混迷の日②~闖入者~
2020.12/17 更新分 1/1
「さあ、立つのだ。お前の身は私が守るので、何も案ずることはない」
アイ=ファが俺の腕を握って、そのように急き立ててきた。
逆の手には、しっかりと刀が握られている。その頃には、俺の耳にも屋外に渦巻く騒乱の気配が伝わってきていた。
「広間に移動するぞ。賊が家の中にまで踏み込むことはあるまいが、このように狭い場所では身動きが取れんからな」
「う、うん、わかった。ちょっと待ってくれ」
寝具の上に半身を起こした俺は、添い寝をしていたチル=リムの身体を抱きかかえていたのだ。それを落としてしまわないように体勢を整えると、深い眠りに落ちていたチル=リムも目を覚ましてしまった。
脱力していたチル=リムの身体がびくんっと痙攣するように震えて、俺の胸もとに取りすがってくる。
「こないで……わたしに近づかないで……」
それは、アイ=ファに向けられた言葉であった。
アイ=ファは鋭く目を細めて、「いや」と低く応じる。
「悪いが、このたびばかりはこちらの都合を優先させてもらう。アスタよ、広間に移るのだ」
「う、うん。わかったよ」
俺はチル=リムの身体を抱えなおして、立ち上がってみせた。
チル=リムは俺の胸もとの装束をぎゅっと握りしめたまま、がくがくと全身を震わせ始める。そのまぶたは固く閉ざされて、白銀の瞳を完全に隠してしまっていた。
そこに、「うなあ」という非難がましい声が響く。
足もとの毛布から、黒猫のサチが頭だけを覗かせていた。
「……お前の力を借りるほどの事態には陥るまい。そこで、休んでおけ」
「なう」
「よし、行くぞ。私の身から離れるなよ」
アイ=ファはゆっくりと、寝所の戸板をスライドさせた。
広間にも、いくつかの燭台が灯されている。10名もの男衆が身を休めていたということで、足もとには隙間なく寝具が広げられていた。
が、呑気に寝入っている人間などいるはずもなく、寝具はいずれも空っぽだ。その代わりに、左右の壁際と玄関口に、それぞれひとつずつの人影があった。
「ダリ=サウティ、どうであろうか?」
アイ=ファは俺の肩を抱きながら、右手側の壁に寄っていった。そちらの窓から防寒用の帳をめくって外の様子をうかがっていたのが、ダリ=サウティであったのだ。残りの2名は、ヴェラの家長とドーンの長兄である。
「賊は逃げ去り、3名の狩人がそれを追っていった。あとの4名は家を囲んで、さらなる襲撃に備えている。賊が1名きりと決まったわけではないからな」
「そうか。ずいぶん気配を殺すことに長けた賊であったようだな」
「うむ。相当な手練れであることに間違いはない。腕に覚えのある狩人たちが追っていったが、さてどうであろうかな」
そうしてダリ=サウティは、俺のほうにちらりと視線を向けてきた。
眼光は鋭いが、その口もとには力強い笑みがたたえられている。
「まったく、用心は重ねておくべきだな。ギバ狩りの仕事も果たさずに、ひたすら家にこもっていた甲斐があったというものだ」
「うむ。ダリ=サウティらには、感謝している。私ひとりでは、賊を追うこともかなわなかったからな」
俺を壁際に座らせて、それを庇うような位置取りで立ちはだかりながら、アイ=ファはそのように答えた。
「その娘も、目を覚ましてしまったのか。すっかり怯えきっているようだな」
「こればかりは、致し方ない。……アスタよ、かなうことなら、力づけてやるといい」
「う、うん、わかった。……大丈夫だよ。この家は、とても強い人たちが守ってくれているからね」
俺はそのように呼びかけながら、震えるチル=リムの背中を撫でてあげた。
すると――「ごめんなさい……」という悲しげな声が、その口からもらされる。
「お前は、何を謝罪しているのだ?」
