ファの家長の生誕の日②~追憶~
2020.11/7 更新分 1/1
「晩餐会、ヴァルカス、迎えたい、考えている」
4種の料理にトゥール=ディンの菓子までたいらげた後、アルヴァッハは3名の同胞とともに屋台の裏まで回り込み、そのように告げてきた。
「ヴァルカスを? 俺とヴァルカスで、厨をお預かりするということでしょうか?」
「当初、そのように、考えていた。トゥラン伯爵家、晩餐会、模倣である」
トゥラン伯爵家の晩餐会では、俺とヴァルカスとヤンが3種ずつ料理や菓子を準備するという、変則的な手法が取られたのだ。あれはあれで、なかなか面白い試みであったと俺は記憶している。
「しかし、ヴァルカス、新たな食材、扱い方、研究のさなか、聞いている。そちら、確立されていないため、雨季の食材、扱うこと、不可能である、聞いている」
「ああ、なるほど。俺としても、いまだ雨季の食材を手にしていないので、それを新たな食材とうまく組み合わせられるかどうかは心もとない状態なのですよね」
「今回、雨季の食材、味わうこと、本懐である。アスタ、新たな食材、無理に使う、必要、存在しない」
そんな風に言いながら、アルヴァッハの双眸には悩ましげな光が瞬いているようだった。
「ただ……ゲルド、戻る前、ヴァルカス、新たな食材、使った料理、味見しておきたい、考えている。アスタ、雨季の食材。ヴァルカス、新たな食材。分けること、不相応であろうか?」
「いえ。俺はまったくかまいませんけれども……でも、ヴァルカスはどの道、研究のさなかなのでしょう?」
「うむ。ただし、いくつか使い道、見出した、聞いている。それだけでも、披露、願いたい、考えている」
俺としても、ヴァルカスの新たな食材を使った料理というのは、心待ちにしていた案件である。その一端でも披露してもらえるならば、ありがたい限りであった。
「では、その方向、検討、いいだろうか? 日時、迫っているのに、恐縮である」
「とんでもありません。このたびの逗留ではこれが最後の料理となるのですから、俺もみなさんのために腕をふるわせていただきたく思います」
「感謝する」と、アルヴァッハはわずかに目を細めた。
「では、お願いする。ジェノス侯、こちらから、話、伝えておく」
「はい。よろしくお願いいたします。……あ、もうお帰りなのでしょうか? そろそろプラティカも戻るかと思うのですが」
プラティカはこちらにトトスと荷車を預けた後、すぐに屋台村へと出向いてしまったのだ。彼女は入念に味見をするので時間がかかってしまうが、その間にアルヴァッハたちはこれだけの料理をたいらげているのだから、いい加減に戻る頃合いのはずだった。
「……不要である。用事、なければ、顔、あわせる必要、存在しない、考えている」
「え? どうしてです?」
「我、顔、あわせることによって、プラティカ、郷愁の心情、わきおこる懸念、存在する。それでも、決意、不動であろうから、無用の痛み、負う必要、存在しない、考えている」
俺は思わず温かい気持ちになりながら、「お優しいのですね」などと言ってしまった。
アルヴァッハはわずかに目を細めたまま、「プラティカ、大事、同胞である」とだけ答えてくれる。
「では、失礼する。5日後、よろしく願いたい」
「はい。城下町まで、お気をつけて」
そうしてアルヴァッハたちは、雨の向こうへと立ち去っていった。
同じ屋台で働いていたラッツの女衆は、また楽しそうに微笑んでいる。
「さきほど、ディアルについて取り沙汰したばかりですが……東の方々も、わたしは好ましく思います」
「はい。俺も同じ気持ちです」
そうしてその後は不測の事態が生じることもなく、屋台の商売を終えることになった。
後片付けをして《キミュスの尻尾亭》に向かうと、通りすがりにある建物からタリ=ルウとリャダ=ルウが姿を現す。この建物こそが、《ゼリアのつるぎ亭》であったようだ。
