ファの家長の生誕の日③~晩餐~
2020.11/8 更新分 1/1
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そうして、日没――
アイ=ファは無事に2頭目のギバを家に持ち帰り、俺たちも祝いの晩餐を作りあげることがかなった。
なおかつ、日が暮れる前にやってきたルド=ルウもアイ=ファを手伝ってくれたので、解体の作業も滞りなく終了したとのことである。
アイ=ファに俺、ジバ婆さんとリミ=ルウとルド=ルウ、サリス・ラン=フォウとアイム=フォウ――3つの家の7名が、晩餐を囲んで座している。最近になって客人を迎える機会の増えたファの家であるが、やはり今日ばかりは特別な空気があふれかえっていた。
「ファの家長アイ=ファの、19度目の生誕の日を祝福します。これからもファの氏に恥じない家長として生き、家人を導いてくれることを願います」
この言葉を口にするのも2度目のこととなるが、やはりこういった祝辞というものには馴染みがない。
それでも俺は、この世でもっとも大切に思う相手のために、精一杯の思いを込めて祝いの言葉を届けさせてもらった。
アイ=ファは厳粛な面持ちをキープしつつ、それでもどこかくすぐったそうな様子で、「うむ」とうなずく。
「それでは、家長に祝福の花を捧げます。……アイ=ファ、おめでとう」
ルウの集落の森の端で摘んだ青いミゾラの大輪を、俺はアイ=ファのこめかみに飾ってみせた。
やはりアイ=ファは厳粛な面持ちであるが、間近から俺を見つめる青い瞳は、とても優しげだ。
「では、客人がたもお願いいたします」
ジバ婆さんは、赤いミゾラをアイ=ファの左胸のあたりに捧げた。
ルド=ルウはアイ=ファの身に触れることができないため、白いミゾラをリミ=ルウに手渡す。リミ=ルウは、自分で準備した黄色のミゾラと一緒に、それをアイ=ファの腰巻きに差した。
しかるのちに、サリス・ラン=フォウがアイム=フォウの手を引いて、アイ=ファのそばに近づいてくる。彼女は俺が名前を知らない青色の花を準備しており、俺の捧げたミゾラのすぐ下に差し込んだ。
「これは、アイムが自分で摘んだのよ」
アイム=フォウの小さな手には、さらに小さな白いスイセンのような花がのせられている。
アイ=ファはこらえかねたように微笑しながら、アイム=フォウのほうに頭を下げた。
アイム=フォウは真剣な面持ちで、俺とサリス・ラン=フォウの花のすぐそばに、小さな花を差し込んだ。
フォウの母子が加わったために、アイ=ファの姿は昨年よりもいっそう華やかに飾られている。
家人ならぬ相手に花を贈られるというのは、決して森辺の習わしに合致した行いではないのだが――それでも俺は、この日の行いを改める気持ちにはなれなかった。
「家人アスタ、そして友たるジバ=ルウ、ルド=ルウ、リミ=ルウ、サリス・ラン=フォウ、アイム=フォウの贈り物を、心から嬉しく思う」
やわらかく自然な微笑をたたえたまま、アイ=ファはそのように返礼の言葉を口にした。
アイ=ファの大事な友たちも、その姿を幸福そうに見守っている。もちろん俺も、それと同じ表情を浮かべていることだろう。
「それで、と……今年も贈り物を準備しちゃったんだけど、もらってくれるかなあ?」
俺の言葉に、アイ=ファの微笑が苦笑へと変ずる。
「花の他には贈り物など不要と言っているのに、しかたのないやつだな、お前は」
「うん、申し訳ない。どうしても、内なる衝動を抑えられなくてな」
それに昨年も、男衆が女衆に飾り物を贈ることは珍しい話ではないと、ジバ婆さんからお墨付きをいただいているのだ。ならば、俺の故郷の習わしを無理に持ち込んでいるということにもならないはずだった。
