騒乱の日③~星を見るもの~
2020.12/20 更新分 1/1
「チル=リム、目が覚めたかい?」
俺が小声で呼びかけると、チル=リムはまた傷ついた子猫のように、そっと胸もとにもたれかかってきた。
それから、ハッとした様子で後方を振り返る。そこに座したアリシュナの姿を目にするなり、チル=リムは大きく身体を震わせた。
「だめ……わたしに近づかないで……」
「心配、無用です。私、占星師です」
アリシュナは、聞く者の心にすうっと忍び込んでくるような声音で、そう言った。
チル=リムはがくがくと震えながら、俺の胸もとに顔をうずめてしまう。
するとアリシュナは、さらに静かな声で言った。
「対処、正しいです。他者の運命、見ること、封じるには、まず瞳、閉ざすことです。力、過ぎれば、他者の姿、見ずとも、運命、垣間見えてしまいますが……まず瞳、閉ざすことです」
チル=リムは何も答えようとしないまま、俺の胸もとに頭をこすりつけてくる。俺は精一杯の思いを込めて、その小さな頭と背中に手を添えてみせた。
「そのまま、お聞きください。私、占星師です。あなた、同系統の力、持つ者です。私、他者の運命、見通すこと、生業、しています。言わば、あなた、見習うべき存在です。この先、健やかに生きていきたい、願うならば、どうか、私の言葉、お聞きください」
「……チル=リム。このアリシュナは、俺の大事な友人なんだよ。それでチル=リムの力になるために、こうして森辺に駆けつけてくれたんだ。だから、何も怖がる必要はないからね」
俺がそのように言葉をかけても、チル=リムは身を震わせるばかりであった。
アリシュナは、チル=リムの背中から俺の顔へと視線を移動する。
「現在、危急の事態ですが。アスタ、大事な友人、称されること、深い喜びです」
「そ、それはどうも。でもまずは、チル=リムの力になっていただけますか?」
「はい。チル=リム、あなた、自らの力、恐れているのですね? ならば、制御の方法、学ぶべきです。あなた、健やかに生きるため、星見の力、封じるすべ、体得、必要です」
「…………」
「まず、心、落ち着けてください。心、凪のごとき静謐、必要です。さもなくば、制御、不可能です」
チル=リムは俺の胸もとに顔をうずめたまま、いやいやをする子供のように頭を振りたてた。
アリシュナはひとつうなずき、また俺の顔を見やってくる。
「心、落ち着ける、不可能なようです。残念ですが、制御、成りません」
「ま、まさかこれであきらめたりはしませんよね?」
「はい。次の手段、講じます」
アリシュナは懐に手を差し入れると、そこから小さな硝子の香水瓶のようなものを取り出した。
そして、俺に向かって鼻と口をふさぐようにジェスチャーで示してくる。俺がそれに従うと、アリシュナは音もなくふわりと立ち上がり、俺たちの目の前まで近づいてから腰を屈めた。
そのほっそりとした指先で硝子瓶の蓋を開け、チル=リムの頭のあたりにかざしてから、ふっと小さく息を吹きかける。
俺は鼻と口を手の平でふさいだ上に、しっかり呼吸も止めていたつもりであったのだが、わずかに甘い香りを嗅いだように感じ――そして、あっけなく意識を失ってしまったようだった。
「あ、あれ?」
気づくと俺は、ひとりで壁にもたれて座り込んでいた。
チル=リムは俺のすぐそばで同じ姿勢を取っており、かくりと頭を下げている。そんなチル=リムの正面にはアリシュナが座しており、そしてそのすぐ背後にアイ=ファが怖い顔で立ちはだかっていた。
「アリシュナよ。私の家人に毒草の香りを嗅がせるなどとは聞いていなかったぞ」
「毒草、異なります。こちら、催眠、薬草です」
「同じことだ! ……アスタよ、大事ないだろうな?」
「う、うん。俺はどれぐらい意識を失ってたんだろう?」
「せいぜい、十を数えるぐらいの間のことだ。……アリシュナよ、それは本当に身体の害にならないのだろうな?」
「はい。アスタ、大事な友です。危険な真似、いたしません」
元祖・山猫であるアイ=ファとシャム猫のごときアリシュナが、上と下から視線をぶつけ合う。それを横から眺めていた本物の黒猫が、「なう?」とけげんそうに声をあげていた。
