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異世界料理道  作者: EDA
第五十八章 雨に唄えば
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サウティの血族⑥~終わりの夜~

2021.1/9 更新分 1/1

・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。

 そうしてルウ家における勉強会を経て、また晩餐である。

 サウティの血族とともにする、ひとまずは最後の晩餐だ。

 その日も俺は、ここ最近の勉強会の成果を広間の敷物に広げてみせた。


「最後のひと品は出来立てを召しあがっていただきたいので、こちらにお出しした晩餐があらかた片付いてから準備を始めようかと思います。いささか森辺の習わしに外れる行いかもしれませんが、どうかご容赦ください」


「なに、料理の内容が変わっているのだから、晩餐の習わしもそれにつれて変えていくべきなのだろう。べつだん礼を失するような行いではないだろうし、何も気に病む必要はないように思うぞ」


 族長たるダリ=サウティにそのように言ってもらえるのは、ありがたい限りであった。

 というわけで、まずはアイ=ファに食前の挨拶をお願いする。このメンバーでこの文言を唱えるのも、これが最後であるのだった。


「うむ、今日も豪勢だな! というか、ひときわ豪勢なのではないか?」


 文言を唱え終えるなり、ドーンの長兄は弾んだ声でそのように言っていた。実直なるヴェラの家長は厳しく面を引き締めつつ、その目を期待に輝かせている。


 今日の晩餐は、中華風でまとめあげていた。

 とはいえ、本場の中華料理などにはさしたる造詣も持ち合わせていないので、あくまで俺のイメージする中華風の献立である。


 主菜は、改良版の回鍋肉とさせていただいた。

 遥かな昔からそれっぽい料理は供していたが、マロマロのチット漬けや長ネギに似たユラル・パのおかげで、俺としてはいっそう満足のいくレシピを構築することができたのだ。


 ただし間の悪いことに、キャベツに似たティノやピーマンに似たプラは使うことができない。味付けのほうは限りなく理想に近づきながら、具材は白菜に似たティンファやパプリカに似たマ・プラで代用するという結果になってしまった。


 とはいえ、それらの野菜もこの味付けに合わないわけではない。俺のイメージからは若干外れるというだけで、完成度という意味では決して不備も見られなかった。


 まずはホボイの油でユラル・パのみじん切りとマロマロのチット漬けとケルの根のすりおろしに熱を通し、香りがたったところでギバのバラ肉を投入する。時間差で、大ぶりに切り分けた野菜の具材を加え、そちらにもあるていど熱が通ったならば、タウ油と魚醤とニャッタの蒸留酒を投入し、強火で一気に仕上げる。これにて、完成だ。


 マロマロのチット漬けは最初に投入することで入念に火が通り、俺が求める味わいをかなりの水準で再現することがかなった。

 タウ油や果実酒などで何とかやりくりしていたこれまでとは、雲泥の差である。もはやこの献立には、不足している食材も存在しないのではないかと思われた。


 そんな主菜に合わせて、主食は王道のチャーハンとなる。

 こちらもユラル・パを獲得したことで、俺はいっそう理想に近づけることができた。

 具材はギバのチャーシューとユラル・パと溶き卵のみで、味付けも塩とピコの葉と少量のタウ油で、シンプルに仕上げている。あとは油にギバのラードを使っているので、そちらの風味も確かな彩りになってくれることだろう。主菜や副菜が濃厚な味わいであったので、こちらはシンプルに仕上げたが、単品で食しても決して不満の残る味わいではないと自負していた。


 副菜のひとつは、焼き餃子である。

 これは、新しく開発したラー油を味わっていただくための献立であった。

 こちらも具材はギバの挽き肉とティンファとペペのみで、ケレン味のない仕上がりとなっている。ただし、ミャームーとケルの根のすりおろしに、タウ油と魚醤も練り込んでいるので、決して弱々しい味わいではないだろう。あとは後付けのタレにとっておきのラー油を垂らせば、いっそう力強い味わいになるはずであった。


