凶運の影①~来襲~
2020.12/21 更新分 1/1 ・2021.8/21 誤字を修正
それから四半刻と経たぬ内に、出立の準備が整えられることになった。
森辺の荷車で移動できる人員は、30名。俺とチル=リムとディアの他に、アリシュナが同乗を願ったため、狩人の総数は26名だ。
その内の6名はルウの血族で、なんとルド=ルウとガズラン=ルティムの他に、ダン=ルティムとラウ=レイまでもが含まれる精鋭部隊であった。ファの家に直截的な危険が迫ることを予期していたわけではなく、単に俺やアイ=ファの苦労をねぎらいたいと考えて、それらの人々は集結してくれていたのだった。
残りの20名は完全に混成部隊で、アイ=ファ、ライエルファム=スドラ、チム=スドラ、ラッド=リッド、ジョウ=ラン、ゼイ=ディンに、ダリ=サウティ、ヴェラの家長、あとはガズとラッツの血族という顔ぶれになる。
ドーンの長兄は使者として北の集落を目指し、荷車に乗りきれなかった男衆らはそれぞれの家にこの大がかりな事態の詳細を告げに行く。事態の収束にはどれだけの時間がかかるかもわからなかったので、家に待つ家人らを安心させてあげなければならなかったのだ。
そしてさらに、デヴィアスの率いる100名の兵士たちが、この道行きに同行する。彼らは10名を乗せられる2頭引きの車が8台と、あとの20名はそれぞれトトスにまたがって参上していた。全員が車に乗っていると、襲撃を受けた際に不自由であるという判断であるのだろう。何にせよ、それだけの一団がファの家の広場に集結しているというのは、壮観であった。
「では、こちらの車が先を走り、アスタ殿たちの荷車の左右は5名ずつの騎兵に守らせるということでよろしいな?」
軽くぱらつく雨の中、雨よけの外套を纏ったデヴィアスがダリ=サウティに向かって、そのように呼びかけていた。ギルルの荷車に乗った俺は、眠れるチル=リムの身体を抱きかかえながら、その言葉を聞いている。
「うむ。よろしくお願いする。これだけの人数であれば、そうそう襲われることもなかろうが……どうも相手は、まともな考えを持つ輩ではないようだからな」
「うむうむ。こちらも、決して油断はするまい。もしも行き道で襲撃されたならば、その場で返り討ちにしてくれよう!」
威勢のいい言葉を残しつつ、デヴィアスも自分の車に乗り込んでいった。
ダリ=サウティはこちらに向きなおり、御者台へと呼びかけてくる。
「では、出発だ。こちらの荷車は、兵士たちの車のすぐ後に続いてもらいたい」
「了承した」と応じたのは、ライエルファム=スドラだ。アイ=ファは御者の役をライエルファム=スドラに託して、自分は俺たちのかたわらに控えることを望んだのだった。
他に同乗するのは、俺とチル=リムとディア、それにアリシュナという顔ぶれになる。その中で、ディアはとても不満そうに俺たちの姿を見回していた。
「この段に至っても、ディアは罪人あつかいであるのだな。ディアは自ら外界の民になることを望んだが、その頑迷さには時おり嫌気がさすことがあるぞ」
ディアの両腕は荒縄でくくられたままであり、彼女の刀と外套はアイ=ファのもとで管理されている。アイ=ファは自分の刀の柄を撫でながら、「案ずるな」と応じていた。
「森辺を出た後、デヴィアスが城下町に兵士を走らせることになっている。そちらでジェノス侯爵からの許しをもらえたならば、お前の罪は不問にされるとのことだ」
「ディアは最初から、罪などは犯していない。あいつらのほうが、先に刀を抜いたのだからな」
「その後に、衛兵から逃げたのが悪かったのだ。お前がその場できちんと事情を話していれば、これほど面倒なことにはならなかったはずだぞ」
そんな風に答えてから、アイ=ファは「いや……」と考え深げな面持ちになる。
