凶運の影②~死闘の果て~
2020.12/22 更新分 1/1
「では、行くぞ」
ダリ=サウティの号令のもと、俺たちは車体の上を移動した。
俺はチル=リムを抱きかかえており、隣にはアリシュナが歩いている。それを守ってくれているのは、アイ=ファとダリ=サウティとディアだ。鳥とギーズの襲撃もいったんやんでいたので、俺たちはすぐにその場所を踏み越えることができた。
前の車は、また5メートルほど前方で停車している。その周囲では、甲冑を纏った兵士と狩人が入り乱れて、野獣どもと死闘を繰り広げていた。
屋根の上で刀を振るっているのは、ジョウ=ランとゼイ=ディンだ。その車に繋がれているトトスの頭上を守っているのだろう。森辺の荷車はすべてトトスを解放したとのことであったが、兵士たちの乗ってきた車に関しては移動の手段を保守しようと努めているのだ。
「アイ=ファよ、あちらの車に乗り込むのか?」
と、ギルルに乗ったライエルファム=スドラが、車体の端にたたずんだ俺たちに呼びかけてくる。その足もとで地上に視線を走らせているのは、チム=スドラだ。
「うむ。獣たちも、わずかずつだが勢いが減じたように思う。いずれは車を動かすこともかなおう」
「そうだな。俺も賛同する。……しかし、ギバまで襲ってくるのは厄介だ。ルド=ルウたちに加勢したいのだが、あちらにはトトスを駆けさせられるほどの空間がない」
「ルド=ルウらであれば、苦難を退けてくれよう。とにかく戦えぬ者たちを、安全な場所に移したく思う」
「うむ。兵士たちも何名かは、深手を負ってしまったようだからな。一刻も早く、この場を離れるべきであろう」
そうしてライエルファム=スドラは、乱戦の場に飛び込んでいった。
群がるムントはギルルの足で蹴り飛ばさせて、それをかいくぐったギーズはチム=スドラが斬り捨てる。このような戦いは初めてであるはずなのに、三位一体と評したくなるような連携攻撃であった。
「では、行こう。あちらには兵士や狩人も多いので、俺たち3人でもアスタたちを守れるはずだ」
まずはダリ=サウティが車から飛び降りて、そこに待ちかまえていたムントを斬り伏せる。
俺は自力でジャンプをして、アリシュナはアイ=ファに抱きかかえられて地上に降り立つ。ディアは最後にやってきて、横合いから飛び出してきたギーズを斬り捨てた。
「通るぞ! 道を空けてくれ!」
ダリ=サウティがその場で戦う人々の加勢をしながら、道を切り開いてくれる。
俺とアリシュナは身体を屈めながら、またじりじりと前進していった。左右は人間の壁にはさまれており、前後はアイ=ファとディアに守られているので、獣の襲撃に怯える必要もない。さきほどよりも、道行きは順調であるように思われた。
そこに、「ギバだあ!」という悲鳴まじりの声が響きわたる。
左右の森からいっぺんに、2頭ずつのギバが現れたのだ。
「……敵は、こちらの動きを見透かしているようだな」
先頭を進んでいたアイ=ファが、火のような目で俺を見つめてきた。
「行け、アスタ。あれらのギバは、お前たちの乗った車に触れる前に、魂を返すことになろう」
「わ、わかった。行きましょう、アリシュナ」
俺はアイ=ファのかたわらを通りすぎて、ひと息に車まで駆け寄った。
そうして、扉に手をかけようとした瞬間――足もとから、野獣の咆哮が響きわたる。
ムントである。
ムントが、車の下部に潜んでいたのだ。
俺はほとんど反射的に、その顔面を蹴り飛ばしていた。
ムントは「ブギャアッ!」と悲鳴をあげて、俺はだらしなくも尻もちをついてしまう。蹴った反動で、バランスを崩してしまったのだ。
俺にはムントどころか、ギーズを退ける力だってないだろう。
しかし、俺の腕の中にはチル=リムがいる。後方のアイ=ファたちがどのような状況であるのかもわからない。チル=リムを守れるのは、俺だけであるのだ――そんな風に考えると同時に、俺は腰からゲルドの小刀を引き抜いていた。