「うむ。これはなかなかの辛さだな。しかし、美味いぞ」


 ドーンの長兄は、そんな風に言ってくれていた。アイ=ファも忌避するほどの辛さではないので、満足そうに食してくれている。


 実のところ、ラー油が完成したのは昨日の勉強会の終わり際であり、ほとんど3日がかりであったのだ。

 他の研究と同時進行であったために時間がかかったという面もあるが、ひとつの課題をクリアするごとに新たな課題が見えてしまい、けっきょくこれほどの時間がかかってしまったのだった。


 熱の入れ方に関しては、沸騰した油を最初に少量だけかけて熱を馴染ませ、しかるのちに残りの油を一気にかけるという方法が採用されることになった。ぐつぐつと煮え立つスパイスを攪拌する際には危険な蒸気があがりっぱなしであるが、それは手製のうちわで仰いでもらって目や鼻を守るという、それぐらいの苦労をしてでも、この方法がもっとも理想的であったのだった。


 弱火でくつくつ煮込むよりも、このほうが鮮烈に油へと辛みを移すことができる。ここまでは、研究初日の成果だ。

 しかしそうすると、今度は油そのものの風味が気になってきてしまった。

 もとより俺は、ホボイ油の風味が強すぎるという理由で、レテンの油を加えることになった。しかし、チットの辛さと風味が理想的なレベルに達すると、レテンの油のわずかな風味が気になり始めてしまったのだ。


 レテンの油には、オリーブオイルめいた香りが存在する。イタリア風の料理を作るにはたいそう重宝しているその特性が、このたびは仇になってしまったのだ。

 俺はしばらく、レテンとホボイの比率を試行錯誤することになった。すべての風味がいい具合に調和する黄金比が存在するのではないかと、そこに望みをかけたのである。


 しかし、それを突き止めることはできなかった。

 すると昨日の朝方に、屋台の商売前にルウ家に立ち寄った際、いまだラー油が完成していないと聞かされたミケルが新たな助言をもたらしてくれたのだ。


「そんなに油の風味が気になるのなら、いっそ香草のほうに手を加えてみたらどうだ?」


 香草の組み合わせなど、分量の微調整まで考えたら無限に存在するのだから、それはあまりに修羅の道であるように思われた。

 が、天啓のように閃くことがあった。俺はこれまでにも何度か香草の配合にチャレンジしていたので、それをそのまま応用できないかと思いたったのだ。


 結果的には、それが当たった。

 かつて考案した七味チットの配合が、そのままラー油に活用できたのである。

 七種の香草を配合した七味チットは、さまざまな風味を有している。その風味が、レテンの風味をいい具合に抑制してくれたのだった。


 かくして、理想のラー油は完成した。

 それほど出番の多い調味料ではなかろうが、俺としては苦労をした分、思い入れの強い存在である。また、焼き餃子にラー油が使えるかどうかというのは、俺個人にとっては小さからぬポイントであった。


 あとは舌を休めるために、中華風のコーンスープならぬペレススープも準備している。甘みの豊かなペレスをふんだんに使った、優しい味わいのひと品だ。

 そして、レギィの浅漬けも再登場だ。シャスカを主食にした献立であれば、こちらはおおよそ調和するように思われた。


 あとは野菜が足りていないように思えたので、八宝菜をイメージした副菜も追加している。俺のイメージする八宝菜にタマネギは存在しないのだが、アリアというのは森辺の民にとって何より馴染みの深い食材であるため、あえて使うことにした。あとはアマエビに似たマロールとタケノコに似たチャムチャムとシイタケモドキに、ティンファとネェノンというラインナップで、うずらの卵の代用となる食材が存在しないのが残念なところであった。


「これだけでも十分に豪勢な晩餐であるのに、まだもうひと品残されているというのか? なんとも胸の躍る話だな」


「はい。研究の成果をお披露目したくて、ついつけ加えてしまいました。でも、使用する食材の総量としては、これまでの晩餐と変わりはないはずです」


「うむ。俺たちも、決して無理に胃袋を広げているわけではないからな。ひとつずつの量を抑えて、これだけの種類を準備しているというわけだ。汁物料理にすべての食材をぶちこんでしまえば、同じだけの滋養が取れるのであろうが……それでは、これほどの喜びが得られるわけもない」