「それでも審問というものを終えるまでは、お前も捕縛されたままであったのだろうな。そして、お前の言葉がメルフリードやフェルメスらの耳に入れば……けっきょくは、審問などを開く猶予もなく、デヴィアスたちの手によって森辺に連れてこられたのかもしれん。ならば、結果は同じことか」
「ふん。人の運命など、そうそう容易く変わるものではないのだ。……だからそのようなものを見通す力など備えていたところで、そうまで気に病む必要はなかろうにな」
と、ディアは怒っているような顔つきで、俺に抱かれたチル=リムのほうをねめつけてきた。
そうして御者台からは、ライエルファム=スドラの言葉が伝えられてくる。
「最後の車が動き始めた。出発するぞ」
兵士たちを乗せた8台の車に続いて、ギルルの荷車も森辺の道に出る。すると、その場に待機していた10騎の騎兵たちが、左右に分かれて並走を始めたようだった。
さらに俺たちの後からは、森辺の荷車が4台追従してくる。チル=リムの乗せられたこの荷車は、そうして前後と左右を厳重に守られているのだった。
邪神教団の信徒どもというのがどれだけの人数であるかは不明であるが、それを追跡してきたディアの見立てによると、せいぜい20名ていどであろうという話であった。ならば、これだけの兵力に手出しはできないはずであったが――あちらは妖術という恐ろしげなものを体得しているという。その全容がわからない限り、決して油断などはできるはずもなかった。
(それに、町まで下りれば千名の兵士に守ってもらえるっていう話なんだからな。とにかくまずは、無事に森辺を出ることだ)
俺がそんな風に考えたとき、チル=リムが「ううん……」と身じろぎをした。荷車の震動で、ついに目が覚めてしまったのだ。
「大丈夫かい、チル=リム? 何も心配はいらないから、ゆっくり休んでいるといいよ」
俺はそのように声をかけたが、チル=リムは愕然とした様子で周囲を見回した。
アイ=ファとディアとアリシュナが、無言でその姿を見守っている。チル=リムは激しく身体を震わせながら、俺の胸もとに取りすがってきた。
「だめ……進んじゃだめ……灰色の竜たちが……口を開けて待ってる……」
「我々、ファの家、留まるべきでしょうか?」
アリシュナがふわりと問い返すと、チル=リムはいっそう激しく身を震わせた。
「ううん……家に留まっていたら、もっとひどいことが……」
「ならば、進む他ありません。凶運、自らの手、退けるしかないのです」
チル=リムは俺の胸もとをわしづかみにしながら、早くも涙に濡れた銀色の瞳で俺の顔を見上げてきた。
その口が開かれるより早く、俺は少女の頭を撫でてみせる。
「君をひとりぼっちにしたりしないよ、チル=リム。たくさんの人たちが、君を守ってくれるからね」
チル=リムは唇を噛みしめると、俺の胸もとに顔をうずめて、すすり泣き始めた。
彼女の綺麗な瞳には、いったいどのような未来が映されているのだろう?
しかし、それがどれほど恐ろしい運命であったとしても――アリシュナの言う通り、俺たちは自力で切り抜けなければならなかったのだった。
(母なる森に、四大神よ。どうかあなたたちの子に、幸いを)
そんな風に念じながら、俺は腰に下げた小刀の柄をまさぐった。アルヴァッハたちから贈られた、災厄除けの小刀である。安息ならぬ地に出向くということで、俺にも帯刀が許されたのだ。
ルウの集落まで、荷車で20分ほどとなる。そこからさらに宿場町までは、15分足らずの道行きだ。森辺を出れば星見の力も妖術の力も弱められるという話であったので、どうかそれまでは何事も起きないようにと、俺は祈り続けることになった。
だが、そんな祈りはあえなく退けられることになった。
10分ていどの時間が過ぎて、ルウの集落まであと半分の道のりというタイミングで――アイ=ファとディアが、同時に頭上を振り仰いだのだ。
「なんだ、この気配は……?」
アイ=ファの瞳は、すでに青い炎を噴きあげている。
