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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【短編】私たちは春を待つ

作者: デルヘッジ

 春を待っていた。


 大学二年生の三月。期末試験が終わり、あさ子はバイト先の本屋と一人暮らしのアパートを往復する日々を送っていた。夏に所属していたテニスサークルを辞めてしまってからは、どちらかといえば暇な毎日を過ごしている。

 梅は盛りを過ぎたが、桜はまだ咲き始めていない。冬のおわり、春のはじめ。


 夜。

 あさ子は、ベッドに横たわりながら貰ってきた求人誌をパラパラとめくっていた。春休みという膨大な時間を前にして、暇を潰すためにバイトの掛け持ちでもしようかと考えていた。

 ふと傍に置いたスマートフォンが振動した。SNSの着信音。

 表示された名前を見て、思わず飛び起きた。

 榛名莉音(はるな りおん)。高校時代の親友の名前。

 あさ子たちが育った街には大学がない。大学進学を選んだ生徒は、車で五十分ほどの県庁所在地か、隣県にある地方中核都市、もしくは東京か大阪といった大都市へと出て行くことになる。あさ子と莉音は、地方中核都市を選んだ。とは言っても、進学先の大学は異なり、大学二年生になってからは一度も会っていなかった。


『助けてあさ子。死にたい』


 一言だけのメッセージを見た瞬間、全身の血が沸き立つのを感じた。鼓動が急に意識される。


『どうしたの? 今どこ?』

『西駅の駐輪場の前』


 返事はすぐに返ってきた。これは良いことだと思ってよいのか。


『分かった。今行く』


 西駅は最寄りの駅で、徒歩で五分ほどの距離だ。あさ子はコートを羽織り、部屋を飛び出した。


 雨が降っていた。

 風も強く、傘をさしていても、体が濡れる。春先の雨は冷たい。手袋もせずに飛び出したので、傘を握る指先が白くなっている。

 莉音とあさ子は、正反対の性格だった。明るく、常にクラスの中心で笑っていた莉音。一方のあさ子は、教室の後ろで世界文学全集を読んでいるような生徒だった。孤独と物語世界を愛しつつ、物語世界のような青春を生きる莉音を眩しく見ていた。

 話すようになったきっかけはなんだっただろうか。

あさ子は、スニーカーを履いてきたことを後悔しつつ、思い起こす。雨を吸ったスニーカーが、地面を蹴るたびにグズグズと気持ち悪い。

 たいしたことではなかったはずだ。ノートを貸したとか、もしくは、たまたま席替えで近くになったとか。それでも二人は仲良くなった。性格が正反対の二人は不思議とウマがあい、気づけば休み時間を一緒に過ごすようになっていた。

 西駅の表口は昔ながらの商店街と最近の都市開発でできた新しいビルとテナントが混ざりあった、ごちゃごちゃした雰囲気である。一方、裏口は薄暗く、大きな駐輪場と数件の飲み屋がある他は、住宅街となっている。その裏口の住宅と住宅の合間にある小さな公園、電灯も二灯しかない小さな公園に、莉音はいた。雨のなか、傘もささずに、立ちすくんでいた。

 思ってもいなかった旧友の姿に、あさ子はなんと声をかけるべきか、一瞬躊躇した。大きく息を飲んで、思い切って声を出す。雨音にかき消されないよう、腹から声を出す。


「莉音!」


 莉音が顔をあげる。彼女は泣いていた。全身がびしょ濡れにも関わらず、彼女が泣いていることが、あさ子にははっきりと分かった。


「あさ子……来てくれたんだ」

「当たり前じゃん」


 あさ子は早足で友人に駆け寄り、傘のなかに莉音を入れた。傘は小さく、二人が入るには狭い。あさ子の背が濡れる。


「大丈夫? 何があったの?」


 雨と涙で崩れたメイクを出来るだけ見ないようにしながら、あさ子は尋ねた。

 莉音はしばらくの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。


「……振られた」

「は?」


 思いもよらぬ言葉に、あさ子は思わず顔を顰めた。


「だから、告白して、振られたの!」


 振られたからって、こうして、夜の公園で雨に降られていたっていうの? 馬鹿じゃないの?

