part13 喜目良商店街の相棒
鰐淵には、一つだけ秘密があった。
「どんどん増えて行きますねぇ……。これでは花火が見えないのでは?」
「何を悠長な……! あなたの願い事の破棄が遅かったから、こうなったのでしょう!」
「は? 違いますよ。見て下さい。破棄した後なのに、今もどんどん数が増えています。つまりこれは、何か別の理由があって召喚されているのでしょう」
「別の理由……?」
「……」
鰐淵は声を出さない。鰐淵は、その理由に心当たりがあった。しかしそれを言う訳には行かない。この事だけは、秘密のまま、見ないまま、触れないままにしておきたい。
「……理由なんか考えたって仕方ねぇだろ。あいつら全員ブッ飛ばして、魔界に送り返してやれば解決だ」
「おや? 鰐淵さんたら、シスターわんわんみたいな事を言いますね」
「茶化すな。この街を守る。今はそれだけで良い。理由なんか後回しだ。まずは全員で、あいつらを何とかしようぜ」
鰐淵は、誰も理由を詮索しないよう願いつつ肩を回して準備運動。
「鰐淵さん……! あなたにも正義の心があったのですね! わかりました。共に戦いましょう!」
「あぁ……。戦おう! この街を守ろうぜ!」
蛇川は勘の良い奴だが、まだ気づいていない様だ。しかし本格的に悪魔が出現する理由を考えた場合、真実に行きつく可能性がある。それだけは絶対に避けねばならない。
そう。魔界への門が生じ、空を埋め尽くす程の悪魔が現れ続ける理由など一つしかないのだ。
鰐淵は、まだ自分だけ願い事を破棄していない。
「俺たちの街には、指一本触れさせねぇ!」
と威勢よく言いつつも、その原因が自分である事はとっくに理解している。
コーヒーをおいしく淹れられるようになる。たったそれだけの願いが、悪魔の群れを呼ぶ程の代償を伴うなど絶対に認めたくなかったが、事実として悪魔の数は増えている。それはまるで自分のコーヒーが、街が崩壊する程クソマズいコーヒーだと言われているようだった。
「おやおや? いつになくやる気ですね」
鰐淵の顔を覗き込むように、蛇川が言う。
「しかし、確かに私もこの街は好きです。みすみす目の前で壊されて、尻尾巻いて逃げるなど面白くないのは認めます」
「蛇川さん、あなた……」
「……何ですか? 勘違いしないで下さい。あなたとお友達になった訳でも、誰かのために戦うのでもありませんよ」
「えぇ。しかし、だとしても。あなたが味方でいる事がとても心強い」
「そうだな。俺もそう思う。ありがとうな蛇川」
蛇川はやる気になっている。鰐淵は自分の不自然な言動に追及がなかった事に安堵した。
「では、まいんちゃんは避難誘導を。虎落さんや黄森さんあたりも戦力にしたいので、暇そうだったら呼んできて下さい。地上決戦では強力な味方になります」
「あいよ! 任せて!」
蛇川が告げると、針澄は頷いて駆け出した。トラックの上から跳躍すると、豪快に着地。
「そっちは任せたよ!」
そして手を振ってから、親指を立ててから走り出す。
「喧嘩は数じゃない! あんた達に、この街の全部を託した!」
その姿が見えなくなるまで、犬飼と蛇川はその拳を握りしめたまま何も言わない。鰐淵は、秘密裏のまま悪魔を殲滅できれば、このまま丸く収まるはずだと決意を固め直した。
「さて。あちらさんはどうやら、お空の上にいるようです。どなたか狙撃銃やミサイルなど持ってはいませんか? それとも、石でも投げてみます?」
「魔女の箒で飛ぶというのは?」
「やった事はありませんが、挑戦してみます。用意するので、シスターわんわん一人でビルからダイブして下さい」
「石の代わりにあなたを投げても構いませんが?」
「蛮族の方はユーモアのセンスもこれです。鰐淵さんはどう思いますか?」
鰐淵は二人の会話を聞いていなかった。自身に残存するカロリーを計算し、全力戦闘がどれほど続くかを考えていたのだ。
