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異世界料理道  作者: EDA
箸休め
992/1678

最果ての黎明④贖罪と祝福

2021.1/3 更新分 1/1

・明日から本編の更新を再開いたします。今回は全6話です。

 そうしてカミュア=ヨシュとレイトは、雪に閉ざされた森に入ることになった。

 モルガの森とはまったく様相の異なる、北の地の森である。その葉は鋭く針のように尖り、闇を煮しめたように黒々としていた。そこに分厚く雪がかぶさって、白と黒だけの暗鬱な世界を形成している。


 時刻はすでに、中天を大きく回っているはずであった。

 ムフル退治の段取りを整えるために、それだけの時間が必要であったのだ。

 しかし世界は朝から薄暗かったため、さしたる変化も見られない。雪や風は収まっているものの、南方育ちのレイトには骨身に染み入るほどの寒さであった。


「くだんのムフルの大熊は、集落のすぐそばにある川べりを拠点にしているらしい。そこで待ち伏せることにしよう」


 そのように語りながら、カミュア=ヨシュは飄然と歩を進めていく。獣道にはどっさりと雪が降り積もっていたが、ふたりは細長い板のようなものを履きものの底に装着していたため、雪に足を取られることはなかった。集落の人間が狩りの際に装着するという、板樏いたかんなる器具である。


「……本当に、これだけの装備でムフルの大熊を退治することができるのですか?」


 カミュア=ヨシュが集落で調達したのは、5本の木槍と弓矢のみであった。穂先と矢じりは金属ではなく鋭く削った切片であり、いかにも原始的な作りである。


「集落に残されていたありったけの毒草を、穂先と矢じりに仕込ませていただいたからね。もちろんムフルのために調合された毒ではないから、効き目のほどはあやしいところだけど……それでもこれだけの毒をくらったら、ムフルだって無事ではいられないさ」


 そんな風に言いながら、カミュア=ヨシュはふいに屈み込んだ。


「ああ、あったあった。ほら、これがムフルの足跡だよ」


 雪面に、巨大な足跡が穿たれていた。

 大人の人間の頭部よりも、巨大な足跡である。またその深さが、ムフルの重量を如実に示していた。


「本当に大丈夫なのですか? このムフルは、集落から出入りしようとする人間に襲いかかってくるのでしょう?」


「そのために、このムフルはずっと集落の周囲を徘徊しているのさ。ずっと同じ場所に留まっていたら、集落の反対側の様子をうかがうこともできないからね。この足跡の感じからして……この場所を通って、半刻ぐらいは経っているはずだ。集落を一周するのに一刻ぐらいはかかるだろうから、まだあと半刻ぐらいの猶予はあるんじゃないのかな」


 カミュア=ヨシュは集落を出る前に、周囲の地形などを入念に確認していたのだ。それでもう、それだけの道筋が立てられているようだった。


「……カミュアがかつて狩人の仕事を果たしていただなんて、僕は初耳でした。森辺の方々にも、そんな話はされていませんでしたよね」


「俺は15歳で故郷を捨てた身だからねえ。そんな大昔の話は、するだけ無駄というものさ。……おお、ムフルの糞が残されているよ。ここ数日は集落の人々も襲われていないという話だから、やはりギャマか何かで腹を満たしているのかな」


 これから凶悪なムフルと対決しようというのに、やはりカミュア=ヨシュは普段通りのたたずまいだ。

 毒の木槍を慎重に運びながら、レイトもなんとか沈着であろうと己を律していた。


 しばらくすると、小川のせせらぎが聞こえてくる。

 今日もどんよりとした天候であるが、さすがに川の水が凍るほどではないようだ。


「よし、この辺りかな。レイトは、この木に登っておくれよ」


「え? この木にですか?」


 黒い針のような葉を宿した北の地の樹木は、それこそ天を貫く槍のように高々とのびあがっている。しかし、レイトの手の届く場所には枝も生えておらず、黒々とした幹の表面にも足がかりになるような起伏は見当たらなかった。


