邂逅の日①~金色の瞳~
2020.12/14 更新分 2/2 ・2021.8/21 誤字を修正
その日――赤の月の18日である。
妖異なる悪夢に脅かされて、アイ=ファに右耳を蹂躙された後、俺はなんとか平穏なる気持ちを取り戻して、いつも通りの日常へと回帰することになった。
ただし本日は、常ならぬイベントも待ちかまえている。
そのイベントを飾る主役たちは、俺たちが朝の仕事を片付けて、屋台の商売の下準備を始めようかというタイミングでファの家にやってきた。
「遅くなってしまったな。下ごしらえの仕事というものには間に合っただろうか?」
トトスの荷車から降りてきた大柄な人影が、温かい笑いを含んだ声でそのように呼びかけてくる。
それは森辺の三族長のひとり、ダリ=サウティに他ならなかった。
そして荷台からは、彼の血族たちもわらわらと出現する。ダリ=サウティと御者の男衆を含めて、その人数は6名。見知った顔もあれば、見知らぬ顔もある。現在はいったん雨も引いていたので、誰もが薄明るい曇天の下にその素顔をさらしていた。
「ようこそ、ファの家に。お待ちしておりましたよ、ダリ=サウティに血族のみなさん」
「うむ。悪いが、しばらく世話になる」
ダリ=サウティたちは先日のゲルドの送別会で交わした約定通り、ファの家に滞在するためにやってきたのだった。
サウティの血族たちはずらりと立ち並び、アイ=ファは厳粛なる面持ちで俺の隣に進み出る。
「私がファの家長アイ=ファで、こちらが家人のアスタとなる。これほどの人数を客人として滞在させるのは初めてのことであるので、何かと至らない点もあろうかとは思うが、サウティの血族と正しき絆が結べることを願っている」
「なに、無理を言ったのはこちらの側なのだからな。ファの家の生活をかき乱したりはしないと約束するので、どうかよろしく願いたい」
そうしてダリ=サウティは、5名の血族たちを紹介してくれた。
男衆は、ヴェラの家長とドーンの長兄。女衆は、サウティ分家の末妹に、ヴェラの次姉とダダの長姉だそうだ。
この中で、俺がはっきりと見知っているのは、3名。ヴェラの兄妹とサウティ分家の末妹であった。サウティとヴェラは同じ集落で過ごしているため、森の主の一件で逗留した際に顔をあわせていたのである。
また、ヴェラの若き家長はダリ=サウティのお供として行動をともにすることが多かったし、その妹は以前、宿場町で生鮮肉を売る商売に加わっていたので、その際にもご縁を深めることができていた。
(で、この妹さんがフォウの分家の男衆と懸想し合ってるってことだな)
見た感じ、ヴェラの家長の妹さんは、どこといっておかしなところのない森辺の女衆であった。中肉中背で、褐色の髪と青い瞳をしており、どちらかといえば清楚でつつましやかなタイプであろうか。ただ、青い瞳は明るくきらめき、笑みのひとつも浮かべれば、たちまち華やかな印象に変わりそうな気配がした。
そんな彼女を含めて、全員が若い。ダリ=サウティを除けば、みんな20歳未満であろう。最年長と思われるヴェラの家長でさえ、いまだ19歳――俺やアイ=ファと同年代であるのだ。彼は森の主との闘いによって深手を負った父親から、若くして家長の座を継いだ立場であったのだった。
「ふむ。サウティは親筋を含めて6氏族であったかと思うが、このたびは4氏族の家人しか訪れていないのだな」
アイ=ファの言葉に、ダリ=サウティは「うむ」と応じた。
「フェイとタムルは家の場所が離れているために、我々とは別に動いてもらうことにした。いずれファやフォウとは別の氏族と家人を貸し合うように取り計ろうかと考えている」
「了承した。……女衆は、アスタの仕事を見物するのだな? 男衆は、どのように扱うべきであろうか?」
「むろん、アイ=ファの仕事を手伝おう。手が空いたならば、かまど仕事の見物をさせてもらうなり、アイ=ファと絆を深めさせてもらうなり、退屈するいとまはなかろうからな」
アイ=ファは溜め息をこらえているような面持ちで、金褐色の髪をかきあげていた。19の齢を重ねようとも、あまり親しくない相手と交流を深めるのは得意でないアイ=ファであるのだ。
「森の端での仕事は終えたので、あとは薪割りぐらいのものであろう。ファの家に、余分な鉈などは置いておらぬぞ?」
「そう思って、こちらで持ち寄ってきた。では、さっそく取りかかるとするか」
