幕間 甘えん坊の家長殿
2021.1/25 更新分 1/1
・今回は、全8話の予定です。
朱の月の2日――ダリ=サウティの率いるサウティの血族の人々は、ファの家から自分たちの家に戻っていった。
ダリ=サウティたちは数日をそれぞれの家で過ごしたのち、今度はフォウの血族と家人を貸し合う予定になっている。その際にも、サウティの血族の女衆らは屋台の商売や勉強会に参加したいと言ってくれていたが、もちろん毎日のことではないだろう。それよりもまず彼女たちは、フォウの血族と絆を深めることを最優先にしなければならなかったのだった。
それにダリ=サウティは、雨季が明けたらまたファの家に逗留を願いたいという申し出をしている。狩りの仕事もかまど仕事もわずか5日間では十分な成果をあげることがかなわなかったため、あらためて交流の期間を設けることになったのだ。
何にせよ、最初に設定された交流の期間は、この5日間で終了したことになる。
ダリ=サウティたちの姿を見送って、朝の仕事に励みながら、俺はしみじみと息をつくことになった。
「いきなりみんないなくなっちゃうと、なんだか物寂しい心地だな。特にダリ=サウティなんかは、存在感がすごかったからさ」
「うむ。しかしこれこそが、ファの家の本来の姿であるのだ」
アイ=ファは、厳粛な面持ちである。その姿を見て、俺は少し可笑しくなってしまった。
「アイ=ファがそうやって朝から厳しい表情をしているのも、客人たちがいたからだろう? もう気を張る必要はないんじゃないのかな」
「うむ? 私はそれほどに厳しい顔つきをしているのか?」
「うん。なんなら手鏡で確認してみたらどうだろう?」
「いらぬ世話だ。そうまでして自分の顔を見ようなどとは思わん」
そんな風に言ってから、アイ=ファは手の平で自分の頬を撫でさすった。
そして、やわらかい光をたたえた青い瞳で俺を見つめてくる。
「ともあれ、長い5日間であった。べつだんダリ=サウティらを忌避するわけではないのだが……自分がどれだけ客人というものを苦手にしているか、思い知らされた心地だ」
「うん。ジバ婆さんとかリミ=ルウとかだったら、そんな気疲れもしないんだろうけどな。ロイたちもしばらくは都合がつかないみたいだから、ゆっくり気持ちを休めてくれよ」
「うむ」とうなずいたアイ=ファがやわらかい眼差しのまま、俺のほうに近づいてこようとする。
そのとき、玄関の戸板が勢いよく叩かれた。
「おい、起きているか!? 俺だ、ラッツの家長だ! 起きているなら、ここを開けてくれ!」
とたんにアイ=ファは顔をしかめて、戸板のほうに向きなおった。
「このような朝から、何用だ? 何か変事でも生じたのか!?」
「変事といえば、変事だな! とにかく話を聞いてもらいたい!」
アイ=ファは深々と溜息をついてから、戸板の閂を外して時ならぬ客人たちを出迎えた。
ラッツの家長を筆頭とする6名の男衆が、どやどやと土間にあがりこんでくる。今日も朝から雨であったため、髪や狩人の衣がしっとりと濡れそぼっていた。
「朝からすまんな! 実は折り入って、聞いてもらいたい話があるのだ!」
「うむ。どういった用件であろうか?」
「その前に、足を拭かせてもらえんだろうか? 腰を据えて、じっくり聞いてもらいたいのだ!」
アイ=ファは溜息を押し殺しつつ、土間に設置された水瓶と織布を指し示した。しかるのちに、湿った狩人の衣と刀を預かり、6名の男衆を広間に招き入れる。
「こやつは眷族たるアウロの家長で、残る4名はラッツとアウロの分家の家長たちだ。ラッツにはあとふたりほど分家の家長がいるのだが、荷車に乗りきれないので留守を預かってもらうことにした」
ラッツの家長はそのようにして、同行した男衆らの身分を紹介してくれた。ラッツにはあとひとつ、ミームという眷族があるのだが、そちらは家が遠いために同行させなかったのだろうか。
