混迷の日①~陰伏~
2020.12/16 更新分 1/1 ・2021.8/21 誤字を修正
翌日である。
一夜が明けても、謎の少女チル=リムの病状は回復しなかった。
熱はいくぶんひいたようだが、まだ顔色は真っ青で、呼吸も苦しそうなままである。しかしプラティカの見立てによると、いちおう快方には向かっているとのことであった。
「傷口、悪い風、のみならず、心労、たたっているのでしょう。ですが、薬、滋養、摂取していれば、明日には、回復、望めると思います」
俺が添い寝をしてあげると、チル=リムは深い眠りにつけるようであったので、その隙に診察を済ませていただいた。
寝所には、プラティカとアイ=ファとダリ=サウティが集まっている。そうしてプラティカはアイ=ファたちに目配せをしつつ、少女の手の甲の包帯をほどき始めた。
「こちら、ご覧ください」
「これは……ずいぶん深い傷であるようだな」
チル=リムの眠りをさまたげないように、アイ=ファが低く囁いた。
昨日は俺がプラティカの指示で手当てをほどこしたので、その傷口のむごたらしさは目に焼きついている。少女の小さな手の甲は、何かの獣に掻きむしられたかのように、縦横に深い裂傷が刻みつけられていたのである。
「どうもこの娘は、何らかの厄介ごとに巻き込まれてしまっているようだな。何も事情は聞けぬままだが、これは宿場町の衛兵に話を通すべきであろう」
ダリ=サウティがそのように判断をして、ヴェラの家長が朝から宿場町に向かうことになった。
少女の手当てを終えたのちは、アイ=ファとダリ=サウティが寝所の入り口まで退いて、密談を開始する。
「ダリ=サウティよ。申し訳ないのだが、今日は狩りの仕事を休ませてもらいたく思う」
「無論、そうするべきであろう。ただ病身の幼子をかくまっているだけでなく、怪しげな娘がその身をつけ狙っているという恐れもあるのだからな。俺たち3人もファの家に居座って、護衛の役目を果たさせてもらおうと考えていたぞ」
「うむ……今日の内に、すべての問題が片付けばいいのだが……」
「存外、ヴェラの家長がいい報せを持ち帰ってくるやもしれんぞ。あの娘がただの迷い子であるならば、家族が衛兵の詰所にその旨を申し出ているはずだからな」
ダリ=サウティはそのように語らっていたが、もちろんその可能性は薄いだろう。ただの迷い子であれば、見知らぬ人間の荷車に潜り込んだりするわけがないのだ。
(いったい何なんだろうな……あの金色の瞳をした娘さんは、チル=リムの身内なんだろうか? それなら、話は早いんだけど……)
しばらくすると、表のほうが騒がしくなってきた。
どうやらルウ家や近在の氏族から、さまざまな人々が心配をして集まってきたらしい。アイ=ファとプラティカが寝所の入り口に居残って、ダリ=サウティが事情の説明を受け持ってくれた。
俺は胸もとに少女の体温を感じつつ、ぼんやりとそのざわめきに耳を傾ける。
それでいつしか、とろとろと微睡んでしまったのだろうか――ふいに頭上から、「アスタよ」とアイ=ファに呼びかけられることになった。
「起きるがいい。ヴェラの家長が、宿場町から戻ってきたぞ」
「ああ、ごめん。何か事情がわかったのかな?」
「……うむ。さっぱり事情はわからぬが、どうやらただ事ではないようだ」
俺は、ハッと息を呑むことになった。
アイ=ファの青い瞳が、狩人としての鋭い輝きを宿していたのである。
「その娘は、眠っているな? では、お前も騒がず、心して聞くがいい。……お前が見かけたという金色の瞳をした娘は、宿場町において大罪人として手配されているとのことだ」
「た、大罪人?」
「うむ。昨晩、宿場町の貧民窟という区域で、三名もの人間が殺められることになった。その犯人が、金色の目をした子供のように小さな娘であったという話だ」
あまりの急展開に、俺は言葉を失ってしまった。
