イタチ言葉は素晴らしいと言われています!
つくづく
世の中には便利な言い回しというものがあるものです。
イタチ言葉というものです。
ん、聞いた事ありませんかイタチ言葉?
きっとアナタも知っているはずですよ、世の中に出回りまくっておりますから。
今日はそんなイタチ言葉の話題でございます。
イタチ言葉についてはウィキペディアの日本語版ガイドラインに詳しく説明されております。
英語の Weasel words の訳語で「あいまいな表現」「ずるい言葉」というような意味です。
イタチにとっては甚だ不名誉な事ですが、ただ単に Weasel だけでも「ずるい奴」という意味があるのはちょっと驚きます。
この「Weasel words」英和辞典にも載っていますから最近ポッとネット上で作られた造語という訳ではなく、英語圏では昔からある概念のようです。
実際にどんな物がイタチ言葉であるのか、世の中から適当に拾った言葉から実例を見てみましょう。
用例1「対面座位が好きな女性が多いということを知っていますか?」
いきなり変な例文で申し訳ございません。ただこれは端的に典型的な例なので外す訳にはまいりません。
さて…………この場合イタチ的な問題点は「多い」の一語です。
そんなに「多い」のか?
何人いるというのか?
何と比べて多いのか?
あいまいを極めております。
これが例えば次のような表現ではイタチになりません。
「〇〇女子大学でアンケートを取った所、同大の女子学生1200人の内438人はセックスにおいて正常位や後背位より対面座位を好むという結果が出ました」
これならばイタチ言葉ではありません。あいまいな所がないからです。きちんとした統計的事実になっております。
先の用例1では全く何の根拠も記されておりません。ただ単に自分が対面座位が好きなことを「多く」の人が好きであるかのように捏造しているかのようにすら見えます。
これがイタチ精神の代表例です。
個人的な嗜好・意見に過ぎないものを
「一般的な嗜好・意見」
「多数派の嗜好・意見」
「権威的な嗜好・意見」
であるかのように見せかけようとする表現です。用例1を書いたライターさんは自分が対面座位が好きならば
「私は対面座位が好きです」
と書けばよろしいのです。
別の例を見てみましょう。
用例2「中国人の『京アニを助けたい』を信用できない日本人の残念さ」
京アニ放火事件の頃にネット上で見かけたとある記事の見出しです。この例文、パッと見て用例1とほとんど同じである事にお気づきでしょうか。「京アニを助けたい」と働きかける中国人は中国人の中でごく一部でありましょうし、そのような外国からの反応に反応する日本人も日本人の中でごく一部でありましょう。一部の事をさも全体的に語る。小を大に語るというのはイタチの得意技であります。
「都会の人は冷たい」
などと言うのと同じです。都会には非常に多くの人が住んでいますから、その住人の性格も様々であり、とても「冷たい」の一言で言い切れるはずなどありません。そもそもどのような言動を温かい冷たいなどと物指しで計るのでしょうか? イタチの言葉は常にあいまいであり、あいまいであるからこそイタチ言葉なのです。
別の例を見てみましょう。
用例3「ゴーヤはビタミンCが豊富に含まれていると言われています」
これです。
必殺の「言われています」!
世の中で頻繁に目にする表現です。
イタチの中のイタチ王ってな感じです。
イタチではない言い方をするとこうなります。
「ゴーヤはビタミンCが豊富に含まれています」
断定的で清潔な表現になりますね。
こういう断定的表現をするにはその対象についてそれなりの勉強をしなければなりません。論拠の確保と言うのでしょうか。この場合でしたらゴーヤにはどの程度のビタミンCが含まれているのかという事です。
ところが世の中には勉強を面倒臭がる人もいるものです。さらには自分の書いた事に責任も持ちたがらない。
「言われています」
という言い方をすると、それがさも一般的意見、多数派意見、権威筋の意見であるかのように見えますよね?
「俺がこう言ってるんじゃなくて偉い先生がこう言ってるんだよ」
てな感じです。
まさにイタチそのもの。
こういう「言われています」という書き方をするだけで勉強もしなくてよければ文責も負わなくて済むのです。
どれほどまでに寝惚けた意見でも「言われています」という表現をするだけで、それが一般的意見、多数派意見、権威的意見に偽装できるのです。
コンビニエンスです。
素晴らしいですね。
他の用例も見てみましょう。
用例4「一説によると」
はい「言われています」の別バージョンですね。いい加減にせいよ! とか腹立てる方もおられるでしょう。まあ我慢して下さい。
「その一説ってのは誰の説なんだ?」
って突っ込みたくなりますよね。
はい。
是非そう書いたライターさんに突っ込んでもらいたいものです。
もしそのライターさんが「この説は〇〇氏の〇〇という本に書いてあった」と論拠を示す事ができたならばそのライターさんは良心的な方です。決してイタチではありません。
けれども論拠を示す事ができなければ?
そのライターさんはイタチです。
「言われています」と全く同じで「一説」などという言葉を使って自分の説をさも権威的な説に偽装したがっているに過ぎません。
「全米が泣いた!」
だの
「女性の意見」
なんてのも典型的なイタチ言葉であるとお分かりでしょう。その全米だの女性だのがはたして全体の何パーセントの意見であるのか。イタチ言葉を使う輩は決して論拠を示す事はありません。
別の例も見てみましょう。
用例5「その可能性は十分にある」
うん。
可能性ってのも便利な言葉ですよね。
「可能性はある」などという言い方をしたら、おおよそ地上の全ての馬が凱旋門賞に勝てる可能性がある事になってしまいますね。
まるで夢でも見て寝惚けているかのような圧倒的なあいまい性ですよね。
可能性って何の事を言ってるんですか?
何の意味もない言葉のゴミですか?
競馬の予想記者だけにはどうしても使って欲しくない言葉です。
可能性などという話を始めてしまっては出走する全ての馬の馬券を買わねばならなくなり、それでは出血多量となる事は間違いないからです。
「シンザンは地力が高いので圧勝する可能性もあるが、思わぬ取りこぼしの可能性も考えておかねばならない」
こんな物は予想などとは言えませんが、しかし私はスポーツ新聞の競馬欄でこれそっくりの文章を読んで驚いた事があります。これではレース結果がどう転がっても「俺の言った通りになっただろう?」ですよね。
汚いです。
卑劣です。
イタチそのものです。
このようにイタチ言葉というのは広く人間界に浸透しているものです。
イタチ言葉がイタチ言葉などと蔑称されているにも関わらず、これだけ広く世の中で乱用されているのはなぜか?
コンビニエンスだからです。
何の苦労もしなくても、自分の馬鹿げた意見を一般的意見、多数派意見、権威的意見であるかのように偽装できるのです。
おそらく人間の歴史が続く限りイタチ言葉の歴史も続くでしょう。我々にできる事はそんなイタチに騙されないように精々気をつけるのみです。