邂逅の日②~銀色の瞳~
2020.12/15 更新分 1/1
「それでは、森辺に戻りましょう」
《キミュスの尻尾亭》に屋台を返却したのち、俺たちは森辺に帰還することになった。
クルア=スンはまだちょっと気がかりそうな顔をしていたが、俺は完全に復調している。ただ、俺の心はこうまで正体の知れない存在に脅かされているのかと再認識させられて、ちょっぴりアンニュイな心地を抱かされたぐらいである。
(これはアイ=ファに報告しないといけないんだろうけど、今日から5日間はサウティのお人らとご一緒だからなあ。どこかでこっそり打ち明けるしかないか)
さきほどの衝撃はただの勘違いであったのだから、そうまで急いで打ち明ける必要もないのだが。かといって、後日に先延ばしにしてしまったら、アイ=ファが激怒することは目に見えている。そもそもアイ=ファは俺自身よりも俺の心を思いやってくれているのだから、とうてい先延ばしにすることなどはできなかった。
(いったい何なんだろうな、本当に。どんなおっかない相手でもいいから、とにかく正体をはっきりさせてもらいたいもんだ)
森辺に帰りついた俺たちは、いったんルウの集落に立ち寄ることになった。本日は営業3日目であり、俺個人の修練の日であったのだ。ルウ家からは、レイナ=ルウとシーラ=ルウだけが出向いてくる予定であった。
そうしてファの家を目指すさなか、ファファの荷車とはベイムの集落の前でお別れする。修練に参加しないメンバーは、そちらの荷車でそれぞれの家に戻ってもらう手はずになっていた。
こちらで修練に参加するのは、トゥール=ディン、ユン=スドラ、マルフィラ=ナハム、レイ=マトゥア、クルア=スン、そしてプラティカの6名である。御者の俺を含めると定員オーバーであるし、サウティの血族とも交流を深めてもらいたかったので、ユン=スドラとレイ=マトゥアとプラティカの3名は、最初からそちらの荷車で帰路を辿ってもらっていた。
「きょ、きょ、今日は何の修練をするのでしょう? や、やはりゲルドから買いつけた食材が中心となるのでしょうか?」
「そうだねえ。なんだったら、マルフィラ=ナハムの香草の料理に追加する具材の検討とかでもいいんだけど」
「ええっ!? わ、わたしなどのために貴重な時間を使わせてしまうのは、あ、あまりに申し訳ないです!」
「でも、ナハムの家ではあまり好き勝手に食材を使うことも許されないから、なかなか作業を進められないんだろう? だったら、十分に有意義なんじゃないかな」
ギルルの手綱を操りながら、俺はそんな風に答えてみせた。
「雨季の野菜の解禁日が明後日に迫ってるから、それ以降はそっちを取り扱うことになるだろうしね。となると、今日が最後のチャンスかもしれないよ」
「ちゃ、ちゃ、ちゃんす?」
「あ、ごめん。俺の故郷の言葉で、好機って意味だよ。とにかく、マルフィラ=ナハムのあの料理は、俺や他の人たちにとってもすごい参考になるし、すごい刺激にもなるからさ。それを研究させてもらえたら、誰にとっても有意義なんじゃないかなあ」
「そ、そ、そうなのでしょうか? や、やっぱり申し訳なく思う気持ちのほうがまさってしまうのですが……」
そこでマルフィラ=ナハムはごにょごにょと語尾を濁してしまったが、この荷車には控えめな性格をしたトゥール=ディンとクルア=スンしか同乗していなかったので、あとには沈黙だけが残された。きっとトゥール=ディンたちはマルフィラ=ナハムを励ますように微笑んでいるのだろうなと、俺は荷台の中の情景を脳内で補完する。
そんなこんなで、ファの家に到着した。
降ったりやんだりの雨がまた収まってきたようなので、俺は外套のフードをはねのけつつ、御者台から降りる。他のみんなも外套を羽織るだけ羽織って、ぬかるんだ地面に降り立った。
後に続いていたサウティとルウの荷車も無事に到着したことを見届けてから、俺はマルフィラ=ナハムに手綱を託して、まずはジルベに挨拶をすることにした。