俺たちはぞろぞろと連れ立って、家の裏手に向かうことになった。
そこではしゃいでいた3頭の犬たちが、動きを止めて俺たちを出迎える。その中で、ジルベが「わふっ」と友好的な鳴き声をあげてきた。
「ほう、これが噂の番犬というやつか。確かに猟犬とはいささか様子が異なるようだな」
ドーンの長兄が物珍しそうに、そう言った。サウティ分家の末妹とダダの長姉も、何やら瞳を輝かせてジルベの大きな姿を見やっている。
「森辺の民はみんなグリギの実を身につけていますので、その香りがする人間は警戒しなくていいように教え込んでいます。町の客人なんかをお招きするときは、最初に顔あわせをしなくてはならないのですよね」
「ふむ。そうしてこの番犬――ジルベだったか? ジルベはファの家が《颶風党》に襲撃された際も、いち早く危険を察知したとのことだったな。なかなか頼もしいものではないか」
ダリ=サウティがそのように応じると、ジルベは「えっへん」とばかりにまたひとつ鳴き声をあげた。猟犬はあまり家で吠えることがないので、女衆らはいっそう楽しそうにしている。
「こちらがジルベで、こちらがブレイブ。そしてこちらがドゥルムアだ。猟犬はともに森に入るのだから、見知っておいてもらいたい」
「うむ。猟犬たちも、賢そうな眼差しをしているな。やはり、主人が立派な狩人であるためであろうか」
「……ブレイブたちは、最初から賢かった。私も何度となく助けられている」
と、自分が賞賛されるのは苦手で、家人には情愛深いアイ=ファである。
俺がそんな風に考えていると、アイ=ファが「おい」と手招きしてきた。
「ちょっとアスタに伝えたいことがある。そこでしばしブレイブらとくつろいでいてもらいたい」
ダリ=サウティらをその場に残して、アイ=ファは俺を裏の木立のあたりにまでいざなった。
「はからずも、今日からサウティの血族を迎えることになってしまったが……お前は、大丈夫なのだろうな?」
「大丈夫って、何が?」
「何がではない」とアイ=ファが顔を寄せてきたので、俺は反射的に右耳を隠してしまった。
「今日の朝、何が起きたかを忘れたのか? あの者たちを滞在させるのだから、私とお前も寝床を分けねばならぬのだぞ?」
「あ、ああ、そういうことか。大丈夫だよ。以前に悪夢に見舞われたときだって、ひと晩だけで収まっただろう?」
「……《アムスホルンの息吹》を患った際には、毎晩苦しんでいたではないか」
「あれは実際に熱を出してたんだから、しかたないよ。熱が先か悪夢が先か、俺にもわからないぐらいさ。……それに、悪夢を見たって俺の心身がどうにかなるわけじゃないし、心配はご無用だよ」
俺がそのように答えると、アイ=ファは「ほう……」と鋭く目を細めた。
「ならばお前は私が同じような目にあっても、べつだん気にはならないというわけだな?」
「え? いや、それは……気にならないといったら嘘になるけど……」
「であれば、私が無条件に安堵できると思うのか?」
「わかった、ごめん。心配ご無用ってのは不適切だった。きっと連続で悪夢にうなされることはないと思うから、そっちの理由で安堵してくれないか?」
「……そのような言葉ひとつで安堵できれば、世話はない」
アイ=ファは唇をとがらせながら、つんと顔をそむけてしまった。
「ならば、お前が私のいない場で悪夢にうなされたならば、罰として耳を噛むこととする」
「な、何を言ってるんだよ! 夢の内容なんて、自分でどうにかできるもんではないだろ?」
「そうであるにも拘わらず、お前は気軽に安堵しろなどと言いたてた。その軽率なる振る舞いを反省するがいい」
そうしてアイ=ファはそっぽを向いたまま、ぴんと立てた人差し指で自分の唇をなぞり始めた。
無意識の仕草なのか、俺を挑発しているのかは知らないが――何にせよ、朝方の感触を反芻しているかのように見えてしまい、平常心ではいられない俺である。
「……では、私はダリ=サウティらと薪割りを始める。お前も自分の仕事を果たすがいい」
「承知いたしました……では、またのちほど……」
アイ=ファは意外に魔性の女なのではないかしらんという思いを胸に、俺はあらためてかまど小屋を目指すことになった。
そちらでは、すでに当番である女衆らが仕事の準備を進めてくれている。俺がサウティの血族たる3名を招き入れると、挨拶合戦が始められることになった。
