騒乱の日①~黒き安寧~
2020.12/18 更新分 1/1
そうして、3日目の朝がやってきた。
昨晩の宣言通りに、ダリ=サウティは朝一番で城下町へと出立していった。途中でルウの集落に立ち寄って、ドンダ=ルウとも合流するとのことである。
ダリ=サウティはヴェラの家長だけを供にしたので、残りの男衆は引き続き、ファの家に居残ってくれている。そして夜明けから半刻もせぬ内に、別の氏族からも数多くの男衆らが集まってくれていた。
「今日は、俺たちが仕事を休むことにした! お前たちは家に戻って、家人らを安心させてやるがいい!」
そんな風にがなりたてて、静かにするようにと叱られてしまったのは、ラッツの若き家長であった。本日は、ラッツとガズの血族と、そしてスドラからの援軍が駆けつけてくれたのだ。
これまでファの家に詰めてくれていたフォウ、ラン、ディン、リッドの人々は、それぞれの家に戻っていく。ただし、見届け役という名目で、ジョウ=ランとゼイ=ディンとラッド=リッドはそのままファの家に居残ってくれていた。貴族の側から昨晩の大捕り物について証言を求められる可能性もなくはないだろうし、何より、これだけの騒ぎをすべて他の氏族にまかせきりにはできない、という理由からであった。
「本当に、ありがたい話だよな。こちらから助力を頼む前に、こうして力を添えてくれるんだから」
「そうだな」と答えるアイ=ファは寝所の壁にもたれており、俺は寝具でチル=リムの添い寝をしている。けっきょく俺はこの場を離れられなかったので、表の状況はすべてアイ=ファの口から聞かされていたのだ。
しばらくすると、細く開かれた戸板の隙間から、ライエルファム=スドラの声が聞こえてきた。
「アイ=ファよ。今度はルウの血族がやってきてしまったぞ」
「なに? さすがにもう、家には入る余地もないように思うのだが……」
「いや、何名かの男衆は外の見張りを受け持っているので、どうにか収まったようだ。もちろん、窮屈でないと言えば嘘になるがな」
戸板の隙間から見えるライエルファム=スドラの目もとには、深い笑い皺が刻まれいた。
「それと、ディアなる娘がチル=リムなる娘の様子をうかがいたいと言いたてている。どのように取り計らうべきであろうか?」
アイ=ファは一瞬迷うように目を伏せたが、すぐに「よかろう」と返事をした。
「誰か1名だけ、その者の縄を持つ役目を受け持ってもらいたい」
「では、俺が受け持とう」
待つほどもなく、ライエルファム=スドラとディアが寝所に入室してきた。
ディアは昨晩と変わらぬ様子で、俺たちの姿を睥睨してくる。その金色の目が、やがて不満げな光をたたえた。
「またお前が、そのようにチル=リムの身にへばりついているのか。普通そういう役割は、女衆が受け持つものなのではないのか?」
「うん。理由はわからないけど、彼女は俺しかそばに寄らせてくれないんだよ。これは、どういうことなんだろう?」
「いまだその娘と言葉を交わしたこともないディアに、そのようなことがわかるわけもない」
ディアは仏頂面のまま、アイ=ファの隣に腰を下ろした。逆の側には、荒縄を手にしたライエルファム=スドラが陣取る。
「……よく眠っているようだな」
「うん。だけど時々、すごく苦しそうにうなされちゃうんだよね。熱はずいぶん引いてきたように思うんだけど……」
「それはおそらく、夢の中で世界の行く末を垣間見てしまっているのであろう。星見の力とは、そういうものであるのだ」
「星見の力、か……」
そういえば、俺も昨晩は奇妙な夢を見たような気がする。
アイ=ファに荒っぽく起こされた衝撃で、ほとんど内容は忘れてしまったのだが――たしか、俺とアイ=ファが手を取り合って、チル=リムを助けようとしている夢であったはずだ。
(もしかしたら、チル=リムの影響であんな夢を見たんだろうか?)