アイ=ファがすかさず問い質すと、チル=リムはまた震えあがって、俺の胸もとに顔をうずめてしまった。
アイ=ファに視線でうながされて、俺はもうひとたび呼びかけてみせる。
「大丈夫。何も怖くないからね。……チル=リムは、何を謝っているのかな? チル=リムは何も悪くないんだから、謝る必要なんてないんだよ」
「ちがう……みんなわたしが悪いの……わたしがいると、悪いことがおきて……まわりの人たちが、ひどい目に……」
「そんなことはないよ。悪いことが起きるのは、悪い人がいるからだ。チル=リムに責任なんてない」
チル=リムはこまかく震えながら、俺の顔をおずおずと見上げてきた。
綺麗な白銀の瞳が、また涙に濡れてしまっている。
「わたしをひとりぼっちにしないで……わたしと、いっしょにいて……」
「大丈夫だよ。絶対に、チル=リムを悪い人に渡したりはしないから」
精一杯の思いを込めて、俺はチル=リムの頭を撫でてあげた。
「でも、いったい誰が悪いことをしてるんだろう? チル=リムの知ってる人なのかな?」
「しらない……でも、こわいひとたち……」
「怖い人たちに、心当たりがあるんだね?」
ようやく核心に近づいたかと思われたが、チル=リムにはそこまでが限界であった。その幼い顔が悲痛に引き歪み、身体ががくがくと震え始める。チル=リムは俺のたったひと言で、錯乱状態に陥ってしまったのだ。
「ごめんなさい! ごめんなさい! もうなにも言わないから! なにもしゃべったりしないから、わたしをゆるして……!」
「ごめん、大丈夫だよ。気持ちを落ち着けて、息をととのえて……何も怖いことはないからね」
俺はチル=リムが暴れ出さないように、その小さな身体をやわらかく抱き止めてあげた。
俺の肩のあたりに押しつけられたチル=リムの額が、とても熱い。また熱がぶり返してしまったのだ。俺は自分の心ない仕打ちを後悔しながら、チル=リムの頭をゆっくりと撫で続けた。
やがてチル=リムは力尽きてしまった様子で、そのまま意識を失ってしまう。
アイ=ファは厳しい面持ちで口をつぐみながら、足もとの毛布を1枚ひろいあげて、それをチル=リムの背中にかけてくれた。
「族長ダリ=サウティ。賊を追っていた男衆らが戻ったようです」
と、玄関口から外の様子をうかがっていたヴェラの家長が、そのように報告してきた。土間では3頭の犬たちがぴょこんと頭をもたげており、ギルルだけが巨体を丸めて寝入っている様子だ。
しばらくして、玄関の戸板が大きく開け放たれた。
そこに姿を現したのは、リッドの家長たるラッド=リッドである。今は雨もやんでいるようで、その巨体が濡れそぼっている様子もなかった。
「おお、ようやくアスタの顔を見られたな! 息災なようで、何よりだ!」
たちまちアイ=ファやヴェラの家長らが、とがめるようにラッド=リッドの笑顔を見据えた。ラッド=リッドは慌てた様子で、自らの口に手を押し当てる。
「ああ、その娘の眠りをさまたげてはならんという話であったな。すまんすまん、うっかりしていたのだ」
「うむ。どうか小声で語らってもらいたい。……それで、賊はどうなったのだ?」
「うむ。捕まえたぞ」
ラッド=リッドがあっさりとそのように言ってのけたので、俺のほうこそ驚きの声をあげてしまいそうなところであった。
「捕らえたか。さすがは、ラッド=リッドだな」
「いやいや。相手はひとりでこちらは3名であったのだから、何の自慢にもなりはせん。とはいえ、こちらに3名いなければ、とうてい無傷で捕まえることはかなわなかったろうな」
丸太のように太い腕をせり出た腹の上で組みながら、ラッド=リッドはそのように言いたてた。
「それで、どうする? 縄で縛ったので危険なことはないかと思うが……あれは町の衛兵に引き渡す前に、族長ダリ=サウティが言葉を交わしておくべきであるように思うぞ」
