換気扇の音 ー春夏秋冬ー
この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。
換気扇の紐を引っ張ると、ごおぉっ、という音が消えた。そして、辺りは静かになった。
その静けさは、日常においては、当たり前の静かさであるはずだった。しかし、その突然の静寂は、私にとって、意表を突く程に、異常な状況であり、その為、私は、すぐに紐を引っ張り、再び、換気扇を始動させた。
辺りは、また、ごおぉっ、という得体の知れない音に溢れ還った。
それ以来、私は、もう一度、紐を引っ張り、換気扇を止めることができなくなった。
その為、常に、私の家は、ごおぉっ、という換気扇の音が鳴り響き、辺りに溢れている状態となっている。
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「ごぼっ…。」
河童のように冷たい髪である。今しがた、川の中から、引き揚げられた子どもは、生温かい水を吐き出した。
子どもは、幼児である。未だ義務教育に就学してはいないであろう。彼の傍らには、父母と兄がいた。彼を助け出したのは、その内の誰かは知れぬ。しかし、その様子は、家族から彼が愛されていることをよく示している。
一命を取り留めた、かの子どもは、将来、この日の出来事を覚えているのであろうか。思い返すことがあるのであろうか。
そして、その時、その出来事や、その命に、意味という付加価値を認め得る可能性があるのであろうか。
しかし、そのような心配は杞憂に過ぎないであろう。事象や命に、本来、意味はない。意味とは創造物である。事象や命に、意味など無くとも、そこに、それらが存在しているということ自体に価値があると言える…。
11-20
無明の館
雨が降る間際のことだった。それは、春の雨の匂いがするか、どうかという瀬戸際のことだった。
「※※※!!」
断末魔の叫びが聞こえた。そして、その後に、雨の土臭い匂いがして、ゆっくりと、弱く、細やかな、春の雨が降って来た。
人は、そこを『無明の館』と呼ぶ。無明。……無知。その行き着く先は、……死。そのような、たわいのない理由から名付けられた名称なのかもしれなかった。
第一段
生き憑く人々は、死を迎える。死に向かう。死に行く人々は、無明へ至る。生命流転の生業が、生々流転と繰り返される。そのような日常が、この世界ではごく普通に、当たり前の事として起こり、その営みの上で、生まれた者共も、また、その事を当たり前の生業として、当たり前に普通に振る舞い振る舞われ、振る舞いまわれ振る舞われまれて生き。
それでも、振る舞われまいとして、イキる一人の者共が、また一人と、『無明の館』を中心とした、同心円状の世界へと集い、群がり集い、また離散していった。
第二段
その男の名前は、無明斎と言った。正式名称は、斎藤出羽守惟孝通称無無明尽斎。分かりやすく言うと、斎藤出羽守惟孝、通称、無無明尽斎。という。然れども、この名称の、斎藤も出羽守も惟孝も、彼の本当の姓名でも官職名でもなく、無無明尽斎などという俗称と同じく、彼が勝手に名乗り、着けたものだった。
彼=無明斎の本貫も出生地も不明である。彼自身もそれらを知らない。故に、無明斎という。然れども、その経歴については、多少の光明がある。
即ち、彼は剣を持っていた。己という剣を持っていた。物質的にも精神的にも。しかし、そのような区別は、今は不要なのかもしれない。
今、この時点に於いて、この時点の無明斎に於いては、その二つは、既に同化して、ひとつになっていた。
彼にとっては、物質的な剣も精神的な剣も同じ、物質的な剣が精神的な剣に、精神的な剣が物質的な剣となっている。そして、また、彼=無明斎、正式名称、斎藤出羽守惟孝通称無無明尽斎、そのものも剣と同化しかかっている所だった。即ち、
斎藤出羽守惟孝通称無無明尽斎=無明斎=彼=剣
という構図が成り立とうとしていたし、もう少し、あと少しで、成り立つという所に、彼は、この『無明の館』を取り巻く世界に顕現されたのだった。
第三段
「用がなかんなら、早々に立ち去るのがいいずい。」