「俺が肩車をすれば、枝まで手が届くだろう? その前に、雪を落としておかないとね」


 カミュア=ヨシュは鞘に収まった長剣を振りかざして、手近な枝から雪の塊を払い落とした。

 そうして、レイトの前で身を屈める。


「その足の器具は外してね。槍は後から渡すんで、そのへんに立てておいておくれよ」


 レイトはカミュア=ヨシュの指示に従いつつ、その細長い首にまたがらせていただいた。

 カミュア=ヨシュが立ち上がると、なんとか枝に手がかかる。木登りの経験などは持ち合わせていなかったが、こんなところで弱音を吐くわけにもいかなかった。


「よしよし。それじゃあ、槍を渡していくよ。落とさないように、5本全部を枝に引っ掛けておいてくれ」


「はい。僕はこの場で待機していればいいんですね?」


「いや。その枝を足がかりにして、もうひとつ上の枝に登ってくれ。このていどの高さだと、ムフルの爪が届いてしまうかもしれないからさ」


 レイトはすでに、カミュア=ヨシュに肩車をされないと手が届かないぐらいの枝に乗っているのだ。ムフルの巨大さを考えると、レイトは背筋が凍りそうな心地であったが――そんな怯懦の気持ちは懸命に呑みくだして、カミュア=ヨシュの言葉に従ってみせた。


「よしよし。これで準備は万端だね。俺がムフルをおびき寄せるから、この位置まで来たら槍を投げつけてくれ。ムフルの頭は頑丈だから、それ以外の場所を狙うようにね」


「……僕なんかにそんな重要な役割を任せてしまって、いいのですか? カミュアはもともと、おひとりで相手取るつもりであったのでしょう?」


「ひとりで弓と槍の両方を有効に扱えるかどうかは怪しいところだったから、ちょうどいいといえばちょうどいいさ。槍が外れても決して慌てず、絶対にそこから降りてはいけないよ? これが、師弟関係の解消を懸けた、俺とレイトとの約定だ」


「……承知しました」


 カミュア=ヨシュは底抜けに大らかであり、これまでレイトを脅すような言葉は1度として口にすることがなかった。ならばこれは、それほどに危険な任務であるのだろう。カミュア=ヨシュはレイトの身を案じるがゆえに、それほどの厳しい言葉を口にしているのである。

 しかし、言葉の内容は厳しくとも、その顔はいつも通りにのほほんと笑っている。カミュア=ヨシュは獣道をはさんで向かいにある樹木の枝から雪を払い落すと、「さて」と懐をまさぐった。


「放っておいても、あちらは俺たちの匂いを嗅ぎつけるだろうけど……こんな場所でじっとしているのは身体に悪いから、早々におびき寄せることにしよう」


 カミュア=ヨシュが取り出したのは、毛皮の切れ端と黒褐色の何かであった。

 獣道の真ん中に毛皮の切れ端を置くと、樹木から削った樹皮を重ねて、その上に黒褐色の何かを乗せる。しかるのちに、ラナの葉で樹皮に火を灯すと、やがて黒褐色の何かにもぶすぶすと燃え移って、とんでもない悪臭を放ち始めた。


「……ひどい臭いですね。なんですか、それは?」


「これはさっきの、ムフルの糞だよ。これだけ強烈な臭いだったら、ムフルもすぐに異変を察知すると思ってね」


 そんな風に語りながら、カミュア=ヨシュは足の板樏を外して腰の帯にくくりつけると、向かいの樹木にするすると登った。肩に掛けていた弓を手に取り、矢筒から1本の矢を抜き放つ。