 ダリ=サウティはゆったりと笑いながら、そんな風に言ってくれた。


「美味なる料理を口にする喜びこそが力になるというアスタの言葉を、強く思い知らされた心地だ。どれだけ立派な食材を買えるだけの富を得られても、それをただ口にするだけでは足りぬのだ」


「そうだからこそ、ギバを狩る男衆の力とかまど仕事をする女衆の力が、等しく必要になるのですね。わたしはそれを、心より誇らしく思っています」


 サウティの末妹がしみじみとした口調で言ってから、ダリ=サウティの笑顔をおずおずと見上げた。


「ただやっぱり、5日間ではとうてい時間が足りません。あるていど期間は空けるとして、またファの家を訪れることをお許しくださるのですよね……?」


「うむ? ああ、俺たちのほうも5日間ではギバ狩りの新たな作法を確立させることも難しかったからな。いずれ雨季が明けた後にでも、また逗留を願い出ようと考えている」


「雨季が明けた後ですか……」


 雨季の終わりには、まだひと月以上も残されている。サウティの末妹は残念そうに息をつき、ダリ=サウティはその姿を見て苦笑した。


「そのように悄然とした姿を見せられると、いささか言いにくくなってしまうのだが……次にファの家への逗留を願う際は、顔ぶれを変えるべきかどうか決めかねている」


「顔ぶれを、変える? わ、わたしたちではなく、別の家人を同行させようというおつもりなのですか? ど、どうしてです? わたしたちが、何か不始末でも起こしてしまったでしょうか?」


 サウティの末妹はほとんど泣きつかんばかりの勢いであったが、ダリ=サウティはあくまで落ち着いた様子で「いや」と首を横に振る。


「同じ人間がいっそう深く絆を深めさせていただくべきか、あるいはなるべく大勢の人間が絆を深めさせていただくべきか。奥ゆきと広がりのどちらを重んずるべきかを決めかねているのだ。……アイ=ファであれば、どちらを望ましく思うであろうか?」


 サウティの末妹は同じ勢いで、アイ=ファに向きなおる。

 黙然と食事を進めていたアイ=ファは、口の中身を呑みくだしてから「そうだな」と応じた。


「以前にも話した通り、私は初見の相手と絆を深めることを苦手にしている。このたび客人として迎えた面々とも、十分に絆を深められたとは言えぬことであろう。……よって、あまり頻繁に顔ぶれを変えるのは望ましくないように思える」


 サウティの末妹は、子供のようにぱあっと顔を輝かせた。

 それを見て、ダダの長姉はくすくすと笑い声をたてる。


「なんだかあなたは、本当にアイ=ファに懸想してるみたいに見えちゃうね。まあ、微笑ましいからいいんだけど」


「や、や、やめてください! アイ=ファにおかしな娘だと思われてしまうじゃないですか!」


 と、サウティの末妹は顔を真っ赤にしながら、ダダの長姉の肩をぴしゃぴしゃと叩いた。

 確かに、微笑ましい限りである。日中には、俺もむくつけき男どもと似たようなやりとりをした覚えがあるのだが、そちらとはずいぶん様相が異なっているようだった。


「では、そろそろ締めくくりの料理の準備をいたしますね」


 俺は3名の女衆をうながして、準備に取りかかることにした。

 ダダの長姉とヴェラの次姉はドーンの長兄を護衛役としてかまど小屋に向かい、俺とサウティの末妹は母屋のかまどで鉄鍋を火にかける。鉄鍋の中身が温まる間に、空いた食器を片付けてスペースを確保しておいた。