「また飾り物? わー、楽しみ! 今度はどんな飾り物なんだろー!」
リミ=ルウも、期待に満ちた目で俺たちを見守ってくれている。
アイ=ファの穏やかな眼差しを了承の合図と解釈し、俺は腰の物入れをまさぐった。
そこから取り出されたものを見て、感嘆の声をあげたのはサリス・ラン=フォウである。
「美しいですね……それは、首飾りでしょうか?」
「はい。シムの銀でできているそうです」
それは白銀の華奢な鎖をつなげられたものであり、前側には小さな木の葉をモチーフにした飾りがいくつも下げられていた。
「それでな、これはアイ=ファの首飾りの宝石が付け替えられるはずなんだよ」
「うむ? それはこの、青い石のことか?」
「うん。ちょっとそいつを貸してもらえるか?」
それは、俺がアイ=ファに最初に贈った首飾りである。生誕の日とは関係なく、アイ=ファに日頃の感謝を込めて、シュミラル=リリンから買い求めたものであるのだ。
当時のアイ=ファは今よりも猛々しく、身を飾りたてることを忌避していた。だがこれは厄災除けの効能もあると聞き及んだので、狩人として生きるアイ=ファの健やかな生を願って贈らせてもらうことになったのだった。
銀色の土台になる盤に、親指の爪ほどの青い石が嵌め込まれている。それを革の紐から外して、俺は新たな贈り物たる銀の鎖につなげてみせた。
「城下町で宴衣装を纏うときなんかは、シェイラが銀の鎖を準備してくれていただろう? 城下町の祝宴に限らず、宴衣装を纏うときはこっちに付け替えてくれたら嬉しいなと思ったんだけど……どうだろう?」
「どうだろうも何も、すでに買いつけてしまったものを無駄にするわけにもいくまい」
まだ苦笑っぽい表情を浮かべつつ、アイ=ファはそう言った。
「私はべつだん、宴衣装でも革紐のままで問題なかろうと思うのだが……よい。好きにしろ」
「それでは、つつしんでお贈りいたします」
おどけた口調で気恥ずかしさをごまかしつつ、俺はアイ=ファの背後に回り込んだ。その優美な曲線を描くうなじにどぎまぎしながら、鎖の留め具を結合させる。
とたんに、リミ=ルウが「うわあ」と声を弾ませた。
「すごくきれーい! いいなあ。宴衣装で見てみたいなあ」
「晩餐を前にして、着替えるつもりなどないからな」
アイ=ファが現在身につけているのは、男ものの長袖の装束である。普段は女衆の装束を纏うアイ=ファであるが、雨季のポンチョめいた装束は狩りの仕事に支障があるとして、この装束を纏っているのだ。
しかしそれでも、青い宝石を光らせる銀の飾り物は、アイ=ファにまたとなく似合っているように感じられた。
そもそもこの宝石は、アイ=ファの瞳の色とそっくりだと、ほとんどひと目惚れで購入を決定した逸品であるのだ。ジバ婆さんもサリス・ラン=フォウも満足そうに目を細めており、アイム=フォウも「きれー」と言ってくれていた。
「ふーん? 最初っからそいつにくっついてたみたいに、ぴったり馴染んでんなー」
晩餐の開始を待ってそわそわと身を揺すりつつ、ルド=ルウはそのように言いたてた。
俺は充足した気持ちで、そちらに「うん」と笑いかけてみせる。
「実はこの飾り物は、同じ職人の手によるものらしいんだよ。ラダジッドが以前に買ったときのことを覚えてくれていて、これをおすすめしてくれたんだ」
「ラダジッド?」と、アイ=ファはけげんそうな顔をした。
「そうか。そもそもこの青い石は、《銀の壺》から買いつけたものであったな」
「うん、そうそう。だから、その石に合う鎖はないかって相談させてもらったんだ」
「しかしラダジッドらは、もうふた月も前にジェノスを離れているはずだな」