アイ=ファは目だけを炯々と光らせながら、低くひそめた声で言いつのる。
「しかも、殺められた三名の者たちは、いずれも右の手首から先を持ち去られていたという。……その娘が右の手の甲に傷を負っていることと、これは関わりがあるのだろうかな」
「な……なんでそんな物騒な真似を……」
「わからん。ともかく宿場町においては、その金色の目をした娘が強殺の大罪人として手配されている。ヴェラの家長が宿場町に下りた際、街道には常ならぬほどの衛兵たちが行き交っていたそうだ」
「そ、それで、このチル=リムについては? ヴェラの家長は、この子のことを伝えるために、衛兵の詰所に向かったんだろう?」
「そのはずであったが、ヴェラの家長はダリ=サウティの判断を仰ぐために、そのままファの家に戻ってきた。もしもその娘がこの場でかくまわれていると無法者の耳に入れば、森辺に災厄を招いてしまうやもしれんからな」
狩人の気迫をこぼしながら、アイ=ファはそのように言いたてた。
「しかし無論、このような話を我々の間だけで留めておくわけにはいかん。ダリ=サウティはドンダ=ルウと協議して、城下町に向かう心づもりだ。今はドーンの長兄が、スン家にクルア=スンを迎えに行っている」
「クルア=スン? クルア=スンが、どうしたんだ?」
「金色の目をした娘と向かい合ったのは、お前とクルア=スンのみなのであろうが? お前がそのような有り様であるため、クルア=スンが証人として城下町に向かうのだ。あとはメルフリードやポルアースが、我々の進むべき道を定めてくれよう」
「そう……か……」
俺はよほど不安げな面持ちになっていたのだろうか。アイ=ファは狩人の眼差しのまま、「案ずるな」と力強く微笑んだ。
「あちらの広間には、フォウとランの男衆らが控えてくれている。今日はたまさか狩人の仕事を休む日であったため、このまま家に留まってくれるのだ。たとえ100名の無法者が襲いかかってきたとしても、我々が後れを取ることはない」
「うん、わかった。それじゃあ、屋台の商売もお休みだな?」
「いや。こちらが常と変わらぬ動きを見せれば、無法者にいらぬ疑いを持たせてしまうやもしれん。護衛役をつけた上で商売を行うべきだと、ダリ=サウティがそのように語らっていた。私もファの家長として、その提案を受け入れた。商売をすれば、町の者たちの言葉も耳に入れることがかなうからな」
俺は生唾を呑み込みつつ、自分の胸もとにそっと目を落とした。
俺の装束をひしと握ったまま、少女チル=リムは眠っている。呼吸はいくぶん苦しそうだが、昨晩までに比べれば穏やかな寝顔だ。
「いったい、何なんだろう? やっぱりこのチル=リムも、あの金色の目をした娘に狙われているのかな……?」
「それは、その娘が目を覚ますのを待つしかあるまい。お前が相手であれば、きっと虚言を吐くこともなかろう」
そこで俺は、昨晩からの疑問をアイ=ファにぶつけてみることにした。
「なあ。アイ=ファはこのチル=リムのことを、どう思ってるんだ?」
「……その娘は善良で、そして何かに怯えている。私にわかるのは、それぐらいのものだ」
そう言って、アイ=ファはちょっとすねたような表情を覗かせた。
「ただ、どうしてその娘はお前だけに執着しているのであろうな。その一点を、もっとも不可解に感じるぞ」
「そうだなあ。俺にもさっぱりわけがわからないよ」
チル=リムが目覚めれば、それらの謎もすべて解き明かしてくれるのだろうか。
少女の寝顔に視線を落としながら、俺はひたすら困惑と憐憫の気持ちを抱え込むことになった。
◇
その後も、俺は寝所で孤立したまま、事態の進展をアイ=ファの口から聞かされることになった。
まずは、城下町に出向いたダリ=サウティである。
ダリ=サウティの口から、俺たちの抱えた事情は余さずメルフリードとポルアースに伝えられた。ついでにその場には、外交官のフェルメスも同席していたそうだ。