「ただいま、ジルベ。何も問題はなかったかな?」
俺が母屋の戸板を開けると、ジルベは元気いっぱいに飛び出してきた。
そうして俺の足もとに鼻先をすりつけようとしたジルベが、途中でぴたりと動きを止めてしまう。
そのつぶらな瞳が、何かをねだるように俺を見つめてきた。
「ん、なんだい? おなかでも空いてるのかな?」
ジルベは顔をしかめながら、俺とギルルの引いてきた荷車を見比べた。
そして最後に、また俺のもとでじっと視線を固定する。
「どうしたんだろう。何か俺に伝えたいみたいだけど……」
クルア=スンたちも、けげんそうに俺たちの挙動を見守っていた。
俺たちが移動するのを待っているレイナ=ルウやサウティの女衆らも、遠巻きにこちらをうかがっている。
「どうしたんだい、ジルベ? あの荷車に、おかしな臭いでもついてるのかな?」
ジルベは意を決したように、ギルルの荷車へと向きなおった。
そして――堰を切ったように、猛然と吠え始めたのだった。
「お、おい、ジルベ……?」
すると、シーラ=ルウに手綱を託したレイナ=ルウが、駆け足でこちらに近づいてきた。
「アスタ。もしかしたら、荷車に何者かが潜んでいるのではないでしょうか?」
「ええ? だって俺たちは、この荷車に乗って帰ってきたんだよ?」
「ですが、荷車には木箱や樽なども積んでいるのでしょう? その気になれば、人間が隠れることも可能なのではないでしょうか?」
レイナ=ルウの真剣な眼差しが、俺の心に緊迫感をもたらした。
では、ジルベのさきほどまでの仕草は――客人がいるならば速やかに紹介すべしと、俺をうながしていたのだろうか?
「……ジルベ、やめ」
俺の言葉に、ジルベはぴたりと吠えるのをやめた。
その黒い瞳が、レイナ=ルウよりも真剣な光をたたえて、俺と荷車を見比べてくる。
「みんな、その荷車から離れてくれ。マルフィラ=ナハムも、手綱を離しちゃっていいから。……荷台に誰か潜んでいるのか、俺とジルベで確認してみるよ」
すると、サウティの荷車からプラティカが速足で進み出てきた。
その手には、細長い筒――毒の吹き矢を発射するための矢筒が握られている。
「アスタ、助力します。私、この場、誰より武力、携えている、思います」
「ええ。客人であるプラティカにそんな危険な役目をお頼みするのは気が引けるのですが……でも、助力してもらえたら心強いです」
「はい。無法者、ひとりならば、決して後れ、取りません」
いくら大荷物とはいえ、ふたり以上の人間が隠れられるようなスペースなどは存在しない。そんな風に考えながら、俺も腰に下げた小刀に指先を添えることになった。
「ジルベ、むやみに飛び掛かるんじゃないぞ? まずは、相手の正体を確かめてからだ」
ジルベは何度かまばたきをすることで、俺の言葉に応えてくれた。
他の女衆らは緊迫した面持ちで、ギルルの荷車から遠ざかっている。そして、レイナ=ルウやレイ=マトゥアやサウティの血族の女衆などは、実に勇敢なる面持ちで小刀の柄に手をのばしていた。
「プラティカは、御者台のほうに回ってもらえますか? 俺とジルベが、後方に回ります」
「承知しました。アスタ、ジルベ、お気をつけて」
俺はどくどくと心臓が高鳴るのを感じながら、ジルベとともに荷台の後部へと回り込んだ。
雨がやんでいるので、出入り口の帳も開かれたままである。御者台側も開放されているし、窓の帳も開かれているので、荷台の内部は薄明るい。何かが動けば、すぐに察知できるはずだった。
「……誰かいるのか? いるなら、出てこい。大人しく出てくるなら、こっちも荒っぽい真似はしないよ」
木箱の陰で、何かが動いた。
俺は息を呑み、ジルベはグルル……と威嚇のうなり声をあげる。
「……ゆっくり出てくるんだ。武器を持ってるなら、今の内に捨ててくれ」
相手が無法者であれば、こんな呼びかけも無意味かもしれない。
しかし、木箱の陰から姿を現したのは――案に相違して、とても小さな女の子であった。
女の子は床に膝をついたまま、後部の出入り口にのろのろとにじり寄ってくる。