語るに落ちるとは、このことであろうか。
俺は自分で意識していた以上に、はしゃいでしまっていたようだった。
「ああ、うん、その……紫の月に《銀の壺》がやってきたときに、すぐさま相談させてもらったんだよな」
「ならば、3ヶ月近くにも及ぶことになる。お前はそのような昔から、この品を準備していたというのか?」
「うん……その頃から、その石に合う鎖を贈りたいって思ってたからな」
「ふへー」とおかしな声をあげたのは、ルド=ルウだった。
「それから3ヶ月、ずーっとそいつを隠してたのかよ? すげーなあ。俺だったら、そんなに黙ってられねーよ。別に贈り物なんて、いつ贈ったっていいんだろ? わざわざ生誕の日を待つ必要ねーじゃん」
「うん、まあ、そうなんだけど……生誕の日に、アイ=ファに喜んでほしかったからさ」
そこまでの心情をさらすつもりはなかったので、俺としては赤面の至りである。
いっぽう、アイ=ファのほうはというと――これまた意外なことに、俺に負けないほど顔を赤くしてしまっていた。
「お、お前は考えが足りておらぬぞ、アスタよ。そもそも私が飾り物を喜ぶような人間でないということは、お前だってわきまえておろうが?」
「そ、そうなんだけどな。自分の気持ち的にというか……とにかく、生誕の日の楽しい思い出にしてほしかったんだよ」
アイ=ファは自分の感情を見定めかねているかのように、慌ただしく赤い頬をさすっていた。
そこに、ジバ婆さんのゆったりとした笑い声が響く。
「何にせよ、素敵な贈り物じゃないか……アイ=ファが宴衣装を纏う日が楽しみだねえ……」
「ええ、本当に。早くその日がやってきてほしいものです」
サリス・ラン=フォウも、アイ=ファの動揺を微笑ましく思っている様子で、くすりと笑っていた。
「それじゃあ、晩餐を始めねーか? 俺、ずーっと腹ぺこなんだよー」
「うん、そうだね。お待たせしちゃって、申し訳ない。すぐに準備するよ」
俺はリミ=ルウとサリス・ラン=フォウを引き連れて、かまど小屋へと取って返した。今日は保温の必要な料理が多かったため、母屋のかまどだけでは用事が足りなかったのだ。
幸い雨はほとんどやんでいたので、外套は使わずに往復する。すでに食事を終えているブレイブたちは、きょとんとした面持ちで俺たちの姿を見守っていた。
「それじゃあリミ=ルウたちは、汁物料理のほうをお願いするよ」
「りょうかーい!」
俺は、母屋のかまどで保温していた肉料理の準備である。かまどの近くではサチが丸くなっており、こちらは俺が近づいても片目で横目の視線を送ってくるばかりであった。
「よし、準備完了! 家長、食前の挨拶をお願いいたします」
ようやく頬の赤みがおさまってきたアイ=ファは、厳粛なる声音で食前の文言を唱えた。俺たちもそれを復唱し、ようやく晩餐の開始である。
「昨年と同じような献立だけど、さらに趣向を凝らしたつもりだぞ」
アイ=ファは目の前に並べられた料理を見回しながら、「そうか」と微笑んでくれた。
昨年と同じような献立というのは、つまりハンバーグの波状攻撃であった。小ぶりだが、噛みごたえを重視して分厚い俵形に仕上げたハンバーグを山のように積み上げて、さまざまなソースやトッピングを準備したのだ。
間もなく宿場町では購入できなくなるタラパのソースに、王道のデミグラスソース、ハンバーグ用に調整したカレーソースと、ここまでは普段の晩餐でもお馴染みのラインナップだ。
ダイコンのごときシィマのすりおろしには、大葉のごときミャンと梅干のごとき干しキキを使ったさっぱり仕立てのドレッシング風ソースを準備している。