「できれば明日からは、わたしたちも仕事を手伝いたいと考えています。そのために必要な手際を見て習いたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします」
サウティ分家の末妹がそのような挨拶で締めくくると、当番の女衆らは笑顔で応じていた。
ルウやザザの血族に比べると、サウティの血族というのは勇猛さや厳格さなどが表に強く出ておらず、小さき氏族の人々と似たような空気を持っている。これならば、速やかに絆を深められそうなところであった。
「それでは、作業を始めましょう。何か気になることがあったら、いつでも気軽に声をかけてくださいね」
そうして俺たちは3名の女衆に見守られながら、普段通りに仕事を始めることにした。
今日の当番は屋台の当番でもある6名と、ベイムおよびダゴラから来てくれた4名だ。雨季の間は売り上げも半減してしまうので、この人数でもゆとりがあるぐらいだった。
「みなさんは、何日ぐらいファの家に逗留される予定なのですか?」
と、いつでも元気なレイ=マトゥアが、作業を進めながら呼びかける。
やはり血族の代表として、サウティ分家の末妹がそれに答えていた。
「正確な日取りは決められていないのですが、まずは5日ほど様子を見ることになっています。あまり長きにわたると、ファの家の負担になってしまうので……さらに日数が必要であると見なされた場合も、5日でいったん切り上げてから、日を空けてまたお邪魔させていただこうという話になりました」
「なるほど、5日ですか! いいですねえ。5日もファの家に滞在できるなんて、わたしは心から羨ましく思います!」
にこにこと無邪気に笑いながら、レイ=マトゥアはそう言った。
「でも、わたしもこれまではサウティの方々とお近づきになる機会がなかったので、みなさんの来訪を嬉しく思っています! 5日間、どうぞよろしくお願いいたします!」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
サウティの血族の面々も、とても嬉しそうに微笑んでいた。
そののちは、サウティの集落に逗留したことのあるユン=スドラも話に加わって、いっそう和やかな空気が形成される。族長筋に対する敬意だけは保持しつつ、誰もが友好的な心持ちでこの来訪者たちを歓迎してくれているようだった。
それから小一時間ほどが経過すると、かまど小屋の戸板が外から開かれる。そこから顔を出したのは、我が最愛の家長である。
「アスタよ。ダリ=サウティらも見物を願っているのだが、3名いっぺんでは狭かろうな?」
「うん。できれば、ひとりかふたりずつだとありがたいかな」
普段であれば戸板を開け放しにして、外からかまど小屋の内部を見物してもらったりもしているのだが、いよいよ雨がぱらついてきたようなので、それも難しいだろう。
「では、ひとりずつ見物してもらおう。我々は家に戻っているので、気が済んだら交代するといい」
「了承した。では、少し邪魔をさせてもらうぞ」
真っ先に乗り込んできたのは、やはり族長のダリ=サウティであった。
こちらの女衆が手を止めて挨拶しようとすると、鷹揚に微笑んでそれを制止する。
「俺のことなどにかまう必要はない。勝手に見物しているので、気にせず仕事を続けてくれ」
ダリ=サウティは血族たる女衆らの横に並び、穏やかな眼差しでかまど小屋の内部を一望した。
「ふむ。このような香りを嗅がされるだけで、腹が鳴ってしまいそうだな。いちおう干し肉は持参したのだが……」
「あ、いつもアイ=ファのために昼の軽食を準備しているので、今日からはダリ=サウティたちにも準備いたしますよ」
「そうか。実はそのように期待していたのだ」
ダリ=サウティがにこやかに微笑むと、俺の周囲でいくつかの嘆息がこぼされた。
「ん?」と思って視線を巡らせると、女衆の何名かが赤くなった面を伏せて作業を再開させる。その内の1名、ダゴラの女衆が俺のほうに顔を寄せてきた。
「ぞ、族長ダリ=サウティとお会いするのは初めてなのですが、やはりその立場に相応しい立派な男衆なのですね」
「はい。俺も常々、そのように考えていました」
そんな風に答えつつ、俺はこっそり新鮮な驚きにとらわれる。つまり彼女たちは、ダリ=サウティの立派な男っぷりに、ついつい嘆息をこぼしてしまったということなのだろう。