村の者の言葉には棘がある。それが、来訪者に対する不審の表れなのか、はたまた、発言者自身の不安の表れなのかは判別が付きづらい。
能面のようなその面は、その者の真顔その物なのだろうが、いつも、その顔を着けていない者の側からすれば、
「あの不気味な表情は何を考えているのか分からん。きっと何かを企んでいるに相違ない。そうとは言うまでも、その面の内の本心は、世の中を憎み嫌い、世の中の人をも嫌い憎む心が宿っている事なのだろう。可哀想だが面倒臭い。きっと関わるのは止めておこう。」
と思わざるにはいられない不逞の表情を示していた。
失敬した。上記の描写は、村人ではなく、無明斎の顔についての描写である。
それ故、上記の事柄に留意すると、村人の棘のある言葉の真意は、恐らく前者。つまり、来訪者=無明斎、に対する不審感からの表現表出方法なのだろう。
それにも関わらず、村人は無明斎の身を案じて、早々な避難退出の提案を述べたのである。その事からも、この村人は悪人ではなく、お人好しの善人である事が分かった。
さて、この無明斎。善人の村人の善意ある忠告も聞かず無視して、先を急いだ。その向かう先は、今、彼がいる麓の村から山上へと伸びる獣道と見紛うまでの登山道だった。
その頂上には、『無明の館』がある。そのような彼=無明斎の後ろ姿を、少しだけ立ち止まって見ていた件の村人は、ふと、その男の事に無関心になり、忙殺される日々の日常の中で起こり過ぎる生活という、当たり前の生命活動の内に、その対象としての存在があった事を消し、家に帰る頃には、記憶の空白地帯へと完全に、そのような出来事があったという痕跡すらも消してしまう事だろう。そして、彼=村人の歴史からも言葉からも、二度と、『その男』の存在の痕跡は現れず、やがて時を終える事なのだろう。
第四段
「此れより先の道。往くべからず。世界の実。世界の真実。真の理。在るべき姿。其れ等、知らむと欲せざる者共。行くべからず。進むべからず。」
登山道の入口には、かような立札が架かっていた。然れど、無明斎は、それには構わず歩を進めた。
恐らく、その立札は、麓の村人達が架けた物だと思った。それは最後の善意だったのかも知れない。しかし、無明斎にとっては、それは誘惑であり、その文言は蠱惑と反抗的慫慂の表れだった。
第五段
突然の濃霧。
「山頂へ至るにはただ一つの打ちのみぞ必須なれ。」
それは、視覚なのか、聴覚なのか、はたまた、それ以外の何かなのか。無明斎は、ただそれを覚った。どの感覚器官に拠るのかは分からない。脳なのかも知れない。ただ、そうであると、初めから解っていたかの如くの悟りだった。
学習した。さとったと学習した。
それが一番もっともらしい言い訳だった。
濃霧は続く。山上まで続く。辺りは見えない。目も見えない。匂いはせずとも、音も聞こえず。味もしない。いつの間にか味覚も無くなっていたようだった。そして、皮膚の感覚も消えた。己の体性感覚も消えた。やがて、思考も消えた。最後に己という存在も消えた。
然れど、濃霧は続いていた。それは、
無。の内の無。濃い無だった。
ぶーん。
ブーン。
ぶー。ブー。ウー。ヴー。ヴー。ヴー。
ブーン。
ぶーん。
……。
……。
……。
第六段
「おはよう。」
最初に私が聞いた言葉。その言葉を発した者。それは母。
「おはよう。」
毎朝。その者は、私に問い掛けた。私に投げ掛けたその言葉は、私は問い掛けだと感じた。
「おはよう。今日も元気だね。」
母の声は温かく、その伝わる感情は艶めかしい。それを、皆は『愛情』と呼ぶのかもしれない。
私は、その母の声を聞くと、すぐに眠くなる。そして、すぐに眠る。
居心地の良い夢の中で、私は、母を呼んだ。そして、母に触れた。母の愛に触れた。母も私に触れた。
第七段
母は私を認識し、私は母を認識した。私は母の愛情を受け入れ。母も私を受け入れた。
21-30 愛
第九段 剣。剣。剣。剣……。剣……。剣……。
「剣が欲しい。」
無明斎の求める答えだった。それは剣という名の己だった。己という名の剣だった。
それは何でもよかった。槍でも、棒でも、無手でも。何でも。剣という内容であれば、