飛行能力を有するほど悪魔化を進めた場合、数分で餓死しかねない。例え生き残っても、疲労で指一本動かないだろう。では腕力を強化し、蛇川の言うように投石でも試みるべきか。悪くない手だが、あの数にどれほどの意味があるだろう。
「悪魔を前にして手が届かないのは口惜しいものの……。地上に攻撃してくるまで待ちましょう。その上で、迎撃します」
「それしかありませんね。あなたと意見が合うのは不愉快ですが、今は共闘中です」
蛇川と犬飼の意見が合致しつつあったが、鰐淵は溜息を一つだけ吐き出してから蛇川の前に立った。
「何ですか? 土壇場になって私に告白してもダメですよ。空気に流される女ではありません」
「アレをやってくれ」
蛇川はふざけた顔のまま、僅かに息を飲んだ。
「……本気ですか? そうまでして、この街を守るんですか?」
「あぁ。アレなら、こっちから悪魔に仕掛けられる」
「死ぬ気ですか?」
「死なないためにだよ」
鰐淵は覚悟を決めていた。長年の夢だった、喫茶店のイケてるバリスタ。おいしいコーヒーには常連客が並び、遠方から噂を聞きつけた客がやって来る。その夢に、あとほんの少しで手が届くのだ。
二度とクソまずい泥水だの、ドブから汲んできただの言わせない。そのために、ここで戦うのだ。一歩も退く訳にはいかない。
「……わかりました。ただし、危ない時は必ず帰ってきて下さい」
「……わかった」
鰐淵と蛇川は互いに頷くが、犬飼には話が見えない。思わず訊ねるが、蛇川に制止される。
「言わずとも、見ればわかります。鰐淵さん、文字通りの命懸けになりますが、始めますよ」
「おう。やってやる。あんな名無しのザコ悪魔どもに、俺のコーヒー……いやいや、俺たちの街を壊されてたまるか」
蛇川は深く深呼吸すると、胸元から六芒星のペンダントを取り出して掲げる。そのペンダントは、もう何年も前に鰐淵が渡した物だ。
十五歳の誕生日に現れた悪魔と一体化して以来、この身が人間なのか悪魔なのか、鰐淵は自分でも区別がついていない。ふざけた修行の末に力をコントロールできるようになり、それからはとりあえず人間だと思っているが、蛇川に渡したペンダントはその時の副産物だ。
鰐淵が肉体に取り入れたのは、悪魔の力だけである。残った悪魔の魂はペンダントの形にして残したのだ。
何故そんな物を蛇川に持たせているかはさておき、それがあれば鰐淵は悪魔として完成に至る。
「我、契約を以て願う! 我が言の葉に応え、顕現せよ!」
鰐淵は足元に魔法陣が現出し、発光するのを眺める。
「我が血を以て願い、我が魂を以て命ずる!」
蛇川が行っているのは、悪魔への願い事だ。願われた悪魔は、その願いに縛られ、願いを叶えるだけの能力を得る。蛇川は、その悪魔と視線を交わすと、願った。
「顕現せし狂乱の悪魔ワニブチアキラ! この街を、みんなを守って下さい!」
そして、その悪魔は契約する。代償は、特に求めない。
「承諾する。この力の全ては、その願いのために」
ただそのやり取りだけで、鰐淵は自身の体に力が漲るのを感じた。灼熱の鼓動が、腹の底から湧き上がってくる。
「鰐淵さん……。気を付けて下さい。知っていると思いますが、やりすぎるとヒトに戻れなくなります。悪魔になったあなたの面倒なんて見ませんからね」
「あぁ」
鰐淵は手を開閉させると、全身を悪魔化した。
願いを叶える。悪魔として契約を交わした鰐淵には、カロリーや疲労による制限がなかった。どこまでも能力を向上させる事ができる。
「人の欲望と願いは悪魔の力の源です。今の鰐淵さんは、私と合わせて二人分。人の願いを背負っていないザコ悪魔など、敵ではありません」
巨大な漆黒の翼を生成し、鰐淵は上空を睨んだ。
「鰐淵さん。今だけは、あなたに主の加護を祈ります」
「私は祈りませんが、あなたをここで待っていますよ」