 心の底から湧き出てきたそんな言葉をあさ子は、ぐっと飲み込んだ。それで、死にたいって?


「……話聞くからさ、とりあえず、うち来なよ」

「いいの?」

「すぐそこだから。その格好じゃ、電車も乗れないでしょ」


 あさ子はため息をつく代わりに、ゆっくりと鼻から息を出す。


 雨のなか、二人は肩を並べて歩いた。相合傘である。あさ子の隣の莉音は無言で、時折、しゃくりあげている。あさ子も声をかけはしなかった。

 不思議な時間だった。

 莉音でも振られて、そして、その痛みに涙を流すことがあるのかと、あさ子は内心驚いていた。莉音のことを振る男がいる事実にも、男に振られたくらいで泣きじゃくっている莉音がいるという現実にも、信じられない思いがした。高校生のころの莉音は、男子生徒からの告白を振る立場であり、男友達との付き合いもさっぱりしたものだった。恋愛に依存するタイプではないと思っていたのだ。

 二階建ての築三十年のアパートの二階の真ん中が、あさ子の部屋である。片付けていない部屋に人を通すのは気が引けたが、緊急事態なので仕方がない。


「とりあえず、シャワー浴びてきなよ。スウェット貸すからさ」


 あさ子が声をかけると、莉音は大人しく頷いた。

 友人がシャワーを浴びている間に、手早く床に散らばる雑誌や雑貨を片付け、ベッドを整えた。


「ごめん、ありがとう」


 浴室から出てきた莉音は、すでに泣き止んでおり、その顔は高校生の頃よりも幼く見えた。


「お酒でも飲む?」


 素面で対面することに気恥ずかしさを感じ、あさ子は口を開いた。


「あさ子、お酒飲むんだ」

「彼氏がお酒、好きだから、買い置きしてる」

「例の彼?」

「うん、前に会ったときに話した人」

「続いてるんだ」

「なんとかね。飲む? チューハイでいい?」

「うん、ありがとう」


 冷蔵庫から缶チューハイを二本取り出し、こたつ机の上に置く。それぞれプルトップを開け、乾杯もせずに、甘い液体を口に含む。二人で飲むのは、初めてのことだった。


「いいな、あさ子は順調で」


 莉音がぽつりと呟いた。その言葉になんと答えるべきか分からず、あさ子は曖昧に頷いた。

 大学一年生のクリスマス前に、あさ子には人生で初めての彼氏が出来たのだった。しつこい勧誘に負けて入ったテニスサークルの先輩の友人だった。穏やかに笑う、歳のわりには老けた印象の青年だった。向こうから告白され、特に好きという感情はなかったが、嫌悪感もなかったので付き合うことにした。そういうものなのだ、と思った。なんとなくで付き合いはじめた彼との相性は良かったらしく、特に大きな喧嘩もせず、交際を重ねていた。次の四月から彼は社会人だが、そろそろ一度、両親に会って欲しいと言われている。


「私のことはいいよ。で、莉音、何があったの?」


 あさ子は、つまみにと、ポテトチップスの袋を開けた。話を向けると、莉音はぽつりぽつりと語り出す。

 よくある話だった。

 好いた男を食事に誘った(男の希望で、西駅裏口の焼鳥屋に行ったらしい)。食後に思い切って「好きです」と言った。男は驚いた顔をし、それから「そんなつもりはなかった、そもそも女として意識したことなかった、ごめん」と言った。そして、それだけ。男は莉音を置いて、そそくさと帰って行った。