ムントは憤激に双眸を燃やしながら、俺の姿を見据えている。
その貧弱な四肢が折り曲げられて、跳躍の姿勢を取った。
心臓が、早鐘のように胸郭を打っている。
右手で小刀をかまえ、左手でチル=リムを抱きながら、俺はその瞬間が訪れるのを待ち受けた。
周囲はいったいどのような状況であるのか。視野狭窄を起こしてしまったようで、左右の状況すらわからない。俺の視界には、ただ凶悪なムントの姿だけが映されていた。
やがてムントが地面を蹴って、俺たちのほうに跳びかかってくる。
その姿が、まるでスローモーションのようにゆっくりと見えた。
ただし、自分の動きも信じ難いほど鈍重に感じられたので、何も有利には働かない。俺がどれだけ気を張っても、俺の肉体は凡人のそれなのだった。
俺の握った小刀が、のろのろと前方に突き出されていく。
ムントはムントでのろのろと、俺の頭上に前足を振り下ろしていた。
すんぐりとした胴体には不似合いな貧相な足であるのに、その先端には鋭い爪が生やされている。
ムントだって雑菌だらけであろうから、その爪で肉体をえぐられたら生命に関わることだろう。
それでも俺は怯む気持ちを叱咤して、なんとかムントの爪を回避しようと身体をねじりながら、小刀の切っ先を繰り出した。
厄災除けの紋様が刻まれたゲルドの小刀の刀身は、ムントの鼻面に突き刺さり――その凶悪な顔が、苦痛に変じていくのが見えた。
そして、熱い痛みが左肩に弾け散る。
かわしきれなかったムントの爪が、俺の左肩をえぐったのだ。
俺はそのまま前のめりに倒れ込み、ムントは俺の頭上を飛び越していった。
トトス車の後部に頭を打ちつけた俺は、それを痛がる余裕もなく、すぐさま後方に向きなおる。
ムントはすでに、俺の鼻先にまで迫っていた。
何も鍛えていない人間と野獣では、これほどまでに俊敏性に開きがあるのだ。
それでも俺は右手の小刀を振り上げようとしたが、それが間に合わないことは明白であった。
俺は左手で、チル=リムの頭を抱え込む。
ムントの口が大きく開かれて、鮫のように細かい牙が俺の眼前にさらされた。
俺の生は、ここで終わってしまうのか。
だけど俺は、どんな運命からも目をそらしたくはなかった。
そうして俺の視界は、ムントの牙とその向こう側に澱む暗黒にふさがれて――
次の瞬間、真紅の鮮血に閉ざされた。
生温かい鮮血が、俺の顔をしとどに濡らしていく。
しかし不思議と、痛みはない。
そして、その声が響きわたった。
「ふん。狩人ならぬ人間としては、まあ上出来だったな」
俺が目を上げると、ディアが不敵に微笑んでいた。
その左の前腕が、ムントに噛みつかれて大量の血を噴きこぼしている。
俺の顔を濡らしたのは、彼女の血であったのだ。
「アスタ! ディア!」
今度はアイ=ファの怒号が響きわたり、その姿が横合いから忽然と出現した。
炎のような気迫を纏ったアイ=ファが、ムントの背中に刀を振り下ろす。
ムントは地面に崩れ落ち、その牙から解放されたディアの腕から、さらなる鮮血がしたたった。
「どうした! やられたのか!」
と、アイ=ファに続いて、ダリ=サウティが現れる。その顔は、左半面が血に染まってしまっていた。
「だ、大丈夫ですか、ダリ=サウティ? 頭から血が――」
「お前に比べれば、どうということはない!」
ダリ=サウティの逞しい腕が、俺の身体をチル=リムごとひょいっと持ち上げた。そしてそのまま、車の中にそっと下ろされる。
「顔の血は、お前の血ではないのだな? 左肩は、ムントにやられたのか? ムントの爪には、毒があるようなものなのだぞ!」
ダリ=サウティの表情があまりに切迫していたために、俺はとっさに返事をすることもできなかった。
そんな俺のかたわらに、今度はアイ=ファがアリシュナの身体を放り入れてくる。
「お前は薬草を扱えるのだろう? ならば即刻、アスタとディアの傷を癒やすのだ!」
「承知しました。おまかせください」