「ふむ? もとより、そのつもりであったが……リッドの家長は、何故にそのように思い至ったのだ?」
「それは、あやつの姿を見ればわかる。俺たちにも、さっぱりわけがわからんのだがな」
豪放なるラッド=リッドらしくもない、思わせぶりな言葉であった。
ダリ=サウティはうろんげに眉をひそめつつ、かたわらのアイ=ファに視線を向けなおした。
「では、その者と対面させてもらうことにしよう。四名の男衆にはこのまま見張りの仕事を果たしてもらい、家の中で対面するべきかと思うのだが、アイ=ファに了承をもらえるだろうか?」
「うむ。それでかまわない。……賊とは、金色の瞳をした娘というものであったのか?」
「うむ。まさしくその通りの姿をしていたな」
「では、アスタも確認するべきか。……そちらの娘の様子はどうだ?」
「うん。完全に寝入っちゃったみたいだ。そんなに騒がしくしなければ、起きることもないと思うよ」
「では、賊をこちらに」
ラッド=リッドが土間から広間にあがりこみ、表の同胞を呼び寄せた。
続いて入室してきたのは、ゼイ=ディンとジョウ=ランである。その両名に左右をはさまれた少女の姿を目にするなり、俺は愕然と身を震わせることになった。
きっと、武器と一緒に外套を剥ぎ取られたのだろう。昨日――あるいは一昨日の昼下がりにはすっぽりと隠されていたその姿が、衆目にさらされている。
確かに彼女は、燃えるような金色の瞳をしていた。
顔には、赤黒い火傷の痕がある。俺が見たのは片側だけであったが、彼女は両方の頬が痛々しく焼けただれてしまっていた。
そして、背が低い。
ジョウ=ランたちとの身長差を考えると、140センチもないぐらいだろう。
その小さな身体を包んでいるのは、粗末な長袖の装束だ。これといっておかしなところのない、ジェノスでもよく見かける旅人らしい身なりである。
彼女は黙然と、屋内にいる俺たちの姿を見回していた。
その目は大きく、猫のようにきゅっと吊り上がっている。鼻は小さく、口は大きく、くせのある蓬髪は火のように真っ赤であり、幼げな顔には不本意そうな表情が刻みつけられている。
手足も胴体もほっそりとしており、本当に幼子のような姿だが、その小さな身体には野生の生命力がぞんぶんにあふれかえっているように感じられてならなかった。
それでも多くの人々は、彼女の姿に驚くこともなかっただろう。
しかし俺たちには、驚くに値する理由が存在した。
その理由を疑問として口にのぼらせたのは、ダリ=サウティであった。
「お前は、まさか……聖域の民であるのか?」
そう。
彼女はとても、ティアに似た容姿をしていたのだ。
そして俺とアイ=ファに至っては、聖域の民の多くがティアと似た容姿をしていることもわきまえていた。
ただ異なるのは、彼女が西の民らしい黄褐色の肌をしていることと、そして――両方の頬が無惨に焼けただれていることだけであった。
「……お前たちは、聖域の民を知っているのか?」
彼女は金色の瞳をいぶかしそうに光らせながら、そう言った。
その声もまた、ティアによく似た舌足らずの幼げな声であった。
「しかし、ディアは聖域を捨てた身だ。でなければ、こうして聖域の外をうろつけるはずもない」
「お前は……ディアという名であるのか?」
アイ=ファがいくぶんかすれた声音で、そのように問い質した。
謎の少女――金色の瞳を持つディアは、「ふん」と可愛らしく鼻を鳴らす。
「ああ、そうだ。氏も母の名も捨てたので、ディアはただのディアだ。ディアの名に何か文句でもあるのか、青い目をした女衆よ?」
◇
俺たちは、ファの家の広間でディアと向かい合うことになった。