そしてディアは、猛然たる勢いで立ち上がっていた。
「おい、ディアの縄を切って、刀を返すのだ! ディアがこのまま魂を返したら、お前たちの罪となってしまうぞ!」
アイ=ファが悩んだのは、1秒にも満たない時間であったようだった。
ディアの刀をひっつかんで立ち上がり、それを足もとに放ってから、自らの小刀で彼女の腕をいましめていた荒縄を断ち切る。ディアは瞬時に刀を拾い上げ、アイ=ファは俺たちのもとに舞い戻った。
「おい、ライエルファム=スドラよ――」
そのとき、荷車が急停止した。
俺はチル=リムごとひっくり返りかけたが、それはアイ=ファの手によって救われる。アリシュナの身は、ディアが片手で支えていた。
「……なんだ、これは!」と、御者台のライエルファム=スドラが刀を振り回していた。
一瞬の内に、あたりは狂騒に包まれている。兵士たちの悲鳴にまじって聞こえるのは――カラスに似た鳥と思しきものの喚き声だ。
「鳥……どうして、鳥なんかが……」
ライエルファム=スドラは、頭上に向かって刀を振り回している。その向こう側では、ギルルも悲鳴をあげていた。黒い翼を持つ無数の鳥が、ギルルに襲いかかっていたのである。
「鳥が人間やトトスを襲うなど、これまで森辺で起きた試しはない! これが、妖術というやつか!」
常にない声量で叫びつつ、ライエルファム=スドラの声にはまだ彼らしい沈着さが残されている。その事実が、俺の心をわずかなりとも慰めてくれた。
「アイ=ファ! このままでは、ギルルが危うい! 他の皆も、自分たちのトトスを守るのに精一杯であるようだ!」
アイ=ファはぎりっと奥歯を噛みしめつつ、俺の姿を見つめてくる。
それと同時に、プラティカを引っ立てたディアがこちらに近づいてきた。
「前側の帳も閉めれば、鳥がこちらに入ってくることもできまい。何かあったら、チル=リムのついでにお前の家人も守ってやろう」
アイ=ファはまた半瞬だけ悩み抜いてから、俺の肩をつかんで顔を近づけてくる。
「すぐに戻る。決して油断するのではないぞ」
「うん。ギルルを助けてあげてくれ」
アイ=ファはぎゅっと俺の肩をつかんでから、御者台のほうに飛び出していった。
そうして帳も下ろされて、ほんの少しだけ喧噪が遠くなる。
窓の帳を少しだけ開いて外の様子をうかがったディアは、金色の目を爛々と燃やしながら「ふん」と鼻を鳴らした。
「トトスにまたがっていた兵士たちも、鳥を払うのに必死なようだな。妖術だか何だか知らぬが、ずいぶん厄介な真似をしてくれるものだ」
俺は何とか呼吸を整えながら、腕の中のチル=リムを抱きすくめる。
すすり泣いていたチル=リムは、いつしか「ごめんなさい……ごめんなさい……」と同じ言葉を繰り返していた。
「チル=リムが謝る必要なんて、どこにもないんだよ。悪いのは、こんなことをしている連中なんだから」
俺はそのように言ってみせたが、そんな言葉もチル=リムの心には届いていないようだった。
そして、ディアの手を離れたアリシュナまでもが、俺にもたれかかってくる。
「アスタ……さらなる凶運、訪れようとしています……どうか、用心を……」
驚いて振り返ると、アリシュナは固くまぶたを閉ざして、その秀麗な面に脂汗を浮かべていた。
「ど、どうしたんです? 具合が悪いのですか?」
「凶運、波動、強烈で……星の輝き、心、なだれ込んできます……チル=リム、おそらく、同じ状態です……」
俺は言葉を失って、ひとり立ちはだかっているディアの姿を見上げることになった。
鞘に収められた半月刀の柄を握りしめながら、ディアは金色の目を炎のように燃やしている。
「このように不吉な気配は、星見の術などを体得していなくとも見逃すはずがあるまい。……用心しておけよ、ファの家のアスタ」
「よ、用心って、どうすれば……」
「お前とて、刀を携えているのであろうが? ディアが倒れたら、チル=リムたちを守るのはお前の役目だ」
