第一章 7
双子がシャーリに到着してから、二週間が経とうとしている。
日々の生活にも随分と慣れてきたようで、二人はあっという間にシャーリに馴染んだ。若いだけの事はあって訓練への順応も早く、そろそろ訓練のみならず職務を与えようという話がハギーギ、ハジム双方から挙がったため、双子を改めて呼び出す運びとなった。
一度は会議室でという話になったのだが、双子の最近の様子を本人達の口からヒアリングを取りつつでどうかとの進言を受け、やはりというべきか、街におりる流れになる。会議が長引けば夕食を食べ損ねる恐れもある上、メリアーヌとしても酒場の方が気楽だ。
城門を抜けて山道を街へ向かう見慣れた顔ぶれに交じり、メリアーヌは一人、遅れて指定の酒場へ向かう。他部隊の五曹に呼び止められて、少し時間をとられてしまった。
(勝手に始めていてくれたらいいけど)
急ぐメリアーヌは、小枝に髪をとられて顔を顰める。
絡まったそれを解こうとするも、焦りと不器用が勝ってうまくいかない。
「ナイフを貸しましょうか、五曹殿」
声をかけられて視線だけを向けると、コーロー六曹がナイフの柄をこちらに向けてにやにやと笑っている。
「いや、結構」
「髪が長いと大変ですなぁ。五曹の後ろにつく兵士はくしゃみを我慢する術に長けている人を選ばないといけませんな」
鼻下を指で擽るようにしてくしゃみの真似をして笑うコーローは、メリアーヌをよく思っていない人間の一人である。メリアーヌよりも頭二つ分程背が高く、まさに兵士を絵に描いたような立派な体躯をしている彼は、五曹への昇進が遅れたとメリアーヌを目の敵にしている節がある。実際、強ち的外れでもない。
相手にしないに限る。
メリアーヌは表情一つ変えず言う。
「この程度の障害で怯む者に後ろを任せるつもりはない故、問題はない」
「左様で」
は、と鼻で笑いつつもかちんとは来たようで、ぴくりと瞼をひくつかせながら、コーローは持っていたナイフを懐に収めつつ身を翻した。
「可愛げのない。男の面目を潰す勘違い女が軍規を乱す」
ぼそりと吐き捨て、コーローはさっさと行ってしまう。だから嫁に行けなかったのだと暗に言われたようで、ほっとけ、とメリアーヌは心の中で独白する。可愛げなどというものは、兵服を選んだ時に捨てた。
土埃に軋む髪は、令嬢として生きようとしていたメリアーヌの幼き頃のしなやかなそれとは触り心地がまるで違ったが、「絹のように美しい」と兄が褒めてくれたその言葉が、じわりと脳裏を過った。
時間をかけて、メリアーヌは絡まった髪を解く。途中面倒が勝って、それこそ切ってやろうかとも思った。だがなんとなく、それは出来ない。
(……諦めが悪いな)
最近、自分を誤魔化す事が増えたような気がする。自分に言い訳ばかりをしている気がする。
兵士の道へと促したのは父だが、それでも最後は自分で決めた。華やかな女性の社交の場が似合わず、兵服がしっくりと似合った。ダンスは然程うまくならなかったが、剣技は見る間に上達した。そういう事だ、と思う。この道が最善、天啓、メリアーヌに与えられた神託だと思う。本当に、思う。
――でも、どこかに女の自分を諦めたくない気持ちがある。
しまいこんで隠そうとしても、どれだけ言い訳をしてみても、メリアーヌは求められなかった原因を外に探したいと思っている。最後の良心とも言える長い髪を、切れずにいる。
「はあ」
情けない、と独白しながら溜息を吐くメリアーヌは、なんとか髪を解いて街へと足を向ける。
訓練や職務から解放された者達が、弾ける笑顔で談笑しながら店を選び、中へ消えて行く。人々の笑い声が、胸の奥をかすかに揺らす。誰かが歌い、誰かが腕を組み、誰かが酒を掲げて陽気に叫ぶ。解放という名の喜びが満ちる夜の街が今は、メリアーヌには妙に空寒く映った。
目の前の木の看板が風に揺れて、錆びた鎖が軋んだ音を立てる。扉を押して中に入ると、たちまち濃密な熱気と、樽酒と獣肉の匂いが鼻を打った。
「あ、やっと来ましたね、五曹!」
酒場の右手奥、陽気に手を振る部下の姿を認め、メリアーヌは手を挙げる事で応じる。部下達がにこにこと楽しそうに笑うので、ほっと、胸の楔がほんの僅か緩んだ気がした。
「遅れて申し訳ない。もう頼んだ?」
「まさか」
