第一章 8
翌日早速、双子は職務に就く事となった。
最初は教える事があるので二人同時に、翌日からは一人ずつ交互に担当する。メリアーヌは見張りの仕事を教える係を志願しようと名乗りをあげかけ、自制した。流石に見張りの為の備品や装備の整備などという雑用を五曹であるメリアーヌがかって出たのでは、折角婚約者候補ではとの噂が立ち消えようとしているというのにまた火に油を注ぐ。観察対象として側に在りたい場面があるにはあるが、余計な噂を立てない為の距離感は大事だ。
メリアーヌはベッドに横になりながら、ちらりと時計を見遣る。
既に双子は任務に就いているはずであるが、どうにも気が気ではない。弟かも知れないと思うからなのか、メリアーヌの部下であるからであるのか、はたまた完全なる新人であるせいか。そわそわと気になって寝付けない。
(逆に、今なら誰も側にいないのでは)
メリアーヌはたっぷり三時間悩み、夜更けにこっそり部屋を抜け出した。
夜間警備にあたる兵士の位置取りは頭に入っている。極力顔を合わさずに済むよう計らいながら、メリアーヌは見張り塔への階段を上る。
城内はかろうじて所々松明の灯るシャーリだが、城屋に出ると世界は闇に沈む。夜、海の彼方からシャーリを視認させない為であり、煌々と灯りを放つ誘導塔はシャーリ城よりかなり北側にある。
メリアーヌは手探りで壁伝いながら、次第に闇に目を慣らしていく。夜目を鍛えることも、立派な訓練の一つである。
ぼそぼそと、話し声が聞こえてくる。通常は一人であるために話す相手もないのが、今日は初日故に双子は揃って職務にあたっている。見張がいかに早く異変に気がつけるか、変時においては非常に重要な仕事なのだが、ほぼ何も起こらないまま終わる事が常であるため、私語を挟みたくなる気持ちは分からないではない。二人なら、尚更だ。
(何を話してるんだろ)
兄弟水入らずで双子が何を話すのか、メリアーヌは気配を殺し、足音を立てぬようにそっと階段を上っていく。
声を顰める双子が、螺旋階段を登り切った見張台にいる。メリアーヌは数段下で足を止め、壁に背をつけるようにして聞き耳を立てた。
「口答えするからだろう」
「お前だってしてたろ」
メリアーヌは目を見開く。
「規とは目があり耳があり、裁きを下す者あって始めて意味を成すもの。歯向かっても仕方ない」
「分かってる。手は出してない」
「口の出し方が生意気」
「そっちこそ、人のこと言えるか」
メリアーヌは可笑しくなって、思わず吹き出しかけた口を慌てて両手で覆う。初めて聞く双子の会話は兄弟ならではの、忌憚ない砕けた口調が幼い。
「ほら、こっちはいいから見張ってろって。まがりなりにも、初仕事を任されてるんだから」
「血は止まったか?」
「ああ」
怪我をしているのか、とメリアーヌは身を乗り出しかけ、やはり自制する。まだ、聞いていたい気持ちが強い。
(怪我してるのは、クルールの方かな)
いかんせん声も似ているので、二人とも口調が砕けると判断がつきにくい。
(ルシェルはクルール相手だと、こんなにも気さくに話すんだ)
いつも穏やかに敬語で話す印象があるだけに、意外だ。
「明日の見張りには、先に行かせてもらう。訓練でぼろが出るかもしれない」
「それはいいけど、これからの対策は必要だ。このままではいずれ明るみに出る」
二人の話し方に気をとられていたメリアーヌだが、段々と話の内容が気になってくる。記憶を辿って二人の会話を反芻し、誰かと揉めた結果クルールが流血をもたらすほどの怪我をしている、という結論に行きついている間に双子の話は進む。
「目下極力人の輪の中にいるしかないと思うんだけど、どう思う? クルールは嫌かもしれないけど」
「……別に、嫌ってことは。それよりルシェル、お前からばれる方が心配だぞ」
「あー、顔に出てる?」
「昨日五曹に聞かれた時、顔強張ってた。言ってるだろ、困ったら笑っとけって。いつもにこにこ笑ってるくせにさぁ」
「あの時はほんと、クルールが直ぐに反応してくれて助かったって。感謝してる」
はたと、メリアーヌは酒場での会話を思い出し、気付く。
コーローの話になった折、困った事はと尋ねたメリアーヌに対し、ルシェルではなくクルールが先んじて反応した事に確かに違和感を覚えた。そのまま話が流れていった為に違和感を払拭する機会を失した事もあり、双子の話を聞いて直ぐにぴんと来た。
(これは。……さてはコーロー側と揉めたな?)
