閑話 根回しと掛け算
爽と野々香の一件について僕は他人事みたいに傍観していたわけだけど、もちろんちゃんと根回しはしてあった。
地獄の15kmロードワークの前日、僕はパチ美こと美合野々香を呼び出して話をした。
「監督……?お話ってなんですか?」
「来たか。いや、なんの事はない、ちょっとパチ美にお願いがあってだな」
「私にですか?なんでしょう?」
野々香は目をぱちくりさせてこちらを見る。
「実は明日、15kmのロードワークをやろうと思うんだが、そこでパチ美にやって欲しいことがあるんだ」
「えっ、15kmも走らされるんですか……。明日は真夏日だってニュースでも言ってたのに……、監督の鬼……」
説明上やむを得ないとはいえ、15kmのロードワークをすることを打ち明けてしまったのは失敗だったかもしれない。
既に野々香はげんなりしている。
「まあ落ち着け、君なら15kmくらい余裕だろう?」
「余裕ではないです。なんとか走れるかもって感じです」
野々香は強めの言葉で言い切る。
いや、全国制覇を目指すなら15kmくらいサラッと走ってほしいんだけど。
「……じゃあ大丈夫。パチ美に頼みたいのはそのロードワークで脱落しそうになったやつに声をかけてほしいんだ」
「声をかける……?救護班みたいな感じですか?」
「そう。ランナー兼救護班でついていけない奴を助けてやってほしい」
「それは別に構いませんけど……、なんで私が?」
「適任だからだ」
なんとも適当な『適任』だなと、僕は言葉に出してから思った。
野々香に救護班を頼んだ理由はお分かりの通り。まず真っ先に脱落仕掛けるであろう爽との会話のきっかけを作りたかった訳だ。
なんとなくだけど爽というキャラクターに一番合いそうなのは彼女だと思ったから。
あとは、爽と同じキャラクターのキーホルダーが彼女の鞄にもついていたことだろうか。でも、それ以上の理由はない。
ただそこから先は出たとこ勝負。万一取っ組み合いの喧嘩にでもなったときに備えて、木陰に隠れて止める準備をしていた。
まあ、それもこれも野々香のファインプレーで上手い方向に転がってくれたから良かったのだけれども。
僕が話は以上だと野々香を解放すると、去り際に彼女は妙な事を聞いてきた。
「……ちなみに監督にちょっと聞いておきたいんですけど、『攻め』の対義語って何ですか?」
「どうしたんだいきなり?『攻め』の反対は『守り』に決まっているだろ?野球人なら当たり前だ」
すると野々香は少しだけため息をついた。
……あれ?僕は何か間違った事を言ったか?
「……そうですよね。『攻め』の反対は『守り』ですよね、私がうっかりしていました。じゃあまた明日」
逃げるように野々香は去って行った。
一体さっきの質問にはどんな意図があったのだろうか。その意味がわかるようになるのは、もうちょっと先の話になる。