「手順はわかってるね? それじゃあ、お願いするよ」


 緊張した面持ちで「はい」と応じつつ、サウティの末妹は鉄鍋に中華麺を投じて、砂時計をセットした。

 頃合いを見て、俺はかまど小屋に声をかけに行く。そちらから運び込まれたのは、熱々に温めなおされたスープだ。

 人数分の木皿にスープを注いで、茹であがった中華麺をそこに投じる。そうして最後に肉ミソをのせれば、本日の勉強会の成果たる『担々麺』の完成であった。


「ふむ。祝宴や屋台で出されているらーめんという料理を、辛く仕上げたものであるようだな」


 ダリ=サウティの言葉に、俺は「はい」とうなずいてみせる。


「『ギバ骨ラーメン』の味を知るダリ=サウティやアイ=ファには、いささか物足りなく感じられてしまうかもしれませんが……次の機会には、ギバの骨を使った出汁でこの料理に取り組んでみたいと考えています」


「それもまた、楽しみなところだな」


 ダリ=サウティは楽しそうに笑いながら、木皿を取り上げた。

 いっぽうアイ=ファは難しげな面持ちで木皿を見下ろしていたので、俺がその耳に囁きかけてみせる。


「大丈夫だよ。香りほど辛くはないはずだから。俺を信用して、食べてみてくれ」


 やはり、熱されたラー油というのはなかなか強烈な香気であるのだ。しかしまた、森辺においてそこまで強い辛みが求められていないことは先刻承知しているので、そこは俺も最大限の注意を払っていた。


 スープには、キミュスの骨ガラの出汁に、マロマロのチット漬けとラー油、タウ油と魚醤と砂糖、それに練りゴマならぬ練りホボイを使っている。細かくすり潰したホボイをホボイ油で練りあげた、この食材がとりわけ辛みを中和してくれているはずであった。


 そこに乗せる肉ミソは、ギバのミンチをホボイ油で炒めた後、ミソとタウ油と砂糖とホボイ油、それにココリを投入し、入念に絡めたものとなる。スープのほうとだいぶん食材がかぶっているが、煮込んだものと炒めたものでは自ずと味わいも変わってくるので、それが奥ゆきを与えるものと任じていた。


 具材は、小松菜のごときファーナと、白髪ネギならぬ白髪ユラル・パのみとなる。ファーナはスープを温めなおす際に投入して熱を通し、白髪ユラル・パは生鮮のまま最後につけ加えた。


 昨日完成させたラー油を使った、まごうことなき最新作の料理である。

 最後の晩餐の最後のひと品として、大事な客人たちに喜んでもらえたら幸いであった。


「うむ、これは辛い! 煮汁を口にするだけで、汗が噴き出してしまうな!」


 と、いつも通りにドーンの長兄が真っ先に声をあげてくれる。

 確かにうっすらと汗をかきながら、それでもその顔には満足そうな笑みが浮かべられていた。


「しかし、ぎばかれーと同程度の辛さであるのだろう。これは美味いと思うぞ! ぎばこつらーめんというのは、これよりも美味なる料理であるのか?」


「いや。これはもう、まったく異なる料理と評するべきであるのだろう。どちらが上等であるかなどと判ずる気にはなれん」


 そう言って、ダリ=サウティもにこやかに笑ってくれた。


「辛いが、俺も美味いと思う。ギバの骨を使ったならば、さらに美味く仕上げられるのであろうか?」


「それは、試してみないとわかりません。でも、より濃厚な出汁が取れるギバの骨なら、いっそう力強い味わいが求められるのではないかと期待しています」


「そうか。それは、楽しみなところだ。俺たちもフォウと家人を貸し合う際には、ギバの骨で出汁を取るという作法を学ぶつもりであるからな」


 さすがにリリンやムファの家でも、そこまでの手ほどきはされていなかったのだ。ギバ骨で出汁を取るのは一日仕事となってしまうので、それも当然の話であるのだろう。


「本当に、美味なる料理ですよね。いつか家の家族たちとも、この喜びを分かち合いたく思います」


 サウティの末妹は、そんな風に言っていた。勉強会における味見の段階で、彼女はこの料理を大絶賛していたのだ。辛みを好むか好まないかで、この料理に対する評価は大きく変わってくるのだろう。