淡い栗色の髪をした、気の毒なぐらいに痩せ細った女の子だ。
外套などは纏っておらず、粗末な灰色の長衣だけがそのほっそりとした身体を包んでいる。
そして――薄明りの中でも星のようにきらめく白銀の瞳が、真正面から俺を見つめてきた。
俺は瞬時、言葉を失う。
それほどに、それは美しい眼差しであったのだ。
いつしか、ジルベもうなるのをやめていた。
「き……君は、誰だい?」
俺が小声で呼びかけると、少女はびくりと肩を震わせた。
そして、食い入るように俺を見つめたかと思うと――その白銀の瞳から、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「たす……けて……」
かぼそい声とともに、少女の右手が俺のほうに差しのべられてきた。
その小さな手の先は灰色の布切れに包まれて、赤い血をにじませている。
俺がほとんど無意識の内に足を踏み出そうとすると、途中で肘のあたりの袖をつかまれた。
「アスタ、むやみに近づく、危険です」
「あ、あれ? プラティカ、いつの間に?」
「人間の気配、ひとつです。よって、こちら、回りました。相手、幼子ですが、警戒、必要です」
「は、はい。だけど、放ってはおけないですよ。ほら、手の甲を怪我してるみたいだし……」
「では、私、受け持ちます」
プラティカは矢筒を懐にしまいこむと、自らも腰の短剣に指先を添えつつ、少女のほうに近づこうとした。
しかし少女は涙を流したまま、荷台の中で後ずさる。
「だめ……ほかのひとは、だめ……わたしに近づかないで……」
「何故、私、拒みますか?」
「だめ……あなたじゃないと、だめ……」
少女の白銀をした瞳が、また俺だけを一心に見つめてくる。
その幼い顔には、あまりにも痛々しい悲嘆の表情だけが刻みつけられていた。
こんなに悲しそうな顔をした人間は、これまでに一度として見たことがない。
その涙に濡れた白銀の瞳で見つめられているだけで、俺は心臓を握り潰されてしまいそうな心地であった。
「プラティカ、やっぱり俺が行きますよ。プラティカは、いざというときに備えてもらえませんか?」
「……わかりました。アスタ、補佐します」
プラティカは短剣から手を離すと、再び指先を外套の裏に忍び込ませる。
次にその手があらわにされたとき、そこには奇妙な器具が装着されていた。連結した指輪のような器具で、4本の指が通されており、そして、10センチばかりもありそうな鉤爪が生えのびている。
「こちら、猫爪、毒、仕込まれています。あなた、アスタ、危害、加えようとしたならば、こちら、使います」
そんなプラティカの警告が耳に入っているのかどうか、少女は懸命に傷ついた手の先を俺のほうに差しのべていた。
俺はプラティカに目配せをしてから、ゆっくりとそちらに近づいていく。もちろんジルベも、俺の足もとにぴったり追従してくれていた。
確かに、どれだけかよわげな女の子であろうとも、毒の武器などを携えていたならば危険きわまりないだろう。
しかし、この女の子に害意がないことは明白であった。それどころか、彼女のほうこそが恐怖と不安に震えあがってしまっているのだ。たとえ甘ちゃんと罵られようとも、こんなに怯えきった女の子の手をはねのけようという気持ちにはなれなかった。
「大丈夫だよ。何も心配はいらないからね」
俺のほうからも手を差しのべると、震える指先がゆっくりとのばされてきた。
弱々しい、今にも折れてしまいそうな細い指先だ。
そしてその指先には、想像以上の熱が宿されていた。
「君、もしかしたら熱があるんじゃ……」
俺がそのように言いかけたとき、少女が俺の胸もとにしなだれかかってきた。
プラティカはぴくりと反応したが、幸いなことに、その手の凶悪な武器が振るわれることはなかった。少女はただ、俺の身に取りすがっただけであったのだ。
俺の胸もとにしがみついた少女は、全身をこまかく震わせている。そしてその小さな身体は、やはり尋常ならぬ熱を帯びていた。