ヴェラの家長とドーンの長兄は左右の窓、ゼイ=ディンは玄関口に控えて俺たちの様子を見守っている。広間の真ん中に座らされたディアは両腕を荒縄で縛られており、ラッド=リッドとジョウ=ランが左右をはさんでいる。荒縄の先端を握っているのは、ラッド=リッドだ。
「こやつは、恐るべき力を持っているのでな。どちらも刀を抜くことはなかったので、ひたすら追いかけっこに興じるばかりであったのだが……しかしそれだけで、血のたぎるような勝負をしていた心地であったぞ」
ラッド=リッドがそのように言いたてると、ディアは不平そうに口をとがらせた。
「ディアは何も悪いことをしていないのに、どうしてこのような目にあわされなければならんのだ? 寝静まった家に近づくというのは、森辺において罪となるのか?」
「お前は、この地が森辺と呼ばれていることをわきまえているのだな」
ダリ=サウティが、落ち着いた声音で問い質す。
寝具の上にあぐらをかいたディアは、小生意気な顔で肩をすくめた。
「町の人間がそう呼んでいるのを、耳にしただけだ。お前たちは悪辣な人間には見えないのに、どうしてこのように無法な真似をするのか、ディアにはわからない」
「町においては、お前のほうこそが無法者として手配されているはずだ。お前は宿場町で、3名もの人間を殺めたのだとされているのだぞ」
ディアは金色に輝く瞳を、半分だけまぶたに隠した。
そうしただけで、妙な凄みが眼光に宿される。
「ディアは自分の身を守ったに過ぎない。刀を抜いたのはあちらが先なのに、それでもディアの罪となってしまうのか?」
「それを判ずるのは、町の者たちの役目だな。しかし俺たちも、お前に問い質しておきたいことがある。……お前は何故、そこの娘の所在を捜し求めていたのだ?」
ディアは、壁にもたれてチル=リムの身を抱きかかえた俺のほうに視線を飛ばしてきた。
「やはりその娘が、銀色の目をした娘であったのか。眠っているので、わからなかった」
「ふむ。お前はその娘の顔を見知っていなかったのか?」
「見知っているわけがない。ディアが駆けつけたとき、その娘はさらわれた後だったからな。ディアが知っているのは、チル=リムという名前だけだ」
「駆けつけたとは、どこに? できれば、最初から順番に説明してもらいたいところだな」
「何故だ?」と、ディアは小首を傾げた。
「お前たちは、こんな騒ぎとは無関係のはずだ。そのように厄介な娘はディアに預けて、自分たちの生活を守るべきであるように思うぞ」
「俺たちは、これからお前の身柄を宿場町の衛兵たちに引き渡さなければならん。その前に、少しでも事情を聞いておきたかったのだが」
「これから? それは、やめておけ。ディアばかりでなく、お前たちまでもが災厄に見舞われてしまうことになるぞ。あやつらは、数々の怪しげな手管を携えているのだろうからな」
「あやつらとは? ……やはり、事情を聞かずには済ませられんようだな」
ダリ=サウティは油断なくディアの姿を見据えつつ、口もとに力強い笑みをたたえた。
「正直に言って、俺にもお前が悪い心を持つ人間であるようには思えんのだ。お前は、あまりに……俺たちの知っている聖域の民に似ているからな。あの娘も、きわめて善良で心正しき人間であったのだ」
「……聖域の民が、聖域の外に姿をさらすことはないはずだが」
「うむ。それは大きな禁忌であるそうだな。しかし俺たちは聖域の民としばしの時間を過ごすに至ったし、中には聖域に足を踏み入れた人間もいる。かつて聖域の民であったというお前が、どうして町の人間を殺めることになってしまったのか――それを知りたいと願っているのだ」
ディアは暗い天井を振り仰ぐと、心から面倒くさそうに溜め息をついた。
「このような話は、あまり余人に広げるべきではないように思うのだが……そうしなければ、ディアの刀は返してもらえないのであろうな」
