9 キアラ
「ママ……? どうかしたのぼーっとして」
「あ、ううん。なんでもないわ。ちょっとムナクソな記憶がよみがえってきただけ」
ソレなんでもなくないよね? とキアラは思ったが、あまりにもアミーリアが荒んだ表情をしているので追求するのは控えた。
「ついでに思い出したわ。王太子妃選定のあたりから、咲の記憶が少しずつはっきりしてきたのよ。でも、ずっと抑圧されて作り込まれた“アミーリア”という殻が硬すぎて、ちょっとやそっとでは壊れなかった。咲の記憶と時々頭の中で響く自分の本音はずっと無視されて、その殻の中に留まっていたの」
「えー。じゃあ、やっぱりママは私が生まれるまで“有馬咲”であるという自覚はほとんどなかったのね」
「うーん。それがね、自覚はなかったけど、記憶の方はちょっと違っていて八割方は思い出していたというか……。“作り込まれたアミーリア”と云うかったい殻が壊れる事態が、実はそれよりも前にあったのよ……」
何故か照れたようにもじもじして、顔をかぁっと真っ赤に染めた。
こんなママは、前世今世合わせても初めて見たので、キアラは驚きで目を瞠った。
「その、ね。紛争終結の宴でね……、初めてまともに見た、のよね……」
なんだかごにょごにょ言ってるが、それって小説『風は虎に従う』前日譚にも出てくる、アミーリアが王子に婚約破棄されて、ギディオンとの婚約が発表された、問題の“宴”だよね?
アミーリアにとっては、そんなテレ要素など欠片もない宴だったと思うんですけど……。
「? なにを見たの?」
「……ぎ、ギディオン様を……」
「パパ? パパがどうかした?」
「め、めっちゃカッコ良かったんだってー‼ もうもう、ママひと目見ただけで、脳みそ焼き切れるんじゃないかと思ったくらい! 会場に遅れて入って来たギディオン様に誰もが道を譲ってね、花道になったところを悠然とマントをひらめかせて歩いてきて……。上質で豪奢なチュニックでも彼の素晴らしい筋肉は隠せてなかった……! 足を運ぶたびに、布の下にある弾けんばかりの盛り上がった筋肉が躍動するのが判るのッ。そして、あの鋭くも凛々しい眼差しで、私を……っきゃー‼」
奇声を上げて悶えるアミーリアを前にして、キアラの目から光が消えた。
(うん。わかってた。わかってたよ。ママが前世から無類の筋肉好きだってコトはね。だから、絶対にパパが好みドンピシャだってコトもね、わかってた!)
やっぱりこの二人、両片思いを拗らせてたな……と、キアラは改めて思った。
「じゃあ、ママはパパに、その宴でひとめ惚れしたってことだ」
「え? ……ぅん。そ、そうだ、ね……。だって、彼ほど素敵な男性になんて今まで出会ったことなかったもの。きっと王国でも一番人気があったに違いないわッ!」
(いや。それはナイ)
力強く拳を握って主張するアミーリアには悪いが、キアラは心の中で全否定した。
残念ながら、小説『風は虎に従う』に書いてあったのだ。
ゲートスケル皇国の台頭が始まるまで、戦のない時代がしばらく続いたせいか、昨今はギディオンのようなコワモテの逞しい男性はどちらかというと疎まれ、シルヴェスター王子みたいな中性的な美形の男性が好まれているのだ、と。
むしろギディオンは畏怖され、何を考えているか分からない、いつも怒っているみたいで怖いと、貴族女性にはかなり不評だったと書かれていたハズだ。
“宴の会場に入ってきた時に誰もが道を譲った”って、ソレもしかして周りの人に怖がられたんじゃないの? とキアラは睨んだ。
だがアミーリアにとってギディオンは最高スペックの男性なのだろう。耳まで真っ赤にして、両手で顔を覆って照れている。
こんなにアミーリアの気持ちはダダ洩れで分かりやすいのに、どうして誤解が生じるのか。
キアラが生まれる前にナニゴトかが起こったのだろうか?