「チル=リム、半刻、目覚めません。あちら、移動、お願いできますか?」
「……この一件が片付いたら、お前とは心ゆくまで語らいたく思うぞ」
「はい。アイ=ファ、語らえるなら、私、大きな喜びです」
アイ=ファはがりがりと頭をかきむしってから、チル=リムの小さな身体を抱きあげた。
広間に戻ると、さきほどと変わらぬ顔ぶれが神妙な面持ちで待ち受けている。ルド=ルウとガズラン=ルティムは、横合いの壁際に移動していた。
「チル=リム、催眠状態です。この状態、言葉を交わしたい、思います」
「うむ? 眠った相手と言葉を交わせるものなのであろうかな?」
デヴィアスが不思議そうに問いかけると、アリシュナは落ち着きはらった態度で「はい」とうなずいた。
「通常の眠り、異なります。こちらの言葉、聞こえていますし、応答、可能です。また、虚言、不可能です。ただし、心、剥き出しであり、状態、過敏ですので、静粛、お願いいたします」
「相分かった。……いやあ、やはり東の民というのは、ずいぶん不可思議な術を体得しているのだな」
デヴィアスは相変わらずの様子であったが、ダリ=サウティたちは真剣な眼差しでアリシュナの挙動をうかがっている。
アイ=ファはもとの位置に腰をおろすと、片方の膝でチル=リムの背中を支えつつ、両手を肩にあてがった。去りし日に、マルフィラ=ナハムにマッサージを施していたときのようなポージングだ。
「チル=リム、私の声、聞こえますか?」
「うん……きこえる……」
「これから、いくつか、質問いたします。心、落ち着けたまま、お答えください」
「うん……わかった……」
チル=リムはがっくりとうなだれたままであり、その声も寝言のように輪郭がぼやけていた。
しかし確かに、アリシュナの言葉に答えている。俺は大きく驚くと同時に、そんな姿が痛々しく見えてならなかった。
「あなた、不思議な力、有しています。その力、手に入れた、いつですか?」
「わかんない……わたしは昔から、こうだったから……昔はこんなに、強い力じゃなかったはずだけど……」
「不思議な力、強くなった、いつからですか?」
「わかんない……ある日、父さんや母さんにびっくりされたの……隣のおじさんが崖から落ちて怪我をすることが、どうしてお前にわかったんだって……わたしはただ、そういう夢を見ただけなんだけど……」
「夢の中、世界の行く末、垣間見たのですか?」
「せかいのゆくすえ……? わたしは、黒い犬が怪我をする夢を見ただけ……おじさんは、黒い犬だから……」
「あなた、犬なる獣、知っていましたか?」
「ううん……夢で初めて見た……」
「他に、どのような夢、見ましたか?」
「朱色の鷹と黄色の猿が、婚儀をあげる夢……青い狼が、病気になる夢……白い蛇が、道に迷う夢……」
「それら、村落の人間、行く末、示していたのですか?」
「うん……わたしが教えてあげたから、白い蛇は道に迷わなかったの……青い狼は、病気になっちゃったけど……」
アリシュナは、ほんの少しだけ首を傾げていた。
「……あなたの故郷、災厄、訪れましたか?」
「……うん……」
「あなた、どのような夢、見ましたか?」
「……大きな灰色の竜が……たくさんの獣を連れてきて……わたしの故郷を、燃やしちゃう夢……」
チル=リムの声が、いっそう不明瞭になってきた。
我知らず、俺は拳を握り込んでしまう。
「その夢、村落の人間、話しましたか?」
「うん……だけどみんな、信じてくれなくて……そんな不吉なことを言うなって……お前が不吉なことを言うから、悪いことが現実に起きるんだって……」
「その言葉、誤っています。村落の人々、あなたの言葉、信ずるべきでした。あなた、罪、ありません」
「…………」
「それで、あなた、どうしましたか?」
「西方神と、母なる森に……どうかみんなをお救いくださいって願ったけど……灰色の竜と、たくさんの獣が……わたしの故郷と大事な人たちを……」
「けっこうです。辛い記憶、呼び起こし、申し訳ありません」
「…………」
「その後、あなた、どうなりましたか?」
「わたしは……灰色の竜たちに連れ去られて……聖なる神々の子になるんだって……手の甲に、おかしな紋様を刻まれて……おかしな薬草を飲まされて……」