アリシュナは、さっそく外套の内側をまさぐり始める。
するとディアが、自力で車に乗り込んできた。
「ディアもこれでは、しばらく戦えない。あとはお前たちに頼んだぞ」
「わかっている!」と怒鳴るように応じてから、アイ=ファが俺の無事な右肩をぐっとつかんできた。
「……私を置いて魂を返すことは許さんぞ」
アイ=ファの瞳は狩人の眼光を宿していたが、その顔は泣くのをこらえるように震えていた。
俺は精一杯の思いを込めて、「うん」とうなずいてみせる。
「アイ=ファも、気をつけてくれ。ここでアイ=ファの無事を祈ってる」
アイ=ファは大きくのびあがり、ほとんど頭突きのような勢いで俺の額に自分の額を押し当ててから、車の扉を叩き閉めた。
車の窓にはしっかりと帳が下ろされていたが、灯籠の火が灯されていたので視界に不自由はない。外界の喧噪を遠くに聞きながら、アリシュナは俺に向きなおってきた。
「アスタ、装束、お脱ぎください。その間、ディア、治療いたします」
「ええ、わかりました。……チル=リム、ちょっとだけ離れてもらっていいかな?」
チル=リムはこの騒ぎの間、ずっと人形のように固まってしまっていた。
のろのろと顔を上げたチル=リムは――薄明りの中で、銀色の目を裂けんばかりに見開いた。
「アスタ……血……」
「ああ、これは俺じゃなくって、ディアの血なんだよ。……ディア、さっきはありがとう。お礼を言うのが遅れてごめんね」
「ふん。刀の切っ先を突っ込んでもよかったのだが、それではお前の顔まで叩き斬る恐れがあったからな。こうするより他なかったのだ」
傷ついた左腕をアリシュナに預けながら、ディアは何でもないように笑っていた。
他者を守るためであれば、自らが傷つくことも厭わない。ディアは、そういう人間であるのだ。どうしたって、それはティアを思い出さずにはいられない事実であった。
「まあ、お前がチル=リムを見捨てるような人間であれば、ディアだって痛い思いをしてまで守ってやろうとは考えなかった。その調子で、心正しく生きていくがいい」
「まったく、君にはかなわないな。……あれ? どうしたんだい、チル=リム?」
チル=リムが、俺の腕の中でもがいていた。
俺の胸もとを突き放すようにして、ぺたりと床にへたりこむ。その銀色の瞳は、食い入るように俺の左肩を見つめていた。
「アスタ……血が……」
「ああ、うん。こっちはちょっと引っかかれちゃっただけだよ。アリシュナが治療をしてくれるから、何も心配はいらないさ」
俺はまだ気が昂っているためか、ほとんど痛みも感じていなかった。ただ、熱く疼くような感覚がするだけだ。
しかし――左肩からこぼれた鮮血が、胸のあたりにまで広がってしまっている。よく見れば、そんな俺に抱かれていたチル=リムの灰色の長衣にも、少なからず血がしみてしまっていた。
「わたしのせいで……アスタまで……」
「チル=リムのせいなんかじゃないよ。悪いのは、こんな真似をしでかしてる邪神教団の連中だ」
俺がその頭を撫でてあげようと右手をのばしかけると、チル=リムは弾かれたような勢いで後ずさってしまった。
そして、自らの耳を両手でふさぎ、銀色の瞳をまぶたに隠してしまう。
「ごめんなさい……ごめんなさい……わたしのせいで、ごめんなさい……」
ディアの治療を終えたアリシュナが、チル=リムのほうに音もなく近づいた。
その指先がチル=リムの顔の前を通りすぎると、チル=リムの身体がふらりと倒れかかる。アリシュナはそれを抱き止めて、床の上にそっと寝かせた。
「彼女、眠り、必要です。……アスタ、装束、お脱ぎください」
「ああ、はい……」
きっとまた、薬草か何かを使ったのだろう。チル=リムはとても安らかな表情で眠っていたが、そのまぶたからこぼれた涙が床にしみを作っていた。
(本当に、なんて気の毒な境遇なんだろう。チル=リムには、なんの責任もないってのに……)
俺は暗澹たる心地で、長袖の装束と肌着を脱ぎ捨てた。
