サウティの血族⑤~来客たち~
2021.1/8 更新分 1/1
そうしてゆったりと日々は流れすぎ――俺たちは、サウティの人々を滞在させる5日間の最終日を迎えることになった。
その間、大きなアクシデントが生じたりはしていない。邪神教団にまつわる騒乱があまりに非日常的であったためか、俺はその意趣返しにどっぷりと平和な日常に漬かっているような心地であった。
だけどやっぱり、それはサウティの人々がもたらした、平和で温かい時間であったのだろう。わずか5日間の滞在でも、俺はダリ=サウティを筆頭とする血族の人々に深い情愛を抱くことができたし、また、同じ情愛を抱いてもらえているものと信ずることができた。
「明日の朝には、ファの家を出立しなくてはならないのですね。なんだかとても、物悲しい気持ちです」
5日目の朝、サウティ分家の末妹はそんな風に言ってくれていた。
それを元気に慰めていたのは、姉御肌たるダダの長姉である。
「でも、しばらくしたら今度はフォウの家のお世話になるんだし、その期間はまたアスタとも顔をあわせられるんだから、それを幸いと思わないとね!」
「はい……でも、アイ=ファとともに夜を過ごせるのは、今日までなのですよね」
「うふふ。もしもアイ=ファが男衆だったら、あなたはこらえようもなく懸想してしまっていたんだろうね」
「そんなことはありません」と応じながら、サウティの末妹ははっきりと頬を赤らめていた。彼女たちが寝所でどのような交流を繰り広げているのか、気になってやまない俺である。
何にせよ、彼女たちの滞在は明日の夜明けまでとなる。
最後の瞬間までつつがなく、楽しい時間を過ごしていただきたいところであった。
日付としては、本日からついに朱の月となる。ふた月に及ぶ雨季も、間もなく折り返し地点であろう。俺はいっそう気持ちを引き締めて、人生で2度目となる朱の月を迎える所存であった。
屋台の商売は、5日間の営業日の最終日だ。
この日もサウティの血族の女衆らを同行させて、意気揚々と宿場町に向かう。
雨季の客入りは、平時の半分ていどという数字に落ち着いていた。が、去年の雨季よりも屋台の数は増えているし、宿屋連合軍の屋台村も存在する。それを思えば、軽食を求める客足は微増しているのだろう。宿屋のご主人がたにリサーチしたところ、確かに本年は例年よりも逗留客が多いようだ、という話であった。
「きっとそれだけ、ギバ料理が話題になってるってこったろ。雨季には雨季にしか食べられない野菜だってあるわけだしな」
隣の屋台でラーメンを売りさばくレビは、そんな風に語らっていた。
「そうだねえ」と、俺も同調してみせる。
「それに、この1年で食材の取り引きもずいぶん増えたはずだから、行商人の数そのものが増えているんだろうね。何にせよ、ジェノスが繁栄するのはありがたい話だよ」
朝一番のラッシュを終えて、そんな風に和やかな会話を楽しんでいると、屋台村に出向いていたプラティカが舞い戻ってきた。その足でラーメンの屋台にやってきたので、ラーズは「毎度ありがとうございやす」と破顔する。
「今日もうちで買ってくださるんですかい? やっぱり辛い味付けのほうが、東のお客さんの好みに合うんでしょうかねえ」
「それもまた、揺るぎない事実ですが、私、料理人として、あなたがたの料理、求めています」
その紫色の瞳にめらめらと闘志の炎を燃やしながら、プラティカはそのように答えていた。
レビとラーズの屋台においては、1日ごとにタウ油仕立てとミソ仕立てで味を換えている。マロマロのチット漬けを使った添え物がその両方と等しく調和することを知ったプラティカは、いっそう彼らの手際に着目したようだった。
ちなみに本日は、ミソ仕立ての日取りとなる。2日前に味見をさせていただいたところ、俺としてはミソ仕立てのほうがよりいっそうマロマロの添え物と調和しているのではないかと思えるほどであった。
ミソ仕立てのこってりとしたスープが、マロマロの添え物の強い辛みと、実にマッチするのである。あとは俺の持論であるが、もともと味噌ラーメンにはそぼろ肉が合うように思えるのだ。なおかつ、気温の低い雨季には温かいラーメンの美味しさも倍増するのではないかと思われた。