「うむ。くどいようだが、お前は大罪人として手配されているのだ。俺たちはジェノスの民として法に従い、お前の身柄を衛兵に引き渡さなければならない。しかし、お前に罪がないと言い張るのならば、ジェノスの貴族の前で弁明をする場を与えてやることもできると思うぞ」
「ディアは、悪いことなどしていない。王国の法というやつはややこしくてならないが、それでもディアを罪人よばわりすることなどできないはずだ」
不承不承、ディアはそう言った。
「わかった。ディアが見てきたものを、語ってやる。……本当は、何も聞かずにその娘をディアに引き渡すべきだと思うがな。おそらくは、お前たちも貴族たちも頭を抱えるだけだと思うぞ」
「正しき道を進むためなら、頭ぐらいいくらでも抱えてやろう。ここ最近の俺たちは、ずっとそうやって生きてきたのだからな」
ダリ=サウティの力強い笑顔にうながされるようにして、ディアはようやく語り始めた。
「……聖域を捨てたディアは、いわゆる風来坊としての生を楽しんでいた。山にこもって狩りをするだけでは聖域で生きるのと変わらないので、町の人間と言葉を交わし、時には働いて銅貨を稼ぎながら、あちこちの領地を巡っていたのだ。その道行きで――たしか、半月ばかりも前のことであったろうか。おかしな風聞を耳にした。このジェノスの領地から見て北方の、少し西寄りの区域を放浪していたときの話だ」
ディアの金色をした目が、ちらりと俺たちのほうを見た。
「その近在の自由開拓民の村落に、奇妙な娘がいる。まるでシムの占星師のように、人の行く末を言い当てられるのだ、と……そんなような風聞だった。それを聞いて、ディアはとても嫌な予感がした」
「何故だ? 占星師というのは、そういう不可思議な術を操るものであるのだろう?」
「占星師なら、それでいい。しかし、占星師でもない人間が、そのような力を持つというのは……きわめて危険なことであるのだ。それはおそらく、大神の力に目覚めてしまったということなのであろうからな」
「大神の力に目覚めるとは?」
「いまだ大神は眠っているのに、そこからこぼれるわずかばかりの力を我が物としてしまう人間のことだ。聖域の民は、そういった危険を封じの刻印で防いでいる。眠りの時代に大神の力を振るう人間が現れたら、この世の調和が乱されてしまうからな」
そう言って、ディアは片方の膝を立てた。
「今から、そちらに背を向けるぞ。ディアの手の先に刻まれているのが、封じの刻印だ」
ディアが立ち上がり、俺たちに背を向けた。
ディアの両腕は、荒縄で厳重にくくられている。その手の甲は頬と同じように焼けただれていたが、手首に近い位置にだけ、見覚えのある紋様が黒く刻みつけられていた。
「ディアは聖域を離れるために、大神の子の証である紋様をすべて焼き潰されたが、封じの紋様だけは残されている。大神の力に目覚めてしまわないように、それだけは残しておかなければならないのだ」
「しかし……それは聖域の民が、大神の子であるためであろう? 四大神の子たる外界の人間が大神の力に目覚めることなど、ありえるのか?」
「知らん。それを確かめるために、ディアはその地を訪れたのだ」
ディアは正面に向きなおると、再びどかりとあぐらをかいた。
履物を脱いでいるために、その足の甲にも火傷の痕が見えている。
「しかし、ディアは間に合わなかった。ディアが駆けつけたとき、その村落は燃やされてしまっていたのだ。すべての家が燃やされて、すべての人間が魂を返してしまっていた。……しかしひとりだけ、集落の裏の森に逃げ込んだ人間があった。腐肉喰らいのムントにでも襲われたのか、そやつは血みどろで息絶える寸前であったが――それでも、多少ばかりの言葉をディアに残してくれた」