俺の正面に座したアリシュナは、何かをこらえるように目を細める。
「どうしました? まだ具合が悪いのですか?」
「いえ。……アスタの裸身、眼前にして、羞恥、禁じ得ません」
「そ、そうですか。それは失礼いたしました」
俺は床に放り出した装束を拾いあげて、とりあえず胸やら腹やらを隠してみせた。顔に付着したディアの血も、ついでにそれで拭かせていただく。
「それじゃあ、お願いします。……ムントの爪って、危険なのですよね?」
「危険です。まず、毒素、吸い出します」
と――アリシュナのほっそりとした顔が、俺の左肩に近づけられてきた。
その唇が肩の傷口にあてられて、血をすすっていく。すすった血は、懐から出した織布に吐き出されていた。
「こちら、基本的、処置となります」
「あ、はい。俺も知識としてはわきまえています」
「はい。あくまで、傷の処置です。……ですが、アスタの肌、唇、触れること、羞恥、禁じ得ません」
「そ、それをわざわざ口にする必要はないのでは?」
「はい。心、乱れている、証拠でしょう。それもまた、羞恥、禁じ得ません」
そうして何度か同じ行為を繰り返したのち、アリシュナはあらためて俺の傷口を診察してくれた。
「傷口、広いですが、深くありません。縫わずとも、治癒、かなうかと思われます」
「そうですか。縫うのは痛そうなので、ほっとしました」
「はい。アスタの肉体、強靭ゆえでしょう。……アスタの肉体、想像より逞しく、動揺、禁じ得ません」
「あのですね、アリシュナ……」
と、俺は自然に笑うことができた。
「まあいいや。アリシュナのほうは、すっかり元気になられたようですね。さっきはかなり苦しそうだったので、心配していました」
「はい。凶運の波動、薄まりました。最初の波、間もなく引くでしょう」
アリシュナの華奢な指先が、懐から取り出した薬を塗り込んでいく。さすがにそれなりの痛みが走ったが、飛び上がるほどではなかった。
「このような波動、体験、初めてです。邪神教団、世界の摂理、乱すため、常ならぬ波動、生じるものと思われます。それがまた、チル=リム、いっそう苦しめるのでしょう」
「はい。なんとか彼女の苦しみを取り除いてあげてください。俺にできることなら、なんでもしてみせます」
「アスタ、すでに、大きな力、なっています。また、ディアの星、チル=リムの運気、上げるでしょう。もうひとつ、狼の星、現れれば――」
と、そこでアリシュナは口をつぐんだ。
「……また、問われぬまま、星図の運行、語ってしまいました。己の未熟、羞恥、禁じ得ません」
「いえ。それは勝手に頭に浮かんでしまう範囲のことなのでしょう? だったら、アリシュナに罪はないと思います。……チル=リムも同様に」
「はい。彼女の苦しみ、いくらかは、理解できる、思います」
ならばやはりアリシュナこそが、チル=リムにとって何よりの救いになるはずだ。
黙って俺たちの問答を聞いていたディアが、そこで「ふん」と鼻を鳴らす。
「この騒ぎが収束しつつあるというのは、ディアにだって感じ取ることはできる。やはり星見の力などというものは、人間がもともと持っている力がわずかばかりに強まったぐらいのものであるのだろう」
「異存、ありません。我々、誰もが、大地の子なのですから、大地の力、大神の力、誰もが携えているのです」
アリシュナがそのように答えたとき、車の扉が荒っぽく開かれた。
殺気を纏った兵士たちが、どかどかと乗り込んでくる。俺たちが呆気に取られていると、最後にアイ=ファとダリ=サウティも乗り込んできた。
「今が好機だ。車を出すぞ」
そのように言いたてたダリ=サウティが、扉に手をのばそうとする。
その寸前に、驚くべき人物がひょいっと車の中を覗き込んできた。
「やあやあ、アスタも大変な目にあってしまったようだね。とりあえず、話はのちほどゆっくりと!」
ダリ=サウティが扉を閉めて、とぼけた笑顔がその向こう側に隠される。