豆板醤のごときマロマロのチット漬けは、ゴマ油のごときホボイ油と山椒のごときココリ、ミャームーとケルの根とユラル・パのみじん切りを加えた上で熱し、中華風のピリ辛ソースに仕上げてみせた。
さらに、セージのごときミャンツとヨモギのごときブケラを基調としたスパイスのパウダーというのも、本日が初のお披露目であった。
なおかつ、ハンバーグのパテはノーマルバージョンの他に、タンをミンチにしたものと、タンの角切りを練り込んだものも準備している。ジバ婆さんはタンの角切りを噛みきれないとの話であったが、小ぶりのパテからはあちこちにタンの角が飛び出していたので、誤って口にする恐れはなかった。
「それと、こいつもようやく納得のいく出来になったんだ。乾酪ソースとでも命名しようか」
それは遥かなる昔、ダバッグで口にした乾酪フォンデュの再現を試みたものであった。
まずはたっぷりの乳脂を火にかけて、フワノ粉を溶いたのちにカロン乳を投入する。最後に細かく刻んだギャマの乾酪も溶かし込んで、ねっとりとしたソースに仕上げたのだ。
もともとアイ=ファは乾酪・イン・バーグを好んでいたので、俺も乾酪ソースの開発には大きな意義を見いだせずにいた。
が、こういったハンバーグ尽くしの献立であれば、さまざまなソースと組み合わせるという楽しみが生まれるのではないかと思い、この日のために完成させてみせたのであった。
「俺のおすすめは、タンを使ったパテに、タラパソースと乾酪ソースの組み合わせだな。よかったら、最初にそれを試してみてくれ」
俺は最愛なる家長のために、手ずからその皿を仕上げてみせた。
木皿を受け取ったアイ=ファは、匙で切り分けたパテに2種のソースをたっぷりからめて、口に運ぶ。
やがてその桜色をした唇から、切ないような吐息がもらされた。
「これはまた、乾酪の入ったはんばーぐとはまったく異なる味わいであるようだな。……まったく異なるが、同じぐらい美味であるように思う」
そうしてアイ=ファは、少し気恥ずかしそうに客人たちを見回した。
「べつだん、生誕を祝われる人間が必ず最初に口をつけねばならないなどという習わしはあるまい? 皆にも、この喜びを分かち合ってもらいたく思う」
「だって、アイ=ファが食べるまで待てって、ちびリミがうるせーんだもんよー」
そんなルド=ルウの言葉を合図に、俺たちも晩餐を開始することにした。
肉料理はハンバーグ尽くしとしたために、肉を使わない副菜も各種取りそろえている。アリアとティノとネェノンとオンダ、ブナシメジモドキとキクラゲモドキを使ったキノコと野菜の炒め物は、塩とピコの葉とタウ油と魚醤であっさりめの味付けにしており、キュウリのごときペレの和え物や、小松菜のごときファーナと完熟コーンのごときメレスの乳脂ソテーも、味の強いハンバーグに合わせての添え物であった。
また、ルド=ルウからのリクエストを取り入れて、チャッチ・サラダもどっさり準備している。キュウリのごときペレは、こちらでも完成度の向上に寄与してくれた。
汁物料理はリミ=ルウとの協議の末、ギバ肉とキミュスの骨ガラで出汁を取った、タウ油と魚醤のシンプルなスープとした。具材も野菜はたっぷりだが、ギバ肉は出汁を取るのに必要最低限な分だけ投じている。ハンバーグのバリエーションがここまで増えたのならば、汁物料理も主張しすぎない献立にするべきという判断である。主食も、真っ白に炊きあげたプレーンのシャスカのみであった。
「すごいですね。はんばーぐだけで、これだけ多彩な味を生み出せるなんて……わたしはこの、刻んだシィマに甘酸っぱいそーすを掛けたものが口に合うようです」
「うんうん! それもおいしーよね! みんなみーんなおいしーけど……リミは、でみぐらすそーすと乾酪そーすを一緒に掛けたやつかなあ」