ディアの金色をした瞳が、また射るような輝きをたたえる。
「村落に、怪しげな者たちが押しかけてきた。そいつらは星見の力を持つチル=リムという娘をさらって、奇怪な術で住民たちを皆殺しにした。……そう言い残して、その男は息絶えた。だからディアは、チル=リムという娘をさらった一団を追いかけて、このジェノスという領地にまで出向いてきたのだ」
「何故だ? このチル=リムというのは、見も知らぬ相手であるのであろう?」
「そうだとしても、大神の聖なる力を持つ人間を放ってはおけん。それを悪用しようとする人間がいるのなら、なおさらにな」
鼻のあたりに皺を寄せて、ディアはそのように言い捨てた。
「なるほど」と、ダリ=サウティは考え深げにつぶやく。
「それで? お前はどうやって、その一団を追ったのだ? お前が駆けつけたとき、もうその一団は消え失せていたのであろう?」
「近在の人間や街道を進む者たちに、話を聞いて回っただけのことだ。どうもそやつらは何名かに分かれて行商人を装っているらしく、なかなか手がかりがなかったのだが……それでも、足跡を追うことはできた。どうもそやつらは、行った先で盗みを働いて、生きるための糧を得ていたようであるのだ。それでディアは、このジェノスという領地に行きついた。……最初に言葉を交わしたのは、お前であったはずだな?」
いきなり話を振られて、俺は「う、うん」と慌ててうなずき返すことになった。
この娘はあまりにティアと似ているために、俺の胸をかき乱してならないのだ。俺のすぐそばに控えたアイ=ファも、ずっと無言で食い入るようにディアの挙動を見守っていた。
「では、その先の話も聞かせてもらおう。お前はどうして、3名もの人間を殺めることになったのだ?」
「夕刻に、ようやく銀色の瞳をした娘を見かけたという人間と巡りあうことができた。見かけたのは前日であったので、いまだジェノスに留まっているかは知れぬという話であったが、とにかくディアはその娘を連れていたという男たちのねぐらを探すことにした。それを発見できたのが、昨日の夜遅くだ。ディアはこっそりその場所に忍び込んで、娘がいるかどうかを確認しようと思ったのだが……入り口のあたりに潜んでいたギーズが鳴き声をあげてしまったもので、そいつらに気づかれてしまった」
「ふむ。そうでなければ、町の人間などがお前さんの気配に気づくことなどありえぬだろうからな」
ラッド=リッドが愉快そうに口をはさむと、ディアは気安く「まったくだ」と応じた。
「それでそいつらが逃げ出したので、ディアは追いかけることにした。そうしたら、行った先に別の仲間が待ち受けていたのだ。相手は総勢で10名以上もおり、毒の武器まで持ち出してきたので、ディアも手加減することはできなかった。そうして3名ばかりを斬り伏せたところで、あの娘をどこにやったのだと問い質したら……そやつらが、おかしなことを言いだしたのだ」
「おかしなこと?」
「うむ。『お前こそ、我々のもとからあの娘をさらったのではないか?』……とな。それでディアは、察することができた。娘は誰かに助け出されたか、あるいは自力で逃げのだな、と。そうこうする内に衛兵たちが駆けつける気配がしたので、ディアは逃げることにした。そいつらもバラバラに逃げ散ってしまったので、追いかけることはできなかった」
「ふむ」と、ダリ=サウティは頑丈そうな下顎を撫でさすった。
「それで、お前はどうやってチル=リムがファの家にかくまわれていることを知ったのだ?」