俺は夢でも見たような心地で、隣に座り込むアイ=ファの仏頂面を見つめることになった。
「ア、アイ=ファ。今のは、カミュア=ヨシュ……だよな?」
「うむ。あやつはついさきほど、ジェノスに到着したそうだ。おかけで我々も、いっそう迅速に獣たちを退けることができた」
そうしてアイ=ファは、鼻先がぶつかるぐらい顔を寄せてきた。
「それよりも、傷の具合はどうなのだ? 傷の周囲が痺れたりはしておらぬか? 熱や、目眩や、吐き気はどうだ?」
「う、うん。今のところは大丈夫。アリシュナが手当てをしてくれたからな」
アイ=ファが無言で振り返ると、アリシュナは恭しげに一礼した。
「毒の気配、見られません。アスタ、生命、脅かされること、ないでしょう。……ただし、包帯、持ち合わせていないため、後の処置、お願いいたします」
「そうか。……アスタの傷の手当てをしてくれたこと、ファの家長として深く感謝する」
アイ=ファがそのように答えたとき、車がゆるりと前進し始めた。
こちらの車には定員以上の兵士たちが乗り込んでいるようだが、誰もがぜいぜいと息をついており、言葉を発する余力もない様子だ。いつの間にかチル=リムの身体を抱きあげて壁際に退いていたディアは、そんな様子をざっと見回してから、ダリ=サウティに視線を固定させた。
「獣たちは、いったん退いたようだな。しかし、すべてを討ち倒したわけではあるまい?」
「うむ。よって我々は、ひとまずルウの集落を目指している。そこで迎え撃つ準備を整えるのだ」
アイ=ファに包帯を巻かれながら、俺は「えっ!?」と驚きの声をあげることになった。
「ル、ルウの集落で敵を迎え撃つんですか? それはあまりに危険では……?」
「ルド=ルウがトトスを走らせて、ルウ家に危急を伝えに行っている。女衆と幼子はどこかの家に集めて、窓を板などで塞いでしまえば、大きな危険はあるまい。どれだけ巨大なギバでも、家の壁を突き破ることなどはそうそうできないはずだからな」
額からこぼれる血を織布でぬぐいながら、ダリ=サウティはそう言った。
その目はまだ、火のような闘志をたぎらせている。
「何にせよ、車で町を目指すほうが、より危険な所業であるはずだ。町に通じる道は細くて、いっそう獣たちには都合がいいはずだからな。そうしてまた車を横倒しにされたら、今度こそ身動きを封じられてしまおう。ルウの集落まで出向けば弓矢もあるし、見通しのいい広場であれば如何なる獣も脅威足りえん。日が暮れるまでに、なんとしてでも決着をつけるのだ」
「そう……ですか。すみません。何もわかっていない俺が、不平なんかをこぼしてしまって」
「何を言っている。疑問があれば、それは納得いくまで語らい合うのが、ここ最近の俺たちであったはずだぞ」
そう言って、ダリ=サウティは白い歯をこぼした。
鋭い眼光と相まって、普段とはまた異なる勇壮な表情である。
「ところで……さっきはいきなり怒鳴りつけてしまって、申し訳なかったな。決してアスタを責めるような意図はなかったので、勘弁してもらいたい」
「え? あれはだって、俺の身を案じてくれてのことでしょう? ダリ=サウティのあんなに必死そうなお顔は初めてであったので、俺はむしろ光栄なぐらいでした」
「うむ。まあ、アスタが深手を負ってしまったのではないかと、つい取り乱してしまってな」
と、今度は照れたように口もとをほころばせる。
サウティの血族と絆を深めるという行いは、初日から滞ったままであったが――俺はダリ=サウティのさまざまな表情を見ることができて、なんだか胸が熱くなってしまっていた。
そんな思いを込めて、ダリ=サウティにぺこりと頭を下げてから、俺はかたわらのアイ=ファに視線を戻す。
「それで、カミュアはいったい何だったんだ? まさか、俺たちの窮地を察知したわけじゃないんだろう?」
「うむ。あやつはあやつで、まったく異なる理由からジェノスを訪れたのだそうだ。あとのことは、本人の口から聞くがいい」
