平穏の終わり
指定された642号席へと向かう。
そこは全面クッション性のあるマットを敷き詰めたフラット席であり、人二人ほどが寝転べるほどのスペースがあった。
周りは一メートルほどの壁に囲まれ、正面の壁にひっついているテーブルの上には大きなパソコンが乗っている。
その時、ボサリと音がしたかと思えば、何やら隣の部屋から袋が投げこまれたようだった。
「おや。シャイな隣人さんからの贈り物のようですね」
中には数日分のインスタント食品と、『これからどうぞよろしく』と小さく丸い字で書かれた手紙が入っていた。
「では私はそろそろお別れしないと、仕事がありますので」
芥川はそう言うと深く頭を下げた。
「私にできるのはせいぜいこの程度です。どうかその仮面を使って素晴らしい日々を送れることを私は心から願います」
そして芥川は次の瞬間まるで煙のように消えてしまった。
今まで錯覚を見ていたのではと疑うほどに跡形もなく。
彼が消えたあとには一枚の名刺が落ちていた。
〈笑わないセールスマン〉という謎の肩書きの下に彼の名前である芥川龍之介という文字が記されている。
あの有名な作家と同性同名なのはただの偶然なのだろうか。
それにしても大変な目に遭った……でも………。
部屋のマットに寝転ぶ月宮。そして瞬く間に彼は深い眠りにつく。
意識が途切れる間際に思い浮かべたのは、あのツギハギだらけの女と、母の目と、天音の笑顔、そして芥川の姿だった。
……いい人に出会えてほんとうに運が良かった……。
決して笑顔をみせることがなかった自称セールスマンの芥川龍之介。
これから巻き起こる騒動の元凶は彼にあるということをこの時の月宮はまだ知らなかった。