「俺はこの、辛いやつが好きな感じだな。これってあの、ゲルドの連中から買いつけたやつなんだろ?」
「うん。マロマロのチット漬けだね。他にも色々な食材を使ってるけどさ。……あ、アイム=フォウには辛すぎると思うから、気をつけてね」
「うん。からいの、いたいからいや」
サリス・ラン=フォウとアイム=フォウはどちらも控え目な気性であるが、それでもやっぱり場を賑やかす大きな要因になっているように感じられた。
リミ=ルウに料理の取り分けを手伝ってもらいながら、ジバ婆さんは透き通った眼差しで団欒の場を見守ってくれている。
「ファの家を新しく建てなおしたのも、この1年の間のことだったよねえ……そうとは思えないほど、ここにはアイ=ファとアスタの香りがしみついているように感じられるよ……」
「うむ? 毎日きちんと身を清めているので、そう匂ったりはしないように思うのだが……」
「そうじゃなくってさ……何か、ほっとするんだよ……アイ=ファとアスタに包み込まれているような気分でさ……」
そうなのだろうか、と俺も思わず広間の内部を見回してしまった。
家を再建してもう何ヶ月も経過しているので、これが新築だという気分は薄くなっている。新たに設置した大きな棚も、以前より少しだけ広くなった広間も、じわじわと飴色に変化しつつある壁の木目なども、すっかり見慣れた光景だ。
「家というのは、ただの囲いではないからねえ……この家が、アイ=ファとアスタを育んで……アイ=ファとアスタが、この家を育んでいる……あたしには、そんな風に思えるんだよ……」
「ふーん。よくわかんねーな。ま、自分の家が一番落ち着くってのは確かなんだろうけどよ」
チャッチ・サラダをもりもり食べてから、ルド=ルウはにっと笑った。
「そういえば、北の集落の家とかに比べると、ファの家のほうが落ち着くなー。やっぱ絆の深い相手の家のほうが、のんびりできるのかもしれねーな」
「北の集落? ……ああ、そうか。ルド=ルウも何日か、北の集落でお世話になってたもんね。雨季が明けたら、また家人を貸し合ったりするのかな?」
「さー、どうだかな。めんどくせーから、そのときは別のやつに行ってもらいてーよ」
ルド=ルウはアクティブで好奇心も旺盛であったが、こと家人を貸し合うという行いに関しては興味が薄かった。もしかしたら、それは大好きな妹と離ればなれになるのが寂しいのであろうかと思わなくもないのだが――そのようなことを口にしたらとんでもない逆襲をくらってしまいそうなので、大人しく口をつぐんでおくことにした。
「そういえば、アイ=ファたちはルウの集落で過ごしていた時期がありましたよね」
サリス・ラン=フォウの言葉に、「んー?」とルド=ルウは首を傾げた。
「ああ、アスタがリフレイアにさらわれたときか。アスタを取り返した後、貴族の連中との決着がつくまでは、ルウの空き家で預かってたんだったなー」
「はい。アスタが無事に戻ってきたと聞いて、わたしは心から安堵しました」
そのように語りながら、サリス・ラン=フォウはアイ=ファのほうに視線を送った。そういえば、ふたりは俺がさらわれた事件をきっかけにして、絆を結びなおすことがかなったのである。
「あと、ガズラン=ルティムたちのお祝いのときもね! あのときは、10日ぐらいだったっけ?」
リミ=ルウが元気に発言すると、サリス・ラン=フォウは「え?」とそちらを振り返った。
「それは、いつのことでしょう? さきほどの話以外で、アイ=ファたちが何日も家を空けたような記憶はないのですが……」
「ああ、それは一昨年の家長会議よりも前の話であったので、まだ近在の方々とは疎遠な頃でした」
俺が説明すると、サリス・ラン=フォウは「そうですか……」と目を伏せた。
