30ー① シルヴェスター
アミーリアが五年振りに王宮へ伺候する————
その知らせを聞いて、シルヴェスターは久方ぶりに心のざわつきを覚えた。
(やっと私の元に戻ってくる気になったか。何の気まぐれか、こんなに長い間ファーニヴァルに留まるなんて。まったく腹立たしい……)
こんなにもシルヴェスターの心を搔き乱すのは、昔からアミーリア唯一人だ。
大国の世継ぎの王子という立場のせいか、シルヴェスターの手に入らないものはほとんどなかったと云っても過言ではない。
大抵のものはすでに目の前に用意されていて、どれを選んでも、誰も文句を言うものはいない。そしてそれを簡単に打ち捨てたとしても、誰も咎めるものなどいなかった。
その中でただ一つ、手元に残そうと思いながらも、指の間からするりと抜け落ちていったモノ。
それがアミーリアだった。
だから、こんなにも惜しい気がするのは、そのせいなのだとシルヴェスターは思っていた。
※※※
シルヴェスターには、母の思い出というものがほとんどない。
亡くなった訳ではない。王宮では公然の秘密となっている事由のせいだ。
シルヴェスターの父、アーカート王——当時は王太子——は三十代に入っても、結婚どころか婚約者すら決まっていなかった。
何故なら、王の性的嗜好が女性ではなかった為、なかなか相手が決まらなかったのだ。
それでも王族として跡継ぎは必要である。
仕方なく側近の薦める、王国内の有力貴族の娘を妃として迎え入れた。
妃となった娘は、王国の南方のはずれに広大な領地を持つ侯爵家の出であった。遠方の領地で育ったが故に、王太子の噂を何ひとつ知らぬまま嫁いできた。
王族らしい風格と気品を備えた見目麗しい王太子に、何も知らない少女はすぐに心を奪われ、妃となれた幸運に酔いしれた。
しばらくは夫としての義務を真面目に果たしていた王太子であったが、妃が妊娠するやいなや、閨へ渡るのをぴたりと止めた。
最初はそれも王太子の優しさや労わりだと信じていた妃も、公的な行事以外では顔すら合わせない日々が続くと、さすがにおかしいと思い始めた。周囲も何かを隠しているような、そんな気がしてならない。
そして、妃が王子——シルヴェスター——を出産し、世継ぎが誕生したと分かると、王太子は遠慮することも、隠すことも止めた。
侍従という名の恋人を常に側に置き、離宮を与え、妃には目もくれなくなったのだ。
こうなって、やっと妃は王太子が自分に、いや、女性全般に興味がないことを知ったのである。
知ってしまえば、いままで周囲が自分を見るときの、なんとも言えない微妙な目付きの正体が理解できた。
彼らの目には、厭われているのも分からずに初恋に浮かれいい気になっている、気の毒で馬鹿な娘と映っていたに違いない。ただ、世継ぎを生むためだけに選ばれたのに、王妃面をする愚かな世間知らずの娘だと————
妃はこんな無慈悲な婚姻を強いた王家と両親を恨み、憎んだ。無知だった自分のいままでの振舞いを思い出しては、羞恥で心が千切れ、泣き叫ぶ毎日を送った。
生まれた子も、お前さえ生まれなければずっと夢みていられたのに、とあらぬ恨みとは分かっていても、憎たらしいだけで可愛いなどと思えなかった。王太子にそっくりなのも腹立たしさに拍車をかけた。
生まれた子は乳母に任せきりにして、妃は自室にずっと閉じ籠るようになった。外に出れば、馬鹿な自分を皆が嘲笑っている気がして、恐怖で部屋から一歩も出られなくなってしまったのだ。
そうした日々を送るようになって一年も経たないうちに、妃の妊娠が発覚した。
勿論、王太子の子ではなかった。
腹の子の相手は、妃が実家から連れてきていた護衛騎士の一人だった。妃を慰めているうちに懇ろになったらしい。よくある話とはいえ、王太子妃に手を出したのだから死罪は免れないところであったが、王太子も罪悪感があったのだろう、貴族の身分剥奪と財産を没収されての国外追放に留められた。
妃の方も、すぐさま秘密裏に王宮から連れ出され、病気療養という名目で実家に戻された。
その半年後にひっそりと王家の籍から抜かれ、妃の存在と懐妊は、誰も口にすることはなくなった————
こんな顛末を、十一歳くらいの頃に父である王から直接聞いた。
変に噂で耳に入れるよりも、きちんと話しておいた方が良いという判断であったらしいが、特に何も思うことはない——つまり、どうでもいいというのが正直な感想だった。
記憶にない母のことなど、気にしたことは一度もなかったからだ。
実のところ、シルヴェスターはずいぶん前に大方の情報を手に入れていた。
人一倍聡いシルヴェスターは、幼い頃より周囲にいる者たちから、自分に対して腫れ物に触るがごとき、ある種の脅えのようなものを感じ取っていた。