しかし何にせよ、眷族や分家の家長たちを引き連れてくるなどというのは、大ごとだ。俺とアイ=ファが姿勢を正して向かい合うと、ラッツの家長は勢い込んで語り始めた。
「では、心して聞いてもらいたい! 実はだな、俺たちはこのような雨季の真っ只中に、休息の期間を迎えることになってしまったのだ!」
「ああ。その話ならば、アスタからすでに聞かされていた。どうしても、雨季の終わりまではずらせなかったようだな」
ちょうど昨日がラッツの女衆が屋台の当番の日であったため、俺はそちらから情報を仕入れていたのである。血気盛んなるラッツの若き家長は、右の拳を振り上げながら「そうなのだ!」と大きな声をほとばしらせた。
「俺たちも、ついにこのたびからガズやベイムの血族と収穫祭をともにしようと話を詰めていたところであったのに、これでは台無しだ! こんな雨では、収穫祭も力比べもへったくれもないからな!」
「うむ。しかしこればかりは、誰を恨むこともできまい。12ヶ月の内の2ヶ月が雨季であるならば、6回に1回は雨季と休息の期間が重なっても不思議はないのであろうからな」
「だが、それがどうして今回なのだ!? ガズやベイムにはどれだけの力を持つ狩人が存在するのかと、俺はずっと心待ちにしていたのだぞ! これが母なる森の意思であるというのなら、あまりにひどい仕打ちではないか!」
大きな声を張り上げながら、ラッツの家長はとても嘆き悲しんでいる様子である。とにかく彼は俺が知る中でも、指折りで直情的な気質であるのだ。ラウ=レイやダン=ルティムと同程度といえば、その度合いも察していただけるだろうか。
「……それで? お前たちはいったい何のために、ファの家を訪れたのだ? 誰に相談しようとも、休息の期間をずらすことはできまい?」
「うむ。あまりに憤懣やるかたなく、じっとしていられなかったのだ。サウティの族長らは、この朝で自分たちの家に戻ったのであろう? ならば今度は、ラッツの血族をファの家に逗留させてもらえぬだろうか?」
アイ=ファは威厳のある面持ちのまま、まぶたを半分だけ下げた。
「……いまひとつ意味を理解しかねる。お前たちが収穫祭を行えなかったこととファの家への逗留に、いったいどのような繋がりが存在するというのだ?」
「うむ? それはだから、収穫祭や力比べを行えなかった悲しみを、別なる喜びで癒やしたく思ってのことだ。アイ=ファやアスタと長きの時間をともにできれば、そんなものは楽しいに決まっているからな!」
そう言って、ラッツの家長は白い歯をこぼした。これもまた、ラウ=レイに通ずる直情的な好意の表明であろう。かつてはラウ=レイもこのような強引さで、ファの家への逗留を願ってきたのである。
が、アイ=ファは厳しい表情を保持しながら「否」と答えていた。
「申し訳ないが、ファの家長としてその申し出を受け入れることはできん。お前もラッツの家長として、もうひとたび自分の行いを顧みるがいい」
「なに? どうしてそのようにつれないことを言うのだ? ファとラッツの仲ではないか!」
「絆の深さは関係あるまい。そもそも休息の期間とは、日々の仕事の疲れを癒やしつつ、家人と絆を深めるための期間であるはずだぞ。それを余所の家で過ごしては、道理が通るまい」
「ううむ、しかし……」
「では、仮にお前たちをファの家に滞在させるとして、私が狩りの仕事に出向いている間、お前たちはどのように過ごすのだ? ファの狩り場で仕事をともにするのであれば身体を休めることもかなわんし、家に居残っても相手にする家人はおらん。それで自分たちの家に戻るという話であれば、けっきょく朝方と夜にしかファの家にいないことになる。お前たちは何の仕事も果たさぬまま、ただファの家で晩餐を喰らい、夜を明かすことになるのだぞ。それでどのように絆を深めようというのだ?」
ラッツの家長は、がっくりと肩を落としてしまった。
「それはまあ……その通りなのであろうな……」
