騒乱の日②~思わぬ来訪者たち~
2020.12/19 更新分 1/1
「アスタよ。プラティカとクルア=スンが参じたぞ」
アイ=ファにそのように呼びかけられたのは、泣き疲れたチル=リムが再び眠りに落ちてから一刻ほどが過ぎてからのことであった。
それと同時に戸板が開かれて、奇妙な取り合わせの両名が入室してくる。壁にもたれてチル=リムの身体を抱きかかえた俺は、「やあ」と挨拶してみせた。
「ずいぶん早い到着だったね。今日の商売を敢行するかどうかは、族長と貴族の会合の結果次第って話だったよね?」
「はい。フォウの家で報せを待つべきだったのでしょうが……どうにも気持ちを落ち着けられず、無理を申し出てしまいました」
恥じらうように目を伏せながら、クルア=スンはそんな風に言っていた。
いっぽうプラティカは、挑むように紫色の瞳を光らせている。
「フォウの家、戻った男衆、話、聞きました。無法者、毒の武器、扱う、聞きました。私、解毒のすべ、わきまえています。危急の際、役立てる、考え、参じました」
プラティカもまた、フォウの集落に荷車を寄せて、そこで一夜を明かしたのだ。プラティカ自身はファの家に留まりたいと申し出ていたのだが、警護の手は間に合っているとのことで、そちらに追いやられてしまったのである。
「わたしなどは、プラティカのついででファの家に来ることを許されたようなものです。もしも商売を取りやめることになっても、昼の食事の準備を手伝わせていただきたく思います」
「うん、ありがとう。……ダリ=サウティたちは、ずいぶん帰りが遅いみたいだね」
ダリ=サウティは朝一番で城下町に向かったが、そろそろ体感で2時間ぐらいは経過しているように感じられる。屋台の商売を敢行するならば、そろそろ人手を集めなければならない刻限に差し掛かっていた。
「貴族、起床、遅いので、手間取っている、可能性、否めません。貴族、上りの三の刻、起床する、通例です」
「ああ、本来ならまだ眠っているぐらいの刻限なのですね。メルフリードたちなら、すぐさま飛び起きてくれるでしょうけれど……それでも、色々と準備は必要ですもんね」
森辺の民も城下町の貴族たちも、ぞんぶんに平穏な日常を乱されているということだ。
しかし、このチル=リムほど手ひどい運命を授かった人間は、他に存在しないはずだった。
「それにしても、あのディアという娘には驚かされました。まさか、聖域を捨てる民が存在するだなんて……」
「うん、まったくだねえ。……あれ? でもたしか、クルア=スンはティアと顔をあわせたことはないんだよね?」
「はい。わたしはかつての家長会議で、わずかにその姿を垣間見たぐらいです。ティアという娘と聖域にまつわる騒ぎが収束するまで、アスタたちの手をわずらわせるべきではないという話でありましたので」
そう、彼女の父親たるスンの家長は、確かにそのように言っていた。本当は太陽神の復活祭を終えてすぐにクルア=スンをファの家に預けようと考えていたのだが、年が明けるなり聖域にまつわる騒ぎが勃発してしまったのである。
「ですが、ティアという娘がどれだけ心正しき人間であったかは、さまざまな氏族の方々からうかがっています」
「私、同様です。アルヴァッハ様、ナナクエム様、感慨、噛みしめていました」
そのナナクエムこそが、青の聖域を捨てた民と遭遇した張本人である。彼はファの家でティアと対面した際、小さからぬ昂揚にとらわれていたのだった。
(昂揚といえば、フェルメスだってこの件では黙っていられなそうだな。かつて聖域の民であったディアに、星見の力を持って生まれたチル=リムなんて……いかにもフェルメスが食指を動かしそうな存在だ)
