最果ての黎明③滅びの運命
2021.1/2 更新分 1/1
「いったい……なんでそんな、馬鹿げたことを……」
レイトは全身の血が沸騰したような苦しみをこらえながら、なんとかそれだけの言葉を振り絞ってみせた。
さりげなく片方の膝を立てながら、カミュア=ヨシュは細長い下顎を撫でさすっている。
「察するに、ムフルの襲撃で失った男手を補充したいということなのかな。だったら嫁取りじゃなく婿入りってことになるけれど、東の言葉では判別が難しいね」
そんな風に言ってから、カミュア=ヨシュはレイトの顔を覗き込んできた。
「それよりも、俺はレイトの様子が気がかりだよ。食事をする前よりも具合が悪いみたいじゃないか」
「なんだか……おかしな感じなんです……その女の人たちを見ていたら、余計に……」
無意識のうちに、レイトは下腹を抱え込んでしまっていた。もはやその部分に生じた脈動は、背骨を伝って脳髄に響くほどであったのだ。
そんなレイトの様子を一瞥したカミュア=ヨシュは、苦いものでも呑み込んだかのように顔をしかめた。
「まさかとは思うけれど、さきほどの薬茶に何かおかしなものでも混ぜたのですか? ……ああ、西の言葉は通じないんだった。********? ******? *********?」
「*******……********……**********……」
「へえ」と、カミュア=ヨシュは口もとをねじ曲げた。
カミュア=ヨシュが滅多に見せることのない、不快感の表明である。
「ど……どうしたんですか、カミュア……?」
「どうやらさっきの薬茶には、媚薬が仕込まれていたらしいよ。娘さんたちの誘惑にあらがえないようにするための処置であったらしいね」
媚薬――その言葉が腑に落ちるまで、レイトはずいぶんな時間がかかってしまった。
カミュア=ヨシュは紫色の目を半分だけまぶたに隠しながら、女性たちの裸身を等分に見回していく。
「ずいぶん親切な人たちだと感激していたのに、足をすくわれた気分だよ。やっぱり東の民というのは内心をつかみにくくて、厄介だね」
「それじゃあ……どうしてカミュアは、平然としているのですか……?」
「うん? ああ、俺はあの薬茶を飲んでないんだよ。なんだか好きになれない味だったから、こっそりこの襟巻きにしみこませていたのさ」
レイトは力が抜けて、がっくりと突っ伏してしまった。
「大丈夫かい?」と、カミュア=ヨシュがレイトの肩に手をかけてくる。
その瞬間――えもいわれぬ感覚が、レイトの全身を駆け巡っていった。
「さ……さわらないでください……本当に、身体がおかしいんです……」
「……こんな子供に媚薬を盛るなんて、決して許されることじゃないよね」
レイトがハッとして顔を上げると、カミュア=ヨシュはいつもの調子で微笑んでいた。
ただ――紫色をしたその瞳が、これまで見たこともないような光を浮かべている。
カミュア=ヨシュはレイトの頭を撫でるふりをしてから、長剣を手に立ち上がった。
「******。*************。******************。**。**********」
裸身の娘たちが、いっせいに後ずさる。
その顔は東の民らしく無表情を保っていたが、どの瞳にもはっきりと恐怖の光が宿されていた。
さらにカミュア=ヨシュは年配の女性を振り返って、長い言葉を叩きつけた。
年配の女性は炯々と瞳を光らせつつ、額にじっとりと冷や汗を浮かべている。
「*******? ***? ********」
カミュア=ヨシュが言葉を重ねると、年配の女性は観念した様子で大きく息をついた。
その口が何事かを告げると、娘たちはのろのろと装束を纏い始める。そして、そのうちのひとりが帳の向こうに消えて、小さな土瓶を運んできた。
「******? **********」
「****……******……」
短いやりとりの後、カミュア=ヨシュは土瓶を受け取って、新しい杯にその中身を注いだ。濁った青色をした、清涼な香りのする薬茶である。
「レイト、これを飲むんだ。毒消しの薬茶だよ」
レイトは震える指先でそれを受け取り、ひと息に飲み干した。