それはきっと、母の不貞を知れば傷つくのではないか、もしくは父王のように女性に興味を持てないのではないか、といった類のものだったのだろう。だからなのか、侍従は祖父と同じくらいの年代の者しかいないのに、侍女は妙齢の美しい者ばかりが揃えられていた。
最初は誰もが固く口を噤み、一切話してはくれなかった。
だが、シルヴェスターは己が成長し、誰もが美しいと認める容姿になると、その脅えの正体を探るべく動き始め、周囲にいる女性たちからいとも簡単に手に入れた。
シルヴェスターは自分の容姿の魅力を早くから熟知しており、それを利用することになんの躊躇もなかった。
例えば、寂し気に微笑みながら『お前にしか聞けないのだ』と囁くだけで、誰もが呆けたようにうっとりとしてシルヴェスターの美貌に釘付けになる。その後は、面白いように口が軽くなるのだ。
誰が一番正直にたくさんしゃべるか、などと心の中で賭けをして遊んだりしたほどだ。
そして一様に秘密を打ち明けた後には、シルヴェスターを一番理解し、愛しているのは、罰を恐れずここまで話した自分であると主張し、いつまでもお側に置いてくださいと懇願する。その後は、時々褒美を与えるだけで、盲目的なまでにシルヴェスターに奉仕するようになる。
シルヴェスターは、こういった自分の美貌に憑りつかれた者たちを常に身の回りに置き、うまく使うことも覚えていった。
母のことは、そういったことを覚えるきっかけになったと云う意味では有用だった、と思うだけだ。
父王にあまり顧みられず、母には生まれた途端に憎まれたシルヴェスター王子は、無償の愛というものに触れたことがない。
最初から与えられていたのは、美しい容姿に対する狂愛ともいえる崇拝、世継ぎの王子に対する打算的な愛のどちらかだった。
ただ愛を囁かれるだけでは、シルヴェスターは愛を実感できない。
愛を囁かれた後に相手を冷たく突き放し、どれだけ必死に愛を乞うてくるか、どれだけ執拗に追い縋ってくるかで、相手の愛を計っていた。
相手がシルヴェスターの愛を欲しがり、手に入れようと足掻き、もがき苦しむ様を見て、やっと“愛されている”と感じることができるのだ。
こうした行為を歪んでいるとか、倒錯していると批判する者は、周囲に誰ひとりいなかった。
むしろ、父王とは違い女性に興味があるのだと、次代は世継ぎの心配をしなくて済むと安堵されるばかりであった。
だが、誰もわかっていなかったのだ。
まだ、父王は男性だけとはいえ愛するということを知っていた。
しかし、シルヴェスターは自分の心から生じる愛という感情を未だ知らずにいた。
そればかりか、本当のところ他人から愛情を押し付けられることに辟易しており、ある意味そういった感情自体を馬鹿にしている節があった。
「母上とその子供はどうなったのです?」
アーカート王が王妃の件をシルヴェスターに語り終えた時、シルヴェスターはそんな質問をした。
生みの母と片親だけでも血の繋がった弟妹のことが心配で知りたいのだろうと、(自分のせいとはいえ)肉親との縁が薄い息子を不憫に思い、アーカート王は正直に話すことにした。
「元妃は、故郷の領地に近い隣国で名を変えて生まれた娘と共に平民となり、裕福な商人と再婚している」
「平民……娘……。そうですか。教えていただき、ありがとうございます」
無表情に礼を言うと、もう聞くことはないといった体でシルヴェスターは王の前を辞した。王は不可解といった表情を浮かべたが、特に何も言うことはなかった。
シルヴェスターが母とその子の安否を尋ねたのは、決して母を案じる気持ちから出たものではなかった。
単に、王位継承に問題が起こらないかをきちんと確認したかっただけだ。
心配していたのは、生まれた子供が王家の血筋だと言ってくること。
そう主張されれば時期的に否定できない上、否定する為に詳細を明かせば王家の醜聞になる。国を乱す要因になるなら、早々にその芽は潰しておかねばならない、と思っていた。
見も知らぬ、王家の血筋でもない者と継承争いになるなど、考えただけで面倒である。
だが、外国で平民となり、生まれたのが娘で、再婚までしているのであれば、変な考えを起こすことも、誰かに利用される可能性も低いだろう。恐らく再婚した商人は監視役なのだろうと察し、ひとまず安堵したのだった。
愛情の在り方に問題があろうとも、シルヴェスターは大国の世継ぎとして正しく育てられ、それに相応しい頭脳と思考を有していた。
母恋しで尋ねた訳ではない。冷徹に次代の王になるものとして、確認したのだ。
この歳にして、シルヴェスターはすでに王家の者としての自覚をもって生きていた。
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