しかしまた、そういった分野にもっとも博識であるのがフェルメスだ。ディアやチル=リムからさまざまな話を打ち明けられて以来、俺はフェルメスが思いも寄らぬ解決策を授けてくれるのではないかと、わずかながらに期待してしまっていた。
(でもまずは、チル=リムをつけ狙う悪党どもを何とかしないといけないからな。そいつらは、いったいどういった目的でチル=リムをさらったりしたんだろう)
俺がそんな風に考えたとき、にわかに表のほうが騒がしくなってきた。
ようやくダリ=サウティが戻ったのか、あるいはまた別の氏族から援軍が駆けつけてくれたのか――俺はそのていどの考えであったが、アイ=ファは鋭く眼光を閃かせている。
「ずいぶん仰々しいな。ライエルファム=スドラよ、しばし見張りを頼めるであろうか?」
「了承した。確かに、たいそうな騒ぎだな」
プラティカたちをその場に置いて、アイ=ファだけが広間に出ていく。それと入れ替わりで、ライエルファム=スドラがするりと入室してきた。
「どうもこれは、屋台の商売どころの騒ぎではないようだぞ。ずいぶんな数の兵士たちが押し寄せてきたようだ」
「兵士? もちろん、ジェノスのですよね?」
「うむ。先頭には、サウティの荷車も見えていた。しかし、その娘たちを城下町に移動させるのだとしても……あれほどの護衛が必要なのだろうか」
ライエルファム=スドラもまた、考え深げに目を細めた。
俺は何だか、気持ちが落ち着かない。アイ=ファたちがいぶかしく思うほどの兵士たちが参上するなどとは、不穏な事態を想定せざるを得なかった。
やがて表の喧噪が、家の中にまで移動してくる。戸板1枚の向こう側で、アイ=ファやダリ=サウティたちが誰かと語らっているようだが、俺の聴力では会話の内容まで聞き取ることはできなかった。
「……アスタよ。チル=リムなる娘を、こちらに連れてくるがいい」
しばらくして、戸板の隙間からアイ=ファがそのように呼びかけてきた。
「チル=リムを? あんまり動かすと、目を覚ましちゃうかもしれないけど……」
「わかっている。しかし、そのように言いつけられてしまったのだ」
アイ=ファは懸命に、感情を押し殺しているようだった。
俺はますます不安な気持ちになりながら、なんとかチル=リムの眠りを脅かさないようにと身を起こす。立ち上がる際には、ライエルファム=スドラも手を貸してくれた。
そうしてクルア=スンとプラティカも引き連れて、戸板の向こうの広間に出た俺は――あまりに予想外の顔ぶれをそこに見出して、絶句することになった。
「ひさしいな、アスタ殿。まさかこのような形でアスタ殿とアイ=ファ殿の家を訪れることになろうなどとは、考えてもいなかったぞ」
広間の真ん中で丈の低い椅子に腰かけているのは、白銀の甲冑を纏った雄々しい武官――護民兵団の大隊長、デヴィアスである。
そしてその右側に座しているのは東の占星師の少女アリシュナで、左側に座しているのはフェルメスの従者たる青年ジェムドだ。
俺のお粗末な想像力をどれだけフル稼働させたって、これほど異色のトリオの来訪を予期することはかなわなかった。
「森辺には椅子が存在しないと聞いたことがあったので、わざわざ城下町から持参したのだ。甲冑姿では敷物に座すことも難しいし、かといって立ち話で済ませられるような案件でもなさそうなので、どうか容赦を願いたい」
デヴィアスは足もとに兜を置いていたので、その面相をあらわにしていた。目も鼻も口も大きくて、くっきりとした眉が特徴的な、偉丈夫ながらも愛嬌のある顔立ちだ。このような危急の際にあっても、その顔にはにこやかな表情が広げられている。
「ど、どうしてデヴィアスがファの家に? いや、デヴィアスだけでなくアリシュナやジェムドまでご一緒なんて……」
「話せば、長くなる。アスタ殿も、どうか腰を落ち着けていただきたい」
アイ=ファにもうながされて、俺は中央からやや右側――アリシュナの正面あたりに腰を下ろすことになった。