「俺が最初に矢を射るから、それを合図にレイトは槍を投じてくれ。決して、俺よりも先に攻撃を仕掛けないようにね」


「……それも、師弟関係を懸けた約定のひとつですか?」


「うん。そういうことだね」


 しばらくは、何の動きも見られなかった。

 暗い森は、しんと静まりかえっている。まるで、すべての生き物が死に絶えてしまったかのような静けさだ。


 槍の1本を握りしめながら、レイトは呼吸を整える。

 向かいの樹木のカミュア=ヨシュは、鼻歌でも歌いだしそうな様子で、弓に張られた弦の張り具合を確認していた。


 そこにいきなり、落雷のごとき咆哮が響きわたる。

 レイトは思わず、その手の槍を地面に落としてしまうところであった。


 獣道の最果てに、灰褐色の巨大な影が出現している。

 人間よりも遥かに巨大な、巨岩のごとき質量である。

 その影が、凄まじい勢いでこちらに突進してきた。


 あのように巨大な図体で、どうしてそこまで素早く動けるのか。

 樹木の枝の上で息を殺しながら、レイトは悪夢でも見ているような心地であった。


 ムフルの大熊はレイトたちの足もとで急停止すると、人間の胴体のように太い前足を振り上げて、地面で燃える自らの糞を薙ぎ払った。

 その首に、ぷすりと小さな矢が刺さる。

 ムフルは再び咆哮をあげ、カミュア=ヨシュの潜む樹木のほうを振り仰いだ。


 カミュア=ヨシュは心を乱した様子もなく、新たな矢を弓につがえる。

 その矢もまた、ムフルの右肩に正確に突き立っていた。


 ムフルは怒りの雄叫びをあげて、カミュア=ヨシュの陣取った樹木に体当たりをくらわせる。

 地震いでも起きたような衝撃が世界を震わせたが、カミュア=ヨシュは体勢を崩すことなく、3本目の矢を放つ。


 その頃に、レイトもようやく我を取り戻すことができた。

 呼吸を整えて、ムフルの背中へと木槍を投げつける。

 これだけ的が大きいのだから、さすがに外すことはない。

 が――木槍はムフルの分厚い毛皮に弾かれて、そのまま地面に落ちてしまった。


 ムフルは雷鳴のようにうなりながら、レイトのほうに向きなおってくる。

 レイトは生きた心地がしなかったが、それでも2本目の槍を投じてみせた。

 それは、ムフルの前足で呆気なく払われてしまう。

 そして、ムフルの無防備な背中に、連続で毒矢が突き立てられた。


「君の相手は、こっちだよ! 悔しかったら、登ってきてごらん!」


 カミュア=ヨシュは笑みすら浮かべそうな表情で、次々と矢を射かけていった。

 怒り狂ったムフルは、右の前足で樹木を乱打する。どうやらこの危険な大熊も、足がかりのない樹木を登ることはできないようだった。


 しかし、黒い樹木のなめらかな幹には、凄まじい勢いで爪痕が刻まれていく。

 あんな攻撃を一発でもくらったら、人間の首などは簡単に吹っ飛んでしまうことだろう。

 それでもカミュア=ヨシュは、悠然とした面持ちで矢を射かけていた。

 レイトも負けじと、木槍を投げつける。

 3本目の槍も獣毛に弾かれてしまったが、4本目の木槍はかろうじてムフルの背中に突き刺さった。

 カミュア=ヨシュの放つ矢は、すべてムフルの巨体に突き立っている。これはもう、弓と槍の差と考えるしかないのだろう。


 12本の矢を打ち尽くしたカミュア=ヨシュは、惜しげもなく弓と矢筒を放り捨てた。

 レイトは最後の槍を投じたが、それもムフルの背中に弾かれてしまう。


 と――再びムフルが、レイトのほうに向きなおってきた。

 それと同時に、カミュア=ヨシュがまた大きな声を張り上げる。


「レイトの槍は1本しか刺さっていないけれど、俺の矢は12本とも命中したよ! 怒りたいなら、俺に怒るといい!」


 しかしムフルはカミュア=ヨシュを振り返ることなく、レイトのほうにのそのそと近づいてきた。

 レイトは心臓に短剣でも突きつけられたような心地で、樹木の幹にしがみつく。


「やれやれ。道理のわからないムフルだね」


 カミュア=ヨシュは、ふわりと地面に降り立った。

 その姿に、レイトはいっそう我を失ってしまう。


「な、何をしているんですか! 絶対に地面に降りるなと言ったのは、カミュアでしょう!?」