「では、わたしが気づけるはずもありませんね。わたしは自分の意思で、アイ=ファから身を遠ざけていたのですから……」
「でも、今はこんなに仲良しだから、いいんだよー! ね、アイ=ファ?」
リミ=ルウは、いくぶん慌てた様子でアイ=ファのほうを見る。
アイ=ファはその手の木皿を敷物に戻して、「うむ」と優しい眼差しをサリス・ラン=フォウに向けた。
「私たちはおたがいに道を間違えてしまったが、こうして正しい道に戻ることができたのだ。今さら過去の話を悔いる必要はあるまい、サリス・ラン=フォウよ」
「でも……アイ=ファは何も間違ったりはしていないでしょう?」
「そのようなことはない。大事な友であったサリス・ラン=フォウとの絆を結びなおそうという努力をしなかったのだから、それが正しい道であるわけがなかろう」
優しい眼差しをしたアイ=ファが、優しい口調でそう言った。
「たとえスン家の目があろうとも、絆を結びなおす手段などいくらでもあったはずだ。しかし私は頑なにその道を選ばず、すべての友を自分から切り離そうとした。サリス・ラン=フォウだけでなく、ジバ婆やリミ=ルウに対しても同じ間違いを犯してしまっていたのだ」
「そりゃあ、しかたねーよ。あの頃のスン家は、無茶苦茶だったみてーだからな。うちの親父だって、いつ刀を取るかってずーっと思い悩んでたぐらいだしよ」
あっけらかんとした口調で、ルド=ルウはそう言った。
「でさ、何も祝いの日にそんな湿っぽい話をする必要はないんじゃねーの? 俺たちは、アイ=ファを楽しい気分にさせるために集まったんだろ?」
「そうですね」と、サリス・ラン=フォウは申し訳なさそうに微笑んだ。
「おかしなことを言い出してしまってごめんなさい、アイ=ファ。今日はアイ=ファの生誕のお祝いなのにね」
「かまわん。皆が集まってくれただけで、私は十分に幸福であるからな」
大事な幼馴染に、アイ=ファはやわらかい微笑を投げかけた。
「だがしかし、好んで暗い話を持ち出すことはなかろう。……アスタ、何か明るい話を供するがいい」
「え、俺が? ものすごい無茶振りをしてくれるなあ」
「客人をもてなすのは、家人のつとめであろうが? かまど仕事だけが、お前の仕事ではないぞ」
言葉だけを聞くと横暴であるが、アイ=ファの表情や口調には温かみが込められている。俺は家長の期待に応えるべく、「うーん」と頭をひねることになった。
「俺としては、自分の知らない時代のことなんかを聞いてみたいんだけど……サリス・ラン=フォウは、いつごろアイ=ファと知り合ったのですか?」
「アイ=ファとは幼い頃から水場でよく顔をあわせていたので、物心がつくころには言葉を交わしていたように思います。大事な友だと思うようになったのは……10歳になるかならないかという齢であったでしょうか」
その時代を懐かしむように、サリス・ラン=フォウは目を細めた。
「アイ=ファはその頃から、とても顔立ちが整っていて……それに、この辺りでは珍しい金色の髪をしていたので、とても目をひかれました。わたしだけでなく、多くの幼子がアイ=ファを好ましく思っていたはずです」
「うむ? 私はサリス・ラン=フォウの他に、それほど親しくしていた相手はいなかったはずだが」
「それはアイ=ファが、男の子にまじって狩人の修練めいた遊びにばかり興じていたからでしょうね」
不審顔のアイ=ファに、サリス・ラン=フォウはくすりと笑う。
「10歳にもなると、男の子は木に登ったり棒を振り回したりばっかりで、女の子と遊ぶこともなくなってくるでしょう? だから、だいたいの女の子はアイ=ファを遠くから眺めているばかりになってしまったのよね」