「おかしな薬草、何ですか?」
「わかんない……それを飲んだら……夢と現実がごちゃまぜになって……起きてるのに、ずっと夢を見ているみたいで……本当に起きていることなのか、これから起きることなのか、それもわからなくなっちゃって……」
「なるほど」と、アリシュナは静かにつぶやいた。
「その後、あなた、どうしましたか?」
「その後……わたしは……ずっと怖くて、荷車の中で閉じこもってたけど……救いの道が見えたから、灰色の竜から逃げ出した……」
「救いの道、何ですか?」
「わかんない……この道を進んだら、救われるって……そんな風に思えたから……それで、林の中に隠れてたら……黒い影が見えたの……」
「黒い影、何ですか?」
「ファの家のアスタ……そう名乗ってた……とても優しい人……この人は、星の獣じゃない……わたしには、この人のことが何もわからない……だから、わたしのことを許してくれると思ったの……」
チル=リムは深くうつむいたまま、身体をわずかに震わせ始めた。
「わたしのせいで、みんな死んじゃった……故郷のみんなも、父さんも母さんも……悪い竜の仲間たちも……わたしなんかいなければ、誰もひどい目にあわなかったのに……」
「おい」と、底ごもる声でディアが発言した。
「本当にそれは、必要な行いなのか? ディアには、ただチル=リムを苦しめているだけのように思える」
「必要です。ただし、質問、切り替えます」
ゆるゆると吹く夜風のような声音で、アリシュナはそう答えた。
「チル=リム、あなた、悪くありません。気持ち、落ち着けてください。……質問、いいですか?」
「うん……」
「東の王国、占星師、数多く存在します。あなた、同系列の力、持つ者たちです。あなた、東の王国、向かうこと、了承しますか?」
「やだ……東の王国は怖いところだって、父さんや母さんが言ってた……東の民は毒を使うから、決して近づいちゃいけないって……」
「東の民、荒事、好まない、言われています」
「うそだ……もっと北では、ゲルドの山賊が旅人を襲ってるって……」
「ゲルド、山賊、多いです。ジギの草原、平和です。占星師、数多く存在します」
「やだ……東の民も、西の民と変わらない……わたしには、みんな見えちゃうから……みんな見えちゃうのに、なんにもできないから……わたしのせいで、ひどい目にあっちゃう……」
「あなたの責任、異なります。あなた、運命を見ているのです。占星師、運命、よき方向に進むよう、力を添えますが、干渉、できません。運命、支配する、神々のみです」
「やだ……やだ……わたしは、アスタと一緒にいる……」
ぽたりと、涙のしずくが敷物にしたたった。
「わたしをひとりぼっちにしないで……わたしと、いっしょにいて……」
アリシュナの暗い湖のごとき瞳が、俺を見た。
「アスタ、彼女を」
俺は横から腕をのばして、チル=リムの小さな身体をかき抱いた。
「俺はここにいるよ、チル=リム。君は、ひとりぼっちなんかじゃないからね」
チル=リムの身体から、すうっと力が抜けていった。
アイ=ファが肩から手を離すと、チル=リムの身体が俺にもたれかかってくる。俺はチル=リムを抱きしめて、その小さな頭を撫でてあげた。
「……おおよそ、状況、わかりました」
アリシュナが、その場に控えた人々の姿を順番に見回していく。
そこで声をあげたのは、ダリ=サウティだ。
「俺には、いくつか疑問が残された。もしやその娘は邪神教団なる者たちの手によって、このような状態にされてしまったのか?」
「はい。彼女、大神の巫女として、素養、あったのでしょうが、その力、増幅させるため、何らかの術式、施されたようです。よって、混乱状態、あるのでしょう」
「では、その状態から解放してやればいいのだな?」
「いえ、術式、解く方法、不明です。また、解く方法、存在しない可能性、高いです。……なおかつ、術式、解けたとしても、再び邪神教団、手に落ちれば、結果、変わりません」
「だったらやはり、チル=リムを苦しめただけのことではないか」
金色の瞳を野獣のように燃やしながら、ディアがそう言った。
「もういい。チル=リムは、ディアがシムに連れていく。とっととこの縄をほどいて、ディアに刀と荷物を返せ」
