最果ての黎明①守護人と弟子
2020.12/31 更新分 1/1
・今回は、年末年始の特別更新となります。
・少し短めの番外編を全4話、1/3まで1話ずつ更新いたします。
およそ1年と3ヶ月前――
太陽神の滅落と再生を目前に控えた紫の月の終わりに、名うての《守護人》たるカミュア=ヨシュとその弟子レイトは、辺境の果ての樹海で豪雪に苦しめられていた。
両名はそれぞれトトスにまたがっているのだが、さきほどからほとんど前に進むことができていない。道なき道にはどっさりと雪が積み重なり、トトスの長大なる足が半分うずまってしまうほどであったのだ。
風は横殴りに吹きすさび、そこにも雪が入り混じっている。視界はほとんど白く閉ざされて、レイトは前方を進むカミュア=ヨシュの背中を見失わないようにするだけで精一杯であった。
「レイト! もう少しの辛抱だよ! この森を抜ければ、きっと人里に出られるはずだからね!」
吹雪の隙間をぬうようにして、カミュア=ヨシュのそんな声が聞こえてきた。
これほどの苦難に陥りながら、まだその声には彼らしいとぼけた感じが滲み出ている。
しかしそれは、レイトにとって唯一の希望であったかもしれない。もしもカミュア=ヨシュが――あの、憎たらしいぐらい能天気なカミュア=ヨシュまでもが恐慌状態に陥ってしまっていたならば、レイトも魂を返す覚悟を固めなければならなかっただろう。それほどに、事態は切迫していたのだった。
「……だけど僕たちは、地図にも詳細が記されていないような辺境の樹海を突き進んでいるのですよ? それなのに、人里に出られるという保証があるのですか?」
レイトが気力を振り絞って声を張り上げてみせると、前方からは「うん!」という元気な声が返ってきた。
「以前に行商人や《守護人》の仕事仲間から、噂に聞いたことがあるのだよ! この樹海には、自由開拓民の集落があちこち点在してるってね! それらはいずれも狩人の集落であるらしいから、今日の晩餐はギャマやムフルあたりの汁物料理かな!」
「……僕たちがムフルの晩餐にならなければ幸いですけれど」
「えー? 何か言ったかい?」
「なんでもありません! ムフルの肉を口にするのは初めてなので、楽しみです!」
レイトとしては虚勢をかき集めて、そんな風に応じるしかなかった。
レイトたちはそのムフルの毛皮で作られた胴着を着込み、その上から革の外套をかぶっているというのに、身体はすっかり冷えきってしまっている。手綱を握った指先などは、ほとんど感覚がないぐらいだ。
しかし、弱音を吐くことは許されない。
レイトはようやく、カミュア=ヨシュの長旅に同行する許しを得られたのだ。ここで弱音を吐いたならば、「やっぱりまだ早かったかな」と笑われることは目に見えていた。
レイトは間もなく、12歳になろうとしている。
世間的には、幼子と見なされる年齢であろう。たとえどのような環境に生まれつこうとも、決して一人前と認められるような年齢ではない。もちろんレイトだってあくまでカミュア=ヨシュの弟子に過ぎないのだから、何も偉そうなことを言えた身分ではなかった。
しかしそれでも、カミュア=ヨシュはついに長旅の同行を許してくれたのだ。
これまでは、ジェノスの近在を巡る旅ぐらいでしか同行は許されなかった。カミュア=ヨシュが遠出をするときは、レイトの生まれ育った宿である《キミュスの尻尾亭》に預けられて、ひたすら師匠の帰りを待つだけの日々であったのだった。
この年に、カミュア=ヨシュはトゥラン伯爵家にまつわる騒乱を収束させることがかなった。
もちろんそれには数多くの人間が関わっていたのだが、最大の立役者はカミュア=ヨシュであっただろうと、レイトはそのように信じている。
そもそもレイトがカミュア=ヨシュと知り合ったのも、彼がジェノスに渦巻く陰謀について調査していたためであった。
およそ10年前に魂を返した商団の団長の遺児が、副団長の義理の弟のもとで育てられている――そんな風聞を聞きつけて、カミュア=ヨシュは《キミュスの尻尾亭》を訪れたのである。
あれはもう、2年も前の話であっただろうか。
レイトが、今よりもさらに幼かった頃のことだ。
カミュア=ヨシュは、何食わぬ顔でひょっこりと《キミュスの尻尾亭》に現れた。自分が過去の事件を調査しているなどとはおくびにも出さず、ただ何日かの逗留を願ってきたのだ。
当初は主人のミラノ=マスも、カミュア=ヨシュのことを忌避していたように思う。カミュア=ヨシュは北の民のごとき風貌をしていたため、おおよその西の民からは疎まれていたのだ。
だが、世慣れているカミュア=ヨシュは、いつしかミラノ=マスと親しくなっていた。内向的で気弱なテリア=マスさえもが、3日も経つ頃にはおずおずと笑顔を見せるようになっていた。
そして、レイトは――剣の腕だけでこの世界を生き抜いているというカミュア=ヨシュに、強烈なまでの憧憬を抱くことになってしまった。
彼は、北と西の間に生まれた存在であったという。北の民である母親が、仇敵である西の民と通じて、子を孕んでしまったのだ。
不義の子を孕んでしまった母親は、故郷の集落で孤立した。産まれてきたカミュア=ヨシュも、穢れた血筋として迫害されることになった。
やがて母親は心労がたたって、若くして魂を返してしまう。
それを契機に、カミュア=ヨシュは故郷を捨てた。彼が、15歳の頃のことである。彼は単身でマヒュドラを出奔し、西方神に神を移したのだった。