「うむ。他の氏族とて、休息の期間に家人を貸し合うことはあるまい。朝から夜まで家族とともに過ごせるというのは、誰にとっても大きな喜びであろう? 猟犬を迎えてからは休息の期間も間遠になってきているのであるから、その時間はいっそうかけがえのないものになるはずだ」
「うむ。俺もそのように思う」と同意を示したのは、アウロ本家の家長であった。こちらは、壮年の男衆だ。
「本来は、俺が親たるラッツの家長を諫めるべきであったのだがな。けっきょくファの家長の手をわずらわせることになってしまった。心から、申し訳なく思っている」
「なんだ、お前もそのように思っていたのか? だったら、そう言えばいいだけのことではないか!」
「俺は子たるアウロの人間として、ラッツの家長の意思に添いたいと願っている。……それに俺は、年寄りだからな。最近の森辺は色々と様変わりしているため、若い人間のほうが正しい判断を下せるだろうとも思うのだ」
そう言って、アウロの家長は大らかに微笑んだ。
「しかし、ラッツの家長よりもなお若いファの家長がこのように言うからには、やはり俺の見立ても外れてはいなかったのだろう。俺たちは、いにしえよりの習わしの何を重んじて何を変えていくべきか、入念に考えながら日々を生きていかなくてはならんのだと思うぞ」
「ううむ。この考えを思いついたときには、これぞ妙案と思ったのだがな。……確かにファの家に逗留する人間ばかりが楽しんでいても、他の家人らは不満がつのるばかりだ。俺たちはファの家と喜びを分かち合う前に、収穫祭を行えない悲しみを家人たちと分かち合わなければならんのだろうな」
そんな風に言ってから、ラッツの家長は猛然と頭をもたげた。
「よし、わかった! さきほどの話は、取り下げさせてもらいたく思う! 朝から道理の通らぬ話を聞かせてしまい申し訳なかったな、アイ=ファよ!」
「いや。わかってもらえたのなら、嬉しく思う」
「では詫びとして、朝の仕事でも手伝わせてもらおう! そしてその後は、中天まで盤上遊戯などに興じるのはどうであろうか?」
今度はアイ=ファが、がっくりと肩を落とす番であった。
「ラッツの家長よ……私の言葉を理解したのではなかったのか?」
「だって俺は、すっかりファの家に逗留させてもらうつもりであったからな! 何もせぬまま家に戻っては、余計に憤懣がつのってしまおう! 休息の期間は半月ばかりもあるのだから、1日の半分ていどを余所の家で過ごしたとて、不実を働いたことにはなるまい?」
そのとき、再び玄関の戸板が叩かれた。聞こえてきたのは、「スドラの家のユン=スドラです」という軽やかな声音だ。
「あれ? もうそんな時間だったのか。それじゃあ俺は仕事がありますので、これにて失礼いたしますね」
そうして俺が腰を浮かせると、アイ=ファが横目でねめつけてきた。
「……今日は、屋台の商売も休みの日取りであろう? このように早くから、なんの仕事を果たそうというのだ?」
「うん。茶会の日取りが次の休業日ってことに決まったから、それに向けてトゥール=ディンやリミ=ルウと新しい菓子の研究に取り組むんだよ。それで、勉強会の開始を早めるために、カレーの素とか乾燥パスタの作り置きを早めに仕上げちゃおうって話になったんだけど……アイ=ファにも、一昨日あたりに伝えたよな?」
アイ=ファは青い瞳をまぶたに隠し、こらえようもなく溜息をついた。
「確かに、聞いていた。……そうか、それが今日であったのだな」
「うむ! ならばアイ=ファも、手すきなわけだな? ひさびさに盤上遊戯で勝負してもらえたら嬉しく思うぞ!」
ラッツの家長がにこにこと笑いながら言いたてると、アイ=ファは糸のように細めた目でそちらをじっとりとねめつけた。
「……その前に、まずは薪割りだ。仕事を果たすまで、遊び呆けることはできん」
「では、手伝おう! これだけ男衆が居揃っておれば、薪割りなどはすぐに終わろうさ!」
ということで、俺とアイ=ファはサウティの人々が帰還した物寂しさをろくに噛みしめるいとまもないまま、自分たちの仕事に取りかかることになってしまったのだった。