言いざまに、ディアが半月刀を抜き放った。
何が起きたのかもわからないまま、俺の目に白刃のきらめきが焼きつけられる。
次の瞬間、濁った絶叫とともに赤い血飛沫が舞い上がった。
板張りの床に、どちゃりと汚らしい物体が落ちる。
それは――体長40センチはあろうかという、ギーズの大鼠に他ならなかった。
針金のように硬そうな暗灰色の獣毛は、赤い血にまぶれている。ディアの刀がそれを斬り伏せたのだと理解したのは、彼女が再び刀を振るったときだった。
新たな屍骸が、床に落ちる。ディアはこちらに右半身を見せる体勢で、半月刀をかまえなおしていた。
「後ろの帳の隙間から入り込んできたのだ。どうやら敵が操れるのは、鳥だけではないようだな」
「ギ、ギーズの牙や爪は雑菌だらけで、傷を負わされると生命に関わると言われているんだ! 気をつけてくれ、ディア!」
「ふん。人の心配をしているひまがあったら――」
ディアがそのように言いかけたとき、後部の帳からさらに巨大な影が闖入してきた。
体長は1メートルほどで、ずんぐりとした胴体に貧相な四肢――そしてピットブルのように凶悪な顔をした、腐肉喰らいのムントである。それが、2体同時に荷台へと乗り込んできたのだった。
なおかつ、ムントの足もとにはギーズの大鼠がうじゃうじゃと群がっている。まるで、悪夢のような光景だ。
「駄目だな、これは。このように狭苦しい場所で相手取れる数ではない。……ああ、ようやく理解できたぞ。村落の生き残りである男は逃げた先でムントに襲われたわけではなく、ムントに追われて森に逃げ込んだのだな。もしかしたら、ディアの存在を悪漢どもに知らせたギーズも、こうして妖術で操られていたのやもしれん」
俺たち3人を背後にかばいながら、ディアは普段通りの声音でそう言い捨てた。
それと同時に、今度は前側の帳が大きく開かれる。
「やはり、こちらもか! アスタよ、こちらから外に出るのだ!」
それは、アイ=ファの声であった。
俺は大きく息をついて、チル=リムの身体を抱きすくめる。
「行くよ、チル=リム。……アリシュナも、歩けますか?」
「はい。心配、ご無用です」
俺たちは野獣の群れを刺激しないように、そちらを向いたままそろそろと後ずさる。
そして、あるていど進んだところでいきなり首根っこを引っつかまれて、荷台の外に引きずり出されることになった。
俺は思わず「うわーっ!」と叫んでしまったが、背中から地面に叩きつけられることにはならなかった。チル=リムを抱いた俺とアリシュナの身体を、アイ=ファがたったひとりで力強く抱き止めてくれたのだ。
次の瞬間には、ディアが後ろ向きで荷台を飛び出してくる。
それを追ってきたムントは、空中で咽喉もとを叩き斬られていた。
「よー、全員無事だったみたいだなー」
と、ルド=ルウの頼もしい声が頭上から聞こえてくる。
その向こう側には、ガズラン=ルティムの大きな背中も見えていた。
「うわ、ギーズもうじゃうじゃ出てきやがったぜ。この荷車は、もう買い替えるしかないかもなー」
「ルド=ルウ、こちらは私が受け持ちますので、アイ=ファとともにアスタをお守りください」
「了解」と言い放つなり、ルド=ルウは荷台からあふれかえってきたギーズを撫で切りにしていった。地面に降り立ったディアも、同じ作業に従事している。
その血飛沫がかからないようにと、アイ=ファは俺たちを横合いに引きずってくれた。そちらで待ち受けていたのは、ダリ=サウティとヴェラの家長である。
「おお、無事だったか。これはいささか、想定以上の苦難であるようだな」
そんな風に語りながら、ダリ=サウティが頭上に刀を一閃させた。
カラスのように巨大な鳥が、片方の翼を断ち切られて、ぬかるんだ地面に落ちる。アイ=ファは俺たちをかばいながら、ひそかに忍び寄っていたムントの頭を両断した。
俺は呆然と、その場の惨状を見回していく。