そうして包帯を巻き終えたアイ=ファは、俺の手をこっそり握りしめてきた。
その青い瞳には、さまざまな感情の光が渦巻いてしまっている。
「私が目を離したのは、十を数えるていどの時間であったはずなのに……お前の身を守りきれなかったことを、心から口惜しく思う」
「いきなりギバが4頭も現れたんだから、しかたのないことさ。ディアが助けてくれなかったら、それこそ生命を落としてたかもしれないんだからな」
アイ=ファは慄然としたように身を震わせてから、壁際のディアを振り返った。
膝の上に乗せたチル=リムの頭を撫でながら、ディアは気のない表情で手を振っている。
「礼の言葉なら、すでに受け取っている。何度も同じ言葉を重ねる必要はない」
「……そうか。しかし、お前の果敢な振る舞いに関して、いずれ恩義を返させてもらいたく思う」
「そんな話も、まずは悪漢どもを片付けてからだな」
しばらくして、車はゆるやかに停止した。
ダリ=サウティが慎重に扉を開くと、遠くのほうからルド=ルウの声が聞こえてくる。
「手傷を負った人間は、こっちの家だ! 無事な連中は、こっちに車を寄せてくれ! 今、薬と水を配るからな!」
その指示に従って、車が再び前進する。向かって右側――ジーダたちが暮らす家に向かっているようだ。
「やっぱり、手傷を負った人も多いんでしょうね?」
「うむ。兵士たちは20名ほど深手を負い、あちらのトトスは10頭近くも魂を返すことになってしまった。森辺の男衆は何名かが軽い手傷を負ったていどで、トトスも失われていない」
そうして無事なトトスに2名ずつが乗り、車のほうでもぞんぶんにキャパオーバーを起こしつつ、とにかく全員をこの場に移送したのだという話であった。
「敵もあの場で俺たちを討ち倒すことは難しいと考えて、いったん引いたのであろう。しかしこうしている間にも、新たな獣をかき集めているに違いない。俺たちだけでモルガのすべての獣を相手取ることなどできるわけはないのだから……なんとか、敵を討つ算段を立てるのだ」
荷車が再び停止したので、ダリ=サウティが大きく扉を開いた。
その向こう側に立ちはだかっていたのは、ドンダ=ルウである。このような状況下にあって、これほど頼もしく思える姿はなかった。
「この騒ぎの大もとである娘たちとファの人間も、こちらの家に来るがいい。その場で、災厄を退けるための案を練る」
その言葉に従って、俺とアイ=ファも車を降りた。ディアは右腕一本でチル=リムを抱いており、アリシュナも影のようにひっそりと後をついてくる。100名以上の人間を家に招くことはかなわないので、残りの兵士たちはそのまま車で待機してもらうしかないようだった。
招き入れられたのは、やはりジーダたちの暮らす家である。しかし、その場に待ち受けていたのはこの家の家人ならぬ、デヴィアスとジェムド、カミュア=ヨシュとガズラン=ルティムの4名であった。
「おお、アスタ殿! そちらも手傷を負ってしまわれたのか! しかし、生命があって何よりだ!」
「はい。デヴィアスもご無事でほっとしました」
「うむうむ。ギバの突進に弾かれて、もはやこれまでと覚悟を固めることになってしまったがな! ライエルファム=スドラなる御仁のおかげで、なんとか魂を返さずに済んだのだ!」
言われてみれば、足もとに置かれたデヴィアスの兜は大きくひしゃげてしまっていた。白銀の甲冑も泥まみれで、死闘の凄まじさをうかがわせている。
「さて……このような騒ぎでは刀を預かることもできんので、このまま語らせてもらおう。まずは、腰を落ち着けるがいい」
この場には、俺とアイ=ファとアリシュナ、ディアとチル=リム、それにダリ=サウティが居揃っている。もともとの4名も加えると、これまた尋常でない顔ぶれであった。
「その前に、ひとつだけ確認させてもらいたい。カミュア=ヨシュよ、お前はこのディアを追ってジェノスに来たのだという話だったな?」