「いえ。チル=リム、シムに向かうこと、拒んでいます。その意思、踏みにじれば、彼女の魂、闇に堕ちる危険性、存在します」
「なんだ、それは? もっとわかるような言葉で話せ」
「彼女、この世界、絶望すれば、破滅、願うかもしれません。邪神教団の教義、一致してしまうのです。彼女、自ら、邪神教団、入信するかもしれません」
さすがのディアも口をつぐんで、ただ燃えるような目でアリシュナをにらみ続けた。
アリシュナは、静かな眼差しでそれを見つめ返す。
「あなたの生命力、凄まじいです。怒気、向けられるだけで、私、失神しそうです。……質問、ひとつ、よろしいでしょうか?」
「……今度はディアに、わけのわからぬ問答をふっかける気か?」
「いえ。封じのまじないについてです。封じのまじない、チル=リム、施すこと、不可能ですか?」
「不可能だ。封じの刻印は、一族によって紋様が異なる。チル=リムは黄の民ではないのだから、この刻印を刻んでも意味はなかろう」
「そうですか。残念です」と、アリシュナは小さく息をついた。
それから、デヴィアスに向きなおる。
「事態、猶予、ありません。彼女、星見の力で、自らの運命、見定めてしまいました。その行い、占星師にとって、禁忌です。おそらく、力、制御できないため、自らの運命、垣間見てしまうのでしょう。その行い、彼女、破滅させます。そして、彼女の破滅、大きな災厄、生み出すかもしれません」
「うむ? 自らの運命を見定めたというのは、救いの道がどうしたとかいう話についてのことか? 占星師の禁忌についてなど、俺にはさっぱりわからぬのだが……何にせよ、どうにか手を打たなければならんのだろうな」
「はい。チル=リム、アスタから、引き離すには、説得、必要です。私、その役目、受け持ちたい、考えています」
「それはありがたい申し出だが……さきほども言った通り、その娘をジェノスの領内に置くことは許されぬのだ。この森辺の集落も、例外にはならん」
「それが王国の法なのか?」と、アイ=ファが鋭く問い質した。
「それが王国の法なのだ」と、デヴィアスは溜め息まじりに答える。
「しかも現在は、王都の外交官の方々がジェノスに控えておられる。このたびの一件も、調書にまとめられて王都に報告されてしまうのだ。現在の王陛下はことのほか魔術の類いを忌み嫌っておられるので、魔女の疑いをかけられている娘をかくまうことなど、とうてい許されぬという話であったな?」
最後の質問を向けられたのは、ジェムドである。
ジェムドは穏やかなる無表情のまま、「ええ」とうなずいた。
「ただしフェルメス様も、アリシュナ様と同じ危惧を抱いておられます。そちらのチル=リムなる娘をぞんざいに扱うようであれば、この世に絶望して邪神教団に身を寄せてしまうやもしれない、と……魔術に支配された世界であれば、彼女は誰の目をはばかることもなく生きていけるのです。邪神教団の禍々しき教義を彼女の救いにしては決してならないと、フェルメス様はそのように仰っていました」
「それでは、八方ふさがりではないか」
「はい。そして、もう一点……チル=リムをかくまうのに森辺の集落は不適当である、とも仰っていました。森辺の集落には聖域に次ぐほどの自然の息吹が存在するため、チル=リムなる娘の夢見の力も、邪神教団の妖しき術式も、より強く発現させられる危険性がある、と――」
「八方どころか、頭上も足もともふさがれた心地だな! 言っては悪いが、フェルメス殿にいたぶられているような心地だぞ」
苦笑をしながら、デヴィアスは頭をかいていた。
するとそこで、ガズラン=ルティムが初めて発言する。
「デヴィアス。王国の民にとって、邪神教団は討ち倒すべき敵なのでしょうか?」
「うむ? それは当然だ。何せ相手は、四大神と四大王国に弓引く存在であるのだからな。それは王国の法において、何より大きな罪であるはずだぞ」
「しかしさきほどは、ジェノスの領内から追い出すだけで話を済ませるように語られていたようですが」
「それは、結果的にそうなってしまうであろうという話だ。現在のジェノスにおいては護民兵団が総動員されて町中を捜索しているさなかであるが、これだけ大騒ぎをすれば尻尾に火のついたギーズのように逃げ散ってしまうであろう。もちろん近在の領地にも、手の甲の紋章について触れを出しているところだが、それで全員を捕縛できるという保証はないのでなあ」