 では、あまり辛みを得意にしていない我が家長殿は如何なものであろうかと、俺は再びその耳もとに口を寄せることになった。


「どうだ? 辛すぎることはないだろう?」


 アイ=ファは「うむ」とうなずいてから、俺に囁き返してきた。


「いささか舌に痛みは走るが、忌避するほどではない。また、見知らぬ食材を使っているわけではなかろうに、ずいぶん目新しい味わいであるように感じられる。私にはかまど仕事の困難さなど、ろくに理解できていないのであろうが……それでもお前がこの料理を作りあげるために、どれだけ尽力したかは感じ取れるように思う」


 俺は想像していた以上に情感の込められた言葉を聞くことができて、心より幸福な心地であった。

 アイ=ファは厳粛な表情であるが、その眼差しはやわらかい。

 俺は最後に「ありがとう」と告げてから、客人たちのほうに向きなおった。


「これで、晩餐は終わりとなります。今日まで、ありがとうございました」


「礼を言いたいのは、こちらのほうだ。俺も何度か族長の供として、アスタたちの取り仕切りで作られた料理を口にしていたが……この5日間で、アスタの力量というものをいっそう思い知らされたように思う」


 と、寡黙なヴェラの家長が率先して声をあげてくれた。


「それに、さきほど族長ダリ=サウティも言っていた通り、日々の喜びこそが人間にさらなる力を与えるという言葉についてもな……アイ=ファがこれほどに優れた狩人であるのは、アスタの料理によって生きる喜びが増しているからなのではないかと思えるほどだ」


「過分なお言葉、ありがとうございます。でも、アイ=ファはもとから優れた狩人でありましたからね」


「しかし、アスタを家人として迎えて以来、アイ=ファの収獲は目に見えて上がったのであろう? ならば、まったくの無関係ではないように思う」


 すると、俺よりも先にアイ=ファが静かな声で答えた。


「私もそのように思ったからこそ、かつての家長会議でこれが正しき道であると主張することになったのだ。1年をかけて、それが正しいと認められたことを、心から得難く思っている」


「うむ。ファの家にはふたりの家人しかないのに、俺たちは教えられるばかりだな」


 ヴェラの家長は屈託のない微笑をたたえ、アイ=ファもやわらかい眼差しでそれに答えた。

 やはりアイ=ファたちも、この5日間で少しずつ絆を育むことがかなったのだろう。逗留の初日に意見がすれ違ってしまっていたやりとりも、今では懐かしく感じられるほどであった。


 そうして、しんしんと夜は更けていく。

 最後の夜を惜しむかのように、普段よりも少しだけ長めに歓談の場が作られて――ダダの長姉が可愛らしくあくびをもらしたところで、ついにその場も締めくくられることになった。


「では、そろそろ休むか。夜が明けたら、俺たちは家に戻ることにする。礼の言葉は、またそのときに」


 男衆と女衆が、それぞれの寝所に引っ込んでいく。

 俺とアイ=ファは一分少々密談の時間を作って心を和ませてから、その後を追いかけた。


 物置部屋であった寝所には、4名分の寝具がみっしりと敷かれている。

 俺がダリ=サウティの隣の寝具に潜り込むと、ドーンの長兄の手によって燭台の火が吹き消された。

 窓には帳が掛けられているし、外には小雨がぱらついていたので、月明かりが差し込む余地もない。鼻をつままれてもわからないような闇である。

 そんな中、ヴェラの家長の声が低く響いた。


「これが、最後の夜になるのだな。女衆らの弁ではないが、確かにいささか名残惜しい心地だ」


「うむ。以前にルティムの家の世話になったときは、これほどの心地にはならなかったように思うな。それはやはり、ファの家にはふたりの家人しかないため、ひとりずつに対する情の深さが異なってくるためなのではないだろうか」


 と、ドーンの長兄がまったく眠そうな気配もなく、朗らかな声で応じた。


「アイ=ファもアスタも森辺においては指折りの変わり種なのであろうが、俺は好ましく思っている。アイ=ファのような女衆もアスタのような男衆もこれまでに見たことがなかったので、とても愉快な心地だ」