「莉音でも振られるんだね」


 凡庸な物語を語る莉音の顔を見ながら、あさ子は改めて思っていたことを口に出した。アルコールが、口を軽くしていたのかもしれない。


「何よ、それ」

「なんか意外で」

「私のこと、なんだと思ってるの?」


 莉音は怒っていいのか、呆れてみせたらいいのか分からないといった顔であさ子を見ていた。あさ子は慌てて、取り繕うように言葉を繋ぐ。


「なんというか、私と違って、何もかも上手くこなす人だと思ってたから。人生の勝ち組というか……」


 あさ子の言葉に、莉音は呆れたため息を溢すことを選んだようだった。


「あさ子って、時々、ほんとに無神経だよね」

「ごめん」

「ま、そんなあさ子に夜な夜な助けを求めた私も私なんだけど。私からすれば、あさ子の方が、ずっと勝ち組に見える」

「そんなことないよ。そりゃあ、いま、彼氏はいるけど、別にそんなにイケメンでもないし、好きかどうかよく分からないときも多いし」

「でも別れる予定はないんでしょ?」

「予定はたしかにないけどさ」


 だからといって、今の自分が幸せなのかは分からない。それに、やはり、どう考えたって、自分の人生はとるに足らないものだと思う。

 あさ子は、改めて目の前の友人の顔を見た。公園での泣き顔を脳内で重ねる。ふと、振られたからといって、大泣きできることも才能なのだと思った。今の自分が、もしも彼氏から一方的に振られても、彼女みたいな悲しみ方は出来ないだろう。悲しみすら、感じるかどうかも怪しい。


「ならいいじゃん」


 莉音の言葉に、あさ子の思索は途切れる。


「私なんて、結局、大学に入ってから、誰にも好かれたことないんだよ」


 愚痴っぽい莉音に戸惑いながら、あさ子は二本目の缶チューハイを開けた。


「そうなの?」

「そうだよ、慰めてよ」

「私が?」

「他に誰がいるのよ」


 莉音は、愚痴を言うような人間ではなかったと思う。常に明るく、クラスの中心てまみんなを引っ張っている少女。弱音よりも無邪気な楽観が似合う笑顔。それでも、この新たな関係は妙に心地よかった。