ダリ=サウティが立派な男衆だということは、今さら言うまでもない。いまだ20代後半の若年なれども、他の族長たちに負けない風格であるし、背丈や体格などはむしろ一番秀でているぐらいであるのだ。
身長は185センチほどもあり、雨季用の装束の上からでも、実に頑健なる身体つきが見て取れる。大地にどっしりと根を張った、大樹のごとき貫禄であった。
然してその風貌は、他の族長たちにはない穏やかさを有している。ごつごつと角張った武骨な顔立ちをしているが、表情はやわらかく、笑うとどこか純朴そうな気配まで生じるのである。それが持ち前の風格と相まって、なんとも魅力的なのだった。
(なるほど。案外森辺では、こういうタイプが一番モテるのかもしれないなあ)
などと、益体もない想念を巡らせてしまう俺である。
しかしまた、実際に複数名の女衆が頬を赤らめていたのだから、そう的外れな考えでもないのだろう。ダリ=サウティなどは包容力のカタマリのごとき存在であるのだから、ある種の女性にとって理想の男性像であっても何らおかしいことはないように思われた。
そんなささやかな波紋をかまど小屋にもたらしつつ、ダリ=サウティは15分ほどで退室していった。
そののちは、ヴェラの家長とドーンの長兄も相次いでかまど小屋にやってくる。鋭い面立ちをしたヴェラの家長もどことなくのんびりとした雰囲気であるドーンの長兄もそれぞれ魅力的であったが、やはり女衆らの頬を染めさせるには至らなかった。
さらに小一時間ほどが経過して、下ごしらえの仕事は完了する。
サウティの血族の女衆らは、当然のように宿場町までの同行を願い出た。
「わたしたちは自分の荷車で後を追いますので、どうぞよろしくお願いいたします」
確かにこちらもルウとディンを合わせて16名の大所帯であり、最近はプラティカも同乗させていたので、3名を加えると定員オーバーになってしまう。ここは自前の荷車を使っていただくべきであろう。
積み込み作業を済ませた俺たちが母屋のほうに回っていくと、アイ=ファたちが出てきて見送りをしてくれた。
「出発か。くれぐれも、油断なきようにな」
「うん、そっちもな。それじゃあダリ=サウティたちも、どうぞお気をつけて」
「うむ。手間だが、女衆たちをよろしく頼む」
ぱらぱらと降りそぼる小雨の中、俺たちはファの家を出立した。
アイ=ファは今日から5日間、ダリ=サウティたちとともに森に入るのだ。俺が余所の氏族の女衆を迎えるのは毎度のことであったが、アイ=ファが他の男衆とギバ狩りの仕事をともにするというのは、きわめて稀な話であった。
「アイ=ファはダリ=サウティたちと一緒に仕事を果たして、何か新しいギバ狩りの作法を模索する心づもりなのですよね?」
ルウの集落に向かう途上で、ユン=スドラがそのように問いかけてきた。
慎重に手綱を操りながら、俺は「うん」と応じてみせる。
「ファの家に伝わるギバ寄せの実を使った作法と、サウティの家に伝わるギバ除けの実を使った作法を合わせてみたい、なんて言っていたね。以前もそうやって、森の主と対決したわけだからさ」
「はい。それでいっそう男衆らが安全に仕事に励めるようになったら、心より嬉しく思います」
ユン=スドラの声には、しみじみと真情がにじんでいた。
森辺の女衆であれば、誰もがそのように考えるのだろう。俺だって、もちろん例外ではない。アイ=ファたち狩人の身に降りかかる危険が1パーセントでも減じられるなら、そんなに得難い話はないはずだった。
(それに、アイ=ファが他の男衆とギバ狩りに励んで、絆を深められるっていうのは……やっぱりそれだけで嬉しいもんだよな)
そんな思いを胸に秘めながら、ルウの人々とも合流して、あらためて宿場町を目指す。
その途上で「そういえば」と声をあげてきたのは、日替わり要員のひとりたるクルア=スンであった。
「宿場町で料理の手ほどきをしている方々は、もう一緒に行動していないのですね。それとも、今日は休みなのでしょうか?」
「いや。手ほどきの時間を、少し前にずらしたんだよ。早く出向いて早く終わらせるほうが、おたがいに都合がよかったみたいでね」
宿屋の人々に調理の手ほどきをするという仕事も、いまだに継続されている。あれはアイ=ファの生誕の日が始まりであったから、今日で9日目となるわけだ。