「だって、この木は滑りやすいからね。そのおかげでムフルも登ることができないわけだけど、体当たりなんてされたら、きっとレイトはこらえられないよ」


 カミュア=ヨシュの降臨に気づいたムフルは、そちらに向きなおって咆哮をほとばしらせる。

 その巨体を見上げながら、カミュア=ヨシュは腰の長剣を抜き放った。


「さっきの約定は、まだ有効だからね。レイトはそこから動いてはいけないよ」


 ムフルが、右の前足を振り下ろした。

 カミュア=ヨシュは風に吹かれる落ち葉のように、横合いへと移動する。いつの間にか、その足には板樏が装着されていた。


「動きが鈍いね。やっぱり、毒が効いてきているみたいだ。……それにどうやらこのムフルは、左の前足が使えないようだよ」


 ムフルは、横殴りの格好で右の前足を振りかざす。

 カミュア=ヨシュは雪面の上を転がって、その一撃を回避した。


「集落を襲った夜にもさんざん毒矢を打ち込まれたろうから、それで左前足の神経をやられたのかな。よくよく見れば、あちこちに生々しい傷痕が残されているようだし……君もとんだ災難だったね」


 ムフルは身を伏せ、頭からカミュア=ヨシュに突っ込んだ。

 カミュア=ヨシュは、再び横合いに跳びすさる。そのすれ違いざまに、地面から拾いあげた木槍がムフルの脇腹に突きたてられていた。


「大事な子供を奪われたあげく、そんな手傷を負うことになって……そうして間もなく、君は魂を返すことになる。まったく、同情に堪えないよ」


 ひときわ凶悪な咆哮とともに、ムフルが後ろ足で立ち上がった。

 その背丈は、カミュア=ヨシュよりも頭ふたつ分はまさっている。質量は、5倍でもきかなかっただろう。


 ムフルは凄まじい勢いで右前足を振り下ろし、カミュア=ヨシュは左側へと逃げようとした。

 その足が、途中でつんのめったように停止する。

 おそらく足裏に装着した板樏が、雪の中で何かに引っかかってしまったのだ。

 凶悪な爪がカミュア=ヨシュの頭上に振り下ろされ、レイトは絶望に目が眩んでしまう。

 カミュア=ヨシュの長身は、幼子に投じられた小石のような勢いで吹き飛ばされた。


「カミュア!」


 黒い樹木にしがみついたまま、レイトは思わず悲鳴まじりの声をあげてしまう。

 が――地面に落ちて雪にうずまったカミュア=ヨシュは、何事もなかったかのように、金褐色の頭をぴょこりと覗かせた。


「おお、びっくりした。雪の中に、木の根でものびていたのかな」


 レイトは冷たい木の幹にこめかみを押し当てて、深々と息をつく。

 いっぽうムフルは、立ち上がった体勢のまま苦悶に身をよじっていた。

 見れば、右の前足からおびただしいほどの鮮血が噴きこぼれている。


 きっとカミュア=ヨシュは、長剣でムフルの爪を受け止めたのだ。ムフルは自分の怪力の分だけ、前足の先を深々とえぐられることになったのだろう。それにしても、あんな怪力で殴りつけられて、その手の長剣を離さないままでいられるカミュア=ヨシュというのは、やはり並大抵の人間ではなかった。


 ムフルは憤激に双眸を燃やしながら、カミュア=ヨシュをにらみつける。

 雪の上で身を起こしたカミュア=ヨシュは、左手で悠然と頭の雪を払っていた。


「カミュア、もう十分でしょう! 早く木の上に逃げてください!」


「いや、それがどうやら足首をひねってしまったようで、歩くことすら難しいのだよ。そもそも板樏を外すゆとりもなさそうだからねえ」


 ムフルが傷ついた前足を地面について、カミュア=ヨシュに突進した。

 左の前足もまともに動かせないようであるのに、凄まじい勢いである。

 迫りくるムフルの巨体を見やりながら、カミュア=ヨシュはふっと微笑をこぼした。


「もしも獣が人間として生まれ変わることがあるならば、次の世では安らかな生を得られるように祈っているよ」


 ムフルの突進に押されるような格好で、カミュア=ヨシュが横合いに倒れ込んだ。

 倒れ込みながら、右手の長剣を振り上げていく。

 それはまるで、空気を撫であげるようになめらかな太刀筋であったが――カミュア=ヨシュのかたわらを通りすぎたムフルは、咽喉もとから噴水のように鮮血をほとばしらせて、雪の地面に沈み込むことになった。