チル=リムは左手で俺の胸もとの装束をぎゅっと握ったまま、小さく寝息をたてている。今のところは、悪夢に苛まれている様子もなかった。
「……昨晩の話は、俺たちもすべて聞かされている。お前は立派な人間であるのだな、ディアよ」
と、ライエルファム=スドラがふいにそんなことを言い出した。
チル=リムの寝姿をじっと見つめていたディアは、横目でそちらをねめつける。
「なんだ? ディアの自由を奪っている人間にそのようなことを言いたてられても、まったくありがたくないのだが」
「うむ。俺も早く、お前の身に罪はないと認められることを願っている。お前ほど立派な人間を罪人あつかいしてしまうのは、あまりに忍びないことだからな」
ライエルファム=スドラは、とても透徹した目でディアの不満げな顔を見返した。
「お前はどうして、聖域を捨ててしまったのであろうな? お前であれば、聖域においても心安らかに生きていけたように思うのだが」
「ふん。ディアがどのように生きようとも、お前には関係あるまい」
「関係はない。ただ、気になったのだ。お前は故郷や同胞を憎んでいるわけではないのであろう?」
ディアはあぐらをかいていた右足を持ち上げると、その指先でがりがりと頭をかきむしった。とてつもない柔軟さとお行儀の悪さである。
「ディアはただ、世界を見て回りたいと願っただけだ。空はあんなにも広大で、その下には同じだけの広大な世界が広がっているというのに、聖域の民は山から出ることを許されない。それが我慢ならなかったので、故郷と同胞に別れを告げることにした」
「お前はもう、聖域に戻ることは許されないのだな?」
「当たり前だ。ディアはもう、2年も外界で生きている。鋼の武器で敵を倒し、時には石造りの建物で身を休め、魂もぞんぶんに穢れてしまったことだろう。ディアは大神ではなく、外界の神々に魂を返すのだ」
「2年か。いったいどのようにして、2年の月日を生きてきたのだ?」
頭をかくのをやめたディアは、今度は首をねじ曲げて正面からライエルファム=スドラをにらみつけた。
「どうしてそのように、ディアのことをあれこれ聞きほじろうとするのだ? お前には関係のない話ばかりではないか」
「理由はない。俺が聞きたいから、尋ねているだけだ。アスタやアイ=ファは、俺以上に聞きたがっているだろうしな。……このふたりは、俺よりも深く聖域の民と関わった身であるのだ」
ディアはうろんげに眉をひそめて、俺とアイ=ファの顔を見比べてきた。
アイ=ファは感情を隠した眼差しでそれを受け止め、俺は曖昧に笑顔を返してみせる。結果、ディアは可愛らしいしかめっ面で、「ふん」と鼻を鳴らすことになった。
「ディアの目的は自由に世界を見て回ることだったのだから、その通りに生きてきただけだ。銅貨を稼いで、鋼の剣とトトスも買い求めて、最近では立派な外界の民になったものと自負している」
「ふむ。どのようにして、銅貨を稼いだのだ?」
「最初は、山や森で狩った獲物の肉や毛皮を売りさばいていた。鋼の刀を手に入れてからは、《守護人》としても働くようになった」
「なに? お前は《守護人》であるのか?」
「うむ。しかし本当の《守護人》というやつは、王都で認めをもらわなければならないらしいな。そんなのは面倒なので、勝手に《守護人》を名乗っている。べつだん貴族の仕事を引き受けたいなどとは思わないので、とりたてて不自由はない」
「なるほどな。お前ほどの力量であれば、立派に人の身を守ることもできるのであろう。……しかし、そのチル=リムという娘を守ろうとしているのは、仕事ではあるまい?」
「当たり前だ。村落の生き残りであった男からも、銅貨を受け取ったわけではない」
「それでもそのようにして、お前は生命を懸けてチル=リムという娘を救おうとしている。だから、立派な人間であると言っているのだ」
ライエルファム=スドラの眼差しは、とても優しげだ。
ディアはとても嫌そうな顔で、また「ふん」と鼻を鳴らした。
「お前はどこか、ディアの父親に似ている。家族とは縁を切ったのだから、とても落ち着かない」
「お前のように立派な人間の父親に似ていると言われるのは、とても誇らしいことだな」
「そういう言い回しも、とても落ち着かない。……お前は本当に、外界で生まれ育った人間なのか? お前の顔や手足に刻印を焼き潰した痕が見当たらないのが、不思議なほどだ」
「ふむ。顔や手足の刻印を焼き潰さなくてはならないというのは、難儀なことだな。いちおう聞いておきたいのだが、お前はこのモルガの聖域で生まれたわけではあるまい?」
「……この山が聖域だと聞かされて、ディアも驚いている。もちろん、この山で生まれたわけではない」
そこで俺は、昨晩から抱えていたささやかなる疑念をぶつけさせていただいた。
「ディア。もしかして、君は青の聖域の生まれなのかな?」
ディアはキミュスが豆鉄砲をくらったような顔で、「はあ?」と首を傾げた。