俺の左右はアイ=ファとライエルファム=スドラに固められて、中央から左側にはダリ=サウティとヴェラの家長、そしてディアが座している。クルア=スンとプラティカは、そんな俺たちを横合いから眺められる場所にそっと腰を下ろした。
さらに、デヴィアスたちの後方には、ルド=ルウとガズラン=ルティムの姿までうかがえる。きっとチル=リムの身を思いやって、寝所にまでは踏み込んでこなかったのだろう。俺はこっそりと、そちらに目礼を届けておいた。
「では、詳しい話を聞かせてもらおう。王国の法に疎い俺たちにも理解できるように、どうかお願いしたい」
ダリ=サウティが、落ち着いた声音でそのようにうながした。
デヴィアスは悠揚せまらず、「うむ」とうなずく。
「まず最初に、俺はメルフリード殿の代理としてこの場に参じている。本来であれば近衛兵団の立場ある者が受け持つべきであるのであろうが、あちらはあちらで多忙であるため、俺がその栄誉ある任を授かることになった。また、表に控えた一個中隊、100名の兵士たちの指揮官であることも言い添えておこう」
100名――それほどの兵士が、このファの家までやってきたのだ。それではアイ=ファやライエルファム=スドラがいぶかしむのも当然のことであった。
「そしてこちらのジェムド殿は王都の外交官フェルメス殿の代理として、こちらのアリシュナ殿はジェノス侯およびフェルメス殿からの依頼でこの場に参じた身となる。理由はさきほども申し上げた通り、自由開拓民の娘たるチル=リムと、大罪人として手配されているディアなる娘の処遇についてを伝えるためだ」
「うむ。俺もおおよその話は城下町にてうかがっているが、どうにも理解の及ばない点が多くてな。それを説明してもらえたら、ありがたく思う」
ダリ=サウティの言葉に、デヴィアスは「うむうむ」と気安くうなずいた。その気安さを心強く思うべきなのか、俺としてもなかなか判断がつけられないところである。
「とはいえ、俺自身も本当にこの事態を把握しきれているのかどうか、はなはだあやしいところなのでな。それゆえに、ジェムド殿にご同行をいただいた。俺の言葉が足りないときは、ジェムド殿が補足してくれよう。どうかそのつもりで聞いてもらいたい」
「長い前置きだな。それほどに、事態は入り組んでいるということか」
アイ=ファが鋭く言葉をはさむと、デヴィアスは「いかにも」と応じつつ、いつもの調子で笑みをこぼした。
「本当はこのようにややこしい事態とは関わりなく、アイ=ファ殿のもとを訪ねさせていただきたいところであったのだが……ともあれ、あまりのんびりとはしていられない。さっそく、本題に入らせていただこう。まず現在、ジェノスにおいては無法者を捕縛するために、大々的な捜索活動が行われている。無法者とはすなわち、自由開拓民チル=リムなる娘の身をつけ狙っている、正体不明の一団のこととなる。それは強殺の犯人として手配されていたディアなる者の証言に基づいて開始されたものであるのだが……ディアよ、お前が昨晩森辺の方々に語った証言に、嘘いつわりはなかろうな?」
「うむ。ディアは理由もなく、虚言を吐いたりはしない」
「それは重畳。これだけの騒ぎを巻き起こしておいて、冗談では済ませられんからな。……本来であれば、お前を審問にかけた上で、その証言が真実であるかどうかを吟味する必要があるのだが、このたびは王国の平穏を揺るがす一大事と見なされて、可及的速やかに捜索活動が開始されたのだ」
「王国の平穏を揺るがす、一大事。……それが、メルフリードらの判断であるのか?」
そのように問い質したのは、アイ=ファである。
デヴィアスは「うむ」と応じてから、かたわらのジェムドを振り返った。