(順を追って聞いてくしかないか)
「で、ママはその宴でパパと出会って、ちゃんとお話したの?」
「うっ……。ううん。それがね、ギディオン様を見た途端に、私失神しちゃって……」
「へっ? 失神? 顔見てぶっ倒れたってコト⁉ なんで? それじゃパパのこと嫌がってるみたいじゃん⁉」
なんてことだ……!
ナニゴトどころか、初っ端からオオゴトが起こっていた……!
「キラちゃん、違うの! 聞いて! あの日ママね、ギディオン様を初めて間近で見た衝撃で、“アミーリアの殻”が壊れたの! 婚約破棄されている最中から、なんか変な声が頭の中に響くなーとは思っていたのよ。でもギディオン様を見た瞬間、もうね、頭の中でグワッシャーンて言うの? バリバリバリィって言うの? ものすっごい音がしてね、“咲”の記憶と感情が表に出てきたの!」
語彙はひっどいことになっているが、言わんとしていることは大方把握できた。
本当にママは恋愛面に関してポンコツだ。
頭はスッゴクいいはずなのに、恋愛経験が皆無なので、ことパパが絡むと途端に馬鹿になる。
きっと、こう言いたいのだ。
幼い頃からアミーリアは大公と大公子に、シルヴェスター王子に好意を持たなくてはならないと執拗に教え込まれていた。恐らく本人も思い込みでシルヴェスター王子のことが好きだと、そう思っていたのかもしれない。
だが、本当の気持ちを偽って作られたアミーリアの心の殻は、シルヴェスター王子との婚約によって亀裂ができ始めていた。
たぶんシルヴェスター王子のことを本当は嫌いだったと思われる。(ママの好みの対極っぽいし)
それが、咲——本来の人格——の好みドンピシャ男性〈ギディオン〉が目の前に現れて恋に落ちたことで、咲としての感情が大きく揺すぶられ、作られた心の殻——疑似人格アミーリア——は粉々に崩れ去った……。
「……うん。まぁ、大体わかったよ」
「ほんとに~?」
さすがキラちゃんスゴーイ、と目をきらきらさせている。
「それで、その倒れた後は? ちゃんとパパとお話できたの?」
「うっ……。ううん。それがね……」
あれ、このくだりさっきもなかったか? 嫌な予感しかしないのだが。
「ママね、前世の記憶をいっぱい思い出したせいか、どっちが現実かよくわかんなくなって数日ぼんやりしてて……。ずっと夢の中にいるみたいな心持ちだったの。気が付いたら結婚式あげて、初夜も終わった後だった……」
「…………‼」
いや、まだ何も言うまい。耐えろ! 私! 最後までちゃんと聞かなくては!
「う、うん。両親の初夜のことなんて、あんまり聞きたくないけど、敢えて聞くね。その時に、何も変なことはしなかったよね⁉ 起きなかったよね⁉」
起きなかったといってくれ! と、願うように聞いた。
思わずキアラの目はクワッと大きくなった。ちょっと血走っていたかもしれない。
「…………たぶん……?」
ちらっと上目遣いになるところが、コワいくらいにアヤシイ。
“たぶん”も、最後の“?”も全部全部アヤシイ。
「……なにがあった」
ちょっとばかり、やさぐれた言い方になったかもしれない。
「え……」
「なにがあった」
再びキアラの目はクワッと大きくなった。今度こそ完全に血走っていたかもしれない。
「……ちょっと泣いちゃっただけ、よ」
少し唇を突き出して、拗ねたように言うアミーリアがなんだか憎たらしくなってきた。
「泣いたって、なんで‼」
「だって、だってね、あんなに完璧で素敵な神の如き肉体がハッと気づいたら目の前に、それも手の届く距離にあったのよ! もう、感動で滂沱の涙が流れちゃって……」
だんだん興奮して頬を紅く染めるアミーリアに反し、キアラの顔はみるみる青白く血の気がなくなった。
「その後、パパはどうしたの……?」
「え? ……『すまない』と言って部屋から出て行って、御存知の通りそれからほとんど顔を合わせていません……」
だんだんとアミーリアの声は尻すぼみに小さくなっていく。