手は出さなかったと言ったクルールの言葉を信じるならば、向こうが手を出してきた事になる。口は出したものの拳を下げたと思しき双子はおそらく、話の流れから想像するに今日までにもコーロー側と接触があったと思われる。
吹きつける夜風に、羽織ったマントが揺れた。寒さに肩を竦めたメリアーヌは、壁に身を寄せたまま思案に沈む。
(気を遣われてしまったか)
メリアーヌを気遣って、身に降りかかっているトラブルにあたり黙秘を選んでくれたようだが、上官としては相談して貰えなかった事を恥じるべきである。
今直ぐにでも見張り台に顔を出して、双子の身に何が起こっているのかを問い詰める事は可能だ。素知らぬ顔で整列してみせるであろう双子から事情を聞いて、適切な対処をする事こそがメリアーヌの仕事だろうが、暫し聞き耳を立てていたと言うもまた、情けない。
しん、と暗く闇に溶けた世界に沈黙が落ちた。あちらこちらに見回りの兵士がいるはずだが、じっと持ち場に佇んでいるせいか、物音一つ聞こえてこない。ただ冷たい潮風だけが頬を擽るようにして間を流れて行く。
双子がすっかり黙ってしまったので、メリアーヌはこの場を離れるべきか、今こそ声をかけるべきか悩んだ末に、先程までの話を聞かなかった事にして顔を出す事に決めた。
数段を上りきると、双子は突如現れた人影に心の底から驚いたのか、大いに仰け反ったのが見えた。
石造りの床は冷たく、夜の湿気を吸ってかすかに滑る。塔の縁には腰よりは少し高い石壁がぐるりと巡らされており、本来は視界が開けて絶景が望めるのだが、今はただ、星すらも殆どが雲に隠れて世界に輪郭がない。
「人が近づいている事に気が付けないようでは、見張りとしては評価出来ないな」
「――五曹!」
声でようやく人影がメリアーヌであると気が付いたらしきルシェルが慌てた様子で居住まいを正し、クルールが兄の隣に並ぼうとして一瞬よろけたのをメリアーヌは見逃さない。
「どこか痛むのか、クルール」
怪我をしたのは足、或いは腰あたりだろうと直ぐにぴんと来たが、敢えて惚けて言ってみる。
「いいえ」
即座に返事をしたクルールに、やはり言って貰えないかと僅かな落胆の気持ちがある。
「簡単なようで難しいだろう、見張りは。光は発見を招く。そのため、風向きの変化や潮の匂い、遠くの波音、わずかな衣擦れ――すべての感覚を研ぎ澄ませて、異変を察知するしかない。人の気配に気が付けないようでは、まだまだだ」
「申し訳ありません。五曹が敵であったならと想像すると、肝が冷えます」
ルシェルは海の方を見遣るように首を巡らせ、クルールは逆に陸地の方へと顔を向けた。
塔の中央には、非常時に打ち鳴らすための古い鐘が吊られている。風が吹き込むと、錆びた鎖が小さく軋み、かすかな金属音が耳に触れる。
「風の音、波のうねり、たまに遠くで聞こえる鳥の羽音。そのすべてを聞き分けながら、交代までの長い時間、一人黙って耐え続ける。孤独もまた訓練の一部だ。精進してくれ」
はい、と二人の返答が揃う。実際、見張りの仕事は甘いものではない。見張り台はここだけではないので一人だけの責任という事はないが、有事の際には見張り台に立つ者の手腕一つで戦局はがらりと変わる。本来は玄人が立つべき場所であり、海に面した最前の見張り塔には実際、ベテラン兵士が詰めている。夜間に一人吹き曝しという過酷さもあって新人があたるようになって久しいのは、昨今の情勢によるところが大きい。
「まあ、悪い事ばかりではない。雲の少ない日には星が実によく見えて美しく、月が満ちる日など絶景だ」
「楽しみです」
「あまりの美しさに、とある見張り兵が懇意のメイドを連れ込んで問題になった事もあったっけ」
腰を壁に預けるように凭れ、メリアーヌは空を見上げる。生憎と今日は雲が多く、先程はちらりと顔を見せた月も今はもう見えない。
「その兵士の方の処遇はどうなったのですか?」
「なんだ、連れ込む気か?」
メリアーヌが冗談を言うと、ルシェルはそうと分かっていてか、あははと軽快に笑った。
「まさか。ですが、どうなったのかは気になります」
「メイド側にも好意があった為に姦淫行為として裁かれる事はなかったが、当然、職務怠慢だ。厳重注意の上減俸、昇進に完全に響いているな。そこそこ長く居るが、未だに一般兵だ。メイドにも振られた」
あー、とルシェルは苦く笑う。メリアーヌを前にして、やはりすっかり黙り込んで会話を兄に託すクルールが、先程の今である事もあってなんだか可笑しい。
しばし沈黙の後、メリアーヌは冷たい石の床に視線を落とし、静かに告げた。
「……クルール。職務が終わったら、医務室に立ち寄るように」
一瞬だけ、クルールの肩が微かに動く。立ち位置を変えようとしたクルールが、左腰を庇うようにしていたのをメリアーヌは確かに見た。
「必要ありません」
「それを判断するのは私だ」
ぐ、とクルールが言葉を飲み込む横で、ルシェルもまた黙り込む。
それだけ言い残し、メリアーヌは双子に背を向けた。潮風が吹き込み、マントの裾が石の床をかすかにさらう。
(左腰。あの動きなら、深手ではないが打撲は確実だな)
階段を下りながら、メリアーヌは目を伏せる。双子の職務は、五時まで。メリアーヌは既に、その時間に医務室に顔を出す事を心に決めている。
塔の鐘が、風に揺られてかすかに鳴る。双子の声は聞こえなかった。