「ありがとうございます。俺もみなさんと同じ時間を過ごすことができて、とても楽しかったです」


 なんとなく、修学旅行の最後の夜を惜しんでいるかのような心地であった。

 俺はどっぷりと日常に漬かっていたような気持ちであったのだが、6名もの客人を5日間も逗留させるというのは、ファの家にとって非日常の範疇であったのかもしれない。先日の騒乱とは比べるべくもない、平穏で満ち足りた非日常とでも称するべきなのであろうか。


「俺も、同じ心地だ。それにやっぱり、アイ=ファというのは本当に優れた狩人であるからな。同じ齢の家長として、俺はいくつも学ばされることがあった」


「うむ。ファの家にはアイ=ファしか狩人がおらぬが、他に狩人があったとしても、アイ=ファであれば正しく導くことがかなったのであろうな」


 のんびりと笑っている顔が容易に想像できそうな声音で、ドーンの長兄はそんな風に言っていた。


「それにアイ=ファは、女衆としてもとてつもない魅力を持っている。……だから族長も、このたびは俺たちを供に選んだのであろう?」


「うむ? どういう意味であろうか?」


「ヴェラの家長はすでに伴侶を娶っており、俺も婚儀の約定を交わした女衆がいる。そうでなければ、また血族ならぬ相手に懸想をする人間が出てくるものと危ぶんだのではないのか?」


 闇の中で、ダリ=サウティは苦笑したようだった。


「その通りだと認めれば、俺には先見の明があったということになるのだろうか? しかし虚言は罪なので、そのような言葉は口に出せぬな」


「ほう。では、俺たちが選ばれたのはたまたまであったのか?」


「むろん、同行させる人間を選ぶにあたってはさまざまな事情を鑑みたが、お前の言うような話はまったく考えていなかった。族長としては、浅慮であったのだろうかな」


「うむ。心を律することが不得手な人間であれば、面倒なことになっていたように思うぞ。何せアイ=ファは、あのような器量なのだからな」


 こんな会話も、女衆の耳がない気安さであろう。

 隣の寝所では、いったいどのような言葉が交わされているのだろうか。俺がぼんやりとそんな想念にふけっていると、ダリ=サウティの声がいくぶん真面目くさった響きを帯びた。


「そうか……俺はもともとアイ=ファに対して、狩人として感服する気持ちが強かったので、そういった話には考えが及ばなかった。もとより俺も、愛する伴侶と子を持つ立場であったしな」


 そんな風に言ってから、ダリ=サウティはしみじみと息をついた。


「それに俺は、この中で誰よりも早くからアイ=ファのことを見知っていた。それゆえに、アイ=ファに女衆としてのなよやかさを感じることがなかったのかもしれん」


 もちろん俺は、温かい毛布の中で身じろぎすることになった。


「そうか。アイ=ファは15歳の頃から、家長会議に参席していたのですよね。その頃から、ダリ=サウティもすでに家長であられたのですか?」


「うむ。それにその前から、アイ=ファは家長の供として家長会議に参じていた。そして、俺にとっては2度目となる家長会議において、アイ=ファは自らが家長になったと皆の前で告げてきたのだ」


 当時のことを懐かしむように、ダリ=サウティの声音がやわらかくなった。


「当時のアイ=ファは刃物のような気迫をこぼしており、まるで俺たちを敵視しているかのようだった。……また実際、スン家の横暴を止めることのできない他の家長たちを、見下げる気持ちもあったのだろう。アイ=ファは家長になったと告げると同時に、スンの長兄たるディガ=スンが暴虐を働いたので罰を与えてみせたと言い放っていたからな」


「いや、他の家長たちを見下げていたとは思わないですけれど……でも、族長筋であるスン家には思うところがあったのでしょうから、そうとう気は立っていたのでしょうね」


「うむ。それに俺たちとて、決してアイ=ファの存在を祝福していなかったからな。すべての家人を失った女衆が、誰に嫁入りを願うでもなく、狩人の仕事を果たして家長となる、などと言いたててきたのだ。多くの家長らは苦々しく思っていたし、面と向かって罵倒していた家長もひとりやふたりではなかったように思うぞ」