「おや、アスタ。これは気遇でしたねえ」
「どうもお疲れ様です。よければ、一緒に戻りましょうか」
「いえ。こちらはトトスと荷車を受け取って、ムファの者たちを迎えに行かなければなりませんので」
雨の往来でそんな言葉を交わしていると、外套を纏ったご主人も姿を現した。
「おお、びっくりした。なんだ、そっちも帰り道かい」
「はい。調理の手ほどきは、如何でしたか?」
「そりゃあもう! 自分たちがどれだけいい加減な手際だったか、嫌というほど思い知らされた心地だよ!」
元気いっぱいに言いながら、ご主人はタリ=ルウのほうに向きなおった。
「どうかこれからもよろしくお願いするよ。なるべく世話をかけないように、こちらも気をつけるからさ」
「いえ。世話を焼くのが仕事だと申しつけられておりますので」
タリ=ルウはおっとりとした感じで微笑み、ご主人も嬉しそうに破顔する。仕事の初日としては、申し分のないスタートを切れた様子であった。
そんなタリ=ルウたちに別れを告げて、俺たちは歩を再開させる。ランやリッドの人々は、宿場町を巡っている他の家人らと合流して、もうしばらくは居残るはずであった。
「やはり、自前の荷車というのは便利なものなのでしょうね。ラッツの家でも準備するべきではないかと、家長に相談しようと思います」
「ああ、いいですね。調理の手ほどきの仕事だって、いずれ回ってくるかもしれませんしね」
小さき氏族が自らトトスと荷車を購入するというのも、森辺の民が確かな豊かさを手にした証であろう。俺は改めて、1年9ヶ月という時間の重みを再認識させられた心地であった。
そうして屋台を返却したならば、まずはルウの集落を目指す。
ここからは頭を切り替えて、いよいよアイ=ファの生誕の日の準備だ。
なんて充実した1日だろうと、俺はひとり喜びを噛みしめていた。
「あー、戻ってきたー! アスタ、待ってたよー!」
ルウの集落に到着すると、雨の広場で待ち受けていたリミ=ルウが外套姿でぴょんぴょんと跳ね回った。朝方の猟犬たちを思わせる微笑ましさである。
「やあ。こんな雨の中、外で待ってたのかい?」
「うん! 楽しみで楽しみで、じっとしてられなかったのー!」
本日は、再びアイ=ファの大事な友人たちを招待する手はずになっていたのだ。
「それじゃあ、ジバ婆も呼んでくるねー! あ、後からルドが荷車で来てくれるはずだから、今は一緒に乗せてってくれる?」
「うん、もちろん。……あ、ちょっとその前に、少しだけ時間をもらえるかな。森の端で、花を摘ませてもらいたいんだ」
「花? お祝いの花を、まだ摘んでなかったの?」
「うん。朝方はアイ=ファと一緒に薪拾いをするから、なかなか機会がなくってね」
ということで、俺はリミ=ルウとともに森の端へと向かうことになった。
外套姿でちょこちょこと進むリミ=ルウは、子犬のようであり妖精さんのようでもある。とりわけ今日はアイ=ファの生誕の日ということで、幸福そうなオーラがぞんぶんに放出されているようだった。
「あー、楽しみだなー! アイ=ファももう19歳なんだね! 初めて会ったときは、すっごくちっちゃかったのになー!」
「あはは。でも、今のリミ=ルウよりは大きかったんじゃないかな? ていうか、当時のリミ=ルウはさらにちっちゃかったんだろう?」
「うん! リミはまだ2歳だったからね! ……そっか。そしたら、今のコタよりちっちゃいんだ! なんか不思議な感じ!」
コタ=ルウも、先月でついに3歳となったのだ。出会った頃は1歳の赤ん坊であったので、こちらも感慨深いことこの上ない。
「俺は2歳の頃の記憶なんて、まったく残ってないからなあ。リミ=ルウは、よく覚えていられたね」
「リミもあんまり覚えてないけどね! でも、アイ=ファのきらきらした髪とか、優しそうな青い目とか、そういうのは覚えてるよ!」
