ゾン漁
感染爆発型のゾンビがうろつく世界。
瀬戸内海の小さな島の少年の目を通して、ゾンビサバイバルの一場面を描いてみました。
真っ暗な中、トシ爺さんの声が響く。
「起きぃ、ガキども! ゾン漁に行くで!」
僕は慌てて起き上がり、隣で寝ているマッくんを揺り動かす。
「マッくん、起きて!」
「んむー」
マッくんが拳で目をこすりながら起きる。
ぐずるマッくんの手を引っ張り、僕は港へと歩く。
引っ張ってるうちに目が覚めたマッくんが僕を追い抜いた。小四にしては背の高いマッくんは、年下だけど力持ちだ。ロープや網を引っ張る時に頼りになる。
「ゾン漁かー。いやじゃのぅ」
マッくんは、大声でいやじゃいやじゃと繰り返した。
僕は黙ったまま、トシ爺さんの船に乗り込み、備品をひとつずつチェックする。
網は特に入念にチェックする。ゾン漁の網は、硬くて重い。中にゾンが入れば、もっと重くなる。本当はトシ爺さんの船だけでなく、タケ爺さんの船と二隻で曳いた方がいい。一隻だと船が網に引っ張られて大きく傾いて、最悪、転覆しかねない。
でも、タケ爺さんの船は熱の出た女子を愛媛の側にある島の病院へ運びにいっている。一隻でやるしかない。
最後に僕は、手銛をチェックした。ゾン専用の手銛は柄が金属製で、ぐるぐると赤いテープが巻いてある。僕が手銛を握って感触を確かめていると、トシ爺さんのゲンコツが落ちてきた。
「ガキがゾンヤスを握んな」
筋張った細い手足に、日に焼けた皮がはりついているトシ爺さんだが、長年漁師をしてきたおかげでゲンコツは硬いし、力も強い。トシ爺さんは僕の手から手銛を奪うと、格納箱にしまった。
漁具のチェックをするのはトシ爺さんが決めた僕の仕事なのだから、トシ爺さんの言葉は矛盾もはなはだしい。けれど、そう言ったところでもう一発、ゲンコツが落ちるだけなので僕は黙った。
準備はすぐに終わった。
トシ爺さんの船が、エンジンを唸らせ、真っ暗な海へと乗り出した。防波堤の先端に、当番の女子が灯りを持って立っている。
その灯りを通り過ぎると、本当にのっぺりと真っ黒な闇が広がっていた。海も陸地も、同じように闇の中に沈んでいる。
こんなことになる前までは、海沿いには、町の明かりが絶えることはなかった。夜に呉線の列車が走る時の明かりも見えた。
あの日が来て、しばらくしてから。今度は、火事の明かりが海岸を照らした。燃えるものがなくなって火が消えた後、町に明かりが灯ったことはない。
焼けた町をうろつくのは、ゾンだけだ。
海岸に近づいた僕たちは、ゾン漁を始めた。
「よし、始めるぞ。集魚灯、つけろ」
集魚灯をつけてしばらくすると、強い光におびき寄せられたゾンが砂浜にやってきた。数は二十ほど。
ゾンは虫みたいに動く。昼間は太陽に興味を示さないくせに、夜になると明かりに引き寄せられるのだ。
ふらふらと波打ち際までゾンが近づく。
ゾンの着ている服は汚れてぼろぼろだ。靴をはいていないゾンもいる。
何体かのゾンが、波に足を取られて転ぶ。
起き上がってざぶざぶと膝のあたりまで海に入るが、そこまでだ。ゾンは泳げない。呼吸しないから海の中でも溺れないが、浮力が発生するせいで、ろくに歩くこともできない。潮の流れに合わせて海の中をごろごろしているうちに、海底の泥にはまるか、ばらばらになって動きを止める。
「カセットテープを回せ」
トシ爺さんが命令する。スピーカーが大音量で流すのは演歌だ。こぶしの聞いた歌声が、まだ暗い海に響き渡る。
緊張ばかりのゾン漁だけど、この時だけはちょっと笑ってしまう。スピーカーに繋いであるのは音楽プレーヤーで、カセットテープじゃない。そもそも、トシ爺さんが持ってたこの演歌だって、収録してあるのはカセットテープじゃなくて音楽CDだった。それを僕が音楽プレーヤーに入れて再生しているのだ。どこにもカセットテープはないのに、トシ爺さんにとって、音楽はカセットテープを回して流すもののようだ。