味など、なにもわからない。ただ、口から咽喉、咽喉から胃袋へと、雪の塊でも放り込まれたような冷気が駆け巡っていった。燃えるように火照った身体には、それが心地好いほどである。
「大丈夫かい? 少しは落ち着いたかな?」
「はい……たぶん……」
「まったく、ひどい目にあわされてしまったね。あやうくミラノ=マスに顔向けできなくなるところだったよ」
そのように語るカミュア=ヨシュは、また優しげな眼差しになっていた。
その瞳を見つめているうちに、レイトは猛烈に眠くなってくる。身体の熱が冷めていくにつれて、深淵の中に落ちていくような失墜の感覚が生じた。
「眠るといいよ。朝にはすっかり元気になっているはずだからね」
カミュア=ヨシュのそんな言葉を最後に、レイトの意識はぷつりと断ち切られるように霧散した。
◇
そして、朝である。
レイトがまぶたを開けると、頭上にカミュア=ヨシュの笑顔があった。
「おはよう。よく眠れたかな?」
「……眠るというより、失神していたような心地です」
そんな風に答えたレイトの声は、ひどくかすれてしまっていた。
咽喉がひりひりとして、眼球も乾いてしまっている。何か、燻煙であぶられて干物にでもなってしまったような心地であった。
「ああ、毒消しの薬茶に身体の水気を吸われてしまったのかな。これを飲むといいよ」
カミュア=ヨシュの力強い腕が、レイトの身体を起こしてくれた。
カミュア=ヨシュは壁にもたれて座しており、レイトはその膝に頭を乗せて眠っていたのだ。カミュア=ヨシュは毛皮の毛布を肩からかぶっており、レイトの上にも同じものが掛けられていた。
カミュア=ヨシュから差し出された杯には、透明の水が満たされている。それを口にすると、レイトの身体は速やかに活力を取り戻した。
「ええと……ここは、昨晩の家ですよね? あれからいったい、どうなったのですか?」
「この集落の長老と、あれこれ話をつけることになったよ。それで話がまとまったから、ここで夜を明かすことにしたんだけど、俺はさすがに身を横たえる気分になれなかったんでね」
カミュア=ヨシュは毛布の内側に、愛用の長剣を抱え込んでいたのだ。そうして周囲を警戒しつつ、仮眠を取ったということなのだろう。
屋内に、他の人間の姿はない。すでに囲炉裏には火が灯されており、細く開けられた窓からは白々とした朝日が差し込んでいた。
「昨晩は、大変な目にあってしまったね。まさかあの薬茶に媚薬が仕込まれていたなんて、そこまでは想像できなかったよ。俺がもっと気を回していれば、レイトも苦しい思いをせずに済んだのにねえ。……本当に悪かったと思っているよ」
「いえ。きっとカミュアはこれまでの経験から、あの薬茶の味が危険なものと察することができたのでしょう。僕も危険を察知できるように、《守護人》として経験を積みたく思います」
「いやいや、俺は本当に苦手な味だったから、こっそりやりすごしただけなんだよ。危険なものだと判じていたなら、みすみすレイトに飲ませるわけがないじゃないか」
カミュア=ヨシュの眼差しがまた優しげなものになりかけていたので、レイトは話題を切り替えることにした。
「何にせよ、この集落の人間は信用なりません。僕はもう大丈夫ですから、すぐに出立しましょう」
「いや。その前に、厄介ごとをひとつ片付けなければならなくなってしまったのだよね」
「厄介ごと?」
「うん。この集落を脅かしているムフルの大熊を退治しなければならないんだ」
レイトは、心底から呆れることになってしまった。
「何ですか、それは? いったい何がどうなったら、そんな話になってしまうのです?」
「いや、この集落がムフルの大熊に襲われたって話はしただろう? その大熊はいまだ集落のそばに居座っていて、出入りをしようとする人間を片っ端から食い殺しているそうなのだよ。……昨晩はあれだけの吹雪であったから、俺たちは襲われもせずに集落まで辿り着けたということであるらしいね」
「だからって……僕たちがムフル退治を受け持つ筋合いなんてないでしょう?」
「うん。だけどもうこの集落には、他に男手が存在しないようなのだよ。この家の男衆ばかりでなく、集落の男衆のすべてが魂を返すか深手を負うかしてしまったようだね」
そのようなことが、ありえるのだろうか?
