序 ~紅蓮の彼方~
2020.12/14 更新分 1/2 ・2021.8/21 誤字を修正
・今回は全12話です。
悪夢の中で、俺は炎に灼かれていた。
もちろん悪夢の中にあって、これは夢だと判じることはかなわない。また、紅蓮の炎に灼かれる俺は、夢と現実の違いを認識することも難しいほどの物凄まじい苦悶に見舞われていたのだった。
視界は真紅と黄金に染まり、炎は俺の存在を細胞の一粒まで灼き尽くさんとばかりに乱舞している。
そうして次に訪れるのは、崩れた建物の瓦礫に圧し潰される地獄の苦悶だ。
俺の肉体は意識ごと散り散りになって、炎の中に融解してしまう。
が――そこで死の安らぎが得られることはなく、気づけば俺はまた炎の中でもがき苦しんでいる。それは永劫に終わることのない、責め苦の連鎖であるのだった。
(どうして……)
わずかながらに残存していた俺という個体の意識が、苦悶の狭間でぼんやり考える。
(どうしてまた、俺がこんな苦しみを味わわないといけないんだ……? この苦しみに、どんな意味があるっていうんだ……?)
故郷において、俺は炎の中で絶命することになった。
そののちに、大陸アムスホルンという場所で第二の生を授かることになった。
これはもしかして、炎の神である西方神セルヴァのはからいだったのではないかと、俺はそのように考えたことがある。
城下町の大聖堂で、初めて西方神の神像を仰ぎ見たとき――そんな得も言われぬ閃光じみた思考が、俺の心を駆け巡っていったのだ。
しかしまた、燃えさかる《つるみ屋》に飛び込んだのは、俺自身の選択である。
俺は、西方神に絶命させられたわけではない。
ならば、西方神というのは愚かな俺の魂を救ってこの世界に送り届けてくれた、文字通り救いの神だったのではないか、と――俺は、そんな風に夢想していたのだ。
不信心な俺がそんな夢想をかきたてられるぐらい、西方神の神像は神々しい姿をしていた。
俺がその姿に小さからぬ恐怖や衝撃を覚えてしまったのは、あくまで炎で焼け死んだときの記憶を想起したためであるのだ。
俺は、西方神を恨んだりはしていない。
むしろ、このように希望と喜びであふれかえった世界で人生をやりなおす運命を授けてくれて、心から感謝している。
だからこそ、俺は西方神の子として大事な同胞とともに生きていくことにも、まったく迷いが生まれたりはしなかったのだ。
俺はあの地で、大陸アムスホルンで、この上なく幸福な生を歩むことができている。
アイ=ファというかけがえのない存在を見出して、さまざまな人々とも絆を深めることができて、自分の生きていく意味を見出すことができた。俺は故郷で家族や幼馴染に囲まれて生きていたときと同じぐらい、幸福な気持ちで日々を生きていくことができているのだ。
それなのに、何故――
(この苦しみには、なんの意味があるんだ……? 馬鹿な俺に対する罰だっていうんなら、それでいい……幸福な生の代償として、この苦しみを味わわないといけないっていうんなら……俺は何度だって乗り越えてやる……こんな苦しみとは引き換えにできないぐらい、俺は大事に思える人たちと巡りあえたんだ……)
粉々になりそうな意識の片隅で、俺はそのように考える。
だが――
何かが、(違う)と答えていた。
これは、罰などではない。
ただ、通らなければならない道であるのだ。
この道を最後まで歩き抜かない限り、本当の意味での幸福は訪れない。
誰かが、何かが、そのように囁いているような心地であった。
そして――真紅と黄金の炎の向こうで、何者かが微笑んでいる。
とてもよく見知っているような――それでいて、初めて目にするような――得体の知れない何者かが。
顔は、見えない。
顔は見えないのに、微笑んでいることは理解できる。