「終わったよ。……最後まで約定を守って、レイトは偉かったね」


「……そんな、子供をあやすみたいに言わないでください」


 ぶっきらぼうに答えながら、レイトはひそかに心を打ち震わせていた。

 カミュア=ヨシュがどれだけの力を備えているか、それをあらためて思い知らされたのである。

 それはレイトが目指す目標の高さを、まざまざと思い知らされたということでもあったのだが――それでもレイトの胸の中には、息苦しくなるほどの憧憬の思いだけがあふれかえっていたのだった。


                   ◇


 そうして、その夜である。

 ムフル退治から帰還したカミュア=ヨシュは、挫いてしまった足首の治療を施されると、そのまますやすやと寝入ってしまった。

 カミュア=ヨシュの負った手傷は思いのほか深く、帰り道はレイトが肩を貸さなければ歩くこともままならないほどであったのだ。集落に戻って革の長靴を脱いでみると、カミュア=ヨシュの足首は倍ほども腫れあがってしまっていた。


「明日には腫れもひくだろう。もうひと晩だけ、この家の世話になることにしようか。ムフルを退治してみせたんだから、もうこの集落の人々が俺たちを脅かすことはないはずさ」


 そんな言葉を残して、カミュア=ヨシュは寝入ってしまったのだった。

 まあ、カミュア=ヨシュは昨晩仮眠を取っただけの状態で、あのような大立ち回りを繰り広げることになったのだ。そこで痛み止めの薬まで口にしたならば、睡魔に見舞われるのが当然の話であった。

 いっぽうレイトも、昨晩の薬茶の効果がまだ残されていたのか、あるいは緊張の糸が切れたのか――それとも、カミュア=ヨシュの呑気な寝顔に誘発されてしまったのか、気づけば自分も寝入ってしまっていた。


 正直に言って、昨晩の強行軍の疲れもいまだ残されていたのだろう。レイトは深く眠りに落ちて、カミュア=ヨシュに肩を揺さぶられるまで1度も目覚めることができなかった。


「……レイト。間もなく夜明けであるようだよ。そろそろ起きたらどうだろう?」


 レイトがまぶたを持ち上げると、また頭の上にカミュア=ヨシュの笑顔が浮かびあがっていた。

 しかし、周囲はまだ暗い。寝所の片隅に置かれた燭台の火だけが、目の頼りであった。


「間もなく夜明け……? では、食事も取らないまま眠り呆けてしまったのですね」


「うん。おたがい疲れていたのだろうねえ。外で、食事の準備ができているそうだよ」


「外で?」とレイトは反問したが、カミュア=ヨシュはにやにやと笑うばかりで、それ以上の言葉を口にしようとはしなかった。

 ありあわせの棒切れでこしらえた杖をついて、カミュア=ヨシュはひょこひょこと寝所を出ていってしまう。広間に出てみると、囲炉裏には火が灯されていたが、家人の姿はなかった。


 そして、表が騒がしい。

 何か地鳴りのように重々しい音色が、陰々と響きわたっているようだった。


「なんですか、この音は?」


「まあ、いいからいいから」


 外套を纏って玄関の戸板を出たレイトは、そのまま立ちすくむことになった。

 家の前に、赤々と火が焚かれている。そして、その火を取り囲んだ大勢の人々が、地面に敷いた敷物に額をこすりつけながら、世にも暗鬱な詠唱を響かせていたのだった。


 そのほとんどは女性であり、数多くの幼子も紛れ込んでいる。

 また、ごくわずかな人数であったが、頭や手足に包帯を巻いた男性の姿もあった。

 そして、家の正面の樹木に、奇妙なものが吊り下げられている。

 巨大なムフルの毛皮である。

 あちこちに穴の空けられたその毛皮は、頭から足までひとつなぎになっており、生前の巨大さをまざまざと見せつけていた。


「これは……何をしているのですか?」


「これは、和睦の儀であるようだね。彼らは、ムフルの子供を殺めた。ムフルは、彼らの同胞を30名ばかりも殺めた。その恨みを死の後まで残さず、神の御許では仲良く手を取り合おう――というような祈りであるみたいだよ」