「君、ひどい熱だよ。すぐに薬を準備してあげるから――」
「いや……はなさないで……わたしを、たすけて……」
少女は顔をくしゃくしゃにしながら、俺の顔を見上げてきた。
涙に濡れて、その白銀の瞳はいっそう美しく輝いている。
まるで、星の光を詰め込んだような瞳であった。
「大丈夫だよ。俺は森辺の民で、ファの家のアスタ。……君の名前を聞かせてもらえるかな?」
「わたしは……チル=リム……」
それだけ言って、少女は俺の胸に顔をうずめてしまった。
なんて小さくて力ない存在なのだろうと、俺は胸が痛くなってしまう。
そうして俺は、金色の瞳を持つ謎の少女に続いて、銀色の瞳を持つ謎の少女とも邂逅を果たす段に至ったのだった。
◇
それから二時間ほどが経過して、あたりがずいぶん薄暗くなってきた頃――俺は、森から戻ったアイ=ファに鋭く詰問されることになった。
「……それでけっきょく、その娘は何者であるのだ?」
「だから、それがよくわからないんだよ。熱がひどくて、まだ意識も朦朧としてるみたいだからさ」
俺はファの家の広間で、寝具に寝かしつけた女の子――チル=リムのかたわらに寄り添っている。というか、彼女が俺の手を離してくれないため、ずっとその場に座している他なかったのだ。
彼女は右の手の甲にひどい裂傷を負っていたため、それをきちんと治療しなおして、解熱の薬を飲ませた上で、寝具に寝かしつけていた。それでようやく寝入ったかなと思い、俺がそっと手を離そうとすると、たちまち半狂乱になって飛び起きてしまうのだった。
「はなれないで……わたしといっしょにいて……わたしをひとりぼっちにしないで……」
そんな風に泣きつかれたら、とうていその手を振り払うことはできなかった。
用心のために、寝具の反対側ではプラティカもきっちりと膝をそろえて待機してくれている。しかも、毒の武具たる猫爪とやらを装着したままだ。
俺たちの正面にどっかりとあぐらをかいたアイ=ファは、頭をかきむしりながら溜め息まじりに言った。
「プラティカの用心には、感謝する。あとは私が引き継ぐので、その武具は仕舞ってもらいたい」
「はい。アスタの身、危険、なかったこと、保証いたします」
「いくらアスタでも、そうまで弱りきった幼子に後れを取ることはあるまいが……しかし、いったい何なのだ、この娘は?」
寝具で毛布にくるまったチル=リムは高熱にあえぎながら、無事な左手で俺の右手をしっかりと握りしめている。今はその神秘的な瞳もまぶたに隠されて、なんの変哲もない女の子に見えているはずだった。
年齢は、せいぜい10歳ぐらいであろうか。やたらと痩せこけてしまっているので判然としないが、少なくともリミ=ルウよりも身体は小さい。栗色の髪は腰に届くぐらい長く、とても綺麗な色合いをしているのだが、そちらも栄養が行き渡っていない様子でぱさぱさに傷んでしまっていた。
肌の色は黄白色で、おそらく西の民であろう。ただし、リムというのが氏であるのなら、自由開拓民ということになる。俺などに推測できるのは、それぐらいのものであった。
「ふむ。そのように幼くて病魔を患った娘が、アスタたちの荷車に潜んで、このファの家にまでついてきてしまったわけか。これはずいぶんと、面妖な話であるようだな」
と、アイ=ファのかたわらに座したダリ=サウティが、考え深げにそう言った。ヴェラの家長とドーンの長兄は、本日の収獲であるギバの解体に取り組んでいるとのことだ。
「しかも彼女は右手に怪我をしていますし、おまけにもうひとつ面妖な点があるんです」
そこで俺は、商売のさなかに出会ったもう1名の娘についても語ることになった。
火傷のくだりで、アイ=ファがぐっと身を乗り出してくる。その心中をなだめるべく、俺は明るく笑ってみせた。
「俺も最初にその傷痕を見たときは、この娘さんこそが例の人物なのかと思ったんだけどな。でも、それは勘違いだったんだ。その娘さんは、子どもみたいに小柄だったんだよ」
「子ども……では、それがいずれ、私ほどの背丈に育つのではないか?」