「……ダリ=サウティは、どのような思いでアイ=ファの存在を受け止めていたのでしょう?」


 あまりに踏み入った質問であろうかと思い悩みながら、俺はそんな風に尋ねずにはいられなかった。

 それに、当時のダリ=サウティがどのような思いであったとしても、彼に対する信頼が揺らぐことはないと、俺はそのように思っていたのだ。

 しばしの沈黙ののち、ダリ=サウティは変わらぬ声音で答えてくれた。


「虚言は罪なので、正直に話す他ないが……俺もまた、なんと猛々しい娘であるのかと呆れていた」


「ええ。それはそうなのでしょうね」


「うむ。……それと同時に、頭を殴られたような衝撃を受けていた。家人も持たない女衆が、たったひとりでスン家に歯向かっていたのだから、それも当然の話であろう。この娘が男衆であったなら、俺は何としてでも家人に迎えたく思っただろうな……と、そんな口惜しさを噛みしめていた。それほどに、アイ=ファは勇敢で力強い存在に思えたのだ」


 そう言って、ダリ=サウティは小さく笑い声をたてた。


「そうしてアスタが連れてこられたのは、アイ=ファが家長となって3度目の家長会議であったはずだな。森辺を騒がせる女狩人が、今度はどんな突拍子もないことを言い出すのかと、俺は期待と不安が入り混じった気持ちでその言葉を聞くことになった。それで、現在に至るというわけだ」


「そうですか……ありがとうございます。ぶしつけな質問をしてしまって、どうも申し訳ありませんでした。でも、聞かせてもらってよかったです」


「俺も、話せてよかったように思う。しょせんは俺たちもスン家とルウ家の目を恐れて、アイ=ファに手を差しのべることはかなわなかったのだが……俺は決して、アイ=ファの存在を忌避したりはしていなかった。ようやく正しき絆を結ぶことができて、心より嬉しく思っているのだ」


 俺はダリ=サウティを見損なうどころか、彼の人柄にいっそう胸を打たれることになってしまった。

 だからダリ=サウティは、出会った当初からあれほどに親切で、公正な立場を貫いてくれていたのだ。そしてそれは、アイ=ファがそれまでに示してきた勇気ある行動の結果でもあるはずだった。


「アイ=ファはそれほどに、猛々しい女衆であったのか。今でも十分に毅然としているように見えるが、それとも毛色が違ったのであろうか?」


 ドーンの長兄がのんびりとした調子で尋ねると、ダリ=サウティは「そうだな」とまた小さく笑った。


「言ってみれば、ルウ家や北の狩人に通ずる勇猛さであったように思う。そうそう声を荒らげたりすることはなかったが、皮一枚の下にごうごうと火が燃えているような気迫であったのだ」


「なるほど。今のアイ=ファは女衆らしい優美さもしっかり備えているように思うので、きっとまったく違った雰囲気であったのだろうな」


「うむ。アスタと出会ったことによって、アイ=ファも大きく変わったのであろう。もちろん、望ましい方向にな」


 ダリ=サウティは、そんな風に言ってくれていた。

 それはまるで、俺とアイ=ファの出会いを心から祝福してくれているような声音であり、俺の胸をいっそう詰まらせてやまなかった。

 そうしてサウティの血族とともに過ごす最後の夜は、それに相応しい平穏な空気と満ち足りた思いとともに終わりを迎えることになったのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 既に他の方が言及されてますが、前回の騒動でそのままサウティの人達の日程が終わってしまった場合、 「サウティはなにかに祟られているのでは?」(貧乏くじ) という感想になりそうな感じだったので、…
[良い点] 初めて書き込みさせていただきます。異世界料理道は大好きな作品です。しかし今まではサウティが森辺の貧乏籤役だったような印象が(笑)。そこから脱却できたようで喜ばしい限りであります。 [気にな…
[一言] 陳式の担々麵じゃなく、本式のを見たかった・・・ そもそも湯がいるなら担げないのにあれを担々麵というのはイヤな感じなんです
感想一覧
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