第一章 9
二時間ほどだけ仮眠をとったメリアーヌは、五時には医務室に入った。
メリアーヌが怪我をしたと勘違いした医務官が蒼白になって駆け寄ってきたが、部下の怪我で確認しておきたい事があるので治療を担当したいと申し出、人払いをする。
シャーリ城内南棟の一角。医務室は静かに、人の気配を殺すように存在していた。
分厚い石壁に囲まれたその空間は、昼でも陽の差し込みが弱く、空気がひんやりとしている。床には灰白の石が敷き詰められ、かすかに消毒用の酒精と薬草の匂いが漂っていた。窓は見上げるほど高い位置に小さなものがただ一つ、光は少ない。照明はランタンではなく、昼であればすりガラス越しの自然光、夜はわずかな蝋燭のみ。柔らかな灯りが、壁に立てられた器具棚の影を揺らしている。
棚には綿布や包帯、薬瓶、焼き鏝や止血鉗子などが整然と並び、使い込まれた木製の作業台と簡素な寝台が十、使用者は今は誰もいない。主に訓練中の怪我に対応するだけの、簡易処置のための場所だと感じさせる無骨さがある。
クルールの怪我の治療に使用する可能性があるものを選ぶメリアーヌは、ノック音の後に入室してくる人影を確認する。
「来たか」
メリアーヌが声をかけると、クルールは心底驚いたように目を見開き、慌てた様子でぺこりと小さく頭を下げた。
「五曹が、何故ここに」
「怪我を見せろ」
ぽん、とメリアーヌは自らの前の古びた木製の椅子を叩く。座れと暗に示したつもりだが、クルールは逡巡の様子を見せた。無理もないとは思う。
「え、五曹」
クルールの後ろから、遅れて顔を出したルシェルがぎょっとしたように言う。弟の怪我を確認しに来たのか、付いて来たようであった。
「何でもいいから、とりあえず二人とも早く入れ。目立ちたくなかろう」
二人は顔を見合わせるようにして、仕方がなさそうに扉を閉める。昼の訓練には参加しなければならない双子はこれから朝食をとり、仮眠に入る。その時間を奪う事になるメリアーヌとしては、時間が惜しい。徐に双子に歩み寄るなり、メリアーヌはクルールの手首をがっと掴んだ。
「早く来い」
ぐいと引っ張ると、一瞬クルールが右目尻を細めた。
「どこが痛い?」
「痛くなど」
この期に及んで言うクルールに、メリアーヌは呆れる。
「具体的に痛むところを、自ら傷を示せ。さもなくば全部脱がして改めるぞ」
目を丸くするクルールの後ろから、ルシェルが苦く笑う。
「それは変な噂が立っても困りますので、白状します。背中寄りの腰です」
「ちょ、ルシェル!」
「脱がされるよりいいだろう。諦めよう」
「よし、ルシェルが賢くて良かったな。こっちへ来い、クルール」
埒が明かないクルールを引っ張って無理やり椅子に座らせたメリアーヌは、服に手をかけたところでぴたりと手を止める。捲り上げるに、逡巡する気持ちが生まれる。クルール、ルシェル共に軍用マントは既に脱いで腕に引っ掛けていたが、上衣は脱いで貰わねば傷を改める事は出来ない。
怪我を確認するだけだと自分に言い聞かせるも、同じ年頃の男性の服を捲る事に対する戸惑いが、メリアーヌの次の行動を阻む。
クルールの背後ですっかり硬直して身動き取れなくなっているメリアーヌに、クルールは察してなのか諦めてなのか、自ら上衣を手繰り上げた。細くしかしながら筋肉質な背中にどきっと胸が冷えたのは一瞬、目に飛び込んできた傷にメリアーヌは眉根を寄せた。
クルールの左腰に、赤黒く滲んだ斑点が確認できる。中心には浅く裂けたような切り傷、周囲には柄の形を思わせる青紫の痣があり、メリアーヌには原因の見当がついた。
「――正直に言うなら、今だぞクルール」
「……支給品が、腰に当たりました」
「短剣の柄で殴られた、だろう。正確に言え」
メリアーヌの後ろから弟の傷を覗き込むルシェルは観念した様子で、溜息交じりに言う。
「訓練後備品の片付けを行っている際、口論になり」
「誰と」
メリアーヌの間髪入れない問いかけに、個人名を出す事は憚られるのかルシェルは視線を泳がせる。
傷口の消毒に取りかかるメリアーヌはふと、裂傷の少し下方、ベルトで丁度見えない辺りにも傷らしきものがちらりと見えた気がして、ぐいとベルトを指で押し下げた。
皮膚の上でぼんやりと浮かび上がる褐色の、目を凝らしてよくよく見るとそれは紋様のようであった。
「……これは?」
「え? ああ、それは今回の傷ではなく。痣です」
覗くようにして答えるルシェルは、個人名を言わずに済んだ事にほっとしたのか心なしか声が弾んでいる。
「……痣。ルシェルにもあるのか?」
「いいえ、クルールにだけ」
薄暗くて模様まではよく見えない。蝋燭の火を取りに行こうか迷ったメリアーヌに、クルールは言う。
「あまりまじまじと見られると、恥ずかしいのですが」
「――あ。これは、失礼、した」
メリアーヌは慌ててベルトに引っ掛けていた指をぱっと離す。俄かに火照って来る頬を冷ますように一度手の甲で熱を取り、メリアーヌは咳払いと共に話を戻そうとする。
「個人名はいい。だが、コーロー六曹配下の者で間違いないな?」
首だけを後ろに巡らせたクルールはルシェルと顔を見合わせるようにして、はい、とようやく認めた。
そのやりとりを見届けたルシェルは、しん、と一瞬きまずい空気が流れた事を受けて言う。
「……では、私は外で待たせて頂いても宜しいですか?」
「え」
ぎょっとしたのはクルールだけではない。メリアーヌも一緒だ。
「五曹が御手自ら治療をして下さるなんて。誰かに見られてまたいらぬ噂が立ってしまっては五曹に申し訳ないので、誰も入らないよう、外で見張ってます」
「あー、うん」
二人きりにされると今は何となく気まずいのだが、というメリアーヌの心に反し、ルシェルはぺこりと一礼して踵を返す。
「クルール、ちゃんと見てもらえよ」
「……分かってる」
ルシェルが扉を開けた瞬間、外の光がわずかに差し込んだ。その後ろ姿が閉まった扉に阻まれ消えると、再び部屋には静寂が落ちる。
ベルトを押し下げた気まずさから中々立ち直れないメリアーヌは、とりあえず手を動かす。背中に触れないようにと細心の注意を払って傷口を消毒すると、包帯を手に取る。口数の少ないクルールは何も言わず、沈黙が時間と共に重く肩にのしかかる。
(話題、話題。あるだろ、コーローの事で、もっと他に。怪我をした時の詳しい状況とか)
何か言え、とメリアーヌは悶々と考えながら、包帯の端を傷口にあてて左手で軽く押さえる。もう片方を背中から腹へ、回しこむようにしてクルールの腰へ巻きつけていく。包帯を巻く程度の作業は何度も経験があるが、緊張からか指先が空寒く、震える。
右手を伸ばして包帯を引き取ろうとした瞬間、布が思ったよりも緩く、震える指を擦り抜けるように滑った。
(――あ)