「でしたら、逃げたギーズをおびき寄せてみては如何でしょうか?」
ガズラン=ルティムも普段通りの穏やかな表情であったが、その双眸には鷹のごとき眼光が宿されていた。
「そのチル=リムなる気の毒な娘を餌にしてしまうのは、あまりに心が痛んでならないのですが……それも彼女の健やかな生のためと思って、覚悟を固める他ないように思います」
「しかし、この娘をジェノスに留めることは許されないのだ。それでは、狂信者どもをおびきよせることもかなうまい?」
「……たとえば闘技場なども、ジェノスの領土に含まれてしまうのでしょうか?」
「それはもちろん闘技場とて、れっきとしたジェノスの領土であり――」
と、そこでデヴィアスは逞しい首を傾げた。
「……うむ。確かにあちらもジェノスの領土ではあるが、近在に領民が住まっているわけでもなし、なんの危険もなかろうな」
「チル=リムなる娘をかくまうわけではなく、この地に潜んだ邪神教団を一掃するために、しばし闘技場に身を置かせるという話であれば、ジェノス侯の了承をもらえるのでしょうか?」
「その可能性は、大いにある! いや、それはなかなかの妙案であるやもしれんぞ!」
「声が大きい」とアイ=ファにたしなめられて、デヴィアスはまた照れたように頭をかいた。
「うむ。闘技場であれば、高い外壁に囲まれているので守るのも容易い。その間に、アリシュナ殿に説得の役目を負ってもらえれば……たとえ邪神教団の痴れ者どもが尻尾を巻いて逃げ出しても、悠々とシムに迎えるではないか。ジェムド殿、貴殿はどのようにお考えか?」
「従者に過ぎないわたしには、何も確たることは言えないのですが……ただ、石造りの外壁に囲まれた場所であるのなら、夢見や妖術の力も減退するものと思われます」
「ならば、決まりだな! ……おっとっと。失敬失敬。うむ。それではさっそく、闘技場に向かうこととしよう!」
「なに?」と、アイ=ファが眉をひそめた。
「まずは、マルスタインから了承を取りつけるべきではないのか?」
「それでは、時間の無駄となろう。この森辺においては妖術とやらの力も強まるという話であるのだから、一刻も早く離れるべきではないか?」
「それはそうなのであろうが……しかし、闘技場に移動したのちに、許しを得られなかったら、なんとするのだ?」
「そのときは、そのときに考える! きっとジェノス侯とて、このような妙案を無下にはされまいよ」
そう言って、デヴィアスは大きな口でにっと微笑んだ。
「それに森辺では、夢見の力というものも強まってしまうのであろう? ならばその娘も、いっそう苦しんでいるのやもしれん。それでは、あまりに気の毒ではないか」
「……あなたはきわめて誠実な人間であるのであろうが、その浮ついた言動で大きく損をしているように思うぞ」
「それでもこれが俺の本性なので、致し方のないことだ」
デヴィアスはいっそう愉快そうに笑い、アイ=ファは苦笑をこらえるように顔をそむけた。
そうして顔をそむけたついでのように、アイ=ファはアリシュナをねめつける。
「それで……お前はおそらく、アスタの同行を望むのであろうな」
「はい。チル=リム、心を落ち着かせる、必要です。説得、完了するまで、アスタの同行、望みます」
アイ=ファは無言のまま、ダリ=サウティのほうに視線を転じた。
ダリ=サウティは、力強く笑みを浮かべている。
「事ここに至って、他人顔はできまい。なおかつ、アスタひとりを危険な場所に送り込むことなど、なおさらできるはずもない。こちらも手練れの狩人を率いて、闘技場に向かう他あるまいな」
「……ダリ=サウティが族長であることを、私は心から母なる森に感謝している」
「ドンダ=ルウやグラフ=ザザでも、同じ決断をするはずだ。デヴィアスよ、俺たちが同行する了承はもらえるだろうか?」
「おお、もちろんだとも! 森辺の狩人とともに刀を振るえるならば、そんなに栄誉なことはないぞ!」
「では、ルウの集落には途中で立ち寄らせてもらうとして……北の集落にも、使者を出そう。現在ファの家には、どれだけのトトスと荷車が集っているのだったかな?」
