part12 喜目良商店街の危機
骨董のカミツキ。その店内は商品が散乱しており、店先には普段の倍近い商品が置かれていた。はみ出た商品は店先の歩道を埋める程である。
「相変わらず、なんという禍々しさ……」
「あぁそうか、犬飼さんはそういうのがわかる側だったな。俺にはクソほど散らかった粗大ごみ置き場に見える」
「すぐに捨てた方が良く、そして捨て方が難しいという点では共通しています」
犬飼は空気すら吸いたくないとばかりに、口元を隠している。
「亀谷さんはどうして生きているのでしょうか……?」
「それは辛辣すぎるだろ……」
「そういった意味ではありません。これだけの瘴気と呪物に囲まれて、普通の人間が生存するのは難しいという事です。特に精神面では、正気を保つ事すら不可能でしょう。何か特殊な訓練を受けたか、特異体質か、よほど徳の高い人格なのか」
「とりあえず人格だけは違うと思うぜ。店を離れてもテンションが下がるだけで、根っこの方はあんまり変わってない。あと亀谷さんが正気を保ってるような言い方はやめろ」
この店の商品はどれも健康に悪いようだが、全て亀谷が自分で集めているものだ。鰐淵にとって、亀谷の事情やあれこれなど、心底どうでも良い。
鰐淵と犬飼が店の前で話していると、中から悲鳴にも似た叫び声が響いた。
「オアァー!」
それは何やら大荷物を運んでいる亀谷が、外にいる二人を見つけた声だ。震える指を向け、焦点の定まらない目で鰐淵を睨んでいる。
「おま、おまぁぁ! 願い事は破棄してきたか? 上手くやったか? 悪魔が来るぞ!」
「待ってくれ、落ち着けよ。もう少しで片付きそうなんだ」
まぁまぁと両手を上げた鰐淵。しかし亀谷の耳には内容の半分も届いていない。
「ふぁああ! 早く、早くしろォォ! こんな所にいる場合か! 人が死ぬ! 大勢死ぬ!」
地団駄を踏み、手近の木製箪笥を拳で殴りつける。鰐淵は犬飼にちらりと視線を送ると、ひとつ頷いて犬飼が前に出る。
「以前ここでお見掛けしたのですが、あの大きな鏡はまだありますか?」
「うん? 鏡?」
「はい」
「……」
何か思い当たる事があるのか、亀谷はうつむいて押し黙る。恐らく鏡とやらがどこにあるのか覚えていないのだろう。鰐淵はそう確信していたが、顔を上げた亀谷は静かに言った。
「何に使うつもりだ?」
白濁した目で、しかし冷静な表情の亀谷は真剣だった。犬飼は間髪入れずに即答する。
「無論、世界を救うため」
両者の間で、無言の時間が流れる。遠くの喧騒がやけに耳につき、太陽はそろそろ沈み行く頃合いであった。逢魔時が赤く世界を染めて行く。
「ついてこい」
くるり、と背を向けた亀谷は店内を指す。その背中は、先ほどまでの乱れた様子がない。丸まった背中は、しっかりとした足取りで行き先を先導する。
「あの鏡が相応しいかどうか、テストしてやる」
ちらりと視線を送った場所には、一抱えほどもある鏡が壁にかけてあった。亀谷は店の奥に行くと、床板を上げた。そこには地下へと続く階段があり、暗闇へと続く様はまるで地獄への入り口にも見えた。
「この奥に行って、お前らの力を見せてみろ。失敗すれば二度と戻っては来れねぇ……。さあ、それでもやるか?」
「無論。それが必要とされる試練なら、正面から受けて立ちます」
「その心意気や良し……! さぁついてきな!」
手に燭台を持った亀谷が、地下へと下っていく。
「行きますよ。私とあなた、聖と魔が手を組めばどれ程のものか。それを証明しましょう」
そうして犬飼が躊躇なく一歩踏み出したので、鰐淵はその襟首を捉まえた。
「いやいやいや」
亀谷の姿が完全に見えなくなった事を確認し、鰐淵は壁に掛けてある鏡に手をかける。
「なんだそのノリ。時間がねーんだよバカか」
鏡を小脇に抱えた鰐淵は、そのまま犬飼を引きずるように店から脱出した。
「わ、鰐淵さん! それは窃盗です! 正しく手順を踏み、納得の元に受け取る必要が……」
「なんだあのダンジョン。こっちは伝説の勇者でもねーし、悪の組織と戦うエスパー少年でもねーんだ。店の中に置いてある鏡もらうだけで、わざわざ地下に行く奴いねーよ。ゲームと漫画の見すぎです残念でしたさようなら」
「鰐淵さん!」