ダリ=サウティの問いかけに、カミュア=ヨシュは「はいはい」と気安くうなずく。ずいぶんひさびさの対面であったが、そのすっとぼけた風貌や態度に変わるところはなかった。
「そちらの娘さんは、少し前から《守護人》の間で話題になっていたのですよ。まだ年端もいかぬ幼子のような風体をしていながら、実に凄腕の《守護人》が現れたようだ、と……ディアという名前までは伝わっておらず、俺たちの間では《金の目》と呼ばれておりましたがね」
「ディアはすでに、17歳となっている。外界の人間よりも身体が小さいことは事実だが、年端もいかない幼子という言い様には不満を覚えるぞ」
「うんうん。それで君は顔に大きな火傷を負っていると聞いて、俺はピンときたんだよ。もしかしたら、それは聖域を捨てた民なのではないか、とね。それでいっぺんご挨拶をさせてもらいたいなあと考えていたら、北寄りの領地で君の風聞を聞き及んだのさ」
チェシャ猫のように笑いながら、カミュア=ヨシュはそのように言いたてた。
「そうして君の足跡を追っていたらジェノスに到着してしまって、しかも町はあの騒ぎだ。宿場町も城下町も兵士であふれかえっていて、戦でも始まったのかと思ったよ。……しかしこれは、下手な戦よりも厄介な騒ぎであるようですね。ひと通りの事情は、ポルアース殿から聞いてまいりました。メルフリードは陣頭指揮を取るのに忙しく、俺の相手をしてくれるひまもないようでしたので」
「それでのこのこ、ひとりで森辺に押しかけてきたってわけか」
ドンダ=ルウの言葉に、カミュア=ヨシュは「はい」とうなずく。
「《金の目》はファの家にかくまわれているという話であったので、そちらに向かう途上であの騒ぎに行き当たりました。あとはダリ=サウティらもご存じの通りです」
「……カミュア=ヨシュのおかげもあって、なんとかあの場を脱することができた。しかし今は、一刻の猶予もない。邪神教団なる悪漢どもを、なんとか討ち倒さなくてはならんのだ」
すると、自前の椅子に座したデヴィアスが「よろしいかな?」と挙手をした。
「そちらのカミュア=ヨシュ殿が無事にここまで辿り着けたのなら、我々もトトスを飛ばして援軍を求めるべきではなかろうか? 車を引かせずにトトスを駆けさせれば、いかにギバとて追いつくことはできまいよ」
「いやあ、それはどうでしょう。この場所はきっと敵に見張られているでしょうから、出ていこうとする者には容赦なく獣をけしかけられてしまいそうですねえ。あんな細い道でトトスの足を止められたら、それで一巻のおしまいでしょうし」
「ううむ、そうか……せめて雨がやんでいれば、狼煙のひとつもあげられるのだが……」
そのとき、ディアが「うむ?」と声をあげた。
「なんだ、もう起きてしまったのか。お前はしばらく眠っていてかまわんぞ」
ディアのもとから、チル=リムが身を起こしていた。
銀色の瞳が、ぼんやりとその場にいる人々を見回していく。すべての涙を流しきってしまったかのように、その瞳は乾ききっていた。
「チル=リム、心、落ち着きましたか?」
アリシュナが、静かな声音でそのように尋ねる。
それには答えずに、チル=リムは俺にもたれかかってきた。
「大丈夫かい? 今、みんなで相談をしているから――」
チル=リムが、俺のもとから飛び離れる。
その手には、刻印の刻まれたゲルドの小刀が握られていた。
「チル=リム、何をしているんだ! そんなものを振り回したら、危ないよ!」
「ごめんなさい……わたしが、ぜんぶいけないの……」
涙をこぼしたりすることなく、チル=リムは虚ろな表情でそう言った。
その手の小刀は、自分の咽喉もとにぴたりと当てられている。
「わたしさえいなければ……もう誰も傷つかないから……」
「馬鹿を抜かすな!」と、凄まじい怒号が響きわたった。
声の主は、ディアである。ディアは金色の瞳を爛々と燃やしながら、ゆらりと立ち上がった。
「お前はまだ幼子であるのだから、どんな泣き言を吐いてもかまわない! しかし、そのように勝手な真似は、絶対に許さぬぞ!」