◇
そうして、夜である。
きわめて充実した1日を過ごした俺は、晩餐の場で意気揚々とその顛末を語らっていた。
「茶会で出す菓子は、無事に完成したよ。あの出来栄えなら、オディフィアたちもきっと大満足だろう。今から当日が楽しみでならないな」
「そうか」と応じるアイ=ファの顔は、まだいくぶんの硬さを残していた。サウティの人々を見送ったとたん、新たな客人を迎えることになってしまい、なかなかよそゆきのフォームが解除できなかったのだろう。食欲のほうは相変わらずだが、やはり俺としても心配なところであった。
「……なあ、大丈夫か、アイ=ファ? ラッツの家長も、ファの家に思い入れを持ってくれているからこそ、あんな風に押しかけてきたんだろうけど……ちょっと今日ばかりは、間が悪かったな」
「うむ。収穫祭と力比べが行えないことによって、心を乱してしまっていたのであろう。ああして率直に振る舞えるのはあやつの美点でもあるのだろうから、あまり責めたてるわけにもいくまい」
と、口を開けば寛大で凛々しいアイ=ファである。
それはそれでアイ=ファの確かな一面であるのだろうが――やはり、堅苦しさは否めない。狩人らしい凛々しさと少女らしい愛らしさが共存してこそ、アイ=ファであるのだ。
(こればかりは、時間をかけてリハビリするしかないか……本当にアイ=ファって、気心の知れない相手と過ごすのが苦手なんだな)
しかしアイ=ファは、またいずれダリ=サウティたちが逗留したいという申し出を受け入れていた。かつて自分で言っていた通り、他者と絆を深めるためには忌避ばかりしてはいられない、という心境であるのだろう。その心意気に、俺は拍手を送りたいぐらいであった。
アイ=ファの心を少しでも和ませるべく、本日の晩餐はハンバーグである。きりりと引き締まった表情をしながら、それでもアイ=ファが幸せそうな眼差しとなっているのが、俺にとっては何よりの救いであった。
そんな感じで、晩餐は無事に終了し――就寝前の、おしゃべりタイムである。
そこでアイ=ファから、ひとつの提案が布告されることになった。
「いまだ眠気には見舞われておらぬが、今日はこの時間を寝所で過ごしたく思う。アスタに異存はあろうか?」
「いや、もちろんかまわないよ。寝具にもぐれば、あったかいしな」
アイ=ファと寝所をともにするのも、5日ぶりのことである。
きっとアイ=ファも、この時間を心待ちにしていたのだろう。そのように考えれば、温かい気持ちになってやまない俺であった。
寝所に入って寝具に手をかけると、その隙間に忍び込んでいたサチがするりと抜け出してくる。そうして寝具が整えられると、いちはやく毛布の中に潜り込むのも、雨季になってから定番となったサチの姿であった。
「サチは本当に寒がりだなあ。いっそ服でも作ってあげたいぐらいだ」
俺はサチを蹴飛ばしてしまわないように気をつけながら、腰から下だけ毛布の下に潜り込ませた。そうして壁に背をもたれれば、おしゃべりタイムの準備も万端である。
アイ=ファはさらりと髪をほどいて、自分の寝具で同じポーズを取る。
が、そうして腰を落ち着けるなり、アイ=ファは前髪をかきあげて憂いげに息をついた。
「……アスタよ。私はティアと決別して以来、眠っている間にお前の温もりを求めるようになってしまった」
「え? う、うん。いきなりどうしたんだ?」
「黙って聞くがいい。……しかし、雨季になって寝具の毛布を増やして以来、そういった行いも控えられるようになっていた。毛布をかきわけてまでお前のもとに身を寄せるのが困難であったのか、あるいはティアとの決別からもたらされた悲しみを乗り越えられたためであったのか……もとよりそれは眠っている間の行いであったため、私自身にも判ずることができない。しかし何にせよ、それはめでたき行状であろう。我々は、むやみに触れ合うべきではないと決めた身であったのだからな」
「うん……そうだな」