メリアーヌに応じてから、ハジムはやっとだとばかりに口早に注文をする。
粗削りの木の机が無造作に並び、部下達の周囲の机の上には飲みかけのジョッキと骨だけになった肉皿が並ぶ。隣席では語るごとにテーブルを叩き、ジョッキの中身が勢いよく揺れた。この状況の中「待て」を食らった部下達の苦痛を思い、メリアーヌは心の中で深く詫びる。
「始めてくれていても良かったのに」
「流石に出来ませんとも」
ハギーギが笑うと、双子も苦く笑う。それはそうだろうと思うが、始めていてくれた方がいくらか気楽だった。
メリアーヌが席に着くと同時に、酒が運ばれてくる。逸る気持ちを前面に隠そうともしないハジムに、まずは一杯与えねばなるまいとメリアーヌは乾杯の音頭を取る。
「あー、生き返った!」
笑っている部下を見ていると、心が和む。鬱々とした気持ちは酒場で晴らすが最適と一杯煽るメリアーヌはやはり、我ながらグラスでなくジョッキが似合う。
「双子、遠慮なく頂きなさい」
ハギーギが促すも、双子はジョッキを前に軽く口をつけただけだ。
「同じ失敗は出来ないので」
クルールが苦く笑って、ジョッキをそそと兄の方へ寄せる。どうやら自分の分も兄に飲ませるつもりらしい。
「私も、仕事の話だけはきちんと聞いてから頂きたく」
頭がはっきりしているうちにとルシェルも酒を煽らないので、仕方がなさそうに六曹二人が顔を見合わせた。
「最近の若者はしっかりしてるなぁ。料理が来るまでに、とりあえず仕事の話を済ませます? 五曹」
「そうしよう」
ど、とメリアーヌがジョッキを卓上に置くと、六曹達がそれに倣う。
「当シャーリでは、訓練を中心とした生活の中で、交代制で職務にあたる。家畜や農作物の世話に始まり備蓄品の管理、見張りから武具防具類等の点検まで業務は実に様々あるが、新人には基本的に深夜の仕事があたる。二人はまず、深夜の見張り台に立つ仕事が振り分けられる見込みだ」
はい、と二人が神妙な顔で頷く。
シャーリでは、訓練兵士の腕がある程度の域に達すると、職務を与え、給金を付与する。居住すべき部屋と衣類は保証しているので、給金は遠方で暮らす家族への仕送りや、城下町での酒代に消費する者が殆どだ。
双子においては基礎が出来ていたので、職務打診はかなり早い方であると言える。
「見張り台に立つのは一人ゆえ、交代であたって貰う事になる。勤務は閉門から明け五時まで、職務にあたった日は午前の訓練が免除となる。何か質問は?」
「具体的にどこをどのように見張れば良いのでしょう。――いえ、何を警戒して臨めば良いのでしょう」
ルシェルの質問に対し、応じたのは上長であるハギーギであった。
「全て。主に海の向こう、即ち他国と、陸地方面、即ち国内の当家への侵略、攻撃など」
島国であるヴォ―デウォン国において、海を隔てて最も近い他国に近接しているのはシャーリであるため、決して目を離せない警戒対象である。
「明日から早速あたってもらうので、そのつもりをしておくように」
双子が揃って頷くと、さあ、とハジムは待ちきれないとばかりにジョッキを掲げる。
「もういいでしょう、習うより慣れろですからね」
「食べようか」
ぐうとハジムの腹が鳴ると、呼応するようにメリアーヌの腹も唸る。
次々と運ばれてくる料理を前に、メリアーヌが手をつけない事には始まらない。勇ましく肉に齧り付いたメリアーヌを見て六曹達が、そして最後に双子がようやく食事を始めた。
「知ってます? 五曹。最近コーローのとこと、うちのが少し揉めたの」
ハジムが肉を食みながら言うので、少し聞きづらい。
「うん?」
「細々したのは少なからず前からありましたが、この前街で偶々、出くわして。うちのが女を買いに行った先で、指名の女を後から来たコーローのとこの奴が横入りしてなんちゃらかんちゃら、まあしょうもない諍いではあったんですが、あちらさん、うちを目の敵にしてるでしょう? 互いに苛々してたみたいで、ちょっとした騒ぎに」
「へえ、聞いてないな」
メリアーヌが眉根を寄せると、ハジムはあははと笑う。
「そりゃ言ってませんからね。今のこれが報告って事で」
「で、事は大きくならなかったのか」
「偶々出くわしたんで、仲裁に入りましたとも。事なきを得たんで、言わなかったんです」
「でも今わざわざ言ったってことは?」