「っさい! 俺はああいうの嫌いなんだよ! 内なる悪魔と戦えとか、負けたら魂とられるとか、土壇場になってからクソみたいな条件つけすぎなんだよ! 行ってから説明するとか言っておきながら、ルール説明する時にはもう逃げられないパターンなんだよ。アホみたいに大変なんだぞ。俺は本当に死ぬと思ったし、何なら途中から走馬灯なのか現実なのか区別つかなかった。絶対やらない。二度と、絶対に俺はやらない」
鰐淵の剣幕に一瞬ひるんだ犬飼は、おとなしく従って歩きつつ感想を述べる。
「……何だか具体的ですが、この手の修行や試練を受けた事が?」
「似たような事を、学生の時にね。おかげで高校中退だよ」
「あ、私も! 私も対悪魔の戦闘訓練でやりました! 懐かしいですね! 木人と打ち合うのはやりましたか? 精神修行はどんな事を? 私は油の上を歩きましたよ! バケツの水を入れ替えるのは何日やりましたか? あぁ、こんな共通の話題があるなんて!」
「待ってくれ、それそんな風に話す話題なのか? 本当にそんなテンション上がる話か?」
「懐かしいじゃありませんか! 鰐淵さんとは話が合いそうで良かった!」
「全然懐かしくないし、そんな話題は共有したくない」
夕日が照らす道を早歩きで進みつつ、鰐淵は鏡に目をやる。
「で、これの使い方は?」
すると犬飼は、遠い思い出の世界から帰り説明する。
「この鏡は、そのまま映す、という呪いにかかった鏡です。ほとんど普通の鏡と同じですが、左右の反転が起きません。例えば文字を映しても反転せずに読めます」
「……それは何と言うか、変わった鏡だな。で、それをどうすると?」
「あら? もうお分かりなのでは?」
「いやすまん。わかったんだが、あまりにも、その、荒療治が過ぎないか……? できれば俺が想像している使い方はしたくない」
「あらあら? 随分とお優しい事で。でももう日が沈んでしまいます。夜が来れば闇が生まれ、闇は魔へと繋がります」
点灯を始めた街灯に目を向けた犬飼は、硬い表情で続ける。
「冗談みたいな理由ですが、冗談ではなく本当に来ますよ」
犬飼は空を埋め尽くすほどの悪魔の群れを幻視する。
「躊躇している暇はありません。夜が来るまでに、決着をつけます」
「……仕方ないか。わかった。助けてくれ」
鰐淵の隣を歩く犬飼は、構えたトンファーとウインクで応えた。
「一緒にあの腐れ魔女をボコボコにしましょう」
「……」
犬飼は楽しそうなステップを二度三度踏んで、それから蛇川のいる方向を睨みつけた。
針澄は後悔していた。蛇川の相手など安易に引き受けるべきではなかった。
「まいんちゃん。酔いが足りないようですね。もっと飲んでどうぞ」
「要らない要らない。魔女さん、絡み酒も度が過ぎると嫌われるよ」
「なんて事……! そんなのあんまりですよ! うあーん!」
ソファーの上で泣き出す蛇川。これは泣き真似ではなく、本当に泣いている。
「飲みすぎだよ……」
「おや? この私が酩酊状態にあると? それは実に愉快な冗談です!」
そして腹を抱えて大笑い。ひっくり返った蛇川は、ひぃひぃと息苦しそうに目元を拭っている。
「そろそろ鰐淵さんとシスターが戻ってくるんじゃない? そしたらもうこんな……」
「なんですって! 彼らは私のハーレムを壊すつもりです! 許せません! ぐぬぬ!」
最後に、拳を握って立ち上がると床を踏み鳴らした。
「……」
針澄は心底うんざりしていた。目の前の酒乱女は、見た目には酔っていないように見えるし、口調も明瞭だ。しかし酒に酔った蛇川の正体は、絡み酒で、泣き上戸で、笑い上戸で、怒り上戸だった。
酒が回るまではそれなりに楽しくやれた気がする。飲んでいる酒が一体何なのかわからないが、蛇川の飲んでいる酒はどれも不自然なほどラベルがない。大瓶から飲む液体はカラフルで、何か有害な物ではないかと不安すら抱く。
「……どうにも、本当に来たようですね。聖魔混合の吐き気を催すような気配がします」
「吐いちゃった方が良いよ? 少しは楽になるからさ」
「あぁいえ、そういう意味ではありません。それに私は実は酔っていません」
「酔ってる人はみんなそう言うよ」
「……正確には、すぐに酔いから醒めます」