「私は狩人として生きると決めたため、婚儀をあげることができん。婚儀をあげて、子を生し、母として生きるならば、狩人の仕事を果たせなくなってしまうゆえだ。バルシャのように、子を生してから狩人の仕事を再開させるという道もあるのであろうが……それでもあるていど子が育つまでは、狩人の仕事を果たすこともできまい。だから、私は……自分の中に狩人としての気持ちが燃えさかっている間は、婚儀をあげずに狩人として生き続けたいと願っている」
「うん。それは重々、承知しているよ」
俺は、平静な気持ちでそのように答えることができた。
アイ=ファは凛々しい面持ちで、俺のほうは見ようとしないまま、静かに言葉を綴っていく。
「そんな私でも、いずれは狩人としての仕事を果たしきったと思える日がやってくるかもしれんし……あるいは仕事のさなかに深手を負って、狩人として生きていけなくなる日がやってくるかもしれん。そのときは……お前と婚儀をあげたいと願っている」
このいきなりの発言に、俺の平静さは呆気なく砕け散ることになった。
しかしまた、それも以前に交わした言葉である。俺たちは、そうしてひそやかに将来を誓い合っていたのだった。
「かえすがえすも、私は傲慢な人間だ。お前などは、いつでも伴侶を迎えられる立場であるのに……私などのせいで、その生を縛られてしまっている」
「でも、それが俺にとっての望みでもあるってことは、もう何度も伝えてるよな」
「うむ……お前がそのように言ってくれたことを、私は何より幸福に思っている。自分がこれほどに幸福であることが信じ難いほどにな」
アイ=ファの声は、まだ凛然とした響きを残している。そうでなければ、俺はもっと盛大に心を乱していたことだろう。
「……それで? アイ=ファはどうして、いきなりそんな話を始めたんだろう?」
「うむ。我々の立場というものを、確認しておきたかったのだ。我々はそういった思いの中で生きているのだから、今はみだりに身を寄せ合うべきではない。森辺の習わしに従って、おたがいの身に指一本ふれることなく、慎ましく振る舞うべきであろう」
「うん。まったく異存はないよ」
アイ=ファが、ちらりと俺を見てきた。
心なし、その唇がとがっているように見受けられる。
「……異存は、ないのだな?」
「う、うん。ないけど……あれ? 俺は答えを間違えちゃったのかな?」
「いや。お前は森辺の民として、正しき心を育んでいるのであろう。家長として、誇らしく思う」
言いざまに、アイ=ファが毛布をはねのけて立ち上がった。
そうして俺のかぶっていた毛布をも引き剥がすと、「なうう」と不平の声をあげるサチをすくいあげ、反対の側に移動させてから、空いたスペースに腰を下ろす。毛布がもとに戻されると、ふたりがひとつの寝具に座している格好となった。
「……これは、私の罪となる。よって、お前が気にかける必要はない」
「つ、罪? いったい何の話だよ?」
「私たちは、みだりに触れ合うべきではない。しかし、どうにも我慢がきかんのだ」
さきほどまでの凛々しい立ち居振る舞いはどこへやら、アイ=ファはすねたような口調で言いながら、俺にしなだれかかってきた。
とはいえ、おたがい壁にもたれた格好であったので、俺の肩にアイ=ファが頭を乗せているだけのことだ。それでも、俺の胸を騒がせるには十分な急接近であった。
「……我々は近日中に、ロイとシリィ=ロウを客人として迎える予定になっている。それまでに、私は力を取り戻さなければならんのだ。であれば、これは他者と十分な形で絆を深めるために必要な措置であるともいえよう」
「なるほど」と答えながら、俺はアイ=ファのやわらかい髪にそっと頬を押しつけてみせた。
「いきなり真剣に語り出すから、いったい何事かと思ったよ。でも、アイ=ファぐらい清廉な人間だったら、それぐらい真剣に思い悩むのが当然なんだよな」
「……清廉な人間は、このように不甲斐ない姿をさらすこともあるまい」
「不甲斐ないなんてことはないよ。ちょっぴり甘えん坊なだけでさ」