「青の聖域は、北と東の狭間に存在すると耳にしたことがある。であれば、青の聖域で暮らす民たちも北か東の言葉を使っているはずであろう。ディアがたった2年で、西の言葉を覚えたとでも思っているのか?」
「あ、そうなんだね。知り合いから、青の聖域を捨てた民を見かけたことがあるって聞いたもんだから、ひょっとして君がそうなのかなって考えただけなんだよ」
「ほう」と、ディアが身を乗り出してきた。
「他の場所でも、聖域を捨てた人間がいるのか。それは、いつの話なのだ? 名前などはわかっているのか?」
「いや、そこまで詳しくは聞いてないんだけど……やっぱり、気になるものなんだね」
「当たり前だ。ディアと同じぐらい馬鹿な人間がいるのなら、1度ぐらいは挨拶をさせてもらいたく思うぞ」
そう言って、ディアはにっこり微笑んだ。
そういう無防備な笑顔を見せつけられると、ますますティアの面影と重なってしまう。ティアがもう少し齢を重ねたら、彼女のような人間に育つのではないかと思われてならなかった。
「ディアが生まれたのは、西の果てにある黄の聖域だ。しかし故郷を捨てたのだから、どこで生まれたかを語っても意味はない。ディアは外界の民として生き、外界の民として魂を返す。……その前に、その娘だけは何とかしなければならないがな」
ディアがそのようにつぶやいたとき、俺の腕の中でチル=リムが「ううん……」と身じろいだ。
「あ、ごめん。目が覚めちゃったかな?」
アイ=ファが速やかに腰を上げようとしたが、もう遅かった。
チル=リムのまぶたがハッとしたように見開かれ、背後に座した3名の姿をおそるおそる振り返る。
「だめ……わたしに近づかないで!」
「うむ? お前は、何を言っているのだ?」
ディアは、きょとんとした顔でチル=リムの姿を見返した。
その視線から逃げるように、チル=リムは俺の胸もとに顔をうずめてしまう。
「わたしのそばに近づかないで……早く、出ていって! じゃないと……ひどいことが起きちゃうから……」
「ますますわけがわからんな。お前が授かったのは星見の力であり、凶運を招く力などは備わっていないはずだぞ」
「だって……だって、わたしのせいでみんなが……」
俺の胸に、熱いものが広がっていく。チル=リムが、また涙をこぼしてしまったのだ。
しかしディアは意に介した様子もなく、チル=リムの小さな背中を探るように見つめていた。
「みんなというのは、お前の故郷の者たちのことだな? あのように非道な真似をしたのは、名も知れぬ悪人どもだ。お前に責任のある話ではない」
「ちがう……わたしさえいなければ……あんなひどいことは起きなかったのに……」
「わからぬやつだな。宝石を巡って殺し合う人間がいたら、それは宝石の責任であるのか? ディアは、そうは思わない。宝石を奪おうとする人間の浅ましさこそが、罪であるはずだ」
「待て」と、アイ=ファがディアを制した。
「お前は、正しいことを言っているように思う。しかし、このように取り乱していては、何が正しいかを判ずることも難しかろう。まずは、気持ちを落ち着かせるのだ」
「面倒だな。まあ、ディアはどうせ自由を奪われているのだから、お前たちの好きにしてみるといい」
「うむ」とうなずき、アイ=ファは俺に目配せをしてきた。
そうしてディアとライエルファム=スドラをうながして、寝所の外に姿を消す。戸板は5センチほど開かれていたが、その隙間からも人影は見えないように配慮されていた。
「チル=リム、みんな出ていってくれたよ。これならもう、怖くはないだろう?」
俺はチル=リムを抱きかかえたまま、寝具の上で半身を起こした。
戸板ごしでも、狩人の聴力であればこちらの会話を聞き取ることは可能であるのだ。俺は、俺にしか果たせない仕事を果たさなければならなかった。
「ちょっとごめんね。熱を見るよ。……うん、ほとんど熱は下がったみたいだね。それじゃあ、手の傷の薬を塗りなおそうか」
「はなれないで……わたしをひとりぼっちにしないで……」
「大丈夫だよ。一緒にいるからね」
俺は偽りでない気持ちを込めて、チル=リムの頭を撫でてあげた。
そうしてチル=リムの気持ちが落ち着くのを待ってから、まずはその顔の涙をふいて、俺のモモの上で横向きに座らせる。薬と包帯は枕もとに準備しておいたので、この体勢でも治療をすることは可能だった。
「痛かったら、ごめんね。薬を塗り重ねるだけだから。……うん、こっちも血は止まってるし、少しずつ治ってきたみたいだね。このまま安静にしていれば、すぐに元気になれるはずだよ」
「…………」
「チル=リム。心を落ち着けて、俺の言葉を聞いてもらえるかな?」
治療を終えたチル=リムは、とても不安そうに俺の顔を見上げてきた。
その白銀の瞳には、早くも涙が溜められてしまっている。
「大丈夫。何も怖いことはないからね。……悪い人たちは、大人がみんなやっつけてくれるんだよ。もう誰も、チル=リムにひどいことをしたりしない。だから何も心配しないで、元気になることだけを考えてね」