リミ=ルウが2歳の頃、アイ=ファは11歳。そんな彼女たちが森辺の道でばったり遭遇し、楽しそうにたわむれている姿を想像するだけで、俺は目頭が熱くなってしまいそうだった。
そして、当時からすでに老境といえる年齢であったジバ婆さんも、幸福そうに目を細めながら幼子たちの交流を見守っていたのだろう。
「ジバ=ルウの生誕の日は、たしか朱の月の終わり頃だったっけ。今年は雨季にかかっちゃうみたいだね」
「うん! 広場でお祝いとかはできないけど、アスタたちも来てくれるでしょ?」
「ドンダ=ルウやジザ=ルウが許してくれるなら、もちろん。最近は本家にお邪魔する機会もなかったから、楽しみだよ」
ここ数ヶ月で、ルウ本家ではダルム=ルウとヴィナ・ルウ=リリンが家を出ている。それ以降、本家で晩餐をいただいた記憶というのは、あまりなかった。
「ジバ=ルウは、87歳になるんだっけ? それもすごいよなあ。お元気そうで、本当に何よりだよ」
「ジバ婆は、ずっとずーっと元気だよ! リミが婚儀をあげて赤ちゃんを産んだら抱いてあげてねってお願いしてるから!」
あと10年もしない内に、リミ=ルウも婚儀をあげたりするのだろうか。
ジバ婆さんには100歳や200歳になっても、家族との幸福な時間を過ごしてもらいたい限りであった。
(本当に、なんだか不思議な気分だな)
17歳の頃に出会ったアイ=ファが、19歳になる。それは俺の感覚に照らし合わせると、高校生が大学生や社会人になる頃合いであったので、ものすごく大人びて感じられてしまうのだった。
しかしアイ=ファは、変わっていない。もちろん外見も内面も大きく成長しているのであろうが、やはり根っこの本質の部分はまったく変わっていないように思えるのだ。
きっとそれは、誰しもがそうなのだろう。先月の茶の月あたりに生誕の日を迎えた人間が多かったためか、俺はこういう感慨をたびたび抱かされていた。
トゥール=ディンにレイ=マトゥア、ドンダ=ルウにジザ=ルウ、ルド=ルウにコタ=ルウ、そしてヴィナ・ルウ=リリン――ぱっと思いつくだけで、これだけの人々が齢を重ねているのだ。
出会った頃は10歳であったトゥール=ディンは、12歳になった。それはトゥール=ディンが、初めて出会った頃のララ=ルウに追いついたということであった。
もちろん当時のララ=ルウは13歳が目前であったため、今のトゥール=ディンより大人っぽかった印象であるが――その反面、今のトゥール=ディンより子供っぽい一面も備えていたように思う。出会ったばかりのララ=ルウというのは、それはもうネズミ花火のようにけたたましい存在であったのだ。
そしてリミ=ルウは、間もなく出会った頃のトゥール=ディンに追いつくことになる。8歳から10歳になるというのも、それは大きな変化であるはずだった。
ヴィナ・ルウ=リリンは20歳から22歳に、ルド=ルウは15歳から17歳になる。ヴィナ・ルウ=リリンなどは婚儀のせいで変化も顕著であったし、ルド=ルウは――出会った頃の、俺やアイ=ファの年齢に追いつくのだ。そうして俺やアイ=ファのほうは、出会った頃のダルム=ルウに追いつくのだと考えると、それも感慨深い話であった。
なおかつ、彼らの父親であるドンダ=ルウは、44歳になったという。
若輩者である俺に、42歳と44歳に大きな違いは実感できないものの――ただ、ドンダ=ルウがあとどれだけ狩人としての仕事を果たせるのかと考えると、やはり大ごとに思えてしまう。狩人の仕事を引退するならば、家長と族長の座もジザ=ルウに受け継がれるはずであるのだった。
そうして俺自身が、あと3ヶ月足らずで19歳になってしまう。
もしも俺が故郷で過ごしていたならば、とっくに高校を卒業して――進学も就職もさらさら考えていなかったので、朝から晩まで《つるみ屋》で働いているはずだった。