「だって……だってみんな、わたしのせいで……」
「思い上がるな! 大神の力をわずかばかり授かったていどで、他者の運命を握ったつもりであるのか? お前のような幼子に、運命を動かすことはできん! 運命とは、人間が生きることによって勝手に動くものであるのだ!」
ディアは火のような言葉を発しながら、包帯に血のにじんだ左腕をチル=リムのほうに突き出した。
「これはディアが、アスタを守るために負った傷だ! ディアはアスタが気に入ったから、自らが傷ついてでもアスタを守ることにした! それは、ディアの意思による決断だ! お前がどのような行く末を見通していたとしても、そんなものは関係ない!」
「でも……」
「でもではない! アスタも同じように、お前を守るために手傷を負った! 運命ではない! アスタがそうしたいから、そうしたのだ! お前はあれだけアスタに甘えておきながら、アスタの真情を踏みにじるのか? お前が勝手に魂を返してしまったら、アスタがどれだけ悲しむと思っているのだ? お前こそ、自分の運命から逃げようとしているのだ! 今までのお前は何ひとつ悪くなかったのに、今こそ他者を傷つけて、踏みにじって、大きな罪を犯そうとしている! ディアも、アスタも、こんな悲しい気持ちを得るために、お前のように面倒な幼子と関わっていたわけではない!」
「そうだよ、チル=リム。馬鹿な真似はやめてくれ。君はなんにも悪くないんだ。みんなで力を合わせれば、絶対にこんな苦難は退けられるよ」
チル=リムはがくりとくずおれて、その手から小刀が転がされた。
俺は小刀を鞘に収めて、チル=リムの身体をそっと抱きすくめる。
チル=リムは俺のもとにしがみついて、声をあげて泣き始めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
これまでに何度となく聞かされてきた、悲痛な言葉だ。
だけど俺は、初めてチル=リムの肉声を聞いたような気分であった。
「つまり、お前は……アスタがこうして傷つくという行く末を見通すことができなかったために、ずっとアスタにすがっていたということなのだな」
と――アイ=ファもこちらに近づいて、チル=リムの小さな頭にそっと手を乗せた。
「そうしてお前はアスタが傷ついてしまったがため、そうまで心を乱すことになった。お前はそれだけ、心優しき人間であるのだ。そんなお前が自ら生命を絶つ理由など、どこにも存在しない」
チル=リムは顔をくしゃくしゃにしながら、懸命にアイ=ファの顔を見つめ返した。
「ごめんなさい……」
「うむ。ファの家長として、お前の謝罪を受け入れよう。しかしそれは、アスタが傷ついてしまったことに関してではない。お前がアスタの刀を奪って、愚かな真似に及ぼうとした過ちについてだ。家人たるアスタを守りきれなかったのは、私にしてみても痛恨の極みであったが……お前には、一片の責任もないことなのだからな」
そのように語るアイ=ファは、とても厳しい顔をしながら、とても優しい眼差しをしていた。
「案ずるな。お前の目に映っているという凶運の影とやらは、我々が何としてでも退けてみせよう」
チル=リムは俺の右肩に顔をうずめて、頭に置かれたアイ=ファの手に自分の小さな手を重ねながら、また大きな声で泣き始めた。
「ふむ。話に聞いていたよりも、彼女はずいぶん正気を取り戻しているようですね」
と、まったく普段通りのとぼけた声音で、カミュア=ヨシュがそのように言いたてた。
「であれば、この状況を打開できるやもしれません。いささか荒っぽいやり口ですが、試してみる価値はあるのではないでしょうかね」
俺は驚いて、カミュア=ヨシュのほうを振り返った。
カミュア=ヨシュは、やっぱりチェシャ猫のようににんまりと微笑んだままであったが――その紫色の瞳には、とても透き通った光が浮かべられているように感じられた。