集魚灯に引き寄せられて波打ち際でウロウロしていたゾンたちが、演歌が流れると意を決したように海の中に入ってくる。
浜辺からゾンがいなくなる。新たなゾンもやってこない。
「よし、網を下ろせ」
僕たちは協力してゾン網を下ろす。時々、うまくできなくて止まるが、何とか子供だけで下ろすことができた。
僕はタオルで汗を拭った。
トシ爺さんもタケ爺さんも、もう歳だ。いずれ僕たちだけでゾン漁をする時がくる。
その時のために、船の動かし方、網の扱い方。全部をできるようにならないと。
ペットボトルに入れた麦茶をみんなで回しながら、僕は手銛を目た。今はゴムで操舵室の壁に留めてある。
「馬鹿野郎。ヘンな気を回すな」
操舵室でハンドルを回していたトシ爺さんが僕にゲンコツを落とした。こっちを見ていなかったはずなのに、僕が何を見ていたのかトシ爺さんには丸わかりなのだ。
「でも、トシ爺さん」
僕がゲンコツを覚悟で口答えすると、トシ爺さんは唇の端をぐいっ、と歪めた。
「先生が出張に行く前に約束しとる。子供には、ゾンをやらせん」
僕は黙った。
理屈では絶対に僕の方が正しい。
網で引き揚げられるゾンの頭を手銛で突くのは、怖いけれど危険は少ない仕事だ。網に絡まってぐるぐる巻きになったゾンは、こっちが不用意に手を出さなければ噛み付かれることはない。そして万が一に噛み付かれても、ちゃんと作業用長手袋をしていれば、指の骨が砕けるほど強く噛まれても、感染まではしない。
もちろんトシ爺さんが言ってるのは、ゾンの危険じゃない、というのは僕にも分かった。
でも、仕方がないじゃないか、と僕は思う。
あの日から、僕たちは『仕方がない』の中で生きている。
二泊三日の臨海学校が終わっても、僕らは家に帰ることができない。
魚はあっても、肉は缶詰しかないし、他の食事も保存食ばかり増えていく。
漫画も、新しいのはもう出ない。
中学になったら買ってもらえるはずだったスマホは――今はもう手元にある。買ってないけど。ネットには繋がらないけど。
そして、先生がずっと『出張』から帰って来ないのだって――
何もかもが、仕方ない。
世の中は変わってしまった。
たくさんの人が殺されて、ゾンになった。
ゾンはもう、人じゃない。人の形をしているけど、死んでいる。あれはもう、ロボットみたいなものだ。死んだ人に取り憑いて、動かしているだけ。
だから、僕たちが生きるためゾンを殺すのは――破壊するのは『仕方がない』。
僕は、間違っていない。
トシ爺さんの船は、少し沖合を砂浜に並行に航行する。
Uターンして、もう一回。
さらに、もう一回。
トシ爺さんは、演歌を止めさせた。
「よし。網を巻き上げろ!」
デデデデデ。巻き上げ機がぐるぐると回って網に繋がったロープを巻いていく。
漁船がぐっ、と後ろに傾く。ゾンを絡めた網は重い。
トシ爺さんは、赤い手銛を取り出すと、船尾に陣取った。
僕は巻き上げ機の係だ。レバーを握って、待つ。
「止めろ!」
即座にレバーを下げる。ドラムが止まる。
トシ爺さんは海水でびしゃびしゃに濡れた甲板に足を踏みしめ、右手に握った赤い手銛を、ぐっ、と振り上げた。
集魚灯の光に照らされたゾンの姿が海面近くに見えた。網に絡まって、ねじれた格好になっている。トシ爺さんが腕を振り下ろし、ゾンの頭に銛が突き刺さる。もぞもぞ動いていたゾンが、びくん、と一回痙攣して、止まる。
「南無阿弥陀仏」
銛を引き抜いて、トシ爺さんが念仏を唱える。
ゾンの『抜け殻』を手鉤で甲板に引き揚げる。力がいるのでマッくんがトシ爺さんを手伝う。
トシ爺さんは引き揚げた『抜け殻』に手を合わせ、何か身元の証明になりそうなものがあれば、回収する。