俺はそれほどに、齢を重ねてしまったのだ。
高校2年生であった俺が、もうすぐ19歳となってしまう。いや、本来の誕生日に基づくならば、おそらくすでに19歳になっているのだろう。わけもわからずにこの地で2度目の人生を歩みなおすことになった俺は、もとの世界で過ごした数ヶ月分をリセットして、「黄の月の24日」という新たなバースデーを獲得したのだった。
(この1年と9ヶ月で、俺の肉体はきちんと成長してる。背だってこんなにのびたし、顔つきだってけっこう変わってたし……20歳なら20歳らしく、30歳なら30歳らしく、みんなと一緒に齢を重ねていくことができるんだろう)
それは、心から幸福なことだと思う。
では――故郷のほうは、どうなっているのだろうか。
あちらでも、こちらと同じ速度で時間が過ぎているのだろうか。
玲奈もすでに、19歳になろうとしているのか。
高校を卒業したら、あいつは何を目指すのだろう。大学に行くつもりだとは言っていたが、高校2年生の段階ではまだそれも確定していなかった。
そして、親父は――親父はきちんと、怪我を治せたのだろうか? 軽トラックに猛スピードではね飛ばされて、「生きているのが奇跡だ」とまで言われて、両足を複雑骨折してしまった親父は、無事に退院できたのだろうか。
それに、《つるみ屋》は?
地上げ屋に脅迫されて、ついには燃やされてしまった《つるみ屋》は、いったいどうなったのだろう。
あの土地は、まんまと奪われてしまったのだろうか。
親父と玲奈は、どんな気持ちで日々を過ごしているのだろうか。
《つるみ屋》と俺を同時に失って、親父と玲奈は――
「……ねえ、アスタってば!」
と――リミ=ルウの大きな声が、俺の想念を粉々に打ち砕いた。
一瞬だけ立ち眩みのような感覚に襲われた俺は、ぎゅっと目をつぶって虚脱感を撃退する。
そうして目を開くと、リミ=ルウは俺のおなかのあたりに取りすがって、青い瞳を心配そうに曇らせていた。
「よかったー! 急にアスタが動かなくなっちゃったから、リミ、心配したよー!」
「ああ、ごめん……考え事に夢中になってたみたいだ」
外套を叩く雨粒の音色や、剥き出しの足もとを吹き抜けていく冷たい風、雨に濡れた樹木の香りなどが、ものすごい勢いで俺のもとに戻ってくる。俺は本当に、忘我の状態に陥ってしまっていたようだった。
「ほんとに大丈夫? どこも痛くない? 雨季は病魔に気をつけないといけないんだよ?」
「うん、大丈夫。心配してくれて、ありがとう」
俺は色鮮やかなフードの上から、リミ=ルウの小さな頭を撫でてみせた。
「楽しいことを考えていたはずなのに、ついつい悲しいことを連想しちゃったんだ。こんなおめでたい日に、何をやってるんだろうね」
「……なにか悲しいことがあったの?」
「いや、今は毎日が幸せだよ。幸せだから……たまに、幸せじゃないことを思い出しちゃうんだ」
そう言って、俺はリミ=ルウに笑いかけてみせた。
「虚言は口にしていないよ。俺は、悲しそうに見えるかな?」
「ううん。いまは大丈夫みたいだけど……」
「うん、大丈夫。アイ=ファやリミ=ルウがいてくれるから、俺は大丈夫なんだよ」
今の俺が、親父や玲奈に償う方法はない。
だからこうして、親父や玲奈のことをずっと大事に思い続けることが、俺にとっては唯一の道であった。
◇
「さあ、それじゃあ晩餐の支度に取りかかろうか」
森の端でミゾラの花を獲得した後、俺はリミ=ルウとジバ婆さんを引き連れて、ファの家に帰還した。
しばらく心配そうにしていたリミ=ルウも、持ち前の活力を取り戻して、「おーっ!」と小さな手を振り上げる。本日は勉強会も取りやめて、午後の時間をすべて晩餐の準備に捧げる所存であった。