そして――
その何者かの見えざる顔には、はっきりと赤黒い火傷の痕が存在した。
それを知覚した瞬間――
俺の意識は凄まじいまでの恐怖と畏怖で粉々に打ち砕かれ、そして温かい真っ白な光に優しく抱き止められたのだった。
◇
「おい、しっかりせよ、アスタ! 私の声が聞こえぬのか!?」
薄闇の中に、光り輝くような美しい姿があった。
とても美しいのに、その顔は切迫した表情を浮かべてしまっている。
俺は恐ろしい悪夢の余韻に脅かされながら、「ああ……」と声をあげてみせた。
「大丈夫……俺は大丈夫だよ、アイ=ファ……」
「何が大丈夫だ! お前というやつは……!」
アイ=ファの姿がふっとかき消えて、その代わりに俺の全身が温もりに包まれた。アイ=ファが俺に覆いかぶさって、力まかせに抱きすくめてきたのだ。
アイ=ファの温もりと、甘い香りと、あばらを軋ませる怪力が、俺の意識を明瞭にしてくれる。俺は満身でアイ=ファとともにあれる幸福を噛みしめながら、そのやわらかい金褐色の髪にそっと触れてみせた。
「ごめん、心配かけちゃったな……俺は、どうなってたんだろう……?」
「……お前は、寝ながら苦しんでいた。まるで、《アムスホルンの息吹》で高熱にうなされていたときのように……」
アイ=ファのかすかに震える声が、ものすごく近い場所から俺の耳に注ぎ込まれてきた。
「そしてお前は以前にも一度だけ、同じ姿をさらしていたことがある……お前はまた、悪夢に苛まれていたのか?」
「うん……そんな昔のこと、よく覚えてたな……?」
「忘れるわけがあるか! お前が、これほど苦しんでいるというのに!」
俺のあばらがさらに軋んで、右の頬にアイ=ファの頬が押しつけられてきた。
この上ない幸福と痛みを同時に味わわされながら、俺はアイ=ファの頭を撫でてみせる。
「うん、ごめん……あばらが折れる寸前だから、もうちょっとだけ力をゆるめてもらえるかな……?」
アイ=ファが、がばりと身を起こした。
そして、怒りながら泣いているような顔で、俺の胸もとにそっと手を触れてくる。
「苦しんでいたのはお前であるのに、また私のほうが取り乱してしまった。……どこも痛くはしておらぬか?」
「うん、大丈夫。心配かけて、ごめんな。……それに、ありがとう」
俺は、寝具の上に身を起こしてみせた。
いったん身を引いたアイ=ファは、すぐさま急接近して俺の瞳を覗き込んでくる。
「うむ。お前の瞳には、力が満ちている。……熱を出したりもしてはいないようだな」
と、アイ=ファの手の平がそっと額に触れてきた。
その温もりが、また俺を幸福な心地にしてくれる。
「お前は以前に同じ姿を見せたとき、前の世界で生命を失うときの夢を見ていたと言っていた。……このたびも、同じ悪夢に見舞われてしまったのか?」
「うん。炎で焼かれて、ぐしゃぐしゃに潰される夢だ。……ただひとつだけ、以前と違う点もあったな」
「どのような点だ?」と、アイ=ファは鼻先がぶつかりそうな勢いで顔を寄せてきた。
「夢の中に、アレが出てきたんだ。ほら、ナチャラの不思議な術で、俺が思い出した……顔に火傷のある、誰かの幻影だ」
「その何者かの正体が知れたのか?」
「いや、やっぱり前回と同じだった。火傷があって、笑っているのもわかるのに、目鼻立ちなんかは霞んでて認識できないんだよ。ちょうどアイ=ファぐらいの背丈をした、痩せ型の体格だと思うんだけどな」
「……そこまでわかるのに、顔立ちはわからんのか?」
「うん、申し訳ない。もしかしたら……俺の頭が、認識するのを拒んでるのかもな」
そうして俺がぶるっと身体を震わせてしまうと、たちまちアイ=ファの手が俺の額にのびてきた。
「熱はない。……本当に身体は、大事ないのか? お前は《アムスホルンの息吹》を患った際にも、同じ悪夢に苛まれていたはずだ」