アイ=ファは俺の頬にぐりぐりと頭を押しつけてから、すっと身を離してしまった。
「あれ? 今度こそアイ=ファを怒らせちゃったかな?」
「うむ。機嫌を損ねたので、今日は早々に眠ることとする」
つんと顔をそむけながら、アイ=ファは長袖の上衣を脱ぎ捨てた。眠る際には、その下に着込んだ長袖の肌着だけで眠るのが雨季の習わしであったのだ。
そうして身軽になったアイ=ファは、もぞもぞと毛布に潜り込む。自分の寝具ではなく、俺の寝具の毛布である。俺は心臓が騒いでしまったが、もちろん文句をつけることなどはできなかった。
(5日間も寝床を別にするってのは、アイ=ファにとってそれだけ心の負担だったわけだな)
もしかしたら、それは俺がリフレイアに誘拐されてしまった際のトラウマも無関係ではないのであろうか。その期間、アイ=ファは俺が生きているかどうかも確認するすべがなかったのだから、俺以上に苦しい日々であったはずなのだ。
(アイ=ファはこんなに懸命に、森辺の民として正しく生きようとしているんだ。ちょっとぐらいの粗相は、母なる森だって見逃してくれるはずさ)
そんな風に考えながら、俺も上衣を脱ぎ捨てて、アイ=ファのかたわらに身を横たえることにした。
とたんにアイ=ファがこちらに向きなおり、俺の右腕を抱きすくめてくる。衣服ごしにも、アイ=ファの温もりと力強さとしなやかさが伝わってきた。
「……眠るんだったら、燭台の火を消そうか?」
俺はそのように囁きかけたが、アイ=ファは答えない。
そして10秒と待つことなく、アイ=ファはがばりと身を起こしてしまった。その勢いで毛布がめくれて、サチは再び「なうう」と不満の声をあげる。
「これでは、不十分なようだ」
ぶっきらぼうな声で言って、アイ=ファは肌着をも脱ぎ捨てた。俺は思わず「うわ」と声をあげてしまったが、その下にはもちろん渦巻模様の胸あても着用している。いっそう身軽な姿となったアイ=ファは、うろんげに俺を見下ろしてきた。
「何が、『うわ』であるのだ?」
「あ、いや、あまりに豪快な脱ぎっぷりだったから……アイ=ファのそんな姿を見るのも、ほとんどひと月ぶりだしな」
胸あてだけの衣装というのは、これほどの破壊力であっただろうか。森辺の狩人として鍛え抜かれつつ女性らしい優美さをもあわせ持ったアイ=ファの肢体があらわにされて、俺は目のやり場に困るほどであった。
燭台の火に、褐色のなめらかな肌が照らし出されている。綺麗な形をした鎖骨に、引き締まった肩や腕、装束の布地を大きく押し上げる胸もとに、きゅっとくびれた腰のライン、腹筋の線がうっすらと浮かんだシャープな腹部――宝石のようにきらめく金褐色の髪に彩られて、アイ=ファの肢体が輝いているかのようだった。
「そ、そんな格好じゃ寒いだろう? 早く毛布に入ったほうがいいと思うぞ」
「うむ」とうなずいたアイ=ファは毛布に潜り込み、当然のように俺の右腕を抱きすくめてきた。アイ=ファの肌着が消失した分、その温もりやあちこちのやわらかさが、いっそう鮮明に伝わってくる。
が――アイ=ファはむずかる幼子のように身をよじり始めた。
「これでも、不十分なようだ。……アスタよ、お前もその装束を脱ぐがいい」
「あ、いや、俺はこの下に何も着てないんだよ。さすがに裸で眠るのは、身体に悪いだろう?」
アイ=ファは不満げな目つきで俺の顔をにらみあげると、またもや毛布をするりと抜け出して、そのまま寝所を出ていってしまった。
そうして戻ってきた際には、その手に白いTシャツが握られている。わざわざ物置部屋から引っ張り出してきたのだ。
「……着替えろ、ということですね?」
俺は観念して身を起こし、アイ=ファに背を向けつつ肌着を脱ぎ捨ててみせた。
とたんに、温かい指先が左肩にのせられる。
「……やはり、ずいぶんな傷痕になってしまったな」
その場所には、ムントの爪痕が残されていたのだ。