昨年はこの時間からルド=ルウも居座っていたように記憶しているが、本日はその代わりにサリス・ラン=フォウと愛息のアイム=フォウが参上している。ジバ婆さんの提案で、今日はこちらの2名も招待されることになったのだ。
コタ=ルウと同じく3歳になったアイム=フォウは、ジバ婆さんと並んで壁際の敷物にちょこんと腰を下ろしている。その姿を穏やかな眼差しで見比べつつ、サリス・ラン=フォウはあらためてジバ婆さんに一礼した。
「今日はわたしたちにまで声をかけてくださり、心から感謝しています。でも、本当にお邪魔ではないのでしょうか?」
「邪魔なわけが、あるもんかね……本当は、去年の生誕の日にだって声をかけたかったぐらいなんだよ……」
ジバ婆さんは皺深い顔にやわらかい微笑をたたえつつ、そう言った。
こちらの両名も、昨年の生誕の日に初めて顔をあわせることになったのだ。それぞれ別の場所から別の形でアイ=ファとの絆を育んできた両名が、アイ=ファの存在を通して新たな絆を結んだということである。
「それに、あたしらを招いてくれることを決めたのは、アイ=ファ自身なんだからねえ……感謝するなら、アイ=ファにさ……あとでたっぷり、感謝の言葉を届けるとしようよ……」
「そうですね」と笑顔で応じてから、サリス・ラン=フォウは愛息に向きなおった。
「それじゃあアイムは、大人しくしているのよ? 最長老にご迷惑をかけないようにね」
はにかみ屋さんのアイム=フォウは「うん」とうなずいてから、おずおずとジバ婆さんの顔を見上げた。
ジバ婆さんが「いい子だねえ……」と微笑みかけると、口もとをほころばせる。2歳の頃に1度だけ出会ったジバ婆さんのことを記憶に留めているかは定かではなかったが、身近に存在しない年老いた人間の姿に怯える様子はなかった。
「それじゃあ、お料理がんばろー! リミたちは、何から始めればいいの?」
「それじゃあ、おふたりには肉挽きをお願いするよ。その間に、俺は汁物料理の下ごしらえを済ませちゃうからさ」
「にくひき、りょうかーい! サリス・ラン=フォウ、よろしくねー!」
「はい。よろしくお願いいたします」
雨天のせいで室内は暗くとも、リミ=ルウがいるだけで太陽が出ているような明るさであった。
リミ=ルウとサリス・ラン=フォウは肉挽きを開始して、俺は鉄鍋を火にかける。そんな姿を、ジバ婆さんは感じ入った様子で見守ってくれていた。
「なんだか、あっという間の1年だったねえ……年をくうごとに、時間は早く感じられるものだけど……この1年は楽しかったせいか、いっそうあっという間だったように思えてしまうよ……」
「ええ。本当に、色々なことがありましたもんね」
ひとつひとつを数えあげていたら、枚挙にいとまがないだろう。森辺の民の全体に関わることだけでも、家長会議で大きな変革がもたらされたり、聖堂で西方神の洗礼を受けたり、すべての氏族で生鮮肉と腸詰肉の販売を受け持ったりと、それだけの出来事が生じているのだ。
「ヴィナやダルムが婚儀をあげたり、シュミラル=リリンに氏を与えたり、ジーダたちを家人に迎えたり……ガズラン=ルティムに初めての子が産まれたり、モルン=ルティムが北の集落で暮らし始めたり……ルウの血族だけでも、こんなにたくさんのことがあったんだものねえ……」
「はい。そのモルン=ルティムも、ついに婚儀が決まりましたしね。おめでたいことばかりで、何よりです」
「ファの家も、あれこれ大変だったろう……? ティアと出会ったのも、無法者に襲われたのも、フェルメスという貴族に出会ったのも、この1年の間のことだものねえ……」
「はい。ティアとの別れや盗賊団の襲撃なんてのは、楽しい思い出とは言えないところですけれど……でも、そういった出来事すら楽しい未来や正しい運命に結びついているんだと、俺はそんな風に信じています」
「アスタは……強くなったねえ……」
ジバ婆さんは、しみじみとした口調でそう言った。