「…………」
「ここは森辺の集落っていって、強い狩人さんがたくさんいるんだよ。それでジェノスの宿場町にも、衛兵さんがいっぱいいるんだ。悪い人たちも、森辺やジェノスで悪いことはできない。もうすぐ衛兵さんたちが、悪い人たちをみんなやっつけてくれるよ」
俺の胸もとに取りすがったチル=リムが、またがくがくと震え始めてしまった。
熱はほとんど下がっているはずなので、これは完全に心因性のもの――恐怖や不安の表れであるのだ。俺は少女の肩を引き寄せて、なんとかその不安をやわらげられるようにと言葉を連ねた。
「何をそんなに怯えているんだい? 悪い人たちが、怖いのかな?」
「ちがう……わたしのせいで、みんな死んじゃう……」
「そんなことないよ。衛兵さんや狩人さんたちは、悪い人なんかに負けたりはしない」
「ちがう……ちがうの……」
ほとんど歯の根も合わないぐらい震えながら、チル=リムは懸命に俺の顔を見つめてくる。
「わたしのせいで、3人も死んじゃった……わたしが逃げたりしなければ、あのひとたちは死ななくてもすんだかもしれないのに……」
「え? それは、誰のことを言ってるの?」
俺たちが宿場町の話をしているとき、彼女は確かに深い眠りに落ちていたはずだ。
そして彼女は一昨日の昼下がりからファの家で過ごしているので、その夜の凶報など知る手段はない。
これが――星見の力というものなのだろうか。
「確かにこの前、宿場町で事件があったみたいだけど……あれはチル=リムには関係ないだろう? その頃にはもう、このファの家にやってきてたんだからさ」
「ちがう……みんな、わたしのせいなの……わたしが勝手な真似をしたから……」
「勝手な真似っていうのは、チル=リムがその人たちのもとから逃げ出したこと? だってチル=リムは、無理やりその人たちに連れ回されてたんだろう? だったら、逃げ出したくなるのが当然さ」
「でも……でも……」
「……その人たちは、悪い人たちなんじゃないのかい?」
チル=リムの瞳から、ついに涙が噴きこぼれた。
「すごく、わるいひとたち……でも、わたしのせいで……」
「それならやっぱり、チル=リムのせいなんかじゃない。悪い人たちは悪いことをしたから、ひどい目にあっちゃったんだよ」
一般的な倫理観など、この際は関係ない。また、たとえそのようなものを持ち出したところで、このチル=リムに一片の責任もあるとは思えなかった。
「俺には星見の力のことなんてよくわからないけど、そんなものを気にする必要はないって、大事な友達に言われたことがあるんだ。星図は人間の運命を映す鏡のようなものだから、まずはこの世に生きる俺たちが精一杯生きればいいんだ、ってね」
「ほし……み……?」
「うん。星見。俺にもよくわからないけど、チル=リムが持っているのはそういう不思議な力みたいだよ」
チル=リムの顔が、いっそう恐怖に青ざめていく。
その白銀の瞳を見つめながら、俺はチル=リムの身体をやわらかく抱きすくめてみせた。
「大丈夫。俺の友達にも、そういう力を持っている人たちがいるんだ。シムの占星師って、聞いたことあるかな? そういう人たちは、みんなチル=リムと同じような力を持っているんだよ」
「せん……せいし……」
「その人たちも、みんなこの世で元気に生きてる。チル=リムは知らない内にそんな力を持っちゃったから、うまく扱う方法がわからないだけなんだよ。だから、大丈夫。チル=リムだって、みんなみたいに楽しく生きていけるさ」
チル=リムの瞳から、さらに大粒の涙がこぼれ始めた。
「わたし……生きていて、いいの……?」
「いいんだよ。チル=リムはこんなにいい子なんだから、幸せにならないといけないんだ」
チル=リムは俺の胸に顔をうずめると、声を殺して泣き始めた。
今は、これが精一杯だ。これ以上、チル=リムを追い詰めるべきではない。彼女は自分の持つ力のせいですべての同胞と故郷を失ってしまったという絶望の中で、懸命に生きようともがいているのだった。
(そうじゃなきゃ、俺なんかに助けを求めるはずがないもんな)
俺は、ひとつだけ理解することができた。
彼女の力が、占星師と同じ系統のものであるのなら――彼女には、俺の運命を見ることができないのだ。
だから彼女は、俺にすがってきた。自分と関わることによって、俺の運命がどのように変転するかも見て取れないがゆえに、安心して身をゆだねることができたのだろう。
チル=リムは、アイ=ファたちに怯えていたわけではない。
自分と関わることによって、アイ=ファたちの運命が変転してしまうことを――そして、それを現実よりも早く目にしてしまうことを恐れていたのだ、きっと。
(そんな理由で、人を自分から遠ざけないといけないなんて……そんな馬鹿な話はないよ)
そんな思いを胸に、俺はチル=リムの小さな身体を抱きしめ続けた。
俺の腕の中で、チル=リムはいつまでもいつまでも静かに泣き続けていた。