「うん、大丈夫だよ、きっと」


 あさ子が慣れないシチュエーションに戸惑いながら慰めの言葉をかけると、友人はふっと吹き出した。


「何、その適当な慰め方」


 何がおかしいのかと戸惑うあさ子を前に、莉音はケラケラと笑い声をあげた。

 気づけば夜半を過ぎていた。終電はとっくに過ぎている。泊まって行きなよとあさ子が言えば、莉音は当たり前のように頷いた。

 あさ子がシャワーを浴びている間に、莉音は片付けをしてくれていたらしい。こたつの上にあった空き缶は消えており、使った食器が溢れていたシンクまで綺麗になっていた。


「洗い物ありがとう」

「急に押しかけたんだし、このくらいはやるよ。それより、なんかもう眠くなってきた」


 言葉通り、莉音の目はアルコールと睡魔により、今にも閉じようとしている。


「ベッド使って。乾燥機とかかけてないけど」

「あさ子はどこで寝るの?」

「こたつで寝るよ」

「それは悪いよ。ね、一緒に寝ようよ」

「シングルだから狭いよ」

「彼氏とは一緒に寝てるんでしょ?」

「それは……」


 あさ子が言い淀むと、莉音は意地悪そうに、にっと口角を上げた。


「ほら、来てよ」


 するりとベッドの布団の中に潜り込んだ莉音が、あさ子の名を呼んだ。


「この布団、一人じゃ寒い」


 私の布団なんだから、文句言わないでよ。あさ子はムッとした顔をして見せるが、莉音は気づけば、昔と同じ顔で笑っているものだから、何も言えなくなってしまう。

 おずおずと、自分の布団に潜り込んだ。


「やっぱり、あさ子がいた方があったかい」


 狭いシングル布団だ。ふいに莉音の腕が、あさ子に当たった。その腕が酷く冷たくて、あさ子は驚いた。


「手、冷たいね」

「言ったじゃん、寒いって」


 布団の中で、莉音の手が何かを探すように動いているのを感じる。彼女が探しているものに気づき、あさ子は助け舟を出すことにした。

 布団のなか、莉音の右手とあさ子の左手が出会い、そして繋がる。


「電気、切るね」

「うん」


 繋いだ莉音の手のひらは、やはり、とても冷たかった。まるで春の雨のように。


「あーあ、好きだったんだけどな」


 暗闇に向けて発せられる莉音の声。あさ子はそっと首を動かし、彼女の方を見た。莉音の柔らかそうな頬に、一筋の涙が溢れるのを見た気がした。


「大丈夫だよ」

「うん」

「大丈夫」


 莉音は大丈夫。

 慰めになるのか分からないが、あさ子は心の底から親友の存在を肯定した。そして大切な人の、少なくとも一夜の湯たんぽ代わりになれたことを、しみじみと嬉しく思った。

夜はあっという間に過ぎた。あさ子は物音で目を覚ました。部屋の隅で、友人が身支度を整えていた。

 スマートフォンで時間を確認する。すでに朝の9時を回っている。

 SNSの通知が来ており、確認すると彼氏からだった。


『おはよう。今日は寒いみたいだよ』


 ふいに罪悪感めいた気持ちが、あさ子のなかに沸き起こった。昨晩の出来事を思い出す。同性とはいえ、他人と同衾してしまったともいえる。とはいえ、きっとこれは考えすぎだ。あさ子は自分のなかの罪悪感を無理やり押さえつけ、返事として「おはよう」のスタンプを送った。次に彼に会ったときには、堂々と莉音との一夜のことを話そうと思った。


「おはよう、あさ子」


 莉音に声をかけられ、我に返った。スマートフォンから慌てて顔をあげる。ふと右の方の髪の毛が跳ねていることに気づき、とっさに押さえつける。


「あ、おはよう」

「彼氏から?」

「うん」


 鋭いなと思いながら、友人を見た。友人は昨日とは異なり、穏やかな笑みを浮かべている。


「あさ子、幸せ?」

「どうだろう? 分からない」


 あさ子がそう答えると、莉音は何が可笑しいのか、くすくすと笑った。あさ子もなぜかつられて笑ってしまった。そういえば高校生の頃は、こうして意味もなく笑いあっていたなと思った。


「昨日は、ほんと、ありがとう」


 笑いが収まると、改まった声音で莉音が言った。


「ううん、別に大したことしていないし、気にしないでいいよ」

「それでも、ありがとう。あさ子がいてくれてよかった。一人だったら、昨日の夜を越えられなかったかもしれない」

「なにそれ。大げさなんだから」


 あさ子は笑ったが、莉音はあくまで真剣な顔だった。


「大げさじゃないよ。本当に、ありがとう」

 

 身支度を整え、簡単に化粧を済ますと、莉音は朝食も食べずに、部屋を出た。駅まで送ろうかとあさ子は申し出たが、莉音はそれも断り、さっぱりとした顔で「ありがとう」と重ねた。


「もう大丈夫だから」


 その顔は、昨日の泣き顔とは違って、やけに大人びて見えた。その表情を見ながら、あさ子は昨晩の布団のなかで感じた彼女の体温を思い出していた。冷たかった手のひら。少しは暖かくなったのだろうか。


「相談だったら、いつでも乗るから」

「ありがとう。でも次は、あさ子の愚痴を聞くよ。また飲もう」

「うん」


 アパートのドアの向こうは、昨日とは打って変わり、青い空が広がっていた。白い光に満ちた薄い青色。


「じゃあね」

「じゃあ、また」


 アパートのドアの前で、友人の背が小さくなっていくのを見送った。吹き込む朝の風は冷たい。それでも、きっと、少しずつ春は濃くなっていくのだろう。

 

 春はもうそこまで来ている。

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