 レイトは再び、夢の中に放り込まれたような心地であった。

 巨大な炎を取り囲んで、70名ばかりの東の民が、嘆きにも似た詠唱をあげている。それを見下ろすのは、巨大なムフルの生皮だ。深い夜の闇の底で、そんな光景だけがぽっかりと浮かびあげられており――それは、この世のものとも思えないほど幻想的で、恐ろしく、そして美しかったのだった。


 やがてレイトたちの姿に気づいた人間の何人かが、身を起こして家の裏手に駆けていく。

 再び戻ってきたとき、その手にはふたり分の木皿が携えられていた。


「******。……**********」


「贖罪の晩餐だってさ。あのムフルを仕留めた俺たちにも食べてほしいそうだよ」


 裏で鉄鍋が火にかけられていたのだろうか。木皿には赤い色合いをした煮汁がたっぷり注がれており、白い湯気をたてていた。


「……これって、あのムフルの肉なのですか? あのムフルは、さんざん人間を喰らっているのですよね?」


「ああ、西の王国では人喰いの獣を忌避するのだったね。でも、ここは自由開拓地とはいえ、東の領土だよ」


 カミュア=ヨシュはふたり分の木皿を受け取りつつ、レイトににんまりと笑いかけてきた。


「レイトだって、ムフルの肉が楽しみだと言っていただろう? どんなムフルだって人間を襲った可能性は否めないのだから、同じことなのじゃないかな」


 レイトは嘆息を呑みくだしつつ、木皿を受け取った。

 きっと昨晩と同じ香草が使われているのだろう。チットの実のように真っ赤な煮汁で、いかにも辛そうな香りが鼻を刺してくる。

 覚悟を決めて煮汁をすすると、やはり舌が痛いほどに辛かった。


 ただ、ムフルの肉というのは――レイトが想像していたほど硬くはなかったし、筋張ってもいなかった。それに、香草が強烈であるためか、まったく臭みも感じられない。ギバやギャマの肉にも通じる、力強い味わいであった。


「このムフルは、10人がかりで彼女たちが運んできたのだよ。首を斬って仕留めたのが、多少は血抜きの効果になったのかな。驚くほどに美味だねえ」


 カミュア=ヨシュは、ご満悦の様子でムフルの肉を頬張っていた。

 すると、木皿を運んできた娘たちが、敷物も敷かれていない地面にひざまずく。そのうちのひとりが、詠唱のように長い東の言葉で何かを伝えてきた。


「昨晩は失礼いたしましたってさ。まあ、彼女たちも母親の命令に従っただけなんだから、そうまで気にする必要はないのにね」


 頭を垂れている女衆の数は、4名だ。レイトには見分けもつかなかったが、彼女たちは昨晩裸身をさらしていた女衆らであるのだろう。

 カミュア=ヨシュが東の言葉で何かを伝えると、彼女たちはようよう立ち上がり、いかにも東の民らしく指先を奇妙に組み合わせつつ、なおも頭を下げてきた。


 昨晩の彼女たちは探るようにレイトたちを見ており、カミュア=ヨシュにそのやり口を責めたてられてからは恐怖の眼差しになっていた。

 しかし、今の彼女たちの瞳には、感謝の光だけが渦巻いている。

 それはレイトがこれまでに出会ってきた東の民と変わるところのない、誠実で清廉そうな眼差しであるように思えた。


「俺たちは、集落の恩人だってさ。……まあ、これで狩りの仕事も再開できるし、余所の集落から婿を迎えることもできるんだから、この集落が滅ぶこともないだろう」


「僕なんて、カミュアとムフルの死闘を眺めていただけのことですよ。何も感謝されるいわれはありません」


「そんなことはないよ。レイトの投げた槍も、ムフルの身体に刺さっていたじゃないか。あれだけ毒が回っていなければ、剣でムフルを仕留めることなんてそうそうできないはずなんだからね。レイトの助力がなかったら、俺のほうこそ頭を吹き飛ばされていたかもしれないよ」