宿場町で起きた強殺事件については、すでに護民兵団を通してメルフリードの耳にも入っていた。その犯人と目される人物と俺たちが対面していたと聞かされて、メルフリードは灰色の瞳を白刃のようにきらめかせていたとのことであった。
「しかも、その無法者が追っていたと思しき娘が、森辺の集落でかくまわれているとは……これはいったい、どういう運命の悪戯であるのだろうな」
「うむ。ともあれ俺たちは、ジェノスの法に従って、正しき道を進みたく思っている。俺たちは、どのように取り計らうべきであろうか?」
ダリ=サウティはそのように尋ねたが、やはりチル=リムの回復を待って、事情を問い質すしかないだろうとのことであった。
それにあたって、チル=リムを城下町で保護するか、あるいは護衛の部隊を森辺に派遣するかという提案が為されたそうだが、ダリ=サウティはひとまずそれを丁重にお断りしていた。
「衛兵たちが森辺の集落に集まったら、それこそ無法者に答えを示すようなものだからな。森辺の狩人が10人がかりで守っていれば、何も危険なことはあるまい」
そして、城下町での保護については――今のチル=リムを俺から引き離すのは難しかろう、という判断であった。
「アスタごと城下町に預けるというのは、アイ=ファにとっても好ましからぬ事態であろうからな。……それとも、いらぬ世話であったか? それならば、今からでも城下町に連れていくことは可能だぞ」
ダリ=サウティのそんな言葉は、俺も寝所からうっすらと聞き届けることができた。アイ=ファの返答は、当然のように「否」である。
「明日には熱も下がるという見立てであったので、それまではファの家で様子を見ようかと思う。明日を過ぎても話が進まぬようであれば……なんらかの手段を講じなければならんだろうな」
ということで、とりあえず今日いっぱいはファの家でチル=リムを預かることが決定された。
そして、宿場町の様子についてである。
メルフリードは事件の様相をきっちり把握していたので、それをのきなみダリ=サウティに打ち明けてくれた。
「事件が起きたのは、昨晩遅く。誰もが寝静まっているであろう刻限に、宿場町の貧民窟において騒乱が巻き起こった。宿場町を巡回していた衛兵たちが駆けつけたところ、そこに3名の遺体が転がされていたのだ。3名はいずれも一刀のもとに斬り伏せられた上で、右の手首から先を持ち去られていた。それらの者たちの素性も不明のままであるが……無法者というよりは、稼ぎの少ない行商人といった身なりであったらしい。貧民窟は宿賃も安いので、そういった者たちも数多く寝泊まりしているのだ」
「ふむ。とりあえず、ジェノスの民ではなかったのだな?」
「うむ。のちに、その者たちの宿泊していた長屋を突き止めることができた。そちらも荷物が荒らされて、銅貨や食料などは持ち去られていたとのことだ」
それだけ聞くと、ただの強盗事件のようである。
しかし、いくつか不可解な点が存在するのだという話であった。
「3名の者たちは、寝泊まりをしていた長屋からほど遠からぬ裏通りで害されていた。その近在の宿に宿泊していた者たちが、言い争う声を聞いていたのだが……女か子供のような声で、『あの娘はどこにやった?』という言葉が聞こえてきたのだそうだ」
「それがおそらく、ファの家でかくまわれているチル=リムという娘のことなのであろうな。……その宿の者たちが、犯人の姿を見届けていたのか?」
「うむ。窓を細く開いて表の様子をうかがってみたところ、子供のように小さな人影が刀を振るっている姿が垣間見えたそうだ。そうしてその者が宿のある方角に駆けてきたので、慌てて窓を閉めようとしたところ、頭巾の下にきらめく金色の瞳だけが見えたらしい」
話を聞く限り、やはりその無法者の目的はチル=リムの身柄であるようだ。銅貨や食料を奪ったのは、行きがけの駄賃というやつなのだろうか。
では――手首から先を奪った理由は?