俺がそんな感慨にとらわれているとはつゆ知らず、目的の料理を獲得したプラティカは粛然とした足取りで青空食堂のほうに立ち去っていく。彼女は入念に吟味をするために、料理をひと品ずつ購入していくのだ。まだ胃袋に余裕があるのなら、俺の屋台で売りに出している料理もお買い上げいただきたいところであった。
「ずいぶん客足も落ち着いてきたみたいだね。クルア=スンも、ラーメンの味見をしてみたらどうかな?」
彼女は数日置きの出勤であったため、まだ新作の添え物を口にしていなかったのだ。
しかしクルア=スンは、いつも通りのひそやかな微笑とともに「いいえ」と首を横に振った。
「わたしていどのかまど番がただ料理を口にしても、得るものは少ないでしょうから……銅貨を大事にしたく思います」
「うん、そっか。まあ、マロマロのチット漬けを使った麺料理に関しては、今日にでも勉強会で手ほどきしてあげるからね。……それじゃあ、そっちのみんなはどうだろう? 希望者がいたら、1名ずつでよろしくね」
レビたちとは逆側の屋台で働いていたユン=スドラが、俺の言葉を回してくれた。青空食堂にまで話は回って、希望の声をあげたのは2名である。まずはラッツの女衆が、いそいそとラーメンの屋台に並び始めた。
そこでユン=スドラが、「あれ?」と街道の果てを透かし見る。
「ずいぶんな人数が、街道の北側からやってきたようです。荷車も引いていないようですが、いったいどういった者たちでしょうね」
邪神教団の一件があったため、ユン=スドラはこれまで以上に警戒しているようだった。街道の北側はトゥランや城下町に通じているが、徒歩の人間が集団でうろつくというのは、あまり例のないことであるのだ。
ただし、最近の宿場町は衛兵の巡回が盛んである。ちょうど当番であった2名の衛兵たちもその集団を発見して、宿場町の入り口へと足を急がせた。
さしあたっては、右の手の甲に邪神の紋章を隠したりしていないか、確認しようというのだろう。衛兵たちは、町の入り口でその一団と相対することになり――そして、慌ただしい敬礼とともにその一団を迎え入れることになった。
「どうやら、あやしげな連中ではなかったようだね」
俺の言葉に、ユン=スドラも「はい」と表情をやわらげた。
ただし、衛兵に敬礼で迎えられるということは、それなりの身分を有している証である。そんな人々が、どうして徒歩で宿場町にやってきたのかと、俺は別なる疑問にとらわれたのであるが――その答えは、ほどなくして明かされることになった。
「おお、アスタ殿! 負傷もすっかり癒えたようで、何よりであったな!」
先頭を歩いていた大柄な人物が、フードの下から大らかに笑いかけてくる。それは邪神教団の騒乱をともにくぐりぬけた、護民兵団の大隊長デヴィアスであった。
「ああ、デヴィアスであられたのですか。こんな雨の中、徒歩でご来店くださったのですね」
「うむ! トトスを連れると、交代で面倒を見なくてはならんからな! べつだん大した距離ではないし、雨の中を歩くというのもひとつの風情であろうよ!」
先日の騒ぎに力を削がれた気配もなく、デヴィアスは元気いっぱいに笑っていた。
その背後には、7名ばかりのむくつけき男たちが控えている。彼はまたもや非番の部下を引き連れて、わざわざ俺たちの屋台を訪れてくれたのだ。
その中で、ひときわ大きな身体をした人物が、仲間たちの間をすりぬけて俺の前にまで進み出てきた。
「ア、アスタ殿。腐肉喰らいのムントに手傷を負わされたとうかがっていたのですが、その後のお加減は如何なのでしょうか?」
それは、もともとデヴィアスの部下であったガーデルであった。もしゃもしゃの巻き毛と気弱そうな眼差しを持つ、とても大柄な若き武官である。
「ああ、ガーデルもいらっしゃってくれたのですね。そちらこそ、熱を出して御者の仕事を休まれていたのでしょう? ずっと心配しておりました」
「お、俺の怪我などは、もう治りかけですので……そ、それよりも、アスタ殿です。ムントの爪は、危険であるのでしょう? そのように働いていて、大丈夫なのでしょうか?」
淡い色合いをした彼の瞳は、ひどく切迫した光をたたえてしまっていた。
その心を和ませるべく、「問題ありません」と俺は笑ってみせる。
「あれからもう、10日以上は経っているはずですからね。べつだん傷口が膿んだりもしなかったので、翌日からは屋台で働くこともできました」