初日には大勢の家人を引き連れていたが、それ以降はルウとフォウとディンで順番に荷車を出して、1台で済ませている。なおかつ護衛役に関しては、リャダ=ルウとバルシャが交代で同行しているとの話であった。
(俺たちはいつもこんな大勢で動いてるけど、あっちは女衆が3人だもんな。町と森をつなぐこの道なんかは衛兵の目もなくて不用心だし、やっぱり護衛役が必要になるんだろう)
本格的な雨季になり、貧民窟の区域もいよいよ賑わってきたようだと、俺はユーミからそんな風に聞いていた。よからぬ企みを胸に秘めた無法者が、貧民窟の空き家や長屋や未認可の宿などに身を潜めて、夜の訪れを待ちかまえているのだそうだ。
そういう輩は日中にうかうかと出歩いたりはしないので、主街道で働く俺たちの目にはまったく留まらないのだが、しかし、何も知らなかった昨年とは異なり、俺たちも普段以上の警戒心でもって、宿場町の仕事に励んでいるのだった。
(アイ=ファなんかは、いまだにちょっとピリピリしてるもんな。とにかく、用心だけはしておこう)
そんな風に念じながら、俺は手綱を操っている腕の肘で、腰に下げた小刀の所在を確認した。
2日前に故郷へと帰還したアルヴァッハたちから贈られた、ゲルドの小刀である。のちに確認したところ、その刀身には実に精緻な紋様が彫りつけられていた。その紋様こそが、災厄除けのまじないであったのだ。
(アイ=ファがもらった手鏡は棚の飾り物になっちゃったけど、あれだってきっと家の災厄を退けてくれるんだろうからな)
東の民とて魔術を捨てた身であるのだから、そういったまじないにどれだけの効力があるのかはわからない。ただ、アルヴァッハたちの思いが込められていることは、確かである。腰に下げた小刀は、俺にとってまぎれもなく大事なお守りとして機能していた。
そうして宿場町に到着したならば、雨にもめげずに屋台の商売だ。
今日の雨は降ったりやんだりで、それが逆に陰鬱な雰囲気を作ってしまっている。しかし、屋台を開けば客足が途切れることもなく、そういった熱気が陰気臭さを払拭してくれるかのようだった。
サウティの血族の3名が皿洗いを手伝ってくれたので、屋台の人員を青空食堂に回す必要もなく、商売は順調に進行されていく。ドーラ親子やユーミやルイア、それにベンやカーゴといった常連の人々も、変わらぬ元気さで屋台にやってきてくれた。
そこで異変が生じたのは、屋台の商売も終わりに差し掛かった頃合いであった。
日替わり献立たる『ギバ肉のマロマロ煮込み』も無事に完売して、俺とクルア=スンも青空食堂の仕事を手伝い始めたとき――そいつが、やってきたのだった。
「アスタ。あの者は、トトスに乗ったまま宿場町に入ってきてしまいましたね」
クルア=スンに呼びかけられて、俺は北の方向に視線を転じた。
ぱらつく雨の中、トトスに乗った何者かがしずしずと街道を南下してくる。だぼっとした革の外套を纏っているので正体は知れなかったが、そんなに大柄な人間ではないように思えた。
「本当だ。ジェノスに来るのは、初めてなのかな。衛兵に叱られる前に、忠告してあげようか」
「でも、無法者などだったら、危険ではないですか?」
クルア=スンの言うことも、もっともである。トトスの上から刀を振り下ろされたりしたら、俺には回避のすべもなかった。
が、こんな昼間からそんな凶行を働く人間は、そうそういないだろう。せめてどのような風貌をしているかが見て取れたら、こちらも覚悟を固められるのだが、その人物は人目を避けるようにフードを深々とかぶってしまっていた。
(だったらこちらからは近づかないで、大きな声で呼びかけてみようかな。ジェノスの法を教えてあげるんだから、まさか怒りはしないだろう)
そんな風に考えて、俺は青空食堂の屋根ぎりぎりの位置まで移動して、その人物が通りかかるのを待ち受けたわけであるが――案に相違して、その人物は自ら俺のほうに近づいてきてしまった。
「おい。ちょっと尋ねたいことがある」
俺が口を開くより早く、馬上ならぬトトス上の人物がそのように呼びかけてきた。
ずいぶん幼げな声であるように思えたが、くぐもっていて判然としない。その人物は、宿場町を視察する際のフェルメスさながらに、襟巻きで口もとを覆い隠していたのだった。
「……た娘を見かけなかったか?」
「え? 何でしょう?」
肝心の部分が聞き取れなかったので、俺は自分の耳もとに手を当ててみせた。
その人物は舌打ちをして、襟巻きを少しだけずり下げる。