道の真ん中で立ち往生していた俺たちは、野獣の群れに取り囲まれてしまっていたのだ。
道の左右は森であるので、そこからムントやギーズがわらわらと姿を現している。頭上には黒や灰色の鳥が飛び交い、こちらに爪を立てるタイミングをうかがっているようだった。
「最初に車を引くトトスが鳥たちに狙われて、それを追い払うために歩を止めたところで、ムントやギーズが襲いかかってきた。森辺のトトスはすべて荷車から解放して、狩人に手綱を取られている」
頭上の鳥と足もとのギーズを退けながら、ダリ=サウティがそのように説明してくれた。
確かに遠からぬ場所において、ギルルに乗ったライエルファム=スドラも刀を振るっていた。ライエルファム=スドラが頭上の鳥を受け持ち、他の狩人が足もとを守ってくれているようだ。
「他の男衆は、兵士たちの助力に向かわせた。とにかく車を走らせなければ、俺たちも身動きが取れんからな。アスタよ、お前たちもあちらの車に移動するのだ」
あちらの車というのは、5メートルほど前方で鎮座ましましている兵士たちのトトス車のことだ。後部の扉はぴったり閉ざされて、屋根の上ではダン=ルティムやラウ=レイが暴れ回っている。
「あちらの車は頑丈なので、ムントやギーズに侵入を許すこともない。なんとか車を走らせられるように獣どもを退けてみせるので、お前たちはあそこで身を隠しておくのだ」
「わ、わかりました」と応じてみせたが、5メートルほどの距離が遠い。そこまでの道行きではガズラン=ルティムやヴェラの家長が刀を振るっており、足もとには獣たちの屍骸が累々と折り重なっているのだ。
「……ムントやギーズとて、森の子に他ならない。それをこのように正気を失わせて、道具のように扱うことなど……私は、決して許さぬぞ」
新たなムントを斬り捨てながら、アイ=ファが感情を押し殺した声でそのようにつぶやいた。
「しかしまずは、この場を切り抜けねばならん。アスタよ、あちらの車に急ぐのだ。我々が、お前たちの身を守る」
「わかった」と、俺はチル=リムを抱えたまま立ち上がってみせた。
アリシュナもいくぶん身体を震わせながら、なんとか身を起こしている。
「では、2名ずつで組となって、アスタたちを三方から囲むのだ! 獣たちを退けながら、車のほうに移動するぞ!」
ダリ=サウティの号令で、ルド=ルウとガズラン=ルティムが左側に寄り集まった。右側は、ダリ=サウティとヴェラの家長だ。
「……つまりディアには、お前と組めということか?」
鮮血にまぶれた半月刀をひっさげて、ディアがアイ=ファのもとに寄ってくる。
頭上から舞い降りてきた鳥を刀で追い払いつつ、アイ=ファは「うむ」と応じる。
「長身の人間が、頭上を受け持つことになる。お前は特に、ギーズに気をつけてもらいたい」
「ふん。自由に刀を振るえれば、べつだん厄介な獲物でもないな」
そうして俺たちは歴戦の狩人たちに周囲を守られながら、じりじりと前進していくことになった。
これまでまったく気にも止めていなかったが、暗い天空からは細い雨が降りそぼっている。糸のような雨の白さと、あまりに鮮烈な血飛沫の赤、横たわる獣たちの淡褐色や暗灰色の獣毛に、躍動する狩人たちの肌や装束の色合い――それらが世界をマーブル状に彩っているかのようだった。
こんな情景も、ごく最近に見たような気がしてしまう。
それも、夢の中で見た情景であったのだろうか。
これらの色彩は、あまりに禍々しい極彩色であったが――夢の中で、俺とアイ=ファはそのおぞましい運命に立ち向かおうと、覚悟を固めていたはずだった。
(これを切り抜ければ……きっと運命が開かれるんだ)
車は、すでに目の前にまで迫っている。
ガズラン=ルティムがその扉に手をかけようとしたとき、逆側で刀を振るっていたヴェラの家長が「待てっ!」と叫んだ。
その切迫した声の響きに、思わず視線を向けなおした俺は、新たな戦慄に背筋を震わせてしまう。