「いや、ナチャラの術式は俺の記憶を解放するためのものだって言ってただろ? 俺はその人物のことを忘れてるだけなんだってさ。だったら、未来に出会う相手ではありえないだろう」
アイ=ファは深く息をつき、ダリ=サウティは「ふむ」と四角い顎を撫でた。俺がナチャラに施された術式の結果については、とりあえず族長たちにのみ打ち明けさせてもらっていたのだ。
「それはアスタを脅かす、正体の知れない何者かの幻影、とかいう話であったな? その一件は、確かに無関係であるのか?」
「はい。俺としては、そう確信しています。ただ背丈が違うというだけじゃなくて、俺はその娘さんを見てもまったく怖くありませんでしたから……」
「そうか。厄介ごとが重ならなかったことを喜ぶべきか、厄介ごとが先延ばしにされたことを嘆くべきか、判断の難しいところだな」
ダリ=サウティは俺を力づけるように微笑んでから、アイ=ファのほうに向きなおった。
「それならば、この娘はただの迷い子ということになる。ひと通りの事情を聞き終えたのち、宿場町の衛兵にでも引き渡すしかあるまい」
「……しかし、このように眠っていては、事情を聞き出すこともかなうまい?」
「うむ。熱が下がって口をきけるようになるまでは、この場で休ませるしかないように思うぞ」
「…………」
「案ずるな。これでは、絆を深めるどころの騒ぎではないからな。女衆らは、フォウの血族にでも預かってもらおうと思う」
「では、男衆は?」
「俺たちは、この場で眠らせていただこう。万一に備えての、用心だ」
力強い笑みとともに、ダリ=サウティはそう言った。
「その娘は、アスタに救いを求めていたというのであろう? ならば、アスタが出会ったという怪しげな者のもとから、逃げのびてきたのやもしれん。まあ、その娘がファの家でかくまわれているなどとは、誰にも知るすべはなかろうが……用心を重ねるに越したことはあるまい」
「そう……だな。ダリ=サウティの言う通りだと思う」
厳しい表情で、アイ=ファは深くうなずいた。
それから、横目で俺をにらみつけてくる。
「しかしどうして毎度のように、お前が面倒ごとに巻き込まれてしまうのであろうな。その場には、他にも大勢の女衆が控えていたのであろう?」
「うん。理由はわからないけど、俺以外の相手だとすごく怯えちゃうんだよ」
それはすでに、確認済の事項であった。社交性の権化たるレイ=マトゥアや慈母のごときシーラ=ルウが面倒を見てくれようとしていたのだが、この少女はそれを頑なに拒絶してしまったのだ。
「もしかしたら、女性を怖がってるだけなのかなあ。ダリ=サウティ、あとで試していただけますか?」
「うむ。しかし俺のように図体がでかいと、それだけで怯えさせてしまうやもしれんな。その際は、ドーンの長兄の出番であろう」
ダリ=サウティがそのように答えたとき、母屋の戸板が叩かれた。
やってきたのは、ユン=スドラである。彼女たちもこのまま黙って帰るつもりにはなれないという話であったので、サウティの血族の女衆らに調理の手ほどきをしてもらっていたのだ。
「こちらの片付けは終わりました。この後は、どうするべきでしょうか?」
「ああ、ごめん。すぐにアイ=ファと相談するから、ちょっと待っててもらえるかな」
玄関口でユン=スドラを迎えたアイ=ファが、うろんげに俺のほうをにらみつけてくる。
「相談とは、なんの話だ?」
「うん。俺がこの有り様だから、晩餐の支度をどうしようかと思ってさ。サウティの人たちはファの家に来たばかりで、色々と勝手もわからないだろうし……もしものときは助力を願えないかと、ユン=スドラにお願いしていたんだ」
「…………晩餐の準備をユン=スドラに押しつけようという心づもりであるのか?」
「うん。だって、この子をおぶって仕事をするわけにもいかないだろう?」
アイ=ファは全力で溜め息をついてから、ユン=スドラに向きなおった。
「では、家長たる私からも、ユン=スドラに助力を願いたい……スドラの家には、すでに話を伝えているのか?」