その瞬間、俺は後頭部を殴られたような衝撃を受けることになった。
その人物は――頬に、赤黒い傷痕を覗かせていたのだ。
まるで皮膚の下の肉が剥き出しにされているかのような、生々しい傷痕――それは、火傷の痕であるはずだった。
「……銀色の瞳をした娘を見かけなかったか、と尋ねたのだ。そら、そこにいる娘のような感じのな」
俺の隣には、きっとクルア=スンが控えてくれているのだろう。
しかし俺は、その人物の顔から目を離すことができなかった。
深くかぶったフードのせいで、人相まではよくわからない。
ただ、その頬に大きな火傷があることだけは確かであった。
そして――その瞳は琥珀のような金色をしており、フードの陰で野獣のように燃えさかっていたのだった。
「……お前は、西の言葉が通じないのか? だったら、用事はない」
その人物は襟巻きをもとの場所まで引き上げると、そのままトトスを前進させた。
数秒間の忘我ののち、俺は雨の街道へと身を投じる。
「あ、あの! ちょっとお待ちください!」
すでに5メートルほど進んでいたその人物は、トトスの上からうるさそうにこちらを振り返ってきた。
「なんだ、言葉が通じていたのか。銀色の瞳をした娘を見かけたのか? そこの娘よりも、いっそう鮮やかな銀色の瞳だぞ?」
「い、いえ、それは心当たりがありませんけれど……こ、このジェノスの宿場町では、トトスを降りて歩かなくてはならないという法があるんです」
その人物はひとつ肩をすくめると、トトスをしゃがませることなく、ふわりと街道に降り立った。
「お前の親切な振る舞いには、いちおう礼を言っておこう。……それではな」
その人物はトトスの手綱を手に、ひたひたと街道を南に下っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は溜めていた息をおもいきり吐き出す。
(……違う)
あれは、俺が夢や幻影で見た謎の人物ではない。
確かにその顔には、むごたらしいまでの火傷の痕が残されていたが、それだけは確かなことだった。
それは何故かというならば――トトスから降りたあの人物は、子供のように背が低かったのである。
俺が夢や幻影で見た謎の人物は、少なくともアイ=ファぐらいの背丈があった。それは顔の火傷と同じぐらい、俺にとって確かな事実であったのだった。
「……いったいどうされたのですか、アスタ?」
と、クルア=スンが心配そうに呼びかけてきた。彼女も俺を追って、屋根の下から出てきてしまったのだ。
「あ、ああ、ごめん。濡れちゃうから、戻ろうか」
俺は呼吸を整えながら、クルア=スンとともに青空食堂へと避難した。
そうして銀灰色をしたクルア=スンの瞳にじっと見つめられてしまったので、「ごめんごめん」と笑いかけてみせる。
「ちょっとした人違いだったんだよ。まるきり別人だったから、なんでもないんだ」
「人違い、ですか……あまり似た人間などいなそうな、とても不思議な雰囲気の娘であったようですが……」
「娘? あれは、女性だったのかな?」
そう言われてみると、襟巻きをずらしたときに聞かされた声は女性でしかありえないような周波数であった気がする。混乱状態にあった俺は、そんなことすら認識できていなかったのだ。
「本当に大丈夫ですか、アスタ? 何か、ただごとでないように見えてしまうのですが……」
「うん、本当に大丈夫だよ。俺が嘘をついているように見えるかい?」
俺が瞳を見つめ返すと、クルア=スンは頬を染めてうつむいてしまった。
「そ、そのように瞳を覗き込まれると、なんだか恥ずかしくなってしまいます。……でも、すっかり元のアスタに戻られたようですね」
「うん。心配かけちゃって、ごめんね。本当に、ただの勘違いだったんだよ」
俺を打ちのめした衝撃は、嘘のように消え去っていた。俺はただ、顔の火傷から例の謎めく何者かを連想して、それで心を乱してしまっただけのようだった。
(それに俺は、さっきのあいつを見ても、まったく怖くなかったからな。ナチャラの見せた幻影や、今日の朝に見た夢の中では、向かい合っただけであんなに怖かったのに……だからやっぱり、別人なんだろう)
俺は、そのように確信することができた。
また実際、それは真実であったのだろうと思う。
しかし――この日に邂逅した金色の瞳を持つ少女は、まったく思いも寄らない形で、俺たちの日常を脅かすことになったのだった。