「夜が明けてから、ディアは衛兵の詰所の様子をうかがっていた。娘が自力で逃げたのならば、衛兵を頼るだろうと思ったからな。そうしたら、城下町から出向いてきたという武官と衛兵の交わす言葉が聞こえてきた。金色の目をした大罪人が捜しているという娘は、森辺のファの家でひそかにかくまわれている、とな。だから、屋台の商売をしていた連中の後を追って、この場所まで辿り着き、夜が更けるのを待っていたのだ」
「なに? 屋台で働く者たちのそばには、ずっと俺たちがいたのだぞ? 俺たちに悟られぬまま、ファの家まで追いかけてきたというのか?」
ラッド=リッドが驚きの声をあげると、ディアは不満げな面持ちで「うむ」とうなずいた。
「しかし、さきほどは気づかれてしまった。森辺の狩人というのは人間離れした力を持っていると聞いていたので、用心に用心を重ねていたのだが……」
「お前はどこで、森辺の狩人について聞き及んだのだ?」
「最初の日に、その娘の行方を聞いて回っていたときだ。屋台の商売を始めたのはファの家のアスタという者だとか、そいつの作るギバ料理はやたらと味がいいだとか、聞いてもいないことを散々聞かされた。まあそのおかげで、この家を見つけることができたわけだがな」
「だが、屋台の商売には数多くの氏族が関わっている。たとえ荷車を追っても、さまざまな家を巡ったはずだ。それでどうして、この家がファの家だと突き止めることがかなったのだ?」
「この場所にはひとつの家しかないのに、やたらと大勢の人間が行き来していたので、怪しいと踏んだだけのことだ。ここが違えば、順番にすべての家を巡るつもりでいた」
怪しき一団の足跡を追った手際といい、このディアには優れた探偵の能力があるように思われた。
あるいはそれは、聖域でつちかわれた狩人としての能力であるのだろうか。獲物を追うという意味では、探偵も狩人も大きな差はないのかもしれなかった。
「なるほど。おおよそのあらましは理解できたように思う。最後に、ひとつだけ聞かせてもらいたいのだが」
「うむ。なんであろうか?」
「昨晩に殺められた3名の者たちは、右の手首を斬り落とされて、それを持ち去られていたという。それも、お前の仕業であったのか?」
「なんだ、それは」と、ディアはとても嫌そうに顔をしかめた。
「たとえ悪人であろうとも、魂を返した後にその身を傷つける理由はない。ディアは3名の悪人を斬り伏せたが、そのようにおぞましい真似はしていないぞ」
「ふむ……虚言を吐いている様子はないな」
「当たり前だ。たとえ聖域を捨てた身でも、意味もなく虚言を吐くような真似は――」
と、ディアはそこで口をつぐんだ。
その金色をした目が、何かを透かし見るように細められる。
「――ディアは決して、そのようにおぞましい真似はしていない。ただ、ひとつ思い出したことがある」
「うむ。なんであろうかな?」
「ディアは月の光の下でしか、あやつらと対峙していないので、あまり確たることは言えないのだが……あやつらはみんな、右の手の甲を隠していたように思うのだ。包帯を巻いていたり、北の地で手袋と呼ばれるものを着けていたり……ディアも普段は手の傷と刻印を包帯で隠しているので、いささか引っかかるものを感じていた」
「ほう。……このチル=リムという娘は、右の手の甲に深い傷を負っていたために、包帯を巻いている。そやつらも、同じ場所に傷を負っているということであろうか?」
「いや。あやつらは右手で刀や毒の武器を操っていた。だから、いぶかしく思ったのだ」
最後に、小さな謎が残されてしまった。
いや、それは小さからぬ謎であるのだろうか。人間の手首を斬り落として持ち去るなどというのは、決して尋常ならぬ凶行であるはずだった。
「まあ、それは俺たちが考えても解ける話ではないようだ。さて……これから、どうしたものであろうかな」
ダリ=サウティがつぶやくと、ディアはまた子供っぽい顔で口をとがらせた。