最後に二人に目をやり、鰐淵は頷いた。
「ありがとう。行ってくる」
たわめた脚を解放すると、それだけで鰐淵は空高く舞い上がった。空中で翼を開くと、手足の全てに力を込める。めきめきと肉体の変質する音は、しかし心地良い感覚すらある。
頭部に二本の角と、長く伸びた手足。節くれだった指先に、闇に光る眼光。漆黒の皮膚は鎧となり、鰐淵は夜空へ向けて咆哮した。
「ヴァァァ!」
その咆哮に、空を埋め尽くさんばかりの悪魔は視線を向ける。しかし、あまりに遅すぎた。鰐淵は既に構えており、その拳から一撃が放たれる。
「極大、魔煌拳!」
流星が夜の闇を切り裂くように、拳の延長線上にいた悪魔は一瞬の間に消し飛んだ。
「行くぞ、三下が! お前らとは、背負ってるもんが違うんだよォ!」
打ち上がる花火を背景に、鰐淵は飛翔した。悪魔の群れは反応し、鰐淵へと殺到する。悪魔は皆一様に、あらゆる生物から部位だけを集めて作ったような奇怪な外見をしており、それぞれが個別の攻撃手段を備えていた。ある者は牙を、爪を、針を、毒を、蹄を、無数の攻撃手段が鰐淵を襲った。
しかし、そのどれもが触れる事すらできない。
「おっせぇ! ババァの方が早いぞ!」
もはや動体視力は人体のそれではなく、鰐淵にとっては四方八方から浴びせられる攻撃ですら止まって見えた。そのどれをも弾き返し、拳による一撃は悪魔の体を容易く吹き飛ばした。
「どうしたどうした! イカれシスターの方がよっぽど痛ぇぞ!」
悪魔の攻撃は苛烈さを増し、爪や牙ではない魔法的な攻撃をも用い始めた。火が、氷が、雷が、酸が、次々と鰐淵を襲う。しかし鰐淵の皮膚は、ことごとくを無視した。
「ヴァアアア!」
飛び交う悪魔の群れに突撃し、手あたり次第に引き裂き、殴り、ちぎった。
じゅうじゅうと脳を焼くような感覚と、敵を一人倒す度に噴き上がる快感。鰐淵という一個の人格が、少しずつ侵食されていくのを感じた。
しかし、鰐淵は止まらない。漆黒の矢となり、星々の下を疾走する。
「お前らに、俺の何がわかる!」
殴りつけた悪魔の顔は虫で、およそ味覚を理解できるとは思えなかった。
「喫茶店だぞ!」
地上に向けて叩き落とした悪魔は、胴体を真っ二つに折られている。
「喫茶店の茶がマズいってお前、どういう事だよ! 俺のコーヒーはなァ! 本当はもっと高値なんだよ!」
魔力を収束し、指先から放つ。それだけで悪魔の外骨格を貫通し、頭部を消し飛ばした。
「良いか……。俺ブレンドの豆は、本当はあんな安い値段じゃねーんだ。そこらのクズ豆と一緒にすんなよ! 本当は一杯で千円近く取りてぇんだよ! ミルクや砂糖なんか入れんな! ブラックで豆本来の味を楽しむのが前提なんだよ!」
横なぎ一閃。数体の悪魔が消滅し、塵となって風に流れる。
「それが! 売れねぇから! 誰も注文しねぇから! 今じゃ一杯で二百五十円に値下げしてんだぞ!」
ガァ! と前方に向けて咆哮。まとまった数の悪魔が消し飛んだ。
「お前らに! お前らなんかに! 俺の何がわかる! ここまでやってんだよ! そこから更に悪魔にまで頼って! その結果がこれか!」
増えていく悪魔にひるまず、鰐淵は再び拳を構える。
「おおおお!」
自我と引き換えに、悪魔の力はどこまでも鰐淵に力を与える。拳に宿った破滅の光は、辺りの悪魔を巻き込みながら放たれた。
「超! 極大、魔煌拳!」
夜を貫く一撃は、花火よりも更に明るい。その光は地上からもよく見えた。
「ヴォオオオ!」
暴力の嵐と化した鰐淵は、破壊衝動のまま殺戮を繰り返す。そしてとうとう、その魂までも悪魔と化していく。
その刹那。
「鰐淵さん!」
聴こえたのは、蛇川の声だった。
地上から鰐淵の戦闘を見ていた蛇川は、鰐淵本人よりも状況を理解していた。
「これはマズいですね」
隣に立つ犬飼に向けて、蛇川は続ける。
「このままじゃ、ヒトに戻れなくなります」