「いえ。他の女衆が戻るときに、言葉を伝えてもらおうと考えていました。あと、サウティの血族の方々はどうされるのでしょうか?」
「そちらは、フォウに預かってもらうそうだ」
そうしてダリ=サウティも話し合いに加わって、あれこれ取り決められることになった。
サウティの女衆らも晩餐はファの家でいただいて、それを食べ終えたらフォウの家に預かってもらう。そちらの面々とユン=スドラを家に送り届けるために、フォウかスドラのどちらかからも男衆を招いて、こちらで晩餐をともにしてもらう。以上のことを、トゥール=ディンたちが帰りがけにフォウとスドラの家に伝えてくれることと相成った。
「まったく、おかしな騒ぎになってしまったな。このような騒ぎは、この夜限りにしてもらいたいものだ」
アイ=ファはぶちぶちとぼやきながら、少女の寝顔を覗き込んだ。
少女は青ざめた顔に脂汗を浮かべて、苦しげにうなっている。するとアイ=ファもたちまち痛ましそうに眉をひそめて、憤懣の言葉を呑み込んだようだった。
「……その熱、おそらく、傷口から、悪い風、入ったためです。明日、あるいは明後日、治まるでしょう」
プラティカの言葉に、アイ=ファは「そうか」とまた溜め息をついた。
「明日の朝までに治まればいいのだが……もしも治まらなかったならば、お前はどうするつもりであるのだ?」
「それは、そのときに考えるよ。いちおうユン=スドラには、明日の屋台の取り仕切りもお願いするかもしれないって伝えてあるからさ」
「…………」
「いや、俺だって仕事を放り出したくはないけどさ。アイ=ファもきっとこの子と喋ってみれば、放っておけないって気持ちになると思うぞ」
しかし、話はそう簡単なものではなかった。
一刻ほどの時間が過ぎて、晩餐を作りあげたユン=スドラとサウティの女衆らが広間にやってくると、その賑やかさで少女が目を覚まし――そして、恐慌状態に陥ってしまったのである。
「だめ! わたしに近づかないで! わたし……わたしは……」
「落ち着いて。大丈夫だよ。誰も君を傷つけたりしないから」
俺がそのようになだめても、少女は錯乱したままだった。
俺の身体にすがりついて、怯えた子猫のように震えてしまう。熱で気持ちが弱っていたとしても、やはりこれはただ事ではなかった。
とにかく人目から遠ざけようと、俺は少女の身体を抱きあげて、寝所に避難させてもらうことにする。しかし、アイ=ファがともに入室してくると、少女はまた新たな涙をこぼしてしまった。
「だめ……わたしに近づかないで……」
「お前は、何に怯えているのだ? 私たちが、悪しき人間に見えるのか?」
アイ=ファは文字通り幼い子供に言いきかせるように、とても静かな声音でそのように問いかけた。
俺の胸もとに顔をうずめたまま、少女はぷるぷると首を振っている。
「悪いのは、わたし……だから、わたしに近づかないで……」
「では何故、アスタにだけ近づくことを許しているのであろうか?」
少女はぴくりと肩を震わせてから、白銀の瞳で俺を見上げてきた。
「たすけて……わたしをひとりぼっちにしないで……」
すべての人間を拒絶しながら、俺にだけ助けを求めようとする。
まったく道理の通らない話であったが――アイ=ファはそれ以上、追及しようとはしなかった。
「まずは、熱が治まるのを待つしかないようだな。こちらに晩餐を運ぶので、お前がその娘に食べさせてやれ。私は、戸板の隙間から見守らせてもらう」
「うん。……ごめんな、アイ=ファ」
「お前に責任のある話ではない。しかし、迷惑をかけた他の者たちには、入念に詫びなくてはならんな」
そのように語るアイ=ファは、とても静かな眼差しをしていた。
俺のように、ただ同情しているわけではなく、このおかしな騒ぎがどのような結末を迎えるものか、それをしっかり見定めようとしているかのようだ。
そうしてふたりの不思議な少女たちに出会った最初の夜は、大きな謎を孕んだまま終わりを迎えたのだった。