22ー① アミーリア
「アミーリア! アミーリア、しっかりしてください!」
頬をピタピタと叩かれる感触で目が覚めた。
レイの顔が思ったより目の前にあってビクリとし、アミーリアはとっさに顔を背けた。
「ああ、よかった。急に倒れてびっくりしましたよ」
ほっとしたようにレイが息をついた。
そうだ。キアラが攫われたかもしれないと思ったら、急に目の前が暗くなって……
だんだんさっきの記憶が甦ってくると、いま不可抗力とはいえレイに抱き上げられていることに、いや、近くに居ることすら耐えられなかった。
手足が縛られているので、勢いをつけてゴロリと体を回転させレイの腕の中から逃れようとした。が、ちょっと肩を身動ぎさせただけで、後ろから抱き込まれて防がれた。
レイはさらに自分の腕をアミーリアの胸の前で交差させてしっかりと囲い込み、アミーリアの二の腕をさすり背中に密着してくると、首筋に唇を寄せて吸い付いてくる。
うにゃりとした感触がまるでなめくじが這っているようで、アミーリアは怖気と嫌悪感で悲鳴を抑えられなかった。
「いやぁっ! キアラッ、キアラ! ギディオン様ッ、助けてぇっ‼」
じたばたと縛られた手足を狂ったように動かした。なにかにぶつかって、ドサドサと物が落ちる音がしたが、逃れるために闇雲に暴れまくった。その腕にしたたか顔をぶたれて、たまらずレイがアミーリアから離れる。
「アミーリア! 落ち着いてください! 手足から血が……」
「うるさいッ! 近寄るな!」
アミーリアは威嚇する猫のように荒い息を吐き、じりじりと馬車の奥へと芋虫のように後退った。
「わかりました。アミーリア、お願いだから、興奮しないで……」
レイもまたそう言いながら、宥めるように両手を前で広げて、少し後退する。
外をちらりと見てから、「仕方ありません。宿場まで行きたかったけど、今日はここで野宿しましょう」とため息をつきながら言った。
御者席から飛び降りると、馬を荷車から外しどこかへ連れて行き、馬車の外で何かをしている気配が続いた。
その間、アミーリアは馬車奥に置いてある荷物の間に入り込んで縮こまり、警戒感丸出しで御者席の方へ睨みをきかせていたのだが……。
突然アミーリアの真後ろ、馬車の後ろが開いた。ぎょっとして振り向くと、馬車の外にレイが立っていた。
(荷馬車の出入口って、後ろだったの?)
アミーリアは、荷馬車なんて乗ったのは初めてだった。
「アミーリア、火が付きましたから、外へ出ませんか。足の拘束だけは外してあげます」
近づかれるのは嫌だったが、ここが何処なのか確認したかった。分からなくとも何か手掛かりがみつかるかもしれない。それに、足だけでも拘束が外れるならその方が良い。もしかしたら隙を見て逃げ出せるかもしれないし……と考えて、黙って睨みながらコクリと頷いた。
すると、腰に付けていた短剣をレイがすらりと抜いたので、アミーリアは反射的に「ひっ」と身を縮めた。
「縄を切るだけです」
レイは悲しげにアミーリアをみつめると、足首を縛っていた縄を短剣で切った。
「アミーリア……、怯えさせるつもりはなかったんです。ただ、貴女が愛しくて……」
(愛しいって理由でなんでも許されたら、ストーカーなんて言葉はナイのよッ!)
ギッとアミーリアはさらにきつく睨むだけで何も答えず、足首の状態を確かめた。さっき暴れたせいで縄が足首に食い込んで、確かに血が滲んでいた。少し痺れて痛いが、歩けないというほどではない。
「ごめんなさい。アミーリア」
レイは項垂れて、それでも馬車から降りる介添えの為に手を差し出した。
(なんなの。このアンバランスな感じ。狡猾かと思えば、こんな子供みたいに落ち込んで)
もしかして思っているよりも若いのかもしれない、とアミーリアはレイをちらりと盗み見た。
だが、だからと言ってレイに対する悪感情が変わる訳ではない。
この差し出された手を使うのだって、手は拘束されてるし、足は覚束ないし、ドレスの裾は長いし、踏み台が急だから、仕方がないのだ。別にちょっと可哀そうになったからでは、断じてない。
アミーリアが(渋々)手を借りると、レイは急にはしゃいで機嫌を取るように言った。
「そうだ! アミーリア。貴女が欲しがっていたパリュールはちゃんと揃えて持ってきていますよ! あとで見せますね」
(パリュール……?)