それほど深い傷ではなかったが、長さは10センチ以上にも及ぶ。そんな傷痕が並行に3本、肩から胸の上側にまで、くっきりと赤く刻みつけられているのである。
「痛々しい傷痕だ。……この傷痕を見るたびに、私はお前を守りきれなかった口惜しさを噛みしめることになろう」
「いや、アイ=ファは気にしないでくれよ。……寒いから、それをもらえるかな?」
「しばし待て」という言葉とともに、俺の背中が撫で回された。
あまりの不意打ちに、俺は「ひょわあ」と声をあげてしまう。
「お前はずいぶんと、頑健な肉体になっていたのだな。もちろん狩人の男衆とは比べるべくもないのだが……以前に見たときとは別人であるかのようだ」
「そ、それはありがとう。……いやー! 脇腹は勘弁して!」
「なんという声を出すのだ」と、頭を叩かれてしまった。しかし優しい叩き方で、その声は笑っている。
「さっさと装束を纏うがいい。私もいささか、身体が冷えてきた」
「俺だって、さっきからそう言ってるのに……」
ぶちぶちとぼやきつつ、俺はひさびさのTシャツに腕を通す。が、物置部屋に仕舞われていたその生地は、背筋が粟立つほど冷たかった。たまらず俺は、毛布の中に避難することにする。
「こんなことで病魔を患ったら、それこそ大変だぞ。病魔には敏感なアイ=ファらしからぬ振る舞いだな」
「不十分であったのだから、しかたあるまい」
わずかに甘えたような声で言って、アイ=ファが俺の右腕を抱きすくめてきた。
今度は、おたがいに素肌である。アイ=ファの温もりとさまざまな肌触りが、ダイレクトに俺の内へと流れ込んできた。
「こうして身を寄せ合っていれば、病魔に見舞われることもあるまい」
「さて、どうだろうな。右腕だけは温かいけどさ」
照れ隠しで、俺はそんな軽口を叩いてしまった。
満足そうにまぶたを閉ざしかけていたアイ=ファが、心配そうに俺の顔を見上げてくる。
「これでは、温もりが足りぬか? ……そうか。お前の左腕は剥き出しのまま、何にも触れていないのだな」
「いや、ほんのりサチに触れてるけど……お、おい、アイ=ファ?」
俺の右腕を解放したアイ=ファが、うつ伏せの体勢で俺にのしかかってきた。
俺の右肩に左の頬を乗せる格好で、俺に覆いかぶさってくる。腕には腕が、足には足が、胴体には胴体が、それぞれぴったりと重ねられる格好だ。
「うむ。これでよかろう」
「いやいやいや。この体勢で一夜を明かしたら、俺は身体がどうにかなっちゃいそうだよ」
何せ、俺の上にアイ=ファの身体が完全にかぶさっている格好であるのだ。アイ=ファの温もりと質感が全体重をかけて押し寄せてくるのだから、俺はさまざまな意味で息が詰まってしまいそうであった。
「……お前はずいぶん肉体が鍛えられたようであるので、問題はないかと思ったのだが」
アイ=ファは不満げに言いながら、俺の上から這いおりた。
そして、きらりと青い瞳を光らせる。
「わかったぞ。お前も、こちらを向けばいいのだ」
俺がアイ=ファのほうに向きなおると、アイ=ファは右腕で俺の身体を抱きすくめて、左腕を俺の右腕にからめてきた。
体勢が横向きになっただけで、完全に密着状態である。なんだかもう、俺は頭が沸騰してしまいそうであった。
「ア、アイ=ファはこれで安らかな眠りが得られるのかな?」
「うむ。これ以上なく、幸福な心地だ」
うっとりと目を細めながら、アイ=ファはそんな風に言っていた。
最前までの凛々しい表情は完全に溶け崩れて、一種あどけない少女の表情になっている。――そういえば、俺がアイ=ファのこのような表情を目にするのも、5日以上ぶりであるはずであった。
「これは私の心を癒やすための行いであるので、お前に罪はない。安心して眠るがいいぞ」
「……罪があるなら、ふたりで分かち合うよ」
俺は空いていた左手で、アイ=ファの髪を撫でてみせた。
アイ=ファはいっそう幸福そうな表情で、俺に微笑みかけてくる。
そうして俺たちは、とうてい人様には言えないような手段でもって、この5日間の別離で生じた何かを癒やすことになったのだった。