「ただしそれは、外交官フェルメス殿の助言に基づいた判断であったようだ。これは最悪の事態を想定して動くべしと、フェルメス殿はそのように仰ったのだとうかがっている。苦労が無駄に終わるのなら、それに越したことはない。しかし、苦労を惜しんで災厄を防ぐことがかなわなければ、いったいどれだけの被害が出るものか……と、フェルメス殿はそのように憂慮しておられるようだな」
「何がそれほどの一大事だというのだ? 速やかに説明を願いたい」
「うむ。それでは、簡潔に述べさせていただく。……このたびジェノスを脅かしている一団は、邪神教団の一派である恐れがあるとのことだ」
その言葉を耳にするなり――俺の背筋に、嫌なものが走り抜けた。
理由は、わからない。ただ、「邪神教団」という仰々しい名称が、俺にはあまりにも忌まわしく思えてしまったのである。
「邪神……教団? そのようなものは、耳にした覚えもない。それは、如何なる存在であるのだ?」
「簡単に言えば、恐れ多くも四大神に叛旗をひるがえす、大罪人の群れということだな。邪悪なる神々を信奉して、四大王国の滅びを願う、狂信者ども――俺も風聞で聞くばかりで、そのようなものにはお目にかかったことがない。妖魅や魔術と同じぐらい、王国の民には馴染みがない存在であろうよ」
「……わたしの主人たるフェルメス様は、妖魅や魔術や邪神教団の歴史についても、かねがね研究を進めておられました。そちらで得られた知識によって、このたびの事件に大きな危機感を抱かされたとのことです」
と、ふいにジェムドがバリトンの美声で発言した。
「まず簡単に、邪神教団についてご説明いたしますと……邪神教団とは、四大神および四大王国による大陸の支配を否定し、拒絶することを教義としています。この世を支配するべきは魔術であり、眠れる大神とその子たる小神たちを一刻も早く揺り起こさなくてならない、と……そのような狂信を胸に抱いているのです」
「なんだ、それは」と、ディアがうなるような声で言いたてた。
「眠れる大神とは、聖域の民が父とする大神のことなのか? 外界に大神を崇めるものなど存在しないはずだぞ」
「それが、存在するのです。外界にて、王国の民として生まれつきながら、四大神を捨てて大神の復活を願った者たち……それが、邪神教団と定義づけられています」
「それは、許されざる行いだ」
「はい。聖域の民にとっても王国の民にとっても、それは許されざる存在です。眠れる神々を揺り起こして、四大王国の滅びを願うという、それはまごうことなき狂信者の集いであるのです」
かつての聖域における族長会議と同じように、ジェムドは澱みのない口調でそういった言葉を並べたてていた。
(そうか。ジェムドが族長会議で語っていた、大神と十四小神の神話……外界における七邪神っていうのは、聖域で語り継がれる神々のことなんだ)
その神々も、現在は父なる大神とともに眠っているとされている。
それを無理やり揺り起こそうというのは、聖域の民にとってもっとも許されざる禁忌なのではないかと思われた。
「よって邪神教団の狂信者たちは、魔術の力を渇望しています。魔術の力で石の都を壊滅させるというのが、彼らの悲願であるのです。よって……大神の力を有するというチル=リムなる娘をかどわかし、教団の信徒に迎え入れるつもりであろうと、フェルメス様はそのように推察しておられます」
「魔術の力……星見の力を持つというその娘を、自分たちの仲間に引き入れようということか」
ダリ=サウティの静かな声に、ジェムドも落ち着いた声で「はい」と応じる。
「そのように推察した要因は、主に二点。そちらのディアなる者の証言――自由開拓民の生存者が遺した、『奇怪な術で住民たちを皆殺しにした』という言葉が、そのひとつとなります。もちろん大神が眠りに落ちている現在、王国の領土で魔術を行使するすべはございませんが、邪神教団の人間はそれに準ずる妖かしの術を行使するのだとされています。シムの占星師が独自の研鑽で星読みの術を体得したように、邪神教団の人間も何らかの妖術を体得しているのです」