一瞬なんのことか分からず怪訝な顔をしてしまったが、以前宝石商レヤードとしてアミーリアに持ってきたファーニヴァルの秘宝——“世界の落し物”の首飾り——だと思い当たった。
アミーリアがおねだりした通り、レイが本来の三点セットとして揃えてきたらしい。
そのパリュールは、十中八九ファーニヴァル大公である父がゲートスケル皇国に売ったのだと、アミーリアは確信している。
ということは、やはりレイはゲートスケルの密偵なのだろうか?
いったい本当のところ、どこの密偵なのかと、アミーリアは考え込んだ。
荷馬車を止めた場所は、おそらく普段は馬を休める為の休憩所なのだろう。井戸と馬用の水飲み場、それに簡易な石組みのかまどがあるだけだ。
道路が整備されているところをみると、どこかの国へ繋がる街道なのは確かだが、周囲は背の高い木が立ち並んでいるだけで案内板も無く、ここが何処なのかはまったく見当がつかなかった。
こんなところで護衛もなしに野宿を決断するのだから、レイはもしかすると腕に自信があるのだろうか。
本来なら野宿をするような場所ではないはずだが、まだ陽は落ちてないとはいえ傾きはじめているので、陽が落ちる前に宿場まで辿り着けないと判断したのか。
もしくはアミーリアが突然倒れたので予定が狂ったとも考えられる。
(ここで時間を稼いでいれば、ファーニヴァルからの救助が来てくれるかも……)
アミーリアがそんなことを考えながらキョロキョロと周囲を注意深く見ていると、アミーリアの考えを読んだようにレイが言った。
「誰も来ませんよ。貴女を攫ったのは“ゲートスケルの者”というちょっとした情報と、ゲートスケル方面に囮となる馬車をいくつも仕掛けておきましたから。きっと全員そっちに向かっているはずです」
きれいな笑顔で自信満々にレイは語った。
(その口に馬糞でも突っ込んでやろうか)とアミーリアは不穏なことを考えながら、思っていたよりも用意周到なレイをギリギリと悔し気に睨み続けた。
レイを睨んでいたら、ふと彼の肩越しに土埃をあげて街道を走ってくる何かが小さく見え、アミーリアはじっと目を凝らした。
その小さな何かは、アミーリアが数秒凝視しただけの間で、単騎でやってくる騎士だと判別できる大きさになった。物凄いスピードだ。
アミーリアは瞬時に、助けてもらおうと身を翻して街道の方へ飛び出そうとしたが、レイの動きの方が格段に速かった。
振り向きもせずにアミーリアを左腕で抱え、アミーリアが抵抗して多少揉み合いにはなったものの、素早く荷馬車の影に連れ込まれる。
ガッチリ羽交い絞めされた上に口を押えられ、声も出せない状態でレイと一緒に身を潜めることになった。
(お願い、気付いて! ここで止まって!)
アミーリアにできるのは、もう祈ることだけだった。
蹄の音がだんだんと大きくなり、だいぶ近付いてきたのがわかる。レイも予想外だったのか、アミーリアを拘束している腕に力が入り、緊張しているのが伝わってくる。
と、その時、水飲み場にいた荷馬の頭へと、矢が一本過たずに突き刺さった。馬はしばらくふらふらとすると、横倒しにどうと転がった。
驚く間もなく、大きな蹄の音が荷馬車の手前で止まり、がしゃりと下馬する音。
そして、殷々と轟く声があたりに響いた。
「大人しく投降し、アミーリア様を解放しろ!」
その声に、アミーリアは激しく動揺した。
(まさか……、この声って……)
その声の主が、アミーリアとレイの隠れている方へと着実に向かってくる足音がする。
「早く出てこい!」
馬を殺され、アミーリアも連れている。レイはこのままやり過ごすのは無理だと覚悟を決めたのか、アミーリアを抱えたまま立ち上がった。
機敏な動きでレイはアミーリアの顎を左腕に挟んで持ち上げると、そのさらけ出された首筋に短剣をあてがった態勢で待ち構える。
アミーリアは喉を圧迫されて一瞬息が詰まった。さらに刃物を向けられた恐怖で呼吸は荒くなり、体がこわばってくる。
(落ち着け……落ち着け……。護身術の講習を思い出せ……)
咲の時に習ったことを思い出しながら、呼吸を整え冷静になろうと努めた。
少し落ち着いたところで、自身の首を挟んでいる腕のヒジの方へと少しずつ顎の位置をずらして、ヒジの曲がりにある隙間に入り込み呼吸を確保すると、拘束されている両手を持ち上げて、レイの手首をぐっと掴んだ。
その行動が、レイにはアミーリアが怯えてしがみついたとでも思ったのだろうか。アミーリアの耳に口を寄せて小さく囁いた。
「この場を逃れるために人質になって貰いますが、大丈夫。貴女は誰にも渡しませんから」
盛大な勘違いにまたもトリハダが立ったが、心を乱してチャンスを逃さないためにアミーリアは無心を貫く。
そうしているうちに、足音の主は慎重に荷馬車をまわり込み、着実に近付いて来ていた。
ジャリッと足を止める音がし、とうとう足音の主と対峙する。
(……やっぱり、ギディオン様……!)