「それじゃあ、男の子は?」と、リミ=ルウが興味津々の面持ちで問い質した。
「男の子は……木登りでも棒引きでも棒の打ち合いでもアイ=ファにかなわないから、ちょっとアイ=ファを疎んじるようになってしまいました。大人たちも、アイ=ファに狩人の真似事をやめるように言いつけていたので……それでアイ=ファは、フォウやランの集落に近づかないようになってしまったのですね」
「なるほどねえ……あたしやリミと初めて出会ったときも、アイ=ファは木渡りの修練をしていたんだよねえ……まだ11歳の幼子だったっていうのにさ……」
こちらも懐かしそうに目を細めつつ、ジバ婆さんがそう言った。
「それで……アイ=ファはそちらの家に近づかないようになっちまったのに、あんたはアイ=ファと絆を深めることができたんだね……?」
「はい。アイ=ファが来てくれないことを寂しく思い、自分からファの家におもむくようになったのです」
サリス・ラン=フォウとジバ婆さんに左右から見つめられて、アイ=ファは居心地悪そうに肩を揺すった。
「まあ、私のような変わり者を友と見なしてくれたのは、ジバ婆とリミ=ルウとサリス・ラン=フォウだけであったということだ。このように偏屈な人間を見捨てずにいてくれて、ありがたく思っている」
「偏屈だなんてことはないわ。アイ=ファは困ると怒ったような顔になってしまうから、誤解されやすいだけなのよ」
「そうだねえ……アイ=ファがどんな人間であるかが知れれば、誰だって好ましく思うはずさ……」
「うん! 今ではルウの血族でもこのあたりの氏族でも、アイ=ファと仲良くしたいって思ってる人たちはいーっぱいいるもんね!」
アイ=ファはますます辟易した様子で、残りわずかなハンバーグを乱暴にかじり取る。賞賛の言葉が苦手であるという性分は、19歳になっても健在であるようだった。
「なるほどなー。まあ、周りの連中にそれだけ忌避されながら、狩人として生きることをあきらめないで、そこまでの力をつけることができたんだからな。それは俺も、すげーと思ってるよ」
「……それだけ私が、偏屈であったということだ」
「いいんじゃねーの、偏屈で。うちの親父やダルム兄だって、偏屈の部類だろうしよ。誰も彼もがダン=ルティムみてーな人間だったら、騒がしくてかなわねーよ」
アイ=ファ当人は困惑気味であったが、室内には温かい空気があふれかえっている。アイ=ファの言いつけで話題を提供した俺としても、満足な結果であった。
それにアイ=ファの困惑というのは、きっと幸福感の裏返しであるように思うのだ。
孤独に生きてきた期間の長いアイ=ファは、大勢の人間から好意や厚意を向けられることに馴染みが薄くなってしまっている。だからきっと、自分の胸に去来する幸福感を持て余してしまうのではないか――と、俺にはそのように思えるのだった。
アイ=ファは13歳で母親を失い、15歳で父親を失った。そうして俺との出会いをきっかけに、他のみんなと絆を結びなおせたのは、17歳の頃だ。それからまだ、たった2年しか経っていないのだから、焦らずにゆっくりと幸福感の置き場所を作っていけばいいのだろう。こんなのはほんの手始めで、アイ=ファはこれから数多くの人々を友にしていくのだろうと、俺はそのように信じていた。
(アイ=ファ自身も、アイ=ファを取り巻く環境も、これからどんどん変化していくんだろう。それをずっと、アイ=ファのすぐそばで見守り続けることができたら……俺にはそれが、一番幸せだよ)
心の中でそんな風につぶやきながら、俺はその場に満ちた温かい空気にひたることにした。
困惑顔で、しきりに頭をかきながら――それでもやっぱりアイ=ファの眼差しは、とても幸福そうだった。