レイトの表情を読み取ったらしいカミュア=ヨシュは、普段通りのとぼけた笑みを浮かべる。
「もともとこの集落には、100人ていどの人間しか住まっていなかったらしい。男衆の数は、30名ていどと言っていたかな。それでもともとはランドルやギャマだけを狩っていた一族だから、ムフルに襲われたらひとたまりもなかったんだよ。マヒュドラにおいても、小さな集落がたった1頭のムフルに全滅させられたという風聞なんかが伝えられていたからねえ。怒りに駆られたムフルというのは、それだけ恐ろしい存在であるのだよ」
「怒り……そのムフルは、どうしてそのように怒っていたのですか? そもそもこの集落は、ムフルの縄張りから外れた場所に位置しているのでしょう?」
「うん。縄張りを外れてさまよいこんできた子供のムフルを、この集落の人間が仕留めて持ち帰ってしまったらしいね。その匂いを追いかけてきた母親のムフルが、復讐のために集落を襲ったというわけだ」
「だったら完全に、自業自得じゃないですか」
カミュア=ヨシュは苦笑しながら、レイトの顔を覗き込んできた。
「確かに悪いのは、子供のムフルを仕留めた狩人だ。でも、集落で暮らす女衆や幼子やご老人がたに罪のある話ではないだろう? この樹海にはこういう小さな集落が点在しているらしいけど、ムフルのせいでそちらとも行き来することはできなくなって、森で狩りの仕事を果たすこともかなわない。このままでは、集落の民の全員が飢えて死んでしまうことになるのだよ」
「……それが、行きずりの旅人に媚薬を飲ませる正統な理由になるのでしょうか?」
「人間は切羽詰まると、愚かな行動に走ってしまうものだからねえ。ただ彼女たちは、ムフルを倒すための男手が欲しかっただけなのだよ。そのために4人もの娘さんを差し出そうとしたんだから、なかなか豪気な話じゃないか」
「…………」
「いや、もちろん彼女たちの行いを許したわけじゃないけどさ。どっちみち、そのムフルを仕留めないと、俺たちもこの集落を出ることができないんだ。あんなに雪が積もっていたら、トトスだってまともに駆けることはできないからね」
レイトは、心からの嘆息をこぼすことになった。
「でも、30名もの狩人を返り討ちにできるようなムフルの大熊を、僕たちだけで仕留めることなんて可能なのですか?」
「それはまあ、俺だって15歳までは北の民として生きてきた身だからね。ここの集落の人々よりは、ムフル狩りの知識を携えているつもりだよ」
そう言って、カミュア=ヨシュはにんまりと微笑んだ。
「30名もの狩人を相手取ったから、そのムフルも相応の手傷を負っているはずだ。だからその夜以降は集落を襲わずに、出入りをしようとする人間だけを襲っているんだろう。手負いの獣ほど恐ろしいものはないという格言もあるけれど、五体満足のムフルを相手取るよりは、まあいくぶん気楽なんじゃないのかな」
「…………」
「心配しなくても、今日のうちには決着をつけられるはずだよ。レイトはこの家で、のんびり待っていればいいさ」
「何を仰っているのですか。旅人に媚薬を飲ませるような人間の家に、僕を置いていこうというおつもりであったのですか?」
レイトがおもいきりにらみつけてみせると、カミュア=ヨシュはきょとんとした様子で目を丸くした。
「いや、だって相手はムフルの大熊だよ? そんな危険な場所にレイトを連れていくわけには……」
「僕は、カミュアの弟子です。師匠だけを危険な場所に送り込むことなどできません」
「いやいや、これは《守護人》じゃなくって狩人としての仕事なんだから……」
「それもまた、カミュアの力の一部なのでしょう? 僕はカミュアから、あらゆることを学びたいと願っています」
カミュア=ヨシュは苦笑しながら、レイトの頭にぽんと手を置いてきた。
「まったくレイトは、強情だねえ。そういう部分は、やっぱりミラノ=マスに似てしまったのかな。……わかったよ。ただし、狩り場では俺の指示に従うようにね。この言いつけを守れないようだったら、師弟の関係は解消させていただくよ」