巡る星
はるか昔のこと。
世界には森にエルフの国、空に竜の国、海に人魚の国、山に獣人の国、野に人間の国がありました。
エルフは癒しの力を持ち、竜は空を人魚は海を自在に操り、獣人は大地の声を聞いていました。
人間だけは何の力もなかった。だからこそ、勇気を持ち知恵を使いその手に技術を身に付けたのです。
五つの種族は其々の国を守り、互いの能力を認め合い、足りない部分を助け合う良好な関係でした。
ある時、一つの「悪意」が生まれました。
エルフの力が羨ましい。竜の力が羨ましい人魚の力が羨ましい。獣人の力が羨ましい。
ほんの小さな嫉妬は大きく膨らみ、世界を飲み込んでゆきました。
森に毒の霧が漂い、空に黒い雲がかかり、海が灰色に淀み、山が真っ赤な息を吐き出しながら吠え、野には作物が育たなくなりました。
病んで行く世界を危惧した五つの種族は決断しました。其々代表者を選び「悪意」を討つのだと。
そして、エルフからは清らかな聖女が、竜からは厳かな賢者が、人魚からは妖艶な魔術師が、獣人からは逞しい剣士が、人間からは勇気ある青年が選ばれました。
種族は違えど彼らは互いに励まし合い、助け合い、慈しみ合いながら十数年に渡って「悪意」を討つ旅を続けたのです。
長き旅の果てにとうとう「悪意」を討った彼らはその偉業を讃えられ「勇者」と呼ばれました。
これがエルフ、竜、人魚、獣人、人間が共存していたこの世界に語り継がれる神話。
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穏やかな日差しが一匹の竜を包んでいました。
「ドラグ」
優しくかかる声に静かに閉じられていた瞼がゆっくりと開かれ、ゴツゴツとした手を握る柔らかな感触にドラグは安堵の笑みを浮かべています。
「懐かしい夢を見ていた。お前⋯⋯いや、ハルトと一緒に旅をした日々を見たぞ」
「皆んなとの旅は楽しかったよね」
「ハルトは弱っちいくせに人一倍勇気があった」
「ドラグは強いくせにいつも「面倒臭い」と言っていた」
いつも気難しい顔をしていたドラグはその表情とは裏腹に誰よりも世話焼きでした。
人間は脆い。
そう言って先頭に立つ人間のハルトを何よりも優先して補助し、強化してくれた。ハルトはいつも守ってくれた大きくて温かいドラグの背中が大好きでした。
「僕はドラグに守ってもらえたから勇気を持てたんだ」
金色の瞳がドラグを見つめる。キラキラと輝くそれはいつかのハルトと同じです。
すっと目を細めたドラグは満足気に頷きました。
彼らの旅は歴史となり伝説となり今では神話と呼ばれるほどに時間が経っています。
ドラグでさえもう何百年経ったのかもう分からないほどです。
「あの日、ハルトを皆で見送った。今度は我が見送られるのだな」
人間の寿命は他の四種族に比べて遥かに短いのです。
「僕はその為に会いに来たんだよ。ドラグ、会えて良かった。また、会おう。そしてまた旅をしよう」
「ああ、旅が出来るのか⋯⋯また会おう、ハルト」
ドラグの身体が眩い光に包まれた。細かい光の粒子となった竜は空へと還る。これが竜の最期でした。
この日、世界を見守っていた最後の竜が世界の空へと還りました。
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「ドラグが還ったのは私も感じたよ」
蒼に染まる洞窟に凛とした声が響きます。
そして彼女は「あたしもそろそろだよ」と続けた。
「あたしの魅力に靡かなかった人間はハルトだけだったね」
「マリーンは今でも魅力的だよ」
「ねえハルト、世界は好きになれたかい?」
「ふふ」と妖艶に笑うマリーンは母親の様に包んでくれた。勿論マリーンは「お姉さんと呼びなさい」と頬を膨らませていたが、彼女の愛は母親そのものでした。
彼女は弱いハルトが少しでも傷付くと水の加護を持つ人魚のくせに得意の紅蓮の炎で「悪意」を払ったのです。
「そうだね⋯⋯皆んなのおかげで」
マリーン達四種族は選ばれた。しかし人間はどうせ何の力もないのだからと孤児であったハルトに全てを押し付けました。
マリーンは人間の愚かさを怒り、ハルトがしないのなら自分が人間を滅ぼすと怒ってくれたのです。
「僕はマリーンが怒ってくれたから頑張れたんだ」
マリーンは満足気に頷きます。ハルトの素直なところはあの頃と変わらない。
ハルトを囲んだ最期の日。マリーンは一つ約束をさせました。
自分達が還る時、ハルトが側にいる様にと。
「必ず」そう言ってハルトは眠りについたのです。
「ちゃんと約束を守ってエライエライ」
「当然だよ。マリーンとの約束だもの。ねえ、今度は僕の約束。また旅をしよう」
「ああ、それはいいね。準備してくるよ⋯⋯約束だよ、ハルト」
マリーンの身体が虹色の泡へと変わった。虹色の泡は弾けながら海へと溶け還って行く。これが人魚の最期でした。
この日、世界を包んでいた最後の人魚が世界の海へと還りました。
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その日の山はとても静かでした。
「やっと来たか」
愉快そうに細められた瞳は衰えていません。
山に住む獣人達が人の姿を持たなくなって久しいが、彼だけはあの頃と同じ姿でその逞しい腕でハルトを抱きしめました。
「ガイ。会いたかった」
「俺もだハルト」
ガイはハルトを見送ってから数百年。巡る時を待ち続けていたのです。
元々口数の少ないガイ。彼は言葉の代わりにその拳で、その真っ直ぐな姿勢で進む道を切り開いてくれたハルトの師匠なのです。