しかし、遥か上空で戦う鰐淵にそれを伝える方法はなかった。
「あんな姿になってまで、街を守りたいなんて……。蛇川さん、彼をこちらに引き留める方法はないのですか?」
「……ハーレムの時と同じです。街を守るという願いを放棄すれば、あのデビル野郎モードは強制的に解除されます」
「では今すぐにでも……!」
「その場合、飛行能力を失った鰐淵さんは墜落死します」
「……」
蛇川は鰐淵の奮闘をしばし眺めると、覚悟を決めた。
「箒じゃありませんが、空を飛ぶ覚悟はありますか?」
その数分後には、蛇川は犬飼と共に原付バイクにまたがっていた。カウカウピッツァの配達用バイクだが、持ち主の牛山は快く貸してくれた。
「空から宣伝してくれるなら、むしろありがてぇっス!」
無事に返せる自信はなかったが、蛇川はバイクの後ろに乗って足を揺らす。ハンドルを握る犬飼の腰にしがみつくと、蛇川は怖くないように目を閉じて言った。
「足場魔法!」
「さぁ行きますよ!」
そして、バイクは空に向けて走り出した。
「怖い怖い怖い!」
蛇川の伸ばした足に、目に見えない足場が生まれる。そしてその上をバイクは走る。坂を上るように、バイクは空を駆けた。
「うあー怖い! 怖い怖い! うあぁあ!」
目を閉じても怖いものは怖かった。もし風圧で足が曲がってしまえば、足場の方向が変わってしまう。そうなれば地上に向けて真っ逆さまで、更に人体とは頭から先に落ちる。途中で姿勢を変えて足場を作り直すなど、蛇川の身体能力では困難である。
「落ち着いて下さい! 目を開けて、足場の角度を保って! あそこに鰐淵さんがいます!」
「うあーん!」
目に浮かんだ涙が、風で後方に吹き飛ぶ。しかし、蛇川は見た。一人孤独に奮闘し、街を守るため犠牲になる事を選んだ、鰐淵の姿がそこにはあったのだ。
「く、うぅ……! あの怠け者の鰐淵さんが、あそこまでやっているのです! 働き者の私が、こんな所で!」
その姿は、今にも人格を喪失しそうである。それがわかった蛇川は、叫んだ。
「鰐淵さん!」
目の前の悪魔を引き裂きつつ、ぴくりと反応した鰐淵の姿は、およそ人とは呼び難い。その顔は漆黒の表皮に包まれ、横に裂けた目と口だけが巨大に見えた。
「ヴァアア!」
街を守るため、その願いのために戦った、その成れの果てである。息を飲む犬飼をよそに、蛇川は冷静さを取り戻した。自身の感じる恐怖よりも、別の思いが勝ったのだ。
「シスターわんわん。一度だけ、あなたの奇跡に賭けます。鰐淵さんを助けたいので、力を貸して下さい。あなたとしては悪魔を助けるのは不本意でしょうが、しかし今は……」
「是非もありません」
犬飼はハンドルを切って鰐淵へと向ける。
「誰かを救うのに、理由など不要! あなたの思いは本物です!」
「……」
蛇川は犬飼の背中に手を当てると、魔力の流れを調律し、変換する。
「一時的に、あなたの起こす奇跡と神気を私の魔力に変換します。合図したら、全力を出して下さい。その全てが、私の力になります」
「わかりました。いつでも!」
「では、行きますよ!」
バイクが空を駆け、鰐淵の頭上まで辿り着く。蛇川は犬飼から手を離すと、鰐淵目がけて飛び降りた。
両手を広げて迫りつつ、避けられる前に宣言。
「願い事を、破棄します!」
瞬間。鰐淵の体は大きく傾き、その姿を人間のものへと変える。一瞬だけ空中で静止すると、直後に落下。その後を追うように蛇川の体も落ちる。
「わーにーぶーちーさーん!」
そして、鰐淵の体に指が届き、蛇川は叫んだ。
「今です!」
「私の祈りが光って唸る! 友を救えと輝き叫ぶッ!」
頭上の犬飼から迸る神気は、その輝きを魔力として蛇川に送る。蛇川は鰐淵を抱えたまま、両足で空中を踏みつけた。
「特大、足場魔法!」
空中に出現したのは、目に見えるほど強力な、巨大な円形の足場であった。