「アスタは最初に出会った日から、とても優しくて……強いからこそ、それほど優しく振る舞えるんだろうと思っていたけれど……今は、狩人の男衆に負けないぐらい頼もしく感じられるよ……」
「本当にそうだったら、嬉しいですね。何せ、至らない人間ですので」
「いいや……アスタは、立派な人間だよ……そうじゃなきゃ、アイ=ファが家人と認めるわけがないさ……」
ジバ婆さんのしわがれた声は、春先の清風みたいにやわらかくて心地好かった。
「あたしが何より嬉しいのはね……そんなアスタが、アイ=ファに出会ってくれたことさ……大事な友であるアイ=ファが、アスタみたいに優しくて立派な人間に出会うことができて……それが嬉しくてたまらないんだよ……」
「うん! リミもそう思う!」
素晴らしい勢いでギバ肉をミンチにしていたリミ=ルウが、わざわざ手を止めてまで俺に笑いかけてきてくれた。
「アイ=ファが元気になれたのも、みーんなアスタのおかげだもんね! そうじゃなきゃ、こんな風に一緒に生誕のお祝いもできなかったしね!」
「俺の存在は、ただのきっかけだよ。リミ=ルウたちはもともと仲良しだったから、仲直りできるきっかけが生まれたっていうだけのことさ。もちろん、サリス・ラン=フォウも同様です」
俺も作業の手を止めて、リミ=ルウたちに笑顔を返してみせた。
「そんな楽しい輪の中に入れてもらえて、俺も嬉しく思っているよ。これからも末永くよろしくね」
「うん! すえながくー!」
リミ=ルウはにっこり笑ってから、また豪快かつ的確に肉切り刀を振るい始めた。
そこで、入り口の軒下でくつろいでいたジルベが、嬉しそうに「ばうっ」と吠える。その声音の響きだけで、誰が近づいてきたかは明白であった。
「ずいぶん早いけど、アイ=ファだろうね。もう仕事が一段落したのかな」
ぐらぐらと煮立つ鉄鍋に蓋をして、俺は入り口のほうに向かった。
白い糸のような霧雨の向こうから、ギバを担いだアイ=ファが近づいてくる。その足もとには、ブレイブとドゥルムアの姿も見えた。
「アイ=ファ、お疲れ様。……うわ、今日も大変だったな」
大荷物を抱えたアイ=ファは、言葉少なく「うむ」と応じる。本日も、アイ=ファは自分の倍ほども重量のありそうなギバを担いでいた。
そして、その泥まみれの姿が、雨季におけるギバ狩りの過酷さを物語っている。もうちょっと雨足が強ければ身を清める役にも立つのであろうが、このような霧雨では悲壮さが増すばかりであった。
「身が汚れるので、私にはかまうな。……客人らも、もう来ているのだな」
「きてるよー! アイ=ファ、おつかれさま!」
「お疲れ様、アイ=ファ。今日も無事なようで何よりだわ」
「おかえり、アイ=ファ……おお、立派なギバだねえ……」
リミ=ルウとサリス・ラン=フォウばかりでなく、ジバ婆さんも壁を伝って入り口のほうにやってきた。アイム=フォウもジバ婆さんの腰帯をきゅっとつかみながら、アイ=ファの姿を見つめている。
アイ=ファは解体部屋の戸板を開けて、そちらにギバを放り込んでから、入り口の俺たちに向きなおってきた。
「今日もわざわざ、足労だったな。その……皆をファの家に迎えることができて、嬉しく思っている」
あたりは薄暗いしアイ=ファは泥まみれであったので、アイ=ファが頬を染めているかどうかは判然としなかった。
ただ、その青い目は幸福そうに細められている。
「私は仕事のさなかであるので、晩餐までくつろいでもらいたい。このギバを吊るしたら、また森に戻らなければならんからな」
「えーっ! あんなにおっきなギバをつかまえたのに、まだお仕事するの?」
「いや。もう1頭のギバを、森に残しているのだ。あちらも血抜きに成功できたので、ムントの糧にするのは惜しかろう」
「ええーっ! 雨季なのに、ひとりで2頭もギバをつかまえたのー!?」