「……もう一点は?」
「もう一点は、先日に宿場町にて回収された、3体の遺体の状態です。ディアなる者の証言から、その3名こそが邪神教団の信徒に他ならないということになるわけですが……それらは皆、右の手首から先を斬り落とされて、持ち去られていたのですね?」
「うむ。俺は、遺体も確認したぞ。ひどく荒っぽいやり口で、強引に手首をもぎ取ったようだ」
「それは、正体を隠すためであったのでしょう。邪神教団にはさまざまな一派が存在するとされていますが、そのいくつかは右の手の甲に邪神の紋章を刻みつけている、とされているのです」
その言葉に、俺は激しい衝撃を受けることになった。
すると、ジェムドの沈着な眼差しが、俺のほうに向けられてくる。
いや――俺ではなく、俺の腕の中で眠るチル=リムのもとに。
「そちらのチル=リムなる娘は、右の手の甲にひどい傷を負っているという話でしたね。そこにはおそらく、邪神の紋章が刻みつけられており……それを忌避した本人が、自らの手で邪神の紋章を削ぎ落とそうとしたのではないでしょうか?」
ジェムドの言葉は鋭い刃の切っ先のように、俺の心を切り刻んだ。
このチル=リムは――まだ俺たちの知らない非業の経験を隠し持っていたのだ。
「以上の二点と、さまざまな状況の様相から、フェルメス様は邪神教団の暗躍を推察なさいました。おそらく邪神教団の信徒たちは、北方に位置する自由開拓民の村落からチル=リムなる娘をかどわかし、それを教団の本拠に連れ帰るさなかであったのでしょう。それがこの地でチル=リムなる娘が逃走をはかったことによって、先日の騒ぎが勃発した。……フェルメス様は、そのように推察されています」
「よって現在、ジェノスでは一斉検挙が行われているわけだな。顔や名前がわからずとも、手の甲をあらためればよいのだから、話は早い。もちろん街道を封鎖したところで、町の端からいくらでも逃げ出すことはかなうのであろうが、今後は一切ジェノスに踏み込むこともかなわなくなるはずだ。右手の紋章については周知しているので、今後はその部分を隠しているだけで衛兵を呼ばれることになるわけだからな」
意気揚々と、デヴィアスがそのように言いたてた。
「もちろん、森辺に通ずる道に関しても、すべて封鎖させてもらっている。ただし、以前の《颶風党》のように徒歩であれば森の端を分け入って集落に忍び込むことは可能であるので、俺も大事を取って一個中隊を引き連れてきた。森辺の狩人に100名の兵士が加われば、邪神教団であろうと何であろうと手は出せまいよ」
「それで……チル=リムとディアは、どのように取り扱おうという算段であるのだ? 城下町で、かくまうのか?」
アイ=ファがそのように言葉を飛ばすと、デヴィアスは初めて眉を下げた。
「それがな、アイ=ファ殿。チル=リムなる娘を城下町に引き入れることはまかりならん、というお達しが出てしまったのだ。それは、王国の法に反する行いになってしまうらしい」
「……何故だ?」
「おお、そのような目で見られると、俺の胸がかき乱されてしまうではないか! ……いや、まがりなりにも魔術を扱う人間を、王国の領内に留めることは許されないらしいのだ。つまり、城下町はもちろん、この森辺の集落に滞在させることすら、厳密に言えば王国の法に反しているということだな」
「……そのチル=リムなる娘は、自ら望んでそのような力を手に入れたわけではないようであるのだぞ?」