「その後の調査で、金色の目をした怪しい娘が日中から宿場町を徘徊していたという証言も取れている。言葉を交わした人間は、いずれも『銀色の目をした娘を見なかったか?』と問われたそうだ。おそらく最初に言葉を交わしたのが、アスタとそのクルア=スンであったということなのであろうな」
そんな俺たちがチル=リムをかくまうことになってしまったというのが、もっとも大きな運命の悪戯であろう。
しかし――これはどういう状況であるのだろうか?
「普通に考えれば、昨晩に害された3名というのが、その娘の身内であるということになるのであろうな」
ダリ=サウティからすべての話を聞き終えた後、アイ=ファはそのように語っていた。
「しかし、いささか腑に落ちぬ点もある。そのチル=リムなる娘は、昨日の昼下がりの時点でギルルの荷車に忍び込んでいたのだ。つまり、3名もの人間が金色の目をした娘に殺められる前から、激しく怯えていたことになる。……そやつは誰のもとから逃げ、何に対して怯えていたのであろう?」
「うん。金色の目をした娘だって、屋台の商売が終わる直前ぐらいにやってきたんだから、そんなわずかな時間でチル=リムと出くわしてるって可能性は薄いよな」
「あるいは……殺められた者たちこそが人さらいで、金色の目をした無法者こそが、その娘の身内であるのだろうか」
そうだとしても、やはり何かがチグハグであるように感じられてしまう。
また、何をどのように考えても、右の手首を斬り落として持ち去るという凶行の意味が理解できないのだ。
これはやはり、チル=リム本人の証言を待つしかないようだった。
「ところでそっちはずいぶん静かみたいだけど、まだみんないてくれてるんだよな?」
「うむ。娘の眠りをさまたげぬように、小声で語らっている。ダリ=サウティら3名と、フォウとランからの男衆で、合計は10名ていどであろうな」
ならば、金色の目をした無法者がどれだけの手練れであっても、心配は無用であろう。また、サウティとフォウの血族で親睦を深めていられるのなら、せめてもの慰めであった。
すでに中天が近いはずなので、宿場町ではユン=スドラたちが屋台の商売に励んでくれているはずだ。ダリ=サウティがあちこちの氏族に通達をした結果、ディンとリッドも狩りの仕事を休む予定であったため、そちらの狩人らが護衛役に任命されたのだという話であった。
宿場町で強殺事件などが起きたのだから、護衛役をつけること自体は不自然に思われることもないだろう。逆に、森辺の民がこれしきのことで商売を取りやめてしまったら、屋台の料理を食べられない憤懣と相まって、ちょっとした騒ぎになってしまうかもしれない。そこまで見越して、ダリ=サウティらは屋台の商売の敢行を決断したのだろうと思われた。
そんな中、俺はひたすらチル=リムの添い寝である。アイ=ファが見守ってくれているので無聊をかこつことはなかったが、自分ばかりが呑気に寝転がっていて、申し訳ない限りであった。
「アイ=ファ。軽食の準備ができましたが、どういたしましょう?」
と、細く開いた戸板の向こうから、そのような声が聞こえてくる。これは、クルア=スンの声である。城下町から戻った後、かまどを預かる仕事を受け持ってくれたのだろう。
「まずは、その娘に食事をとらせるべきであろうな。……昨晩と同じように、私は戸板の外から様子をうかがうとしよう」
「うん、了解。……まだチル=リムには何も聞くべきじゃないかなあ?」
「まともに口をきく力が戻ったならば、金色の瞳をした娘というものに心当たりがあるかどうかは聞いておくべきであろう。しかし、昨晩に害された3名に関しては、まだ伝えるべきではないだろうな」
「うん。それがチル=リムのご家族だったとしたら、刺激が強すぎるもんな。わかった。その線でいってみるよ」
アイ=ファはうなずき、音もたてずに戸板を開いた。