その質問には、最後にファの家にやってきたらしいルド=ルウが答えていた。
ギルルとファファの他に、近在の男衆が集まるのにトトスと荷車が2頭と2台ずつ。さらにサウティとルウの分を含めて、総数は6頭と6台ずつであった。
「では、1頭のトトスは北の集落に向かわせるとして……5台の荷車ならば、乗れる人間は30名ていどか。まずは十分な人数であろう」
「こちらはもちろん、宿場町で他の部隊と合流するからな! 俺の配下である一個大隊の千名は、まるまる闘技場に向かわせるつもりだぞ!」
「千名の兵士か。30名ていどの狩人など、微々たるものであるのだろうが……きっと俺たちには、俺たちにしか果たせない役目があろう」
「微々たるなどとは、とんでもない。30名の狩人であれば、300名の兵士に匹敵するであろうよ」
ファの家には、これまでと異なる熱気が満ちあふれることになった。
そんな中、ルド=ルウも陽気に笑いながら、狩人の眼光となっている。
「荷車にはアスタたちも乗せるんだから、30人より少なくなるだろ。でも、ルウの集落に立ち寄れば、そっちにも荷車があるからな。もう6人は増やせるはずだぜ」
「しかし、どれだけ集落を離れることになるかもわからんのだからな。家にも半分は男衆を残すべきであろう。こちらも外に控えている男衆らがどういった顔ぶれであるか、もうひとたび確認しておかなければな」
すると、アリシュナが「お急ぎください」と静かに言いたてた。
「現在、森辺には、凶運の影、見られます。この影、何に由来するか、判別、難しいですが……出発、急ぐべき、思います」
「わかった。しばし待っていてもらいたい」
ダリ=サウティとヴェラの家長が、玄関を出ていった。
それを見送ってから、アリシュナはずっと無言でいるクルア=スンとプラティカのほうを振り返る。
「あなたも、教示、必要でしょうか?」
「……え?」と目を見開いたのは、クルア=スンであった。
銀灰色の瞳に、激しい動揺の光がゆらめいている。
「あなたは……何を仰って……」
「あなたも、星の動き、見えているのでしょう?」
隣のプラティカも、うろんげにクルア=スンを振り返った。
クルア=スンは、それから逃げるように目を伏せてしまう。
「わたしは……ちょっとした予感めいたものを感じるぐらいで……人の運命を読み解くことなど、できるわけもありません。そして、そのような力を授かりたいとも思いません」
「そうですか」と、アリシュナはあっさり引き下がった。
「では、もしも、その力、持て余す事態、至ったならば、いつでもご相談ください。私、力、惜しみません」
「……はい。ありがとうございます」
クルア=スンはうつむいたまま、顔を上げようとしなかった。
俺はとっさにかけるべき言葉を見つけられなかったのだが――ライエルファム=スドラが、とても落ち着いた声でクルア=スンに呼びかけた。
「スンの女衆よ。お前もこのチル=リムという娘のように、何か苦しみを抱えているのか?」
「いえ……わたしは本当に、そんな特別な力など持っていないのです。ただ……ときおり予感が当たるぐらいのことですので……」
「そうか。お前が苦しんでいないのならば、それでいい。そして、お前が苦しみを抱えたならば、そのときはすべての森辺の同胞がお前に救いの手をのばすであろう」
「はい……同胞ならぬチル=リムにさえ、こうして懸命に手を差しのべてくださるのですからね……」
クルア=スンは面を上げて、ちょっと泣き笑いのような表情を浮かべた。
「わたしは森辺の民として生まれついたことを、心から得難く思っています。……ありがとうございます、ライエルファム=スドラ」
「俺は皆の思いを代弁しただけであるので、ことさら礼には及ばない」
熱気のこもっていた室内に、涼やかな風が吹いたかのようである。
俺は得も言われぬ感慨を抱きながら、腕の中のチル=リムに視線を落とした。
チル=リムは、安らかな表情で眠っている。
これだけ大勢の人間が、彼女の境遇を思いやっているのだ。みんなの思いが、なんとか彼女の孤独をやわらげてくれるようにと――俺は、そんな風に願ってやまなかった。