「しかしまた、そちらの娘は自由開拓民の村落を出自としているのであろう? これまたアイ=ファ殿には不興を買ってしまいそうだが、自由開拓民というのは四大神の子でありながら王国の民ならぬ、いささか特殊な存在であるのだ。自由開拓民は王国の支配を受けない代わりに、王国に庇護を求めることもできない。税や徴兵をまぬがれる代わりに、王国の兵士に守られることもない、そういう存在であるのだよ」
「だから……見殺しにするべきだ、と?」
もはやアイ=ファの眼光は、白刃のきらめきそのものであった。
デヴィアスは「まいったなあ」とばかりに頭をかいている。
「これで『その通りだ』としか答えるすべがなかったら、俺はこの役目を引き受けたことを心底から後悔するところであった。そうでないことを幸いに思うぞ、アイ=ファ殿」
「……私は、真剣に問答しているつもりであるのだが」
「もちろん俺も、これ以上なく真剣だ。まず第一に、そのチル=リムなる娘を見殺しにすることはできない。というか、ジェノスの領土から追放するだけでは、用事が足りぬのだ。さきほども申した通り、邪神教団の連中をジェノスから締め出すことは容易いが、ひとり残らず捕縛するというのは、どうにも難しい。そうすると、ジェノスの外でまたその娘が邪神教団の手に落ちてしまうやもしれん。フェルメス殿が仰るには、それこそが最悪の事態ということであるな?」
「はい。そのチル=リムなる娘が確かに大神の力を備えているならば、邪神教団にどう悪用されるかもわかりません。世界の行く末を見通せる力などというものを、邪神教団に与えるわけにはいかないのです」
ジェムドの補足に、デヴィアスは「うむうむ」と首肯する。
「よって、我々に残された道は、みっつ――いや、ふたつにしておこう。その娘を安全な場所まで秘密裡に送り届けるか、あるいはこの地に潜む邪神教団をひとり残らず殲滅するかだ。後者はなかなかに難しいので、やはりここは前者の道を選ぶしかなかろう」
「……何かもうひとつ、道が残されているのか?」
アイ=ファが低い声で尋ねると、デヴィアスは何かを誤魔化すようににまにまと微笑んだ。
「フェルメス殿は、みっつの道を提示されていた。しかし、フェルメス殿ご自身もジェノス侯もメルフリード殿も――そしてもちろんこの俺も、その道を選ぶことはないと考えている。よって、口にのぼせる意味もあるまい」
「我々は、それを聞くことすら許されないのか?」
「聞いても、不愉快になるだけだぞ」
と、デヴィアスは鎧に包まれた肩をすくめた。
「まあ、そうまで言うなら語って進ぜよう。みっつ目の道とは、そのチル=リムなる娘を処断する道だ」
「処断? この娘は、なんの罪も犯してはいないではないか」
「その娘は、魔術の技を体得してしまったという疑いをかけられている。もしも審問を開いて、その疑いが真実であるとつまびらかにされたならば、それだけで死罪に相応するのだそうだ。確かにまあ、四大王国においては魔術の行使こそが最大の禁忌であるのだからな」
我知らず、俺は腕の中のチル=リムをぎゅっと抱きしめてしまっていた。
すると、デヴィアスが明るく輝く瞳を俺のほうに向けてくる。
「そのようなやり口は、森辺の民こそがもっとも忌避するものであろう? だから、口にすることさえ控えておきたかった。最初にみっつの道などと口をすべらせてしまった、俺の失態だな」
「いや……あえて追及してしまったのは私なのだから、あなたに罪はない。あなたの浮ついた態度の裏にひそむ誠実さを見抜くことができず、申し訳なく思っている」
そうしてアイ=ファが目礼すると、デヴィアスは「たはは」と浮ついた笑い声をあげた。
「ほめられたのかけなされたのか、判断に迷うところだな。まあ、アイ=ファ殿にけなされたところで、俺の胸は躍るばかりであるのだが」
「……あなたのそういう物言いを、私は浮ついていると評しているわけだが」