 カミュア=ヨシュがそんな風に答えたとき、炎を取り囲んでいた人間のひとりが重々しい声で何かを告げた。

 それに応じて、炎に雪がかぶせられる。たちまち辺りは闇に包まれたかに思われたが――目が慣れると、世界は灰色で再構築された。


「ああ、夜明けだね」


 4名の女衆は最後にまた一礼してから、同胞のもとに戻っていった。

 敷物に座した人々は、全員が同じ方角に向きなおる。そちらの空はぼんやりと薄明るくなっており、今にも樹木の隙間から朝日が差し込んできそうだった。


 人々は再び敷物に額をすりつけて、詠唱の声を重ねていく。

 今度はさきほどまでのように悲しげな響きはなく、どこか喜びに満ちているようにすら感じられた。


「なんでしょう。ああやって日の出を迎えるのが、この地の習わしなんでしょうか?」


「ええ? だってこれは、太陽神の再生なんだよ? 東の民だったら、祝福の祈りを捧げるのが当然じゃないか」


 レイトは、その手の木皿を取り落としそうになってしまった。


「そうか……今日は、銀の月の1日なのですね」


「うん。しばらく人里を離れていたから、日付けの感覚が狂ってしまったのかな?」


 カミュア=ヨシュはとぼけた笑みを浮かべながら、東の方向を見据えていた。

 その横顔をひとにらみしてから、レイトも同じ方向に向きなおる。


 やがて、輝ける鳥が木立を縫って舞い降りたかのように、白い朝日が差し込んできた。

 集落の人々は、いっそうの声を振り絞る。太陽神の再生を祝福するその詠唱は、やわらかい清風のようにレイトの身体と魂を包んでいた。


「……ジェノスの外で太陽神の再生を迎えたのは、これが初めてです」


「うんうん。辺境の最果てでも城下町でも、太陽神の神々しさに変わるところはないよねえ」


 レイトはその神々しさに目を細めつつ、かたわらのカミュア=ヨシュを振り返った。


「……カミュアは昨晩、どのような言葉で彼女たちの振る舞いを咎めたのですか?」


「え? なんだい、いきなり?」


「彼女たちはひどく怯えた様子を見せていましたし、カミュアはこれまで僕に見せたことのない目つきをされていました。カミュアがあのような目つきでどのような言葉を発したのか、ずっと気になっていたのです」


「まいったなあ。べつだんそんな、たいそうな言葉は口にしていないはずだよ」


「でしたら、どうか聞かせてください」


 カミュア=ヨシュもまた太陽神の輝きに目を細めつつ、レイトのことを見下ろしてきた。


「俺の弟子であるレイトの尊厳を踏みにじるつもりであれば、俺はどのような罪も厭いはしない。この場で首を刎ねられるか、媚薬の効果を消す薬草を差し出すか、好きなほうを選ぶといい。……まあ、そんなような言葉かな。俺の拙い東の言葉でどれだけ伝わったかは、はなはだ心もとないところだけれどね」


「そうですか」と、レイトは胸の奥底からわきおこってくる感情の奔流を呑みくだしてみせた。

 そして、カミュア=ヨシュににっこりと笑いかけてみせる。


「そういえば、カミュアはついに30歳ですね。あらためまして、おめでとうございます」


 カミュア=ヨシュは苦笑を浮かべながら、レイトの頭にぽんと頭を置いてきた。

 子供あつかいされるのは、レイトにとってもっとも好ましからぬ行いであるのだが――今この瞬間だけは、なかなかその手を振り払おうという気持ちにはなれなかった。

 そうしてレイトは12歳となり、心から憧憬する師匠とともに新たな年を迎えることになったのだった。

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