向かって右手側の茂みから、巨大な黒褐色の影が現れていた。
巨岩のように丸々とした胴体に、白い角と白い牙――ギバである。それも、100キロ以上はありそうな大物のギバであった。
「……ギバまでもが、妖術などで操られてしまっているのか」
ぎりっと奥歯を噛みしめながら、アイ=ファがそのように言い捨てる。
ダリ=サウティは懐から取り出した小さな物体を、ギバに向かって投げつけた。それと同時に、鼻を刺すような刺激臭がたちこめる。ギバ除けの実の香りである。
しかしギバは爛々と双眸を燃やしながら、怒りの咆哮をほとばしらせるばかりであった。
「やはり、効かぬか。飢餓に狂ったギバと同じように、正気を失ってしまっているのだ」
ダリ=サウティは、足もとに迫ったギーズを一刀で斬り伏せた。
「とにかく、アスタたちは車の中へ! ギバといえども、この車を破壊するほどの力は――」
ダリ=サウティが言い終えるより早く、ギバが茂みから飛び出した。
その巨体が、真横からトトス車の車体にぶち当たる。その屋根で奮闘していたダン=ルティムとラウ=レイが「おおっ!?」と驚愕の声を発していた。
「な、なんだ、このギバは? いくらこのようなでかぶつでも、こんな頑丈そうな車を壊すことはできまい?」
「うむ。壊すことはできぬが――」
ギバは再び、茂みのほうまで退いていた。
無茶な突進をしたために、顔面が自分の鮮血にまみれてしまっている。それを目にした瞬間、ダン=ルティムが身をひるがえした。
「いかん! ラウ=レイよ、飛び降りるのだ!」
ダン=ルティムとラウ=レイは、俺たちとは逆側の前方へと身を躍らせた。
それと同時に、ギバが再び突進する。
凄まじい衝突の音色とともに、巨大な車がぐらりと傾いだ。
誰が手を出す猶予もなく、車はそのまま横倒しにされてしまう。
そしてその陰から、トトスにまたがったダン=ルティムとラウ=レイが飛び出してきた。おそらくは彼らがこれまで守ってきた、この車のトトスであろう。
「こいつを仕留めねば、すべての車が使い物にならなくなってしまうぞ! なんとしてでも、仕留めるのだ!」
「おう! まさか、トトスに乗ってギバ狩りをする日が来ようなどとは、夢にも思わなかったな!」
両者はトトスにまたがったまま、巨大なギバへと躍りかかった。
それと同時に、俺は再び首根っこをひっつかまれてしまう。
「倒れた車の上に乗れ! その場なら、ギバに脅かされることもない!」
俺とチル=リムとアリシュナは、わけもわからぬまま倒れた車の上に放り出されることになった。
また、アイ=ファとディアとダリ=サウティが、すぐさま後を追ってくる。そうしてダリ=サウティの刀が頭上から迫り来た鳥を斬り伏せ、アイ=ファとディアの刀が足もとのギーズたちを薙ぎ払った。
「ど、どうしたんだ? これじゃあ、余計に身動きが……」
「あれを見よ」と、アイ=ファの鋭い声が俺の言葉をさえぎった。
下界に目を落とした俺は、愕然と息を呑む。茂みの中から、新たなギバがぬうっと鼻面を突き出してきたのだ。
地上に残ったルド=ルウとガズラン=ルティムとヴェラの家長は、荒い息をつきながらそちらに向きなおっている。
「ちぇっ。弓さえありゃあ、車の上から狙い放題だったのにな。ま、3人がかりなら何とかなるだろ」
「ええ。3頭目のギバが現れる前に、始末するべきでしょうね」
そんな風に答えてから、ガズラン=ルティムが俺たちのほうに言葉を届けてきた。
「アイ=ファ! そちらは、さらに前方の車を目指してください! こちらのギバは、私たちが受け持ちます!」
「承知した! お前たちの力を信じているぞ!」
そのように応じるアイ=ファの横顔には、恐怖の色も焦燥の色もなかった。このような苦難は必ずや退けてみせると、アイ=ファは覚悟を固めているのだ。アイ=ファのそんな表情こそが、俺にまたとない勇気を与えてくれていた。