首筋に短剣を突きつけられているアミーリアを目にして、ギディオンの眉間の皴が見たことも無い程に深まり、その顔は鬼神の如く、恐ろしいほどの怒気を発していた。手にはすでに大剣が握られている。
来てくれた、という嬉しさと、面倒を掛けてしまったという申し訳なさで、アミーリアの心は引き裂かれるように痛んだ。だが、すぐにいまはそんな感傷に浸っている場合ではないと、自分を戒める。
(私が人質になっているとギディオン様は手が出せない。でも、英雄の虎とか言われる程の騎士なんだから、私が少しでもレイから離れることが出来れば、きっとなんとかしてくれるはず!)
残念ながらアミーリアは、少しギディオンの異名を間違って覚えているようだ。
「アミーリア様を解放すれば、今回だけは見逃してやる。早くアミーリア様を放せ!」
ギディオンが大剣を構え、吠えるように言うのへ、レイは平然と挑発するように鼻で笑った。
「あんたの元に戻りたいなんて、アミーリアが思っているとでも?」
「……なに?」
「おめでたいな、あんた。無理矢理結婚させられた相手からやっと逃げられたのに、アミーリアが戻りたいと本気で思っているのかって、聞いてるんだよ!」
「そんなこと……あ、当たり前だ」
ギディオンの躊躇いを見抜いたように、レイはことさら粘つくような甘い声で言った。
「アミーリアはねぇ、初恋の人に似ているこの僕の方が好きだって、ずうっと一緒に居たいって言ってくれたよ」
(ちょっと、なに勝手なこと言ってるの⁉)
アミーリアがぎょっとしていることなど気にせず、レイはくすりと笑うと、その証だというようにアミーリアの頬にべろりと舌を這わせた。
ギディオンとアミーリアは衝撃で固まった。その隙を見逃さずにレイはさらに続ける。
「だってさ、二人はお互いを仇同士と思って本当は憎み合っているのに、夫婦でいるなんて不幸じゃないか。アミーリアだって怨敵と暮らすより、僕といるほうが幸せに決まっている」
「ば、馬鹿な、ことを」
否定はしても、ギディオンの言葉に力がなかった。
(ギディオン様! どうしたの! なに動揺しているの!)
レイはギディオンに揺さぶりをかけることで、この場を逃れようという作戦らしい。そしてどうしたことかギディオンがその策に嵌まりそうになっていることに、アミーリアは内心慌てた。
「アミーリアは、ファーニヴァル大公が王国を裏切ってゲートスケル皇国に付こうとしたから、大公は殺害されたと教えられたでしょう?」
教えられた? と、アミーリアは怪訝に思った。
実際に父の大公と兄の大公子は、その通りのことをしたはずだ。だからこそ心ある家臣たちには見捨てられ、レティス城ももぬけの殻となっていたのだから。
「やめろ!」
それなのに、ギディオンはやけに焦った顔をしていた。
「ねぇ、アミーリア。知っていますか? その裏切りはアーカート王家の陰謀だったんですよ。ファーニヴァルが欲しくて執拗に動き回っていたのは、ゲートスケルでも僕でもありません。アーカート王家とクルサード侯爵です。アーカート王は、ファーニヴァル大公がずいぶん前からゲートスケル皇国にも通じて、王国と皇国を天秤にかけていたことをとっくに知っていたんですよ。だから先代のクルサード侯爵は、表向きはファーニヴァル公国の援軍に駆け付けたと見せかけて、実はアーカート王の密命により落城寸前まで戦力を投入するのを調整していたんです。そうやって、わざとファーニヴァル公国を苦しめ、追い詰めて、大公がアーカート王国を見限って裏切るように仕向けたんです。誰からも非難されずファーニヴァルを手に入れる為にね!」
「……やめろ……!」
ギディオンの苦悶の表情から、どうやらある程度は事実らしいことがアミーリアにも伺えた。
「ほーら、あんなに狼狽えて。アミーリアには知られたくなかったですか? 笑えるなぁ。ゲートスケル皇国を散々悪者に仕立て上げていたんでしょうけれど、ファーニヴァルを食いものにしたかったのは、本当はアーカート王国じゃないんですか? それにね、先代クルサード侯爵の悪辣さはこれだけに留まらないんですよ」
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