蛇川は近くに侍っていた美少年を一人呼ぶと、薬を要求。美少年は銀の盆に、木の根らしきものだけを乗せて現れた。
「アルコールが脳に行かないようにできます。副作用はありますが、酔ったまま勝てる敵でもなさそうですから」
木の根をガジガジと何度か噛んだ蛇川は、数秒ほど目を閉じて体を横たえる。それから目を開けると、すっと立ち上がった。
「良いでしょう。さぁ! 鰐淵さん! 今度はどうするつもりですか? 力づくで来ますか?」
トラックの上から夕陽を背に、声を張り上げた蛇川。車道に溢れかえった群衆が割れるように移動すると、そこには鰐淵と犬飼がいた。
「蛇川、悪く思うなよ」
「これまでですよ蛇川さん」
黒い拳と、トンファーが蛇川に向けられた。
「上等です! 我が親衛隊よ! 出番です!」
蛇川がさっと手を上げると、周囲の美少年らは手に武器を持ち、トラックの上から跳躍。軽やかに着地すると、鰐淵と犬飼に向き合った。
「その親衛隊は、いくらお二人でも易々と突破できるものではありません! これで終わりです!」
しかし、事は蛇川の想像通りに行かなかった。鰐淵は小脇に抱えていた巨大な鏡を掲げると、相対する美少年に向けたのだ。
「行け! 犬飼!」
「っせあああ!」
そして神速の閃光が襲い掛かったのは、黒檀のステッキを持った美少年である。その姿が鰐淵の向けた鏡に映り、本当の姿が明らかになる。
「お、お前は!」
「そう、あなたは!」
ステッキとトンファーが激突する音の中、鰐淵はその正体を叫んだ。
「ババァじゃねぇか!」
鏡越しに見えたのは、商店街で花屋を営む老婆、虎落であった。
「ババァじゃねぇよ! 美老女と呼びなクソガキ!」
虎落が言い返すと、同時にその姿は老婆そのものと変化する。美少年であった時の面影など一切ない。
「……うん? なんだってこんな……」
虎落は辺りを見回すが、状況が理解できない。杖を下ろすと、目の前のシスターが微笑みを返した。
「あとはお任せを」
「そうかい? よくわからんけど、喧嘩は祭りの華だしね。任せたよ」
「承知!」
そして犬飼は再びトンファーを構えた。
「ぐ、ぐああぁあぁ!」
響き渡ったのは、蛇川の悲鳴である。頭を押さえて苦しみ悶える。
「や、やめろぉぉ! せっかく、せっかく、せっっかく! 私の理想の美少年を作ったのに! 何て事を……何て事をっ!」
犬飼は鰐淵に視線を送ると、改造されたエアガンを構える美少年を標的にして迫る。
「あなたは!」
そして鏡に映ったのは、子供好きで独身の中年男性。
「玩具屋の百舌さんです!」
トンファーの一閃と共に、また一人の美少年が姿を変えた。
「あああああ!」
絶叫する蛇川は、自身を抑え込むように手を震わせながら、憎悪に狂った目で犬飼を睨み付けた。
「ゆる、さん……。許さんぞ……! 貴様ァァ!」
「正体を見せたな! 魔女め!」
「よくも、よくも我が、渾身のキャラメイクを! 八つ裂きにしてくれるァァ!」
激怒する蛇川を見上げ、鰐淵は数分前の犬飼との会話を思い起こした。
そもそも、蛇川が欲するだけの美少年がそうそういるはずがないのだ。それを短時間であれだけ揃えたという事は、そこには何かしらカラクリがあって然るべき。そして犬飼が明かした蛇川の魔法とは、人の見た目を変える魔法である。
人体が変化している訳ではなく、それは幻を纏ったような存在なのだが、常人が見る限りにおいてそれは間違いなく美少年に見える。つまりあの美少年の中身は、見た目だけを変えられた通行人だ。
「……犬飼さんは最初から普通に見えてたって事は、そりゃつまり……」
「えぇ。胸の焼け付くような地獄絵図でした。彼女の頭を撫でていた少年の中身は……」
「もういい。やめよう」
短い会話で切り上げたが、鰐淵は蛇川が不憫でならなかった。中身を自覚した上で、それでも幻想にすがっていたと思うと、あまりにもあんまりである。せっかくハーレムを作れたというのに、そんな事をしていたとは。
「鰐淵さん! 次!」
「おう!」
「やめろぉぉ!」
鏡に映った美少年は、次々と己を取り戻していく。鏡の影響も相まって、蛇川のハーレムからは完全に外れており、再びハーレムに組み込まれる事はない。
「あなたは海老原さん! あなたは熊本さん!」
「わ、私の! 私の、蛇川ハーレムランドが!」
今にも泣き出しそうな蛇川は、トラックの上で膝を折った。犬飼は周囲から襲い来る美少年と戦いつつ、その最中にトンファーを伸ばした。
「ここまで削れば一人でも戦えます! あなたは本命を!」
鰐淵は鏡を脇に抱えると、全身を悪魔化して駆け出す。犬飼に突進し、その伸びたトンファーに飛び乗った。
「いっけぇぇぇ!」
勢いよく振り上げられたトンファーは、上空に向かって鰐淵を撃ち出す。
「おぉぉ! 蛇川ぁぁぁ!」
トラックの上で狼狽している蛇川と、それ目がけて落下する鰐淵。蛇川を称えるために周囲に用意された数々のスポットライトが、その姿を鮮やかに照らした。
「くっ……! しかし、この私がいる限り! 何度でもハーレムは再生しますよ!」
「蛇川ぁぁ!」
どん、とトラックが傾く勢いで着地した鰐淵は、蛇川を睨みながら鏡を構える。
「お前は! 本当のお前は!」
「まさか、そんな、や、やめろ……! 見せるな!」
「本当のお前は、こうだろうがぁッ!」
「ぎゃあああああ!」
そこに映ったのは、高価なドレスでも、モデルのような体型でも、小顔でもない。いつもの感じの蛇川だった。
「う、あ、あぁぁ……」
顔を覆った蛇川は、床に突っ伏して呻く。
「……お前これ、顔の大きさも変えてたのか……」
「だ、だって! 理想の美少年の隣に立つには、私の容姿もそれなりにしなければ!」
「わかる。わかるけどさ……」
「わ、私のハーレムが……。私の美女モードが……」
「美女モードって呼んでるんだ……」
そして蛇川は気づく。鏡の力は、美女モードを完全に封印している。再美女化を試みるが、鏡の前では容姿への魔法を行使できない。
「くっそぉぉ!」
拳で床を叩いた蛇川は、しかしあまりの痛さに泣き出してしまった。
「うあーん!」
心の底から泣く蛇川を前に、鰐淵はかける言葉を見つけられない。まだトラックの上にいる針澄に視線を送るが、ゆっくりと首を振られてしまう。
「ま、その、なんだ……。そんなに泣くなよ。願い事なんかじゃなくて、普段からその美女モードを使えば、そこそこの男を捕まえられるんじゃないか?」
「……美女モードはハーレムの条件として、願い事の中に後から無理やりねじ込みました。悪魔との契約に手を加えるのは危険でしたが、仕方ありませんでした。これを普段からやるには、一日あたり一時間が限界です……。一時間では、お食事に一回行けるかどうか……」
「そ、そうか……」
ぺたんと座りこんだ蛇川は、溜息と共に涙を拭って告げる。
「美女モードが使えないなら、ハーレムなど意味がありません。私は素敵な王子様に囲まれたいですが、囲まれている私も同じくらい素敵なお姫様でなければ、そんなのは嫌です。……残念ですが、鰐淵さんの勝ちですよ。そんな鏡、後で叩き割ってやりますからね」
そして蛇川は、暗くなった空を見上げる。
「願い事は破棄します」
瞬間、夜空に風切り音が鳴る。直後に夜空を照らしたのは、闇いっぱいに広がる大輪の花火だった。
「おや? 花火大会が始まりましたか……」
どん、どん、と花火が打ちあがる中。鰐淵は蛇川に手を差し出した。蛇川はその手を取って立ち上がると、花火を見上げる。
「……ところで、鰐淵さん」
「あぁ」
「あれ、見えます?」
「……ん、まぁ、な……」
夜空を照らし出す花火。その輝きの中に、小さな点がいくつも浮かび上がっていた。
「羽虫にしては大きいようですが」
「鳥か蝙蝠ってのはどうだ?」
「夜に飛ぶ鳥も、花火の音に近づく蝙蝠も、私の知識にはありませんね」
「なら、見間違えじゃないか?」
「きっとそうでしょう。ですが念のため、今から街を出る準備をしては?」
その時、犬飼がトラックの上まで梯子を慌てて上がってくるのが見えた。鰐淵は聞きたくない思いで胸を一杯にして、それでも訊ねる。
「そんなに慌てて、どうしたんだ?」
犬飼は花火に照らされる夜空を指して、悲鳴混じりに叫ぶ。
「空に、悪魔の群れが!」
「……うん。みたいね……」
「私は悪くありません」
花火の音に掻き消されたのでは、と心配した蛇川は再度言った。
「私は悪くありません」
喜目良商店街の遥か上空には、無数の悪魔が集結しつつあった。