「うむ。ともあれ、話を進めよう。我々は、その娘を安全な場所に移送するべきだと考えている。……ディアよ、お前はこのチル=リムなる娘を東の王国に送り届けようと画策していたのだな? その言葉にも、偽りはないか?」
「ない。それ以上に、上等な策でもあるのか?」
「残念ながら、存在しない。そのような厄介者は、厄介者の巣窟たるシムにでも追放してしまえばいい――という体裁を取るならば、王都の王陛下にも申し訳が立つらしいのだ。しかしまた、フェルメス殿はその案に関しても憂慮しておられる。その娘はロクに言葉も通じない東の王国で、果たして健やかに生きていけるや否や……それを確かめるために、こうしてこちらのアリシュナ殿が派遣されてきたわけだな」
その場にいる人間の視線が、いっせいにアリシュナへと突きつけられた。
無言のアリシュナを見つめながら、ダリ=サウティは「ふむ」と顎を撫でさする。
「しかし、そちらのアリシュナなる者は、西の地で生を受けた東の民であるという話ではなかったかな?」
「うむ。しかし同時に、アリシュナ殿はきわめて優れた占星師でもある。アリシュナ殿であれば、そちらのチル=リムなる娘の力がいかほどのものであるかも見て取れるし、また、それを制御するすべを与えられるのではないかという話であったな」
自然、俺の中には過大な期待がふくらむこととなった。
「アリシュナ。星見の力を制御することは可能なんでしょうか? チル=リムは……この力に、ものすごく苦しんでしまっているんです」
「現時点、不明です。まず、言葉を交わす必要、あります」
アリシュナは、誰よりも沈着な声でそのように答えてくれた。
ずっと大人しくしているプラティカは、いくぶんうろんげにアリシュナの横顔をねめつけている。同じ東の民でありながら、プラティカの故郷たるゲルの地において、星読みの術はずいぶん廃れているという話であったのだ。
そして――何故だかクルア=スンは、いささかならず緊張した面持ちでアリシュナの様子をうかがっていた。アリシュナは今年になって一度も屋台に姿を見せていないように思うので、クルア=スンとは初対面であったのだ。
しかし今は、まずチル=リムについてである。
俺は眠れる少女の身体をかき抱きながら、デヴィアスに向けて言葉を届けてみせた。
「あの、チル=リムは大勢の人間がいると、すごく怯えてしまうんです。アリシュナと語らせる必要があるのでしたら、あちらの寝所でお願いできるでしょうか?」
「うむ。そちらのいいように取り計らってもらいたい」
俺はうなずき、ダリ=サウティとアイ=ファにも了承をいただいてから、寝所に舞い戻ることにした。
アリシュナひとりが追従し、寝所で俺たちと向かい合う。戸板はまた数センチの隙間が開けられていたので、アイ=ファたちもしっかり聞き届けてくれることだろう。
「アリシュナ、どうかお願いします。俺はほんの数日前に出会ったばかりの間柄ですけれど……どうしても、このチル=リムを放っておけないんです」
「はい。力、惜しまないこと、お約束します。大神の力、持つ人間、放置できない、必定ですし……友たるアスタ、憂慮を晴らしたい、願っています」
最近はプラティカばかりを相手にしていたためか、アリシュナの静かなたたずまいが、俺にはものすごく懐かしく感じられてしまった。
もちろん、プラティカはプラティカで好ましい。だけど彼女たちは、荒ぶる山猫と気品あるシャム猫ぐらい、まったく異なった存在であるのだ。夜の湖みたいに静謐なアリシュナの瞳に見つめられるだけで、俺は内心の焦燥がなだめられていくのを感じてやまなかった。
「では、覚醒、お願いします」
アリシュナにうながされて、俺はチル=リムの細い肩をそっと揺さぶった。
死んだように眠っていたチル=リムは、つぼみが開くようなゆるやかさでまぶたを開き――星の光を詰め込んだような白銀の瞳で、俺の顔をぼんやりと見つめ返してきた。