キアラはしばらくぶるぶると堪えるように震えていたが、耐えかねてとうとう口火を切った。
「ママッ‼ もう、もうね、全てが有り得ないんですけど‼ 記憶を思い出したタイミングが悪かったのは百歩譲って仕方がないとしても! さすがに結婚式も、しょ、初夜さえウロ覚えでボンヤリして、そのうえ最後に泣くなんて、それはナイでしょ!」
「覚えてないわけじゃないわ。ぼうっとしててちょっと口数が少なかったかもしれないけど、泣いたのだって嫌で泣いたんじゃ……ないし……」
キアラの烈火の如き怒りに押されて、アミーリアの口答えは弱々しい。
「ねぇ、パパの気持ちを考えてもみて! 宴で顔を合わせた途端倒れた婚約者が、結婚式でも無表情で口数が少ない、初夜の後に滂沱の涙を流すなんて、『あなたなんて嫌い』って思われてるとパパが勘違いするに決まってるじゃん‼ 涙の意味なんてパパ分かんないよ!」
しかも『すまない』って謝って初夜の床から出て行くなんて、ママの涙を見て『ひどいことをしてしまった』とか思って後悔したのかも。パパが自分のことを強姦魔だと責めていたらどうしよう⁉ きっとパパ滅茶苦茶傷ついてるよ……!
しかし、アミーリアはキアラの怒りに、スッと表情を硬くした。
「……違うわよ。キラちゃん、嫌われているのはママの方よ」
「えっ?」
「キラちゃんに変な罪の意識を持って欲しくないから詳細は言えないけれど、ファーニヴァル大公家……私の父と兄が、クルサード侯爵家に対して取り返しのつかないことをしたの。だから、ママはギディオンに嫌われて……いえ憎まれて当然で、好かれるなんてそれこそ有り得ないの。『すまない』もね、きっと『やっぱり好きになれない。すまない』ってことだと思うわ」
「そんな……。違うよ。ちゃんとパパに聞いてみたの?」
「わかりきっていることを、わざわざ確認するはずないじゃない。……ママだって、傷つきたくないもの」
泣きそうな顔で微笑むアミーリアに、キアラはこれ以上何も言えなくなってしまった。
お互い一歩踏み出せば、誤解していたと分かり合えるはずなのに、その一歩をお互いが躊躇し合っている。もどかしい。でも、それが分かっていてどうにもできない自分自身が一番もどかしかった。
たとえいま、キアラが『お互い好き同士なんだよ』と言ったとしても、アミーリアもギディオンも頑なに信じず、否定するだけだろう。
しゅんとしてしまったキアラの頭をアミーリアはポンポンと撫で、気持ちを切り替えるように言った。
「先にママの聞きたいことを聞いちゃったから、キラちゃんの『言いたいこと』をまだ聞いてなかったよね。ほら、話して話して!」
そうだった、とキアラはハッとした。
アミーリアとギディオンの二人が仲良くなれば、“前日譚”の内容からかなり逸れることになって安全だと思っていたが、すぐにどうにかするのは難しそうな状況だ。
宝石商レヤードの誘惑は回避できたかもしれないが、依然アミーリアとギディオンの不仲は改善されていない。となるとレヤードとは別件で、小説通りに二人が死亡する方向へ話が流れる可能性があるかもしれない。
アミーリアには、ここが小説の世界だと云うことやそれがどういう結末を迎えるのかをきちんと教えて、危機回避に自ら務めてもらった方がいいのだろうと思う。でも、自分が近いうちに死亡すると書かれているなどショックを受けるかもしれない……。そんな心配が過ぎる。
いいや、ママがそんなヤワなはずないではないか、とキアラはすぐに頭を切り替えて、打ち明けることを決めた。
だがキアラは、後でひどく悔やむことになるのだ。二人の誤解をここでしっかり解いておけば、これから起きる事件やさらなるすれ違いの大半を回避できたかもしれないのに————と。
ありがとうございました。
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