その向こう側は広間であり、木皿を掲げたクルア=スンの肩越しに、たくさんの男衆の姿が見えた。その内のひとりであるジョウ=ランが、普段通りののほほんとした笑顔で手を振ってくる。彼は朝方に宿場町まで駆けつけて、ユーミの無事を確かめてから、また舞い戻ってきたのだそうだ。
「アスタ、お疲れ様です。とりあえず、一人前だけお運びしました。あちらのかまどで鍋を温めていますので、必要なときはお声をかけてください」
「うん、ありがとう。クルア=スンも、大変な目にあっちゃったね」
「アスタに比べれば、どうということもありません。わたしなどは城下町まで出向いて、自分の見たものを正直に語らってきただけですので」
クルア=スンはひっそりと微笑みながら、枕もとまで木皿を運んでくれた。
深皿にはタウ油仕立ての汁物料理、平皿には焼きポイタンだ。チル=リムのために、食べやすい食事を準備してくれたのだろう。
「家長に頼んで、本日はフォウの家のお世話になることになりました。晩餐の準備もお手伝いさせていただきますね」
「え? どうしてクルア=スンが、そこまでしてくれるのかな?」
「はい……わたしも何となく、その娘を見捨てておけないような心情になってしまって……」
そう言って、クルア=スンは憂いを含んだ目でチル=リムの寝顔を見つめやった。
チル=リムよりは少しくすんだ、銀灰色の瞳である。
「早く元気になるといいですね。……そして、その娘が健やかな生を得られるように、祈りたく思います」
そんな言葉を残して、クルア=スンは寝所を出ていった。
戸板は数センチだけ開かれており、アイ=ファがそこから青い瞳を覗かせている。そちらに目配せをしてから、俺は少女の細すぎる肩に手をかけた。
「チル=リム、お昼だよ。薬を飲まないといけないから、その前に食事をしてもらえるかな?」
少女はしばらくむずかるように身を揺すっていたが、ふいにハッとした様子で目を見開き、俺の顔を見上げてきた。
星のような白銀をした瞳に、安堵の光が浮かべられる。
まるで、ようやく親猫に巡りあえた子猫のごとき眼差しである。
「さ、身体を起こせるかな? たくさん食べて、滋養をつけないとね」
チル=リムはきょろきょろと視線をさまよわせて、室内に誰の姿もないことを確認してから、あらためて俺の胸もとに頭をこすりつけてきた。
その小さな身体をそっと抱きあげつつ、俺は寝具の上に身を起こす。鳥ガラのように痩せた少女は、冗談のように体重を感じさせなかった。
「こっちの壁に寄りかかってね。うん、そうそう。昨日より、ずいぶん顔色がよくなってるよ。右手の傷は、痛んだりしてないかな?」
「…………」
「それじゃあ、食事にしよう。これはタウ油っていうものを使った汁物料理で、とても美味しいんだよ」
俺は看護師にでもなった気分で、あれこれ世話を焼くことになった。
それでも木匙を口に運んであげると、嫌がることなく食事を始める。美味しそうな素振りのひとつも見せないが、彼女の肉体は滋養を欲しているはずであるのだ。
「美味しいかい? ポイタンも汁にひたして、ちょっと食べてみようか」
「…………」
「これはギバ肉だね。小さく切り分けられてるから、そんなに食べにくいことはないと思うよ」
「…………」
彼女は人形のように従順であり、その従順さこそが俺を戸惑わせてならなかった。
とにかくもう、食事を先に済ませてしまうべきであろう。彼女にあれこれ問い質したいのは山々であったが、まずは体力を回復させるのが先決であるはずだった。
そうして食事を続ける間も、チル=リムは俺の装束の裾をぎゅっと握りしめている。
すべての感情が鈍化してしまったような有り様であったが、俺のそばから離れまいという意思だけは変わらぬままであるようだった。
「はい、おしまい。いっぱい食べて偉いね。それじゃあ、お薬を飲もうか」
