忘れられないたまご粥の味
俺の夢の中、懐かしい少女の声が響く。
「あなたを誰よりも愛してるわ。私が、聖女候補から聖女になったとしても。ずっと」
俺はその声になんと答えたのか、覚えていない。
声はただ悲しそうに、いつも俺を励まして消えていく。
「あなたが私を覚えていられるのは難しいと思うけれど。私はあなたの活躍を、見守ってるわ」
逆光になっていて見えない。
けれど、その声の高さ、速さは、俺が愛する少女のものだ。
少女の言うように、俺は少女を覚えていない。
けれど、愛した相手であることは間違いないのだ。
そうして、朝。
俺は夢のことを忘れ、毎日を過ごしていた。
===
俺の視界は、ぼんやり霞んでいた。
「いつもより美味しいわ」
俺の目には、妖艶に微笑う女の薄紅の髪が印象的だった。
身動きができない俺の頬に、女は血だらけの片手を添え、さりげなく俺の顎を持ち上げた。
俺の顔に女の顔が近づく。
女の冷えた空色の瞳が、異様に艶かしい。
「何をしたのかしらん?」
俺の心臓がドクリと鳴った。
無意識にポケットに手を伸ばし、彼女からもらったペンダントトップを握りしめた。
パキン、そんな微かな音がした気がする。
俺はポケットから溢れた光に包まれた。
===
その日、俺は珍しくも、風邪をひいてしまったらしかった。
頭はぼんやりするし、寒気とともに咳が止まらない。
そんな俺に同僚が耳打ちした。
「筋肉バカのタクト。そんな調子じゃあ、つらいだろう?」
「まあ、ね」
そう返して、苦笑いと共に咳き込んだ。
そんな俺を憐れむように、上司は俺の背中をさすりつつ、教えてくれた。
「よく効く薬を取り扱う、錬金術師のいい店があるんだ」
「あ。けど、気をつけろよ。そこの店主は、男をたぶらかす魔女と呼ばれてる」
俺は下を向けていた顔を、同僚と上司の方を向けた。
息苦しくて、眉根が寄っていたと思う。
このとき、俺の視界はほとんど白黒だった。
とにかく苦しくて、俺は――
「いい店、ですか?」
食いついていた。
同僚と上司の話を聞き終えた俺は、雇い主に許可を得て、薬屋に出かけていた。
辿り着いたのは、森の入り口にひっそりと佇む、緑に包まれた一軒家。
ここに来て、少し緊張してきた。
(魔女と呼ばれるほどの、危ない人物……。気を引き締めなければ)
恐る恐るトントンと、玄関の戸を叩いた。
しばらくして、戸が開いた。
そこから現れたのは、薄紅の髪を軽く結い上げた女性だった。
俺は正直、見惚れた。
だって、だって!
見るからに柔らかそうな髪。
触ったらきっと、すべすべな肌。
空色の、濡れた宝石のような瞳。
白黒の世界が、急激に色付いていったんだ。
そして、うるさくない甘いパンの匂い……。
ぎゅうぅぐるぐるぐる〜。
俺の腹は正直だった。
ふたり、しばしの沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは、戸惑いに揺れる女性の方だった。
「何か、ご用ですか?」
「えっと……。腕利の錬金術師の薬屋がここにあると聞いて、風邪薬を買いにきました」
女性は、俺の顔をまじまじと見つめてきた。
俺は照れてしまって、目線を下に投げた。
女性のほっそりとした脚が、視界に入って来て、俺は年甲斐もなく慌てた。
そんな俺を見ていた女性は、コホンと咳払いをすると、俺を家に招き入れてくれた。
「少し待っていてほしいのですけれど……。つらそうですわね」
女性は、諦めのようなため息をつくと、奥の部屋へと俺を手招いた。
生活感が漂う、その場所にあったソファベッド。