「ディアはすべてを正直に話したのだから、お前たちも誠実に振る舞うべきであろう。ディアに刀と荷物を返して、その娘を引き渡してもらいたい」
「貴族や衛兵の許しも得ぬままに、そうまで勝手な真似はできないのだ。……それにお前は、この娘をどうするつもりであるのだ?」
「とりあえずは、シムにでも連れていこうかと考えている。占星師の中にまぎれこませてしまえば、そやつの力も目立たなくなるだろうからな」
「なるほど、シムか。しかしこの娘は熱を出しているため、それが落ち着くまでは動かすことも難しかろうな」
ダリ=サウティがそのように答えると、ディアはまたその目を半眼にして俺とチル=リムのほうをにらみつけてきた。
「……その娘は、病魔を患ってしまったのか」
「う、うん。手の傷から悪い風が入ったみたいで……それに、心労がたたっているんじゃないかって話だね」
「当たり前だ。家族や同胞を皆殺しにされて、平気な顔などしていられるものか」
ディアの双眸に、黄金色の炎が渦巻いた。
しかしもちろん、俺たちに向けての激情ではない。ディアは、この場にいない悪辣なる者たちに向けて、深甚なる怒りを燃やしているのだった。
「大神の力など、望んで手に入れられるものではない。その娘は、たまさかそのような身に生まれついただけであるのだ。……それがこのような凶運に見舞われることなど、決して許されるはずがない」
「……うん。俺も、そう思うよ」
俺がそのように答えると、チル=リムの背中に向けられていたディアの瞳が、ふっと俺のほうに持ち上げられた。
その幼げな顔に、ふいにあどけない笑みが浮かべられる。
「町でもさんざん聞かされたが、森辺にはやたらと善良な人間が居揃っているようだな。この気の毒な娘をかくまっているのがお前たちのような人間で、ディアは嬉しく思っている」
やっぱり、彼女は――ティアと、あまりに似通っていた。たとえ聖域を捨てた身であっても、彼女の魂は大神の子に相応しい清廉さと勇猛さをあわせ持っているのだ。
「……さしあたっては、またメルフリードらの判断を仰ぐしかないようだな」
やがてダリ=サウティが、族長らしい威厳に満ちた声でそのように宣言した。
「なおかつ、そのように危険な連中が宿場町をうろついているというのなら、夜に出向くのは危険であろう。この夜が明けるのを待って、朝一番で城下町に向かうこととする。それまでは、お前もこの場で身を休めておくがいい」
「……両手を縄で縛られたままか?」
「申し訳ないが、こればかりはジェノスの法であるのだ。お前が3名の人間を殺めたというのは事実であるのだから、貴族らの許しが出るまでは自由にすることもできん。しかし、お前がどれだけ誠実で心正しき人間であるかは、俺の口からしっかりと伝えてやる。ジェノスの貴族たちであれば、お前を無下に扱うこともあるまい」
「どうだかな」と、ディアはそっぽを向いてしまった。
ダリ=サウティは薄く笑いながら、アイ=ファを振り返る。
「そういうことだ。こやつは俺たちがしっかり見張っているので、アイ=ファたちは昨晩と同じように身を休めてもらいたい」
「……うむ。私もダリ=サウティの決定に異存はない」
そのように答えるアイ=ファは、感情を押し殺しているような眼差しで、まだディアの姿を盗み見ていた。
俺はそちらから視線をもぎ離し、腕の中で眠るチル=リムの寝顔を見つめる。
(わたしを、ひとりぼっちにしないで……)
あの言葉には、それだけの悲痛な思いが込められていたのだ。
チル=リムはまだこんなに幼いのに、目の前で家族や同胞を皆殺しにされてしまうなんて――たとえそこにどのような理由があろうとも、そんな凶行が許されるはずはなかった。
そうして俺たちは昨晩以上の深い驚きと感慨を抱かされながら、2日目の夜を過ごすことになったのだった。