「…………」
「ちょっと苦いけど、我慢してね。これを飲んでゆっくり休めば、すぐに熱も下がるはずだよ」
チル=リムの表情は茫洋としているが、他に余人の姿がないためか、心はだいぶ安定しているように見受けられる。
よって俺は、アイ=ファと示し合わせていた質問をそろりとぶつけてみることにした。
「チル=リム、ちょっと聞きたいんだけど……金色の瞳をした女の子に心当たりはあるかなあ?」
チル=リムは、俺の顔をぼんやりと見上げてきた。
あまりに無防備で、あまりにあどけない表情である。その白銀の瞳にも、感情の波がゆらめく気配はなかった。
「きんいろのひとみ……?」
「うん。それで、顔のこのあたりにひどい火傷の痕があってね。背丈は、チル=リムより少し大きいぐらいかな」
チル=リムはしばらく俺の顔を見つめてから、やがてのろのろと首を横に振った。
「しらない……みたことない……」
「そっか。それなら、いいんだ。変なことを聞いて、ごめんね」
チル=リムは無言のまま、俺の胸もとにしなだれかかってきた。
装束の裾をぎゅっと握りしめたまま、その小さな肩を震わせ始める。
「わたしと、いっしょにいて……わたしを、ひとりぼっちにしないで……」
「うん、一緒にいるよ。心配しないで、ゆっくり休んでね」
チル=リムの力ない姿に心を痛めつつ、俺は新たな疑問を抱え込むことになった。
チル=リムは、どうやら金色の瞳をした娘に心当たりがないらしい。
ずいぶん熱で朦朧としているようだが、それで答えを誤ることはないだろう。なおかつ、彼女が嘘をついているなどとは、これっぽっちも思えなかった。
(これじゃあ、謎が深まるばかりじゃないか。あいつはいったい何のために、チル=リムのことを捜してるんだ?)
戸板のほうに目をやると、アイ=ファもうろんげに青い瞳を光らせているようだった。
◇
そうして、2度目の夜である。
日中と同じ要領で晩餐を終えた俺たちは、昨晩と同じ要領で眠りにつくことになった。
まずは俺が添い寝をしてあげて、チル=リムが深い眠りに陥ったところを見計らい、アイ=ファがこっそりと寝所に侵入して、俺の隣に寝具を広げる。俺とチル=リムは身体を横にして向かい合う格好であるので、彼女の背中の側でアイ=ファは眠るのだ。
戸板の向こうの広間では、やはり10名ばかりの男衆が床をのべているという。フォウとランの家をあまり手薄にするのも不用心であろうということで、半数はディンとリッドの男衆と交代されたとのことだ。さらにダリ=サウティを含む3名も加えた、森辺の混成部隊である。
「もっとも用心すべきはこの夜であろうが、お前は何も案ずる必要はない。ただし異変が生じたならば、心を乱さずこちらの指示に従うのだぞ?」
チル=リムの栗色の頭ごしに、アイ=ファがそのように言っていた。
用心をして、アイ=ファは髪を結ったまま寝具に横たわっている。さらに毛布の内側には、刀までもが忍ばせてあるのだ。ちなみに俺の小刀は、眠っている間にチル=リムに奪われることを危惧されて、物置に保管されてしまっていた。
「チル=リムは、だいぶ熱もひいてきたみたいだよ。少なくとも、明日中には元気になるんじゃないかな」
「そうであることを祈るばかりだ。……とにかく、お前も眠るがいい」
「うん。おやすみ、アイ=ファ」
今日はまったく働いていないので、身体はちっとも疲れていない。ただしそのぶん頭を悩ませていたせいか、俺は意外なほどあっさりと眠りにつくことができた。
そして――俺は、夢を見た。
あの、紅蓮の炎に彩られた悪夢ではない。ただし、それにも匹敵するような、なんとも不可思議な夢である。
俺は、暗黒の中にたたずんでいた。
あるいは、俺自身が暗黒そのものなのかもしれなかった。