「母親は魂を返すその瞬間まで、俺に詫びていたけれどね。母と父が出会っていなければ、俺はこの世に生まれていなかったんだ。それじゃあ、母親を責めるわけにはいかないよ」
当時のカミュア=ヨシュはそんな風に言いながら、のほほんと笑っていた。
それほどに、彼は強靭な人間であったのだ。
その強さに、レイトは憧れた。
だからレイトは、その場でカミュア=ヨシュに弟子入りすることを願ったのだった。
「まいったなあ。君にはこんなに温かい家があるじゃないか。たとえ血は繋がっていなくとも、ミラノ=マスとテリア=マスは大事な家族だろう? 《守護人》なんて、しょせんは根無し草の風来坊なんだからさ。大事な家族や故郷を二の次にする価値なんて、これっぽっちもありはしないと思うけどねえ」
カミュア=ヨシュは、そんな風に言っていた。
まあ、10歳にもなっていないような幼子に弟子入りを願われたら、誰だって辟易するだろう。彼はそんな幼子に情理を尽くしてくれたのだから、むしろ親切なぐらいであるはずだった。
しかしレイトは、自分の思いを捨て去ることができなかった。
レイトは痛切に、力を求めていたのだ。
もちろんマス家の人々のことは大事だし、本当の家族だと思っている。そして彼らは、同じ悲しみを分かち合う間柄でもあった。レイトとマス家の人々はおたがいに大事な家族を奪われながら、貴族の欺瞞によって無念を晴らすことのかなわなかった身の上であったのだった。
だからレイトは、カミュア=ヨシュ本人ではなくミラノ=マスを説得することになった。
自分は、カミュア=ヨシュのように強くなりたい。
ミラノ=マスとテリア=マスのことは大事に思っているが、自分はともに泣きふすのではなく、大事な家族の涙を晴らせるような人間になりたいのだ、と――それこそレイトはこらえようもなく涙をこぼしながらに、そんな風に訴えることになった。
それでミラノ=マスが、カミュア=ヨシュにレイトの弟子入りを願ってくれたのだった。
「レイトに《守護人》ってやつの素質があるんだったら、お前さんが育ててやってくれ。もしも素質がないようなら、俺があいつを宿屋の立派な跡取りに育ててやろうと思っている」
ミラノ=マスは、そんな風に言ってくれていた。
それでカミュア=ヨシュも、ようようレイトの弟子入りを認めてくれたのである。
それから2年ほどの時間が過ぎ――カミュア=ヨシュは、ようやくレイトに長旅の同行を許してくれたのだ。
だからレイトはたとえ魂を返すことになろうとも、弱音を吐くわけにはいかなかったのだった。
「……レイト! 人里だよ!」
と――そんな声が、また吹雪の隙間から聞こえてきた。
しかし、レイトがいくら目をこらしても、明かりのひとつも見えてこない。
すると、カミュア=ヨシュは「違う違う!」と笑い声を響かせた。
「こんな寒さの厳しい区域で、窓から明かりがこぼれることはないさ! こういうときは、上を見るんだ。ほら、白い煙があげられているだろう?」
レイトは視線を上げてみたが、すでに辺りはずいぶん暗くなっており、しかも雪が吹雪いているのだ。どれが煙でどれが雪なのか、レイトにはさっぱり判別がつかなかった。
「いやあ、九死に一生を得るとはこのことだね! さあ、温かい晩餐はもう目の前だよ!」
それから、百を数えたぐらいであろうか――行く手に、黒い影の連なりが立ちはだかった。樹林の間に立ち並ぶ、木造りの家の影である。
「うん。風や雪も、ようやく収まってきたようだね」
頭巾にかぶさった雪を手で払いのけつつ、カミュア=ヨシュがレイトのほうを振り返ってくる。口もとの襟巻きをずらすと、そこには普段通りのとぼけた笑みが浮かべられていた。
「大丈夫かい、レイト? さっきから返事がなかったんで、トトスに乗ったまま凍てついてしまったんじゃないかって、ちょっと心配だったのだよ」
「……なるべく体力を温存しておきたく思っただけです。ここの集落の人々が怪しげな旅人を受け入れてくれるという保証もありませんからね」
「レイトは、心配性だねえ。俺はともかく、レイトのように利発そうな子供を見殺しにするような人間なんているわけがないさ」
子供という言い方にレイトは反感を抱いたが、今は言い返す体力も残されていなかった。
カミュア=ヨシュは最後ににんまりと笑ってから、前方に向きなおる。
「では、手近な家に声をかけてみるとしよう。西方神と東方神に感謝だね」
「東方神? どうして東方神なんですか?」
「だってここは、もうシムの領土であるはずだからね。北はマヒュドラ、西はセルヴァと、二つの王国にはさまれたシムの自由開拓地というわけさ」
「ちょっと待ってください。それじゃあ、ここは……悪名高きゲルドの領土なんですか?」
「いや、だから自由開拓地だよ。このまま北東に突き進めば、まごうことなきゲルドの領土だろうけれどね」
レイトは知らず内、そんな危険な場所に足を踏み入れてしまっていたのだ。
マヒュドラとゲルドに隣接した自由開拓地などといったら、それは西の民にとって大熊の縄張りにも等しい危険な区域であるとしか思えなかった。
「心配しなくても、ここで一夜を明かしたら南下して、ジギの草原を目指すつもりだよ。セルヴァからシムに向かうにはどういった道筋が存在するのか、それをひと通り把握しておきたいと思ってね」
そんな風に言いながら、カミュア=ヨシュは愉快そうに笑っている。
レイトとしては、襟巻きの下で溜息を噛み殺すしかなかった。