俺が戸惑っていると、女性は冷めた目で言った。
「取って食べたりなんてしないから、安心してくださいな。そこで楽になさってて。その間に、風邪薬を作ってきますから」
「え、でも」
俺の言葉を最後まで聞くこともなく、女性はその場を去っていった。
残された俺は、ちょっとだけ考えた。
虚しくも風邪のつらさに負け、ソファベッドに横になった。
「すみません、お邪魔します……」
窓から射し込む太陽の暖かさと、ソファベッドから香る森の匂いに、俺の緊張はいつの間にか解け、気づくと、眠っていた。
懐かしい夢を見た。
いつも目が覚めたら、消えていく夢だ。
少女は、否、今はもう立派な女性になっているであろう。
ユーリは元気だろうか。
久方ぶりに思い出した初恋の人のことだった。
俺が目を覚ますと、日差しが茜色になっていた。
起き抜けは、ぼんやりとユーリに思いを馳せていた。
「起きましたか?」
「ひっ! あ、すみません。お、俺、どれくらい……?」
「今は午後の四時ですわ」
「そ、そんなに?!」
俺が青ざめ、飛び起き、慌てているのに、女性はため息をついた。
「まだ本調子でもないでしょう。そこから考えたら、ちょっとしか寝ていませんわ」
「でも!」
「それだけ言い募る元気があるなら、こちらも食べられるでしょう」
女性は、足音も静かに部屋から出ていくと、小さな土鍋を持って戻ってきた。
ソファベッドの近くにあったチェストの上に、女性は敷布を敷き、土鍋を置いた。
土鍋の中を覗くと、たまご粥ができていた。
「これは、貴女が?」
「何か問題でも?」
「い、いえ! 食べていいんですか?」
「そのために用意したものですから」
俺は一瞬呆けた。
けれど、土鍋から漂ってくる鼻腔をくすぐる匂いは、俺の食欲をそそった。
俺は早々に、美味しそうな匂いに負けたのだった。
「いただきます」
戸惑いの一口目。
俺の目はカッと開いた気がする。
そこからは一気に食べた。
たまご粥は想像以上に、甘くて、出汁が効いてて、口の中でほろほろと崩れて。
あまりにも懐かしい味がした。
涙が溢れて、少ししょっぱくなった。
俺が一息ついた時、女性はティッシュの箱と白湯の入ったコップを置いてくれた。
俺は遠慮という言葉を、この時どこかに置き忘れてきたのだと思う。
思いっきり鼻をかんで、すっきり。
何も言わず白湯を、ごくりと飲むと、満足のため息が俺の口から溢れた。
くすくすと静かに笑う声がした。
俺は、やっと我に返った。
俺の顔は、一瞬にして俺自身の髪と同じくらいの赤に染まったと思う。
女性は、俺の座るソファベッドの前にやってきた。
しゃがみ込むと、俺の顔を見上げた。
「ねぇ。貴方のお名前は?」
俺の頭がクラクラする。
女性の声に、触感があるとしたら、きっと柔らかな洗濯をした日の毛布の触り心地だ。
生唾を飲み込んだ。
「タクトです」
「そう、タクト。私はリューリィ。貴方さえ良ければ、私の運び屋をしてくれないかしら?」
女性――リューリィの言葉が飲み込めなくて、俺は豆鉄砲を喰らった鳩になった気分になった。
「えぇ、と?」
「実は私、この家から出られないの」
彼女は悲しそうというより悔しそうに、そう言った。
「なぜです?」
「何もしていないのだけれど、勘違いしたお馬鹿さんがいて、追い出されて、挙句、この家に軟禁されてて」
「軟禁……」
「そう。端的に言うと、ね」
俺は、ふむと考え始めた。
やっと熱が引いてきたのか、頭が回るようになってきたのだ。
彼女が、嘘をついているようには見えない。
だが、なんだ?