メリアーヌが続きを促すように言うと、ハジムはからん、と握っていた骨を皿に落とした。
「そういう小さなではありますが、諍いが増えたなという印象で。ちょっと目配りがいるかなと」
「発端は子供のようなもの。肩がぶつかっただの、どちらが先に入るかだの、他愛もない。些細な事で目くじらを立てる者が増えたからこそ、少し警戒が要るかと」
言葉を足すハギーギもまた思い当たる節があるのか、少し神妙な面持ちを向ける。
「コーローねぇ」
先程メリアーヌを苦く見下ろしていたコーローを思い出しつつ、頬杖をつく。
「やっかみです、完全に。しかし、下の揉め事の対処も上官の仕事の内。今はまだ我々の目が届いていますが、大きくならぬうちに手を打つ必要は感じます」
「血の気が多い奴が多いですからね、この男所帯。どうします?」
「むしろ、どうすべきだと二人は思う? 五曹に昇進させてやるとでも言えば良いのか」
「昇進させてやるつもりがおありで?」
「ない」
苦く笑うメリアーヌに、でしょうね、とハギーギもまた苦笑いを漏らした。
シャーリにおいて階級を定める為の手順はきちんとあるが、もちろん例外はある。総司令を兼ねるシャーリ当主である父の鶴の一声がそれであり、その権限は娘であるメリアーヌには与えられていないながら、采配に口出し出来る立場には当然ながらあった。故にメリアーヌの顔色を窺う者も多いが、コーローのように反駁の姿勢を示す者もある。
「兵同士の決闘や、訓練以外での武器の使用は禁止されている。諍いにおいては、規に則って対処する姿勢を示す他ないかもしれませんね」
「現状確かに、その辺り曖昧になっているところはありますからね。このくらいなら、その程度ならと処遇をなあなあにしている部分は否めない」
うちの兵士も処罰対象にはなりそうですが、と付け足しつつ、ハギーギは仕方がなさそうに肩を竦めた。
「誰かが死傷するような事態になってからでは遅い。次に何かあったら、私に声をかけてくれ」
対処する、とメリアーヌは決意を表明するように二人の六曹に明言する。もとはと言えばコーローがメリアーヌに敵意を向けるところに発端があり、上に立つ者同士の互いをよく思わない姿勢が下の者達に伝播してしまっている形だ。責任は往々にしてメリアーヌにある。
メリアーヌは、ちらりと小さくなっている双子に目を遣る。沈黙を守る二人は皿に目を落とすようにして食事をしていたが、メリアーヌの視線に気が付いてか、はっとしたように揃って顔を上げた。
「ルシェルとクルールは、今のところ弊害はないか」
「……と、仰いますと?」
「コーロー配下の者、あるいはそれ以外でも良いが、何か揉め事に巻き込まれるような事は?」
双子がメリアーヌの婚約者候補では、という噂は、メリアーヌ自身の否定により下火になっていると聞いているが、双子はこのシャーリ城にとって久しぶりの新人兵士、つまり誰よりも下っ端で、誰よりも年若い。無茶な要求や粗雑な扱いを受けていないか、ふと確認しておきたくなった。
「特には」
直ぐに応じたのは、ルシェルではなくクルールだった。珍しいなと思ったものの、メリアーヌがそれを口にする前に会話は繋がる。
「二人部屋ってのは、こういう諍いが発覚しにくいデメリットがある。大部屋では誰かの口から漏れたり密告があったりするもんだが、二人だと双方が口を噤めばそれまでだ。遠慮なく言えよ?」
ハジムがさらりとフォローするような言葉を投げると、ハギーギも頷きながら続く。
「シャーリでは、序列と風紀の乱れはいざ戦時下にあって悪影響と、訓練以外での組み合いは固く禁止されていますから。規を正す為にも、申告を。諍いが大きくなればなるほど、上官にも監視不行き届きの咎めがいきますからね。何かあれば、相談なさい」
「はい」
真っ直ぐに二人の六曹を見て頷いたクルールは、静かに湯気の立つスープを口に運んだ。目を伏せ品よく一口、スープが喉元を通り過ぎたのが妙に色っぽくメリアーヌには見えた。
(品、というものとは縁遠いからな、大概が)
がさつにして粗野な兵士達の中にあって、やはり子爵の下で育った双子は少し毛色が違う。肉を頬張って見せてもハジムと並ぶと何もかもが違って見えるのはすっと伸びた姿勢のせいか、それとも弟かも知れないと言う欲目なのだろうか。メリアーヌには分からない。