「あんなに弱かったハルトが今では俺よりもずっと強くなった」
「ガイに勝てた事なんてないよ。これからも勝てないさ」
「いや、ハルトは強くなった。俺が言うのだから強い」
大きな手がハルトの頭を撫でます。
人間は四種族に比べて体力も無く、少しの傷や病で動けなくなってしまう。
彼らにとっての小さな擦り傷や毒による体調不良でもハルトにとっては命に関わる怪我となり、簡単に命を落とすもの。
傷を受け、高熱で命の淵を彷徨うハルトを見捨てず「真の強さは心にある。心をしっかりと持て」と背負いながら進むガイの姿勢にハルトは強さを教わりました。
「僕はガイが本物の強さを教えてくれたから強くなれたんだ」
旅の終わり、仲間達は其々の国へ帰りました。国に選ばれ世界を救った勇者として。
しかし、ハルトは国へ帰っても一人。眠りに付くその日もハルトは一人で逝こうとしていたのでした。
「強さとは、力のみならず心のみならず」
「忘れていないよ。これからも忘れない。僕は強くなる。だからガイ、また僕と旅をして欲しい」
「ああ、勿論だ。ハルトの隣にまた立てるのだな」
満足だとガイは頷きます。
ガイの身体が金色の砂になりサラサラと落ちてゆきました。金色の砂は水の様に広がり大地へと還る。これが獣人の最期でした。
この日、世界を支えていた最後の獣人が世界の地へと還りました。
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大空に枝葉を伸ばした大樹が騒めきました。
「リモーネ」
ハルトは呟くようにその名前を呼びます。
サワサワとその声に返事をするように風が通り抜け、ふわりとエルフが舞い降りました。
「ドラグ、マリーン、ガイ⋯⋯皆還りましたのね」
「うん。空へ、海へ、大地へ。皆んな」
「ふふ、ではわたくしは大気へ還るのでしょう」
「寂しくなるね⋯⋯」
リモーネはキョトンとした表情からクスクスと笑いました。
ハルトを見送ったあの日、リモーネには確信があったのです。今回も確信しています。
何年、何十年、何百年⋯⋯幾千年。那由多に渡って自分達はまた巡り会える。
だから寂しくはないのです。
「魂は巡ります。こうしてまた会えたように」
「うん。僕達は何度でも巡り会う。そしてまた旅をするんだ」
「ええ、ええ、そうです。わたくし達はハルトに導かれて巡り会うのです。少し休んだら旅を続けましょう」
リモーネは人間の弱さ醜さを見続けて来ました。
愚かな人間はその全てをハルトに押し付けておきながら「悪意」を討ったハルトに恐怖し、虐げていた。
リモーネはハルトの手柄を横取りする動きがあれば戒めた。ハルトの歩んだ道が改竄されそうになれば正しく改めた。
リモーネはハルトの功績、ハルトの歴史、ハルトの魂を守り続けました。
「人間には少し反省をしてもらいますわ」
リモーネはニコリと微笑みます。
リモーネの身体が風になりました。温かく柔らかい風は木々をざわめかせ大気へと還って行く。これがエルフの最期でした。
この日、世界を結んでいた最後のエルフが世界の大気へと還りました。
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さて、残されたのは人間のみ。
竜が居なくなり空は真っ暗に。
人魚が居なくなり海は荒れて。
獣人が居なくなり大地は痩せ細り。
エルフが居なくなり大気が濁った。
空は嵐が吹き荒れ。
海は大波が立ち。
大地は揺れ。
大気は病を運んだ。
力のある四つの種族はその力を世界の為に使っていたのです。人間は技術を自分達だけの為に使い、いつしか四つの種族を忘れてしまったのでした。
当たり前に享受していた世界が人間に牙を剥いたのです。
人間は再び「勇者」に世界を救ってもらおうと神話の勇者「ハルト」の出現を祈りました。しかし、どんなに祈っても「ハルト」は現れず、絶望した人間はお互いを攻撃し合い戦争を始めました。
新たな「悪意」が世界を飲み込んでしまったのです。
「それでも僕は⋯⋯人間を見捨てられないんだ」
ハルトは呟きます。
人間はハルトを虐げた。それは苦しくて悲しくて寂しい伝説の影。それでもたった一人。「ハルト」を庇ってくれていた女の子がいました。最期まで必死に声を上げてくれた女の子。その子が愛したこの世界。ハルトはどうしても嫌いになれないのです。
「人間は忘れてしまった。世界は空に護られていたと」
竜人ドラグが厳かな声で語ります。
「人間は気付かなくなってしまった。世界は海に愛されていたと」
人魚マリーンが優しい声で語ります。
「人間は見なくなってしまった。世界は山に恵まれていたと」
獣人ガイが力強い声で語ります。
「人間は感じなくなってしまった。世界は大気に育まれていたと」
エルフリモーネが慈しみの声で語ります。
かつて人間に「勇者」と呼ばれ「怪物」と呼ばれたハルトは仲間に向かってほほえみました。
「人間には僕達はもう見えない。触れられない。語りかけられない。けれど僕達は星になり世界に伝えるんだ。僕達はそばにいると」
再び世界中を巡り、伝えよう。
空に護られている事を、海に愛されている事を、大地に恵まれている事を、風に育まれている事を。
そしてもう一度願おう。どうか、思い出して、気付いて、見て、感じて。どうか「勇気」を持って争いをやめて。
流れ星が流れる時、ハルトの想いが世界を包むのです。
「行こう。僕は人間を信じている」
何度でも語ろう。何度でも巡る旅の中で。いつか人間がこの世界に生まれた意味を知る日まで。
ハルトの想いを乗せて、今日も世界のどこかで流れ星が流れるのです。