すごく違和感をおぼえる。
「すみません。俺、勤めているところがあって、運び屋している時間が無いと思います」
「そうですわよね」
少し寂しそうに彼女は微笑んだ。
彼女は何かを振り払うように、頭を振った。
「引き留めて、ごめんなさい。からだは少しは軽くなったかしら?」
「あ、本当だ。軽い……。リューリィ、ありがとうございました」
俺がぺこりと頭を下げると、彼女は立ち上がって俺の手を引いた。
玄関まで来て、彼女は首からかけていたネックレスを外し、そのペンダントトップを俺の手に押し付けた。
俺が戸惑っていると、彼女はバツが悪そうな顔で言った。
「ちょっと今日か明日に、貴方に嫌なことがありそうだから。念の為」
俺が返そうとすると、彼女は背を向けた。
「もし、身の危険を感じたら、そのペンダントトップに衝撃を与えて。それじゃあ」
俺はいつの間にか、玄関の外に押し出されてて、玄関の戸は無情にも閉まってしまった。
俺は頭をコリコリと掻いた。
何か大事なことを忘れている気がしたが、俺は帰宅の途についた。
帰宅と言っても、寮に帰るので、同僚や上司がいる。
俺が自分の部屋のドアを開けようとした、その時だ。
「タクト〜、聖女様がお呼びだぜ」
残念そうな顔をした同僚がそれを伝えてきた。
「わかった。すぐ向かう」
俺は、内心ため息をついた。
同僚たちは聖女様に心酔しているようだが、どうにも俺はそのことが落ち着かない。
あの聖女様の部屋は、思考が止まるのだ。
呼び出しに抗えるはずもなく、聖女様の部屋へと向かった。
俺が扉をノックする前に、扉が開き、部屋に引き摺り込まれた。
息が詰まるような香の臭いが焚きしめられた部屋だ。
俺の目の前には、リューリィにそっくりな女――聖女様がいた。
ああ、リューリィは聖女様にそっくりだったんだ。
だからおかしく感じたのか。
「ねぇ、タクト。よそ見はダメ。こっち向いて。さぁ、あたしの愛を受け取って?」
しなだれかかってくる、この女は誰だ。
今までの靄がかかった記憶がはれる。
そうだ、俺は。俺は。
この女に喰われ続けてきた――。
背筋に冷たいものが走る。
縋る気持ちがあったのか、無意識にポケットをまさぐる。
リューリィのペンダントトップを握った。
俺の想いが移ったかのように、熱い。
光が溢れる。
光が落ち着くと、俺は昼間にお世話になった部屋にいた。
聖女の姿はない。
代わりに、目に涙を溜めるリューリィがいた。
俺が何かいうよりも早く。
「タクト。昼間に貴方から、あの人の、聖女の匂いがキツかったから、浄化したのだけれど。余計つらい思いをさせただけね」
苦しそうにリューリィは言葉を紡ぐ。
あまりの痛々しさに、俺は目を背けたくなった。
でも同時に、リューリィが神々しく、目を逸らせなかった。
「ごめんなさい。貴方を救いたいなんて傲慢なことを思いました。私はただただ、変わらない貴方をずっと見守ることしかできなかったのに。今さらなのに――」
「待って。見守る……? 君はまさか」
フライパンを火にかけたら、熱が広がるように。
俺の閉じていた記憶も開いていく。
俺は思わず、リューリィを抱き寄せて、顔を上げさせた。
今まで、探せなくて、でも心は探していた。
彼女は、俺の――。
「な、何するの?!」
リューリィは抵抗するけれど、俺は彼女の顔を覗き込んだ。
記憶の中の、初恋相手であるユーリと瞳の色が違うけれど。
間違いない。
「忘れていて、ごめん。たまご粥と、君の声。それだけあれば、わかったはずなのに。君は、俺の愛するユーリじゃないのか?」
リューリィと今は名乗る彼女は足の力が抜けたように、へたり込んだ。
俺は、そんなリューリィの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
壊れそうなリューリィの頬を、俺は優しく手を添えた。
リューリィの目から、大粒の涙が、ひとつこぼれ落ちた。
カランコロン。
軽い音を立てて、涙は空色のガラスになった。
リューリィは慌てて、前髪で目を隠した。
「待って! 見ないで!」
俺はリューリィの制止の言葉を無視して、彼女の柔らかな手と一緒に薄紅の前髪を持ち上げた。
そこには、夕闇に迫る頃の太陽のような深い紺色の瞳。
「やっぱり。ユーリだ」
それは、彼女の本当の名前。
ユーリは、俺の大事な幼馴染で初恋の相手。
齢十のとき、聖女候補になって、それから。
いつの間にか、魔女と呼ばれ、おそれられるようになって。
いつの間にか、ユーリの存在を、初恋の相手を俺は忘れていたこと。
「なんで思い出しちゃうのよ……」
泣きだすリューリィ否ユーリを、俺は優しく抱きしめた。
「ねぇ、ユーリ。なおのことだよ。返事は?」
「ーーーーー」
俺の耳元で囁くように、ユーリは返事をくれた。
それから。
ユーリと俺は森を抜けて、隣の国へと逃げた。
隣の国でも、ドタバタはあったけれど、誰よりも幸せにユーリと俺は暮らしたのだった。