「鉄砲でも良い。何でも良い。なんでもいい。寄越せ。早くよこせ。俺の物。俺の者。俺を。何者でもいい。俺が俺でなくてもいい。俺で無くなっても良い。とにかく、くれ。くれ。くれ。くれ。くれくれくれくれくれくれくれ。下さい。なにかをください。何かを私に。私になにかを。私という何者かを。何者でもない私を。どうか下さい。どうか、どうか、どうか、私が私でなくなる前に。『私』という『私』を下さい。私を。私だけのなにかを。『私』だけの『私』という貴く、尊大で、賢く、皆に敬われ、慕われ、それでも、私という私でいられる、私という唯一無二の『私』を下さい!!!!!!!!!!!!!!!!、。………。」
ー阿鼻叫喚ー
求めるものは得られない。それが、私のジンクスである。だから、私は求めない。
求めないふりをする。
最初から欲しくないふりをする。欲しくなかったふりをする。そして、得たものが私。求めない私であった。
私は私に出会った。
私は私という『もの』を求めない私になった。
私は私のふりをする。
誰かが私のふりをしている。
「一体、私は誰?」
「そういうあなたは誰?」
「私?」
「そう。」
「私は私だよ。」
「本当?」
「うん。うそじゃない。」
「本当に?」
「うん。」
「うそつき。」
第十段
今、無明斎が居る所は、上も下も分からない所にいる。上からも見えず、下からも見えず。どこにいる訳でもない。どこにもいない。それが適切な言い回しのように聞こえる。いないも同然なのだ。そう、そもそも、そのような人物はいないのだから。
……。
誰の目にも止まらず。認識されず。それは、何と心地良い所なのだろう。この世の快楽。悦楽。快楽と悦楽のみの世界。夢妄想。他人はそれを夢だとか、妄想だとか言うのかもしれない。そして、それが夢だとか妄想だとか言われる事もなくなったその瞬間こそ。
私は本当の(真の)私になるのである。
「うそつき。」
ー剣が煌めいたー
「う、……っっ、うふっお、げぶあ……。っがば、ごは……。」
「※※!!」
子どもは息を吹き返したようであった。
子どもの名を呼ぶ母の声が聞こえた。
「※※。」
その母親の姿は、心底、本当に、その子どものことを、よく心配しているのが分かった。見ていて、とても、素直に、そのような気持ちを感じたし、そうなのだろうな。と普通に思わせられるほどに、味気ない、当たり前の、俗物めいた、普通の、私の母の姿であった。
31-*
今しがた、私は誕生日を迎えた。それは**回目の誕生日である。
私は、私があと何年、生きるのであろうかと思う。あと何回、桜の花を見ることができるのであろうかと思う。あと何回、大晦日と正月を過ごすことになるのであろうかと思う。
……。
青年期は、毎日のように、早く死にたいと思っていた。それが、何故にか、それから、はや**年の歳月が経てしまった。そう思うと、多少なりとも感慨深いものではある。
今、私が、ここに立っているのは、何ものでもない。本当に、何ものでもない理由からである。何ものでもない理由から、何ものでもないものが、ここにいる。天と地と人の間に。宇宙のただ一点に。立っている。
零次元。一次元。二次元。三次元。四次元。五次元。六次元。……。
年を重ねる如く、歳月を重ねる如く、私は、私という存在から離れて行くことであろう。時に及んでは、当に勉励すべし。
……。
まさに、歳月は人を待たずということである。
この次元世界の法則では、エントロピーは増大の一途を辿り、元に戻ることはない。一時的に、体内に溜め込んだエネルギーも、いずれは吐き出され、無限のエントロピーと共に無形に至る。
そして、私という、情報も、痕跡も、跡形も、塵も、芥も、無限と変わり、さらに無窮の世界へと旅立つのであろうかと、私は思うのである。
そう、それは、すなわち、私の家の換気扇の音が止まる瞬間なのである。
第八段
おまえはどこで間違えた。お前はどこで間違えた。最初から間違えていた。始めから間違えだった。お前を産んだのが間違えだった。おまえの存在が間違いなのだ。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
何処かから、そのような声が聞こえた気がした。きっと、空耳であろう。……。
そう、それは、いつも私の頭の中に響き渡る音と、同じ類の現象なのであろう……。