「ひとりではない。ブレイブもドゥルムアもいるからな」
そうしてアイ=ファは、解体小屋へと消えていった。
こちらは作業場に戻りつつ、リミ=ルウは「すごいねー!」と感嘆の声をあげる。
「雨季って、ギバ狩りの仕事も大変なんでしょー? 目も耳も鼻も鈍くなるから大変だって、みんな言ってるもんねー!」
「うん。今日はリミ=ルウたちに会えるから、いっそう気合が入ったのかもね」
俺としても、誇らしい気持ちでいっぱいであった。
そして、アイ=ファが無事に戻ってきてくれたことを、母なる森に感謝する。
「そういえばさ、本当だったら赤の月か朱の月に、ルウの血族は収穫祭を迎えるはずだったんだよねー」
ミンチの作業を再開しながら、リミ=ルウはそう言った。
「雨季だと祝宴も力比べもできないから、みーんなガッカリなんだけど。でも、森の恵みを食べ尽くしたらギバはいなくなっちゃうから、休息の期間はずらせないの」
「そっか。それじゃあ今回は、残念だったね」
「ううん! だけど今回は、猟犬のおかげで黄の月にずれるかもなーって、ドンダ父さんが言ってたんだよ!」
「猟犬のおかげ? ああ、猟犬のおかげで以前よりもギバを狩れるから、森の恵みを食べ尽くされるのに時間がかかるってことかな?」
「うん、そーそー! それでもひとりで2頭も狩れちゃうアイ=ファはすごいけどね!」
リミ=ルウとしては、そちらが論点であるようだった。収穫祭の如何よりも、本日ばかりはアイ=ファのことで頭がいっぱいなのだろう。
「そうしたら、そっちの収穫祭は雨季明けの黄の月の見込みになるんだね。その頃にはモルン=ルティムの婚儀も控えているから、またお祝い続きだね」
「うん! モルン=ルティムの婚儀は、北の集落なんだよね? いいなー。リミも行きたいなー」
ルティムとドムは他の血族に関わりのない婚儀、という新たな取り決めに挑むため、血族を招く理由がない。それでもさすがに親筋の人間ぐらいは、見届け人として招くという話になっていたはずだが――やはりその場では、未婚かつ15歳以上の人間が優先されるのだろうか。最近は、そのあたりの兼ね合いでレイナ=ルウが頻繁に選出されていたのである。
「俺としては、モルン=ルティムとゆかりの深い相手を招くべきじゃないかと思えるけどね。ルウの本家では、誰がモルン=ルティムと仲良しなのかな?」
「仲良しなのは、リミとララかな! レイナ姉は屋台の商売を始めるまで、あんまり喋ったことがなかったんだってー」
「なるほどなるほど。突き詰めて考えると、血族の祝宴に未婚で15歳以上の人間を出向かせるってのは、婚儀に繋がる絆を深めるためなんだろうし……それならルティムとドムの婚儀では、そこまでその習わしにこだわる必要もないように思えるよね」
「えー! それじゃあリミでも、連れていってもらえるのかなー?」
「可能性はなくもないと思うけど、ただ、レイナ=ルウは余所の氏族の宴料理に関心が強いから、そっちの理由で行きたがるかもね。まずはドンダ=ルウを交えて、じっくり話し合うべきじゃないかな」
「わかったー! アスタ、ありがとー!」
リミ=ルウにめいっぱいの笑顔を向けられて、俺も幸せな心地である。
すると、敷物に座りなおしたジバ婆さんが、笑いを含んだ声を投げかけてきた。
「やっぱりアスタは、優しいねえ……アスタは賢いからそういう話を思いつくんだろうけど、そもそも優しくなければそんな話に頭を回そうとしないだろうし……リミとレイナの両方の気持ちを考えてくれようとする、あたしはそういう優しさを得難く思うんだよ……」
「やだなあ。それはちょっと、持ち上げすぎですよ」
しかしまた、ジバ婆さんのように立派なお人にそんな風に言ってもらえるのは、誇らしい限りであった。
そうしてアイ=ファの生誕の日は、本年もやわらかい空気の中で暮れなずんでいったのだった。