緻密なことと言ったら!」
「全ての武器の確認を、きちんとしたんだな?」
「その通り。武器は柄で封じて所定の位置に戻すが基本。ハギーギ六曹は確かに、全ての武器に柄があったと証言してます」
「そして訓練に必要のない武器は、持ち出し禁止だ」
昨日の短剣訓練で紛失したわけではないとヨシュアが答えたなら、では何故許可のない短剣を持ちだしたのかと問題になり、昨日の紛失を認めれば、東ではなく西にて発見されている以上、時間は確定できずとも用がないはずの西の備品倉庫を昨日訪れた事は証明される。
「ヨシュアの昨日の訓練以外の時間の足取りを調べておいてくれ。夕刻以外ありえないと追い込みたい」
「調べさせています」
お任せをと、大層優秀なメリアーヌの部下は揚々と退席していき、代わりにハギーギが入れ替わるようにして入室してきた。
「ルシェルの怪我についての報告を。……なんです?」
じっと見つめるメリアーヌの視線に気が付いてか、ハギーギは小首を傾げる。
「ハギーギ六曹が几帳面で助かった」
「ああ、その話ですか。当然の事です」
「当然の事だが、ハギーギが担当したと聞かされたら私は自信満々で報告書を作れる」
そうですか、とハギーギは穏やかに笑って、報告を続けた。
「背中を一度、腹部を一度蹴られたという双子の証言にあたり、ルシェルの体を改めてみたのですが、肩甲骨のやや下――骨の際にくっきりと腫れた青紫の痕が。靴底のような長方形の跡がはっきりと見てとれた事から、非常に強い力を加えられた事が窺えました」
眉根を寄せるメリアーヌに、ハギーギは続ける。
「軍医に確認させた報告書をここに置いておきますが、拳より広く深い青紫に変色した腫れ、皮膚下の腫れの硬さ、触診時の圧痛反応などから、明確な時間は分かりませんが昨日の夕方にというルシェルの証言に矛盾はないとの回答です。腫れの状態と不意打ちの状況と合わせれば、かなり危険な行為だったと断言できます」
「暴力性が認められるという事だな?」
そうです、とハギーギは目で頷く。
「遊びでは済まされません」
「非常に腹立たしい」
曲がりなりにも軍部に所属するメリアーヌは、怪我にも流血にも耐性はある。本気で行う訓練の中で、打ち身擦り傷など全員が毎日負うような日常的なものであるが、受け身をとろうとした怪我と無防備な背中を狙われた怪我とでは雲泥の差があろう事くらい考えずとも分かる。
状況としては、クルールも無防備な背中を殴られている。腹を蹴られた兄を咄嗟に庇おうと身を翻し、その瞬間に背中を打たれた。
「非常に、腹立たしい」
メリアーヌは低く、繰り返す。想像しただけで沸々と、更なる怒りが込み上げて来た。