第42話 ムカつく
非常にまずい。
先頭打者ホームランのせいでみんなが動揺している。
特にマウンドに立つ翼は未だに現実を受け入れられていないように見える。
このままでは試合が壊れてしまう。
まだ初回、しかも1球投げただけではあるけれども、これは監督の僕が動くべきターニングポイントだろう。
男女問わず高校野球のルールとして、監督がグラウンドに出ることは許されない。なのでタイムをかけてナインへ指示を伝えるには『伝令役』を用意する必要がある。
その伝令役だが……。
いつもなら思考停止でキャプテンの雅を指名するところだけど、今日は少しためらってしまう。
朝から彼女とは一切目が合わないのだ。
理由がはっきりとわからないので余計にタチが悪い。
動揺しているナインに僕と雅のギクシャクした感じが伝播してしまったら、状況はさらに悪化するだろう。
雅を伝令に送るのは得策ではない。
そうなれば僕の選択は必然的にこうだ。
『杏里、伝令に行ってきてくれ』
「ボクがかい?……まあ、構わないけど」
杏里は意外にも素直に伝令に行くことを受け入れた。
僕は耳打ちをして指示内容を杏里へ伝えると、彼女は帽子をきちっとかぶり直してマウンドへ向かっていく。
◆
「――監督くんちゃんからの指示は以上だ。何か質問はあるかい?」
杏里はバッテリーと内野手の集まるマウンド上で僕からの指示を伝えた。
やっぱりだけど彼女の言い方はどこか上から目線で、いかにもプライドが高い感じに聞こえる。あと、『監督くんちゃん』はやめろ。
普段の伝令としてならば、杏里をチョイスするのは悪手だ。でも今回ばかりは当たりかもしれない。
「……質問は無いのかい?全く、たかが1本ソロホームランを打たれたぐらいでそんなにオドオドするなんてね。先が思いやられるよ」
「ああ?先発してねえクセに言いたい放題言ってくれるじゃねえか」
杏里の呼吸をするように繰り出す煽り言葉に、翼はまんまと乗ってしまった。
翼の性格上、エースとして控え投手から煽られることは耐え難い屈辱である。だが、それを受けて奮起するのもまた翼だ。
「ボクにこんなこと言われたくなかったら、さっさと打ち取ってベンチに帰ってくることだね。――まあ、ボクとしては翼に打たれてくれたほうが出番が出来てありがたいけど」
「言われなくてもそんな事分かってんだよ。絶対に杏里の出番なんて作らせねえからな」
「さてどうかな。――まあ、ボクはブルペンで肩を作って何時でも登板出来るようにしているから気楽に投げなよ。ここはナイター設備もあるからのんびり試合が出来るしね」
「うるせえ」
翼がシッシッと追い払う仕草をすると、杏里はキザな感じに立ち去って行った。
発言や一挙手一投足がムカつくのは、もはや才能だろう。
杏里に託した伝令は、『このまま内野4.5人シフトを継続する』こと。
今のホームランはフロックみたいなものだ。
打たれたことは気にせず、腹を括ってこのまま突っ切るほうが迷いもなくて良い。
そもそもあの1番打者――橋目は色々調べたがデータが無い。おそらく県外からやって来た選手だ。
先日の偵察のときは、たまたま足を使ったスタイルしか見せてこなかっただけで、本来は今みたいなバッティングも出来る選手なのだろう。
素性の分からない選手に打たれてしまったことはしょうがない。大切なのはこのあとの展開と、次に橋目に打席が回ってくる時だ。
伝令に杏里が出たことで翼も気持ちのギアチェンジが出来たみたいだ。これならまだ戦える。
「……ったく、オレも情けねえな。こんなことで動揺しちまうなんて」
翼はロジンバッグを手にとって呼吸を整える。
バックの野手も声が出ていて雰囲気は悪くない。
「――プレイ!」
審判がプレイを再開させると、翼はまたモーションを起こして振りかぶる。
放たれた豪速球は、続く2番打者のインコースへ食い込んでいった。
バッターはその球に思わず手が出てしまい、バットの根っこにボールを当てた。
……いや、当てたと言うよりは当たってしまったと言うべきか。
打球はふわふわと力なく上がり、前進守備を敷いている一塁手の葵のミットに収まった。
「ワンアウト!」「いけるよいけるよ!」「ピッチャー球走ってる!」「まだまだこれから!」
1つ目のアウトを取って、後ろを守るナインのボルテージが少し上がる。
さっきの出会い頭のホームランで動揺していたのが嘘のようだ。
「フフッ、ボクの伝令が効いたみたいだね」
『ナイス伝令だ。今のところ本日のMVPだよ』
杏里は得意げにドヤ顔を見せる。
人にはそれぞれ『ぶん殴ってやりたいくらいムカつく顔』というものがあると思うが、今の杏里はまさにそんな表情だ。
続く3番、4番を三振に打ち取ってスリーアウト。
県内女王の2軍ではあるが、翼のパワーピッチは十分に通用している。
1点は取られてしまったが、まだまだ試合を捨てるには早い。