それが終わったら、マッくんと他の子が『抜け殻』を海に捨てる。これは急いでやらないといけない。
ゾンは腐らないし、虫も魚もゾンを食わない。けど、『抜け殻』になってしまうと、一気に腐る。というか、溶け始める。この時の臭いはすごくきつい。理科準備室の臭いを強くしたような、ホルマリンに似た臭いだ。
この『抜け殻』を捨てる作業は、誰もが嫌がる。染みついた臭いはなかなか落ちない。ご飯なんかとても食べられないから、港に戻ったら、食事よりもお風呂が先になる。
「巻け!」
レバーを上げる。
「止めろ!」
レバーを下げる。
「南無阿弥陀仏」
トシ爺さんが念仏を唱える。
この繰り返しだ。
あたりを漂うきつい臭いに、目が痛くなってくる。
ゾン漁は、戦いじゃない。危険で汚い、けれど、ただの作業だ。
そして、作業には、事故が付きものだ。
「あっ」
『抜け殻』を海に捨てていたマッくんが足を滑らせた。さっきから『抜け殻』を急いで捨てようとして、マッくんの動きがぞんざいになっていたのには僕も気付いていた。だけど、早く終わらせたいのは僕も同じだから、注意しなかった。
マッくんが海に落ちそうになるのを身体をぶつけるようにして止めたのは、トシ爺さんだった。反動でトシ爺さんの作業着が、巻き上げ機の回転するドラムに巻き込まれる。
「おおっ」
トシ爺さんが唸る。僕は即座にレバーを下げた。
トシ爺さんはのけぞってドラムに張り付いたまま動かない。まだ服が巻き込まれたままだ。僕は震える指で逆回転に切り替え、レバーを上げる。トシ爺さんの身体が甲板に倒れる。レバーを下げる。
「トシ爺さん!」
僕はトシ爺さんに駆け寄った。
「ぐっ、ぐうっ、ぐっ」
トシ爺さんは甲板に額をくっつけてしばらく唸っていたが、やがて顔を上げ、僕を見た。脂汗がだらだら流れている。
「よくやった。わしは大丈夫じゃ。ひねっただけで骨まではいっとらん」
続いて顔をぐしゃぐしゃにして泣いているマッくんに、ゲンコツを落とす。
「反省せい、このバカ」
「う、うん。ごべんなさい」
甲板に座り込み、トシ爺さんは顔をしかめた。
「さすがに、ここでゾン漁は終わりだな。網を切り放せ」
「僕がやるよ」
僕が言うと、トシ爺さんはじろり、と僕をにらんだ。まだ言うか、という顔だ。
「大事な網を捨てるのはもったいないし、せっかくかかったゾンを逃がす手はないよ」
「そんなものは、理由にならん」
「早くゾンを減らして町の病院まで行けるようにならないと、死ぬ人が出るんだろ」
「……どこで聞いた」
「子供にだって耳はある。頭もついてる」
島に元からいたのは、年寄りばかりだ。そして島には病院も診療所もない。
高血圧や糖尿。痛風や緑内障。お年寄りは、皆、何かの病気を抱えている。今は元気にみえても、薬がなくなったから、みんなすぐに身体を壊してしまう。
タケ爺さんが女子を運んでいる島の病院で少しはもらえるだろうけど、あっちだって備蓄はもう尽きかけている。
しばらくトシ爺は僕をにらんでいたが、目をしばたたかせ、そして顔をそらした。
「……仕方がない、か」
トシ爺さんは、甲板に転がっていた赤い手銛を拾い、僕に柄を向けた。
「ありがとう」
「馬鹿野郎。礼を言うんじゃねえ」
それは苦々しい、本気の怒りがこめられた声だった。
いつも僕たちを怒鳴って、ゲンコツを落とす時の声は、ひどく優しいものだったのだと、僕はその時に気付いた。
僕は手銛についたゴム輪を腕にくぐらせ、柄を握った。
「マッくん、巻き上げ機を頼む」
「う、うん」
マッくんが、涙をぬぐって立ち上がる。
僕は船尾に立ち、手銛を構えた。
不思議と心は静かだった。
心臓はバクバクいっていた。
どっちが僕の本当なのかは、分からなかった。
分かる必要もない、と僕は思った。今はやることがある。悩むのはその後だ。
「巻け!」
僕は大声で叫んだ。
(おしまい)