「うん、大丈夫。身体は元気だし、心はもっと元気だよ」
それは、虚言ではない。俺の心はアイ=ファの存在によって、速やかに癒やされていたのだ。
「たしか前回もそうだったと思うんだけど……苦しかった反動で、すごく幸福な気持ちなんだ。俺はアイ=ファと出会うことができて、なんて幸福なんだろうって……」
アイ=ファはきゅっと唇を噛みしめると、再び俺の身体を抱きすくめてきた。
今度は力の加減もきいていて、あばらが軋むこともない。ただアイ=ファの温もりと甘い香りだけをぞんぶんに感じることができた。
アイ=ファもまだ髪を結いあげる前であったので、金褐色の長い髪が自然に背中まで流れ落ちている。俺は万感の思いを込めて、そのきらめきに指先をからませた。
「あの夢には、きっと何かの意味があるんだろう。でも、それがどんな意味を持っていようと、俺は大丈夫だよ。……こうやって、アイ=ファがそばにいてくれるからさ」
「……私は絶対に、お前の存在を手放したりはしない」
アイ=ファがそのように囁くのと同時に、凄まじいほどに甘美な痛みが俺の右耳に炸裂した。
俺は「ひょわあ!」とけったいな雄叫びをあげて、思わずアイ=ファの両肩をわしづかみにしてしまう。
「な、なんだ? まさか今、俺の耳に噛みついたのか!?」
「うむ。何か無性に、そうしたくなってしまったのだ。案じずとも、傷になるほどの力は込めていない」
「そ、そういう問題じゃないだろう。家人の耳に噛みつくなんて、そんな行いはつつしむべきだと思うぞ!」
「……お前とて、私の首に歯を立てたことがあったではないか?」
「それこそ、いつの話だよ! と、とにかくな、悪ふざけはやめましょうね、家長殿?」
アイ=ファの両肩に手をかけた俺は、それをやんわり遠ざけようと試みたが、俺の胴体をやわらかく抱きすくめたアイ=ファの身体は微動だにしなかった。
「うむ……お前がそのように取り乱すのは、とても可愛らしいように思う」
「だ、だからといって、家人の嫌がるようなことを繰り返したりはしないよな?」
「うむ……私とて、お前がそうまで嫌がるのであれば、自制するべきかと思うのだが……」
アイ=ファが声を発するたびに、俺の耳の皮膚がざわめく。それほどに、アイ=ファの口と俺の耳は危険な距離を保持しているのだ。
あの桜色をした唇と健康そうな白い歯が、いつまた俺の耳を蹂躙するかと想像しただけで、俺は背筋がぞくぞくとしてしまった。
もちろんそれは不快だからではなく、その真逆の感覚を孕んでいたためである。アイ=ファは自分の行いが俺の理性をどれだけ激しく揺さぶっているものか、まったく想像できていないところが恐怖の極致であった。
「と、とりあえず、朝の仕事に取りかかってみてはどうだろうか?」
「……いまだ、慌てるような刻限ではない。今少し、お前が元気であった喜びを噛みしめたく思う」
「つ、ついでに耳を噛みしめたりはしないようにな?」
「…………」
「何故に黙り込むのであろうか!?」
そうして俺がひとりで騒いでいると、目の端で黒い影がひょこりと動いた。
毛布の中でぬくぬくと身を休めていた黒猫のサチが、うるさそうに顔を覗かせたのだ。
「サチ! 助けてくれー! 俺たちの家長様が、ご乱心だ!」
サチは「なうう」と鳴くばかりであったが、そこには「知らんがな」という断固たる意志が表明されているように思えてならなかった。
ともあれ、その日の朝は常ならぬ騒乱の内に幕を開かれることになったわけである。
俺がこの日に悪夢を見たのは、何かの啓示だったのか。あるいは偶然の産物であったのか――それから数日にわたって繰り広げられた騒動の後に振り返ってみても、俺には何とも判ずることがかなわなかったのだった。