自分がどのような姿をしているのかもわからない。自分の身体を見下ろそうとしても、そこには漆黒の闇がたゆたっているばかりであるのだ。
暗闇とは、人間を不安にさせるものである。
しかし俺は、これっぽっちも不安ではなかった。
何故ならば――暗黒そのものである俺の周囲に、まばゆいばかりの輝きが満ちあふれているためであった。
美しい宝石が敷きつめられているかのように、さまざまな光が乱舞している。
それらは時おり動物の形を取って、俺の心をいっそう和やかにしてくれた。
俺自身は真っ黒な暗闇でも、これほどの輝きがぴったりと寄り添ってくれているなら、何も寂しいことはない。
闇とは光の対義となる存在であるのであろうが、それでも俺は自分の境遇を嘆く気持ちにはなれなかった。これだけの輝きに包まれて、そんないじけた気持ちを抱くというのは、あまりに浅ましい行いであるように思えてならなかったのだ。
彼らと俺はまったく異なる存在であるのに、俺が孤独に苛まれることはない。
むしろ俺は、その輝きからたとえようもないほどの希望と喜びを授かっていた。
そこに――ふわりと赤い輝きが持ち上がる。
暗闇である俺に、もっとも密接した場所に存在した輝きだ。
その輝きは、やがて優美な四肢と尻尾を持つ猫に変じた。
光り輝く、真紅の猫だ。
なんて美しい姿だろう。
俺を燃やし尽くさんするあの業火は、あれほどに恐ろしい色合いをしているというのに――その猫の赤い輝きは、俺の心を何よりも深く満たしてやまなかった。
(俺は……俺は君と出会うために……)
俺は、真っ黒な腕を差しのべる。
真紅の猫は、その腕にそっと頬ずりをしてくれた。
やっぱりこれは、正しい運命であったのだ。
俺は彼女に出会うためにこそ、この世に生を受けたのだ。
俺は真っ黒な涙を流して、赤い輝きを抱きすくめた。
赤い猫はその輝きを減じぬまま、俺の頭を優しく撫でてくれた。
そして――
至福の境地に陥っていた俺は、視界の片隅に輝きの歪みを見て取った。
俺たちはこんなに幸福で、こんなに満ち足りているというのに、あの場所だけは輝きが澱んでいる。まるでそれは誰かが昔に作った野菜の料理のように色彩がマーブル状に入り乱れており、美しい輝きの調和を崩してしまっていた。
(たすけて……)
歪んだ輝きの中で、誰かが泣き叫んでいる。
彼女は何も悪くないのに、何かが、誰かが、その運命を破滅させようとしているようだった。
(たすけて……わたしをひとりぼっちにしないで……だれか、わたしのそばにいて……)
俺は真紅の猫と手を取り合って、彼女のもとに近づこうとした。
しかし、歪んだ輝きがそれを阻もうとする。迂闊に近づけば、俺たちもその歪みの奔流に圧し流されてしまいそうだった。
だけど、彼女をそのままにはしておけない。
彼女を放っておいたなら、いつしかその歪みがすべての調和を破壊してしまうかもしれなかった。
俺たちは、彼女を救わなければならないのだ。
そして――
俺は唐突に、現実世界へと引き戻されることになった。
「起きよ、アスタ。私の声が聞こえぬのか?」
気づくと俺は、アイ=ファに荒っぽく肩を揺さぶられていた。
その姿が一瞬だけ美しい真紅のきらめきに包まれるのを幻視してから、俺は速やかに正気を取り戻す。アイ=ファの眼光と声音ににじんだ緊迫の気配が、一瞬の内に寝ぼけた俺を覚醒させたのだ。
「ど、どうしたんだ? 何かあったのか?」
チル=リムの身体を抱きかかえたまま、俺は半身を起こしてみせる。
あたりは真っ暗だが枕もとに燭台が灯されており、その火がアイ=ファの鋭い表情を浮かびあがらせていた。
「何者かが、家のそばまで忍んできた。今、他の男衆らが応戦している。私たちも、広間に移るのだ」
アイ=ファは凛然とした声で、そのように言いたてた。
その青い瞳には、どのような凶運にも屈しまいという清廉で強烈な意志の炎が燃えさかっているようだった。