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異世界料理道  作者: EDA
第五十六章 雨季、再び
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ファの家長の生誕の日①~朝~

2020.11/6 更新分 1/1 ・11/24 一部文章を修正

 宿屋の寄り合いから、5日後――赤の月の10日である。

 俺にとっては待ちに待った、それはアイ=ファの生誕の日であった。


 アイ=ファに急かされることなく起床した俺は、寝具の上でがばりと身を起こす。

 自分の寝具の上であぐらをかいて、髪を結わっているさなかであったアイ=ファは、俺のほうを見やりながら「ほう」と声をあげた。


「今日は珍しく、自分の力で目覚めることができたようだな。あまりに放漫な振る舞いが続くようであれば、そろそろ水瓶の水でもかけてやろうかと考えていたのだが」


「えー? 病魔に気をつけろと言いながら、それはあまりな仕打ちじゃないか?」


 俺が口をとがらせると、アイ=ファは幸福そうに目を細めた。


「冗談に決まっておろうが。……きちんと頭も起きているようだな」


 そんな表情を見せつけられてしまうと、俺の胸にも怒涛の勢いで温かい気持ちが広がってしまう。そうして思わず「誕生日おめでとう」の言葉を発してしまいそうになったが、森辺においては晩餐の刻限までむやみに口にしないというのが習わしであった。


 アイ=ファはしなやかな指先で、金褐色の長い髪を器用にくるくると編みあげていく。最近はアイ=ファより遅く起きることが多くなっていたので、そんな姿を目にするのもちょっとひさびさのことであった。


 そういえば、雨季に入って毛布の数を増やしてからは、アイ=ファと抱き合った状態で目を覚ました覚えもない。それはアイ=ファのほうが先に目覚めて寝具を出てしまうからなのか、それともアイ=ファの中の物寂しさが緩和されたゆえであるのか――いぎたなく朝寝をむさぼっている俺には、それも判然としなかった。


「よし。それじゃあ寝具を片付けて――」


 と、俺が足もとの毛布をめくりあげると、たちまち「なうう」といううなり声が響いた。アイ=ファではなく、黒猫のサチが俺の寝具にもぐりこんでいたのだ。


「なんだ、今日はここにいたのか。……もしかしたら、シムではここまで気温が低くなることもないのかな」


「どうであろうな。シムと言ってもゲルドとジギでは気候も異なるようであるし、そやつがいずれの生まれかもわからぬのだから、確かめようはあるまい」


 言われてみれば、もっともである。何にせよ、俺の故郷でも猫はこうして温かい場所を好む性質であるはずだった。

 アイ=ファと一緒に寝具を片付けると、やはりサチは毛布の隙間に身を隠してしまう。その姿を見届けてから、俺たちはいつも通り朝の仕事に取りかかることにした。


 そうして朝の仕事が一段落する頃には、下ごしらえのためにたくさんの女衆がやってくる。それもまたいつも通りの見慣れた光景であったが、本日はそこに、ジョウ=ランの姿も含まれていた。


「おひさしぶりですね、アイ=ファにアスタ。どちらもお元気なようで、何よりです」


 御者台から降りたジョウ=ランが、俺たちに笑いかけてくる。アイ=ファはうろんげに眉をひそめかけたが、途中で「ああ」と表情をゆるめた。


「そうか。今日はお前も、宿場町に下りるのだったな」


「はい。ちょうど休みの日を入れようかという頃合いであったので、護衛役として同行することになりました」


 本日から、宿屋の関係者に調理の手ほどきをするという仕事が始められることになったのだ。べつだん護衛役が必須なわけではなかろうが、狩りの仕事が休みであるならば、男衆が同行して悪いことはないのだろう。


 ちなみに手ほどきを願ってきたのは、《西風亭》や《ゼリアのつるぎ亭》を含む、4軒の宿屋である。寄り合いの日に話題で出た通り、《西風亭》にはフォウの血族がおもむくことになったのだった。


 そしてジョウ=ランが運転してきたこのトトスと荷車は、フォウの家が新たに買いつけたものとなる。調理の手ほどきという新たな仕事を受け持つならいい機会だということで、ついに購入されることになったのだ。

 その荷車から、5名の人間が降りてくる。いずれもフォウかランの家人で、ジョウ=ランも含めれば男女3名ずつという顔ぶれだ。


「あれ? そちらのみなさんは? 今朝の下ごしらえの当番は、ラッツの血族でしたよね?」


「はい。わたしたちは仕事とは関係なく、宿場町を巡ることになりました。せっかく荷車で宿場町に向かうならば、乗れるだけの人間を乗せるべきであろうと、家長がそのように言ってくれたのです」


 フォウの若い女衆が、そのように答えてくれた。宿屋に向かうのはジョウ=ランとランの女衆で、残りの4名は気ままに散策を楽しむということだ。


 そうしてしばらくすると、また新たな荷車が到着した。

 ディンとリッドの人々が詰め込まれた、ディンの家の荷車である。


「おお、アイ=ファにアスタ、ひさかたぶりだな! 元気なようで、何よりだ!」


 さきほどのジョウ=ランと同じように挨拶をしてくれたのは、リッドの家長ラッド=リッドである。

 リッドの家でも宿場町の仕事を受け持っていたので、フォウの血族と同じように乗れるだけの人数を乗せてきたようだった。


「ど、どうも。おはようございます、アイ=ファにアスタ」


 と、荷車からはトゥール=ディンも降りてくる。もともとトゥール=ディンたちは人力の台車で菓子を運んできていたが、さすがに雨の日はトトスの荷車を活用させるようになっていた。


「やあ、おはよう。それじゃあさっそく、荷物を積みかえようか」


「は、はい。毎朝、すみません。こうして自分たちの荷車に菓子を積んできたなら、そのまま宿場町に向かってもいい話なのに……やっぱり雨季の間ぐらいは、自分たちの荷車で宿場町に向かうべきでしょうか……?」


「トゥール=ディンがそれを望むなら、もちろん俺もかまわないよ。……でも、トゥール=ディンと荷車でご一緒できなくなっちゃうのは、ちょっと寂しいかな」


 俺がそのように答えると、トゥール=ディンはいくぶん赤くなりながら、小さな身体をもじもじとさせた。


「そ、それでは今後も、アスタの温情に甘えさせていただいてもよろしいでしょうか? わたしも、ちょっと……いえ、とても寂しく思っていたので……」


「もちろんさ。3台の荷車で事足りるのに、それを4台に増やす理由はないからね」


 トゥール=ディンは、ぱあっと顔を輝かせた。茶の月で12歳となったトゥール=ディンであるが、その純朴なる内面にまったく変わりは見られない。

 なおかつトゥール=ディンは、つい数日前にひとつの大きな仕事をやりとげた身であった。オディフィアがとある事情で気落ちしてしまったため、それを励ますために城下町まで出向くことになったのである。


 オディフィアが気落ちした理由というのは、いまひとつわからない。貴族の側の都合によって、理由は秘匿されていたのだ。

 俺が知っているのは、いきなりエウリフィアが宿場町にやってