part01 喜目良商店街の悪魔
早朝の喜目良商店街は、開店の準備を始める店で賑わっている。
その活気ある商店街にあって、とある喫茶店だけはシャッターが閉まっていた。表にある看板には、営業時間は七時からと書いてあるのだが、この店は昼近くになってから開店する事がほとんどである。メニューに書かれたモーニングセットは、もはや幻のメニューと言っても良い。
店名は、喫茶青大将。達筆な筆字で描かれた木製の看板が掲げられている。
「おーい」
そして今、朝の早い時間からシャッターを誰かが叩いていた。がしゃんがしゃんとドアノック代わりに、早く店を開けろと声を上げる。
「ぅおーい!」
それは女子校生だった。ブレザー制服を着て、拳を丸めてシャッターを叩いている。
「……」
開店時刻を確認し、自身の腕時計と見比べる。やはり自分は間違っていない、と頷いた彼女は腰だめになって、大きく腕を引く。
「一意専心、必中必倒!」
そして必殺の正拳突きを繰り出そうと、息を吐いた瞬間の事である。背後からブレザーのジャケットを引き寄せられ、拳は虚しく空を切ってしまう。
「何か御用で」
彼女の背後にいたのは、背の高い男だった。ひょろひょろの手足は力強さがなく、長い髪は女々しさすら感じる。見下ろすような姿勢で、男は半眼の視線を向ける。
「ウチの店はまだ開店準備中ですが」
気だるそうに言う様子に、苛立ちを覚えて指を向ける。用事があって来たのに、なんて言い草だろうか。既に開店時間を過ぎていると言うのに。
「良いから、開けなさいよ! 注文はモーニングひとつ!」
早くしなければ、その薄くて頼りない腹筋に特大のリバーブローを叩き込むぞ! と脅しつける。男は一瞬固まると、自身の腹部を擦りながらシャッターを開け始めた。
「へいへい……。平日の朝から堂々と喫茶店でサボりたぁ、高校生が良い身分だな。通報して補導してもらったって良いけど、どうする?」
「はぁ? バカじゃないの? 夏休みなんだけど」
「ぐえー」
やり返すつもりがやられてしまった男は、店頭の札をくるりと回した。準備中の文字が営業中に裏返る。
ドアを開ける際にカラコロと鳴るのは、実はドアベルではなくカウベルである。こだわりではなく、単に間違えて発注したものだ。
店内はまだ薄暗く、二つしかないテーブル席にも、四人掛けのカウンターにも灯りがない。窓のブラインドすら閉めたままで、外からの光に埃が反射して見えた。
薄暗い店内に目を凝らすと、その奥では布のかけられた箱のようなものが綺麗な木製ラックに置いてあるのがわかる。そしてそのすぐ隣には、コーヒーカップを片手に持った小柄な女性が佇んでいた。
「おい」
最初に不満そうに口を開いたのは男。視線に込める意味は、どうしてお前が店を開けなかったのだ、である。
「あー、おはようございます」
女性はズズズとコーヒーを口に含みながら、カウンター席に腰かけた。
「おはようじゃねーよ。客だよ客」
「え、やだなぁ。見たらわかりますよ」
「じゃなくて。客を出迎えろよ」
「そんな事言われましても……。見ての通り、朝ご飯もまだです。まずはカフェインから始めて、朝の体調を整えないといけません」
「それは二の次で良い。客が来てるの。はい仕事やって」
「では鰐淵さんお願いします。本調子ではない私が接客をしては却って失礼です」
鰐淵と呼ばれた男は、こめかみに力を入れながら手近な椅子を引いた。そして客の少女を座るよう促す。
「アレは店員だと思わないでくれ。今用意するから」
「そうですよ。今は時間外ですから、店員じゃありません。まったく。勝手に入ってくるからですよ」
「蛇川……お前……」
小柄な女性は蛇川。この喫茶店の店員で、店舗の二階部分は彼女の居住スペースである。住み込みで働いているのだが、店の営業時間は彼女次第であるのが現状だった。
ちなみに鰐淵もこの喫茶店の一店員にすぎない。この店の店長は存在するものの、そう滅多に顔を見せる事がない。
鰐淵はカウンター裏に回り、コーヒー豆の入った袋に手をかける。お湯を沸かしながら女子校生の方に目をやってみるが、彼女は蛇川の様子を不思議そうに見ている。蛇川はぼんやりと宙に視線をやりながら、長くもない脚を組んで一丁前にコーヒーを楽しんでいる。
「なんです? そんなにじっと見て。もしや私の魅力に気づかれましたか?」
言われたのが自分だったら、蛇川の横っ面をブン殴っていただろう。しかし寛大な女子校生は蛇川の言葉に応える。
「あ、いや……。もしかして、青大将の魔女ってあなたの事だったり……?」
「あぁ……まぁ、そう呼ばれる事はありますけど……。別に名乗った事はないですよ」
「やっぱり! 学校じゃ有名ですよ! 喫茶青大将には、困った時に助けてくれる魔女がいるんだって!」
「おや? 何だか大げさですね。ちょっとした占いくらいしかやった事ありませんけど……」
「会えて良かったぁ……。噂通り、本当に丸顔なんだね」
「何だか噂に尾ひれがついているような気がしますね……。あと私は丸顔じゃありません。シャープなすっきりフェイスです」
丸い顔を更に丸く膨らませる蛇川。
「あたし、喜目良高校の二年生で、針澄まいん! 魔女さんに助けて欲しいの!」
針澄と名乗り、その身を乗り出す。蛇川は話を聞いているのかどうかわからない緩んだ表情のままだ。鰐淵はその様子を横目にコーヒーの用意をしながら、名前通りの地雷でなければ良いのだが、などと考えていた。
「恋のお悩み相談、なら責任は取れませんよ?」
「お前を見て恋愛指南なんて言い出すバカがいるかよ」
蛇川の口から恋などという似合いもしない単語が出て来た事で、鰐淵は思わず口はを挟んだ。
「大体、お前の占いで責任を取れる事なんかないだろ。それを恋愛なんてお前……」
「おやおや? 鰐淵さんは私がモテる事を知りませんね? くっそモテますから。私の取り合いで夜の街が傾いた程です」
鰐淵と蛇川のやり取りを見て、針澄は椅子に深く座り直す。そして吐き出した言葉は、およそ二人が想像していたものとは違う内容であった。
「実はさ、今年の夏祭りのイベント……。どうしても勝ちたいの」
そして、針澄から詳しく語られる。
毎年行われている商店街主導の夏祭りは、屋台と花火、それから借り物競争がメインである。どれも大規模なものではなく、近隣住人が少しでも楽しめれば、という程度のものだ。しかし、商店街で飲食店を営むものにとっては少々違う意味が出て来る。それこそが、針澄の頼みであった。
「ウチは焼きそばの屋台で勝負するんだけど、今年は父ちゃんが怪我してさ。このままじゃ屋台が負けちゃうんだよ」
商店街のアーケード内では、各飲食店が自前の屋台を並べる。その際の売上や人気度で、互いにマウントを取り合うのが恒例だそうだ。針澄の家はお好み焼き屋を営んでいるとの事で、この戦いから逃げる訳には行かないのだと言う。
「……でも周りの店だって、おたくの事情を知ったらマウントがどうこうなんて言わないだろ? 怪我人を相手に勝ったも負けたも……」
鰐淵が疑問を口にすると、針澄は視線を泳がせながら答える。
「いや……。あたしの父ちゃんは、何て言うか……。誰かれ構わず喧嘩も売るし、何癖もつけるし、何なら手も出るし、よその店にも夏祭りの事で色々言ってるし、やってるし……」
「やばい人なんですね。やばい奴が身内にいる苦労はわかります」
「蛇川。いつからブーメランの練習をしてたんだ? えらく上手いじゃないか」
「やだなぁ、フリスビーとの区別もつきませんか? 鰐淵さんに投げたんですよ」
「それが手元に戻って行ったもんだから、俺はてっきりブーメランかと思ったよ」
針澄は溜息と同時に視線を下げる。
「とにかく、そんなこんなでウチの屋台が流行らなかったら、それ見た事かと大勢から言われるの。普段から愛想よくしとけば、こんな時に助けてもらえたのにーだなんて。そんな風に言われた父ちゃんが、逆に大暴れするのは見る前からわかるし」
「……そいつは自業自得って奴じゃ……?」
針澄は鰐淵を強く睨み付けると、蛇川に頭を下げた。
「という訳で、お願いします! 魔女さんの呪いで、周りの屋台を全部ぶっ潰して下さい!」
「……おや? なんだか思っていた話と違う方に行きましたよ」
蛇川は頬に手を当て、鰐淵に視線を送る。鰐淵は出来上がったコーヒーをカウンターに置きつつも、聞き間違いである可能性を考慮して話しかけてみた。
「悪いけど。今もしかして、他の屋台をぶっ潰せって言った? 自分の屋台を繁盛させてくれ、じゃなくて?」
「え? そりゃそうだけど……。そっちの方が間違いないし、てっとり早いし……」
「なるほど……。その親にしてこの子あり、って感じだな」
針澄は出されたコーヒーに口をつけてから、カップを置いて一息。
「……何これ?」
「何が?」
「このコーヒーだよ。ドブから汲んできたの? 喫茶店ならまともな一杯を出さなきゃ……」
「せっかくだからクソガキも一緒にドブに沈めてやるよ」
「モーニングで頼んだけど、セットのサンドイッチは要らないや。これでお腹いっぱい」
「蛇川、こいつの腹にしこたま呪いを食わせてやれ」
「私のお腹が優先です。まいんちゃんの分は私にください」
「おま……ウチのコーヒーがこんな言われてるんだぞ? 悔しくないのか?」
「そいつはご冗談、ですよ。鰐淵さんのコーヒーは実際くそまずいじゃないですか。そんなコーヒーに満足しているようでは、私の入れたコーヒーなんて飲んだら美味しすぎておしっこ漏らしますよ? 新しいパンツを用意して下さい」
「お前……これから俺の作ったサンドイッチ食おうとしてんのに、よく言えたな。無事で済むと思うなよ」
朝の爽やかな空気の中での、実に爽やかな談笑風景である。
鰐淵はサンドイッチを作ろうとしなかったので、蛇川はポケットから取り出したチョコレートバーをかじり、針澄はのどを鳴らして豪快にコーヒーを飲み下す。
「ところで、さっきの話ですが……。屋台を物理的に破壊するならまだしも、呪いでぶっ潰すのは無理があります。と言うか、お客さんが喜んでくれるので占いとかやってはいますけど、魔法でお悩み解決とかやるタイプの魔女ではありません」
事実である。鰐淵は深く頷いた。蛇川には喫茶店の店員すら務まっていないのに、魔女的な活躍を期待するなどどうかしている。
「なんだ、魔女さんも無理なんだ……。わかりました。じゃあ他店に盛るための毒とかは? 証拠が残らない、魔女の秘薬みたいな」
「あぁ、毒をお望みでしたら鰐淵さんのコーヒーをお渡ししましょう。一杯二百五十円になります。効果は抜群ですよ? これの後なら何を飲んでも超絶おいしい事を約束します」
「それじゃあ他の売上に貢献しちゃいますよ」
ああでもない、こうでもない、と二人が話し合う中、鰐淵はキッチンの換気扇を動かして、煙草に火をつけた。胸いっぱいに満たされる煙が、姦しい声から少しだけ心を守ってくれる。そんな気がしたのだ。
「せめて、用心棒とかお願いできません?」
「用心棒ですか?」
「そうです。ウチは父ちゃんがあちこちで揉めてくるから、色んな所に恨まれてます。だから、祭りの間に屋台を邪魔されないように、魔女さんに守ってもらえれば、って」
「あぁ、そうですねぇ……。副店長に相談してみますか……」
蛇川は席を立つと、店内の木製ラックに向かう。大きな箱がひとつあるだけだが、被せてある布をめくると、その中からこちらを覗く目があった。
「どうでしょう。商店街は助け合いですけど、私は面倒なのであんまり行きたくありません」
蛇川が告げると、箱の内側から何かを叩きつける音だけが聞こえた。そして数度頷くと、蛇川は布を戻して席につく。
「まいんちゃん、安心して下さい。優秀な悪魔をつけるので、当日の安全はばっちりですよ」
親指と人差し指で輪っかを作る蛇川。
「……今、あの中にいたのって……?」
「あぁ、あれは副店長。蛇川は誰の話も聞かないが、副店長の話は聞くんだ」
「別にそんな事はありません。私は素直なので、誰の言う事でもちゃんと聞きますよ」
「働いて」
「私をいじめないで下さい」
針澄は不思議そうな顔をしているが、何の事もない。あの箱の中には、一匹の蛇がいるのだ。
この喫茶店のオーナーが当初、店のアイドルペットとして連れてきたもので、光るような青い鱗を持っている。店名の青大将というのもそこから来たものだ。副店長という役職をつけ、最初はカウンターにいたのだが、客の評判がすこぶる悪かった。そのため目立たない所に置いて、布までかけている。
ちなみに。青いから青大将だろうとオーナーは思っていたのだが、最近になって鰐淵が調べた所、この蛇は青大将ではなかった。市場価格にして百万円前後はくだらない、ブルーコンドロという外国産の蛇だ。果たしてどこから入手したのか、オーナーが知人から譲り受けたという事である。
そんな蛇がいるのだが、蛇川がその世話を一人で担当している。どうやら副店長と会話ができるらしい。どこまで冗談かわからないが、蛇川はそう言っている。
「副店長の指示はいつも正しいので、当日は大丈夫ですよ」
のんびりと言い放つ蛇川。
「当然上手くいったら、おたすけ料金はもらいます。でも魔女の名にかけて、屋台は守ります」
「あの……」
「何ですか? 私に見惚れてしまいましたか?」
針澄は眉をひそめながら言う。
「さっき言ってた、悪魔って?」
「あぁ、それなら気にしなくて良いですよ」
鰐淵は二本目の煙草に火をつけた。
「ウチ、悪魔いますから」
喫茶青大将には、魔女と悪魔が住んでいた。