第30話 ライバル
杏里は先程よりボール1つ分外側へまたシンカーを投げ込む。これはゾーンを外れてボール。
3球勝負には行かないあたり、杏里も何かを警戒しているのだろう。
一方の翼はこの2球のシンカーには全く見向きもせず平然と見送った。まるで自分が打ちたいのはこの球ではないと宣言するかのよう。
「……その見逃し方、気に入らないなあ」
「別に何を狙おうがオレの勝手だろ。へなちょこシンカーなんか打っても面白くないからな」
「本当にキミには腹が立つ」
「お互い様だ」
杏里はセットポジションから3球目のテイクバックに入る。シンカーと同じようなリリースポイントから、今度は抉るようなストレートが翼のインコース低めを突く。
「…………ストライク」
さすがの爽も一瞬判定に迷ってしまうようなぎりぎりの高さ。人によってはボール判定されてもおかしくない。
ただ、杏里が自信たっぷりに放ったビタビタのクロスファイアも、翼は平然と見送ったのだ。
「へえ、いいコントロールしてんじゃねえか」
「そんな呑気なこと言っていていいのかい?もう2ストライクだよ?」
「カウントなんて関係ねえ。打ちてえ球かそうじゃないかだよ」
「……やっぱり気に入らない。絶対に空振りさせてやる」
杏里は4球目のモーションに入る。
シンカーとストレートはほぼリリースポイントが同じで見分けがつかないが、この球だけは容易に判別がつく。
「……これで終わりだ!」
放たれたのは変化の大きなドロップカーブ。
すっぽ抜けたと思うようなリリースから、いつの間にかゾーンを掠めるという、死神の鎌のような軌道。
一昨日の翼は全くタイミングが合わずに空振りを喫した。
しかし、今日は逆だ。彼女はまさにこのドロップカーブを待っていた。
ここまで平然とシンカーとストレートを見逃し、なおかつ2ストライクのカウントまで追い込まれるまで、このドロップカーブに焦点を定めていたのだ。
「待ってたぜ、その球。お前の新しい決め球」
翼はドロップカーブがちょうど自分の懐へ飛び込んで来るところをフルスイングで叩いた。
打球は左中間真っ二つ。フェンス代わりのネットを直撃した。
「ちっ……、ホームランにはならなかったか」
翼はちょっとスイングを力みすぎたことに反省していた。
……いやいや、女子にそんな男の子顔負けのフルスイングをされたら僕の立場はない。
「……まさか、最初からドロップカーブ狙いで……?」
「まあな……。正直なところ、それしかオレには球種判別が出来なかった」
昨日の翼との打撃練習のとき、翼は球種の判別に骨を折っていた。
比較的バットに当てやすいストレートと、外へ逃げていくシンカーではリリースポイントから見分けがどうしてもつかなかったのだ。
そうなれば狙うべきはドロップカーブになる。これだけはリリースが他と違うので分かりやすい。
「それであんなに堂々と見逃していたのか……」
「そういうこと。追い込んだら絶対にドロップカーブが来ると思った。あれはお前の新しい決め球だからな」
杏里がアメリカにいた2年弱の間、苦労して習得したのがこのドロップカーブだ。
翼ほど球威がない杏里が、どうやったらストレートを速く見せられるか悩んだ末の結果。それが上手く彼女に馴染んだおかげで、ストレートを活かすだけではなく打者を打ち取るための決め球にまで発展したのだ。
そんな自信のある決め球なのだから、追い込んだ時に放りたくなる。それがピッチャーというもの。
「……まんまとボクは踊らされていたわけか。悔しいな」
「でもまあ、悪くないボールだったぜ。少なくとも2年前よりはな」
「慰めはやめてくれ。……やっぱりキミを超えるためには、まだまだ努力が足りない」
「ああそうだな。もっといい球放るようになってもらわねえとチーム事情的にも困る。なあ、《《オレのライバルさんよ》》」
「ら……、ライバル……」
その言葉に杏里は一瞬涙が溢れそうになった。翼が面と向かって杏里に『ライバル宣言』をしたのは、これが初めてだったのだ。
それでもすぐに杏里は正気に戻ってボールを翼に渡し、逆に翼の持っていたバットを奪い取った。
「――攻守交代だ。確率は低いがボクがキミを打ち込む可能性だってないわけじゃない。そうなればこの勝負はドローだ」
そういえばエースの奪い合いとかいいながら、翼が投げて杏里が打つパターンを全くやっていないことに気がついた。
……当たり前に翼が抑えるだろうと思ってたのもあるけれど。
「ハハッ、やっぱり杏里はそれぐらい諦めが悪くねえとな」
「うるさい!早く放れよ翼!」
今ここに、チームで1番のライバル関係が誕生した。
互いに高め合える存在がいる、そうなれば僕らはもっと上にいけるかもしれない。2人からはそんな可能性を感じさせてくれる。監督としては喜ばしい限りだ。
……ちなみに、杏里は翼のストレートに歯が立たず三球三振だった。打撃も練習しないとな。