「そ、そうでしたか。アスタ殿がそれほど危険な目にあわれていたというのに、俺は何も知らずに呑気に過ごしていて……ほ、本当に不甲斐なく思っています」
「何を言っておるのだ、お前は?」と、デヴィアスは目をぱちくりとさせていた。
「お前のほうこそ療養中で、護民兵団の任務から外されているさなかではないか。たとえお前が寝込んでいなくとも、まだしばらくは御者の役目であるのだから、無法者の退治などに駆り出されることはなかったはずだぞ」
「そ、それはそうなのでしょうけれど……俺が呑気に寝入っていたことは事実ですので……」
「わからんやつだな。まるでアスタ殿に懸想しているかのようではないか!」
と、豪放に笑い声を響かせてから、デヴィアスはふいに生真面目そうな顔をこしらえた。
「それとも、本当に懸想しているのか? 俺は女人の美しさを何よりかけがえなく思っている身であるので、まったく理解の及ばない話だが、それでも他者の心情を軽んじたりはせんからな」
「ち、違います違います! ど、どうしてそのような話になってしまうのですか? アスタ殿に誤解されてしまったら、どうしてくれるのですか!」
「いや。アスタ殿にはアイ=ファ殿というお似合いのお相手が存在するからな。お前が懸想をしても思いを遂げることは難しかろうから、そのときはじっくり相談に乗ってやろうと思っただけのことだ」
真昼間の往来で何を語らっているのだろうか、このお人たちは。
もののついでのように俺の羞恥心を刺激するのは、勘弁願いたいところである。隣の屋台でユン=スドラがくすくすと笑っているのが、また俺の羞恥心をかきたててやまなかった。
「さて、と。それでは部下たちに料理を食べさせてやりたいのだが――」
「はい。雨季やゲルドの食材のおかげで、少しずつ料理の内容が変わっているのですよ。色々とお楽しみいただけたら幸いです」
俺がそのように応じると、武官たちの半数は隣のラーメンの屋台に殺到し、残りの半数はルウ家の汁物料理――『トライプのクリームシチュー』の屋台へと押し寄せる。やはりこの気温では、まず温かい汁物料理に目がいくのが妥当であると思われた。
そうして俺の屋台の前には、デヴィアスとガーデルだけが居残っている。ガーデルはまだ俺の身を案じてくれている様子だが、デヴィアスのほうは何やら真面目くさった表情を保持していた。
「どうされました? 城下町で、何かあったのでしょうか?」
「うむ? 最近はどの区域も、平和そのものだぞ。だから俺たちも、こうして休日をいただけることになったのだからな。実のところ、まともに休むのは半月ぶりのことになるのだ!」
「そんな貴重な休日にご来店くださって、ありがとうございます。……では、何か他にご用件でも?」
「うむ。もしもこの場にスドラ家の人間がいるようだったら、アスタ殿に取り次いでいただきたいのだが」
すると、隣の屋台のユン=スドラが「え?」と目を見開いた。
「あの、わたしはスドラの家人となりますが、いったいどういったご用件でしょうか?」
「おお、其方がそうだったのか! これは、取り次ぎを願うまでもなかったな!」
そんな風に言ってから、デヴィアスは隣の屋台に移動した。
そして、ユン=スドラに向かって深々とお辞儀をする。
「俺は護民兵団の第五大隊長、デヴィアスと申す者だ。先日の邪神教団を巡る騒乱の場において、俺はスドラの家長たるライエルファム=スドラ殿に生命を救われた。その礼を言いたくて、スドラの家人に面談を願いたかったのだ」
「ああ、そうだったのですか……それはご丁寧に、ありがとうございます。わたしはスドラの家人で、ユン=スドラと申します」
と、ユン=スドラも同じぐらい深く頭を下げた。
「同じ場で同じ志のために刀を振るっていたのでしょうから、何も礼には及ばないかと思われますが……家長ライエルファムが他者の生命を救ったというのなら、わたしは誇らしく思います。また、この場にいない家長に代わって、返礼させていただきたく思います」
「いやいや、ライエルファム=スドラ殿というのは本当に立派な御仁であった。本来であれば直接礼を言いたいところなのだが、狩人は日が暮れるまで森に入っていると聞き及んでいたので、せめてご家族に礼を言わせてもらいたく思ったのだ。本当に、心より感謝しているぞ」
そうして頭を上げたデヴィアスは、おもむろに外套の内側をまさぐった。
そこから取り出されたのは、それなりの大きさをした織物の包みである。
「ついては、このようなものを持参した。中身は、ニャッタの蒸留酒だ。森辺の民は感謝の気持ちを物品で示す習わしはないとの話であるが、どうか受け取ってはもらえぬだろうか?」
「いえ、それは……」と、ユン=スドラは思案顔になった。
デヴィアスはまだ真面目くさった顔で、ユン=スドラの顔をじっと見つめている。しばらくの思案ののち、ユン=スドラはにっこりと微笑んだ。
「……わかりました。こちらを受け取るかどうかは家長ライエルファムの決めることですので、わたしは一時的にお預かりすることしかできませんが……あなたの言葉は、家長ライエルファムに正しく伝えさせていただきたく思います」
「おお、受け取ってくれるのか! むしろ迷惑がられるのではないかと、いささかひやひやしていたのだが!」
「はい。確かに森辺の民は、感謝の贈り物というものをやりとりする習わしは持ちません。ですが、ゲルドの貴人からはそういった贈り物を受け取っていましたので……相手によって態度を変えるのは不実ではないかと、家長ライエルファムであればそのように考えるかもしれません」
「なるほど! そのようにかしこまった品ではないので、快く受け取ってもらえたらありがたく思うぞ! ちなみに、返礼の品などは不要であるからな!」
デヴィアスはようやく持ち前の陽気さを取り戻して、顔いっぱいに笑みを広げた。ユン=スドラもつられたように笑いながら、綺麗な織物の包みを受け取る。
「かなうことであれば、いずれライエルファム=スドラ殿と酒杯を傾けたいところだな! 俺のような人間が森辺に押しかけるのは、やはり迷惑になってしまうだろうか?」
「それもやっぱり、決めるのは家長ですので……ですが家長は、町の方々とは正しく絆を深めるべきだという思いを強く抱いています」
「では、そのような話が実現することを、西方神に祈らせていただこう! 俺もそうそう自由に動ける日は少ないので、ずいぶん機会を待たなくてはならんだろうがな!」
そう言って、デヴィアスはぐりんと俺に向きなおってきた。
「そしていずれはファの家にも、お邪魔させてもらいたく思っているぞ! 先日はあのような騒ぎであったから、交流を深めるどころの話ではなかったしな!」
「あ、はい。俺も家長のアイ=ファに伝えておきますね」
「ううむ。アイ=ファ殿には、あえなく断られる行く末しか想像できんな。決して下心からの申し出ではないと、入念にお伝え願いたい!」
「いえ、アイ=ファもそのようなことを懸念しているわけではないかと思われますが……とにかく、伝えておきますね」
俺は苦笑をもらしてしまい、デヴィアスは豪快に笑っていた。その間も、ガーデルは心配そうに俺のことを見やっている。
ずいぶん思いがけない来客であったが、曇天の隙間からふいに陽光が差し込んできたような心地である。とにかくデヴィアスというのは生命力にあふれかえった存在であり、我らがダン=ルティムに負けないぐらい周囲の空気を賑々しくさせることができるようだった。
そうしてしばらく歓談を楽しんだのち、デヴィアスとガーデルも青空食堂に引っ込んでいく。
俺は「ふう」と息をついてから、隣の屋台のユン=スドラに笑いかけることにした。
「なんだか、すごい騒ぎだったね。でも、デヴィアスとスドラの絆が深まれば何よりだよ」
「はい。あの御方は南の民のように率直ですので、わたしも好ましく思います」
それならば、幸いだ。やはりアイ=ファがデヴィアスを苦手とするのは、やたらと容姿を褒めそやしたり、俺との関係を取り沙汰しようとしたりするためであるのだろう。それさえなければ、アイ=ファもあれほど仏頂面をさらさずに済むのだろうなと思われた。
「クルア=スンも、あの騒ぎの日にデヴィアスと顔をあわせていたよね。なかなか愉快な御仁だろう?」
そんな風に言いながら、俺はかたわらのクルア=スンを振り返った。
クルア=スンは――澄みわたった銀灰色の瞳で、ぼんやりと虚空を見据えている。
「……どうかしたのかい、クルア=スン?」
俺がそのように言葉を重ねると、クルア=スンは夢から覚めたように俺を見つめてきた。
「どうしたんだい? デヴィアスがどうかしたのかな?」
「デヴィアス……? いえ、そちらではなく、もうひとりの御方が……」
「もうひとりって、ガーデルのこと? ガーデルとは、初めて顔をあわせたんだっけ?」
するとクルア=スンは、背中から水でもかけられたように身体を強張らせてしまった。
「い、いえ。なんでもありません。仕事のさなかに集中を欠いてしまい、申し訳ありませんでした」
「いや、べつだん謝る必要はないけど……何か、予感めいたものでも感じちゃったのかな?」
俺が声をひそめてそのように問いかけると、クルア=スンは今度こそ驚愕の表情で後ずさってしまった。
「ど……どうしてアスタは、そのようなことを……?」
「うん。さっきクルア=スンがぼんやりしていたときの眼差しが、少しチル=リムと雰囲気が似てたんだよね」
クルア=スンはきつく眉を寄せながら、何かを訴えるように俺を見つめてきた。
そんなクルア=スンに、俺は笑いかけてみせる。
「もしも本当にそうだったんだとしても、語りたくないことを無理に語る必要はないよ。俺はもう、星見や星読みの結果に惑わされたりはしないって決めているからね」
「わたしは……わたしは本当に、人の行く末を見る力など備えていないのです」
「うん、わかってる。でも、もしもクルア=スンが何かに苦しむようなことがあったら、なんでも相談しておくれよ。ライエルファム=スドラも、あのときにそう言っていただろう?」
クルア=スンはまぶたを閉ざし、少し呼吸を整えてから、「はい」とうなずいてくれた。
シーラ=ルウのようにたおやかで、ヤミル=レイのように美しいその細面に、やわらかい微笑がひろげられる。
「ありがとうございます。アスタにそのように言っていただけると……心から安堵することがかないます」
「俺なんて、ライエルファム=スドラの受け売りさ。俺もライエルファム=スドラと同じような気持ちだったけど、それを言葉にするのは難しかったからさ」
「はい。アスタやライエルファム=スドラと同胞であることを、心より得難く思います」
そんな風に言ってから、クルア=スンはわずかに表情を引き締めた。
そうすると、ヤミル=レイに通ずる怜悧さや妖艶さが濃度を増す。
「それでは、ひと言だけよろしいでしょうか? アスタにそうまで言っていただけたのに、わたしが口をつぐんでいるのは不実であるかと思われます」
「うん? 語りたくないことは、別に語らなくていいんだよ?」
「語りたくない……わけではなく、わたしも自分の身に起きていることを上手く説明できないのです」
そう言って、クルア=スンは思案を巡らせるように目を伏せた。
「わたしは、時おり……それこそ年に1度や2度だけ、不可解な感覚に見舞われます。時間の感覚が消え失せて、自分が光の中にたたずんでいるような心地になってしまうのです。その際に……何か、予感めいたものを感ずることがあるのです」
「ああ、それは確かに、星見に通ずる力なのかもしれないね」
「はい。ですが、その予感が必ずしも当たるわけではないのです。ですから、わたしには人の行く末を見通すことなどできないのだと、そのように判じています」
「なるほど。それなら、気にするだけ損というものだね。そんなものに心をとらわれる必要はないと思うよ」
「はい」と小さくうなずいてから、クルア=スンはもともとのひそやかさを取り戻して、俺の顔をおずおずと見上げてきた。
「では……さきほど感じた予感めいたものも、口にするべきではないのでしょうか?」
「それが、ガーデルにまつわる予感であったわけだね? ……うん。当たるかどうかも覚束ない予感なら、いっそう口にする理由はないんじゃないのかな。アリシュナも、問われもしない行く末を語るのは占星師の禁忌だって言ってたはずだからね」
「承知しました」と応じてから、クルア=スンはふっと微笑んだ。
「ありがとうございます、アスタ。愚にもつかない話を聞いていただけたおかげで、ずいぶん胸が軽くなったように思います」
「だったら、もっと早く話しておけばよかったのに。ライエルファム=スドラだって、そう言ってただろう?」
「ですがあの場には、同胞ならぬ人間も大勢おりましたし……それにやっぱり、よほど信頼した相手でなければ、なかなかこのようなことは口にできません」
と、今度は頬を赤らめるクルア=スンである。
普段は大人びた雰囲気のクルア=スンであるが、時おりこういうあどけない仕草を見せるのだ。それでいて、いずれはヤミル=レイやヴィナ・ルウ=リリンに匹敵するような女性に育つのではないかという美貌であるのだから、なかなかの破壊力であった。
(クルア=スンは、これでまだ15歳なんだもんな。将来は、どんな娘さんに成長するんだろう)
俺がそんな風に考えたとき、また街道の北側から徒歩の人影が近づいてきた。
今度の人数は2名であるので、ユン=スドラも警戒心をあらわにしていない。少人数であれば、商談のために徒歩で城下町まで出向く人間も少なくはないのである。《銀の壺》がジェノスに逗留している間も、そういう姿はたびたび見せていた。
しかしまた、彼らは商人などではなかった。
小柄なほうの人影が、深くかぶったフードと鼻のあたりまで引き上げた襟巻きの隙間から、神秘的なヘーゼルアイで俺を見つめてきたのである。
「おひさしぶりです、アスタ。すっかりお元気になられたようで、何よりです」
「フェ、フェルメスでしたか。これはどうも、おひさしぶりです」
従者のジェムドとは先日の騒ぎで対面していたが、フェルメスと顔をあわせるのはアルヴァッハたちの送別会以来のことであった。日数としては、半月ていども経過しているだろう。
「今日はどうされたのです? 宿場町の視察ですか?」
「いえ。個人的に、アスタに挨拶に参りました。よって、ルウ家への取り次ぎも無用です」
「はあ。個人的に、ですか……」
「はい。アスタが負傷したと聞き、すぐにでも駆けつけたい心地であったのですが……王都の外交官という身分が、なかなかそれを許してくれませんでした。ようやくアスタとお会いすることができて、心より嬉しく思っています」
そう言って、フェルメスはグリーンとブラウンが複雑に絡み合った目をにこりと細めた。その襟巻きの下では、さぞかし可憐な微笑がたたえられているのだろう。
「なるほど。では、今日はフェルメスも休日ということでしょうか?」
「ああ、あちらにいらっしゃるのは、やはり護民兵団の方々でしたか。……いえ、僕に休日というものは存在しません。公務を離れることはあっても、外交官という身分から解放されるわけではありませんので」
「では、どうして今日はこちらに?」
「それはもちろん、オーグ殿が王都に出立したためです」
外交官の補佐役たるオーグはこの半年間の調査内容を王都に伝えるために、朱の月の初日たる本日の早朝にジェノスを出立していたのだ。
「僕がアスタのもとを訪れるたびに、オーグ殿の手によって調書に記されてしまいますからね。どうしても、自重する必要があったのです」
「……では、オーグがジェノスを離れている間は、自重の必要もなくなるというわけでしょうか?」
「むろん度が過ぎれば、それもいずれオーグ殿の耳に届いてしまうのでしょう。ですから節度をもって、アスタと絆を深めさせていただきたく思います」
そう言って、フェルメスはいっそう楽しそうに目を細めた。
「さしあたって、今日は挨拶に出向いたまでですが、いずれゆっくり語らいの場を持たせていただきたく思います。……アスタには、了承をいただけるでしょうか?」
「はあ。それはもちろん、家長や族長らのお許しをいただければ」
「では、そのときを楽しみにしています」
と、たったそれだけのやりとりで、フェルメスたちは身をひるがえしてしまった。フェルメスは屋台を訪れても、せいぜいトゥール=ディンの菓子ぐらいしか口にできない身であるのだ。
「……なんだか、不思議な雰囲気の御方でしたね。あちらが噂に聞く、王都の外交官という御方であられたのでしょうか?」
クルア=スンは、そんな風に言っていた。クルア=スンの中に眠る力も、フェルメスに対しては無反応であったようだ。
(俺だって、フェルメスとは絆を深めさせてもらいたく思ってるけど……なんだか、宣戦布告されたような心地だなあ)
そこに何か逢引きの約束を持ちかけられたような落ち着かなさまで生じてしまうのは、ひとえにフェルメスのキャラクターによるものであろう。とにかくあの御仁の眼差しには、俺に対する執着心というものがあふれかえってしまっているのだ。
ともあれ――フェルメスもデヴィアスもガーデルも、みんな俺の身を案じてくれているのである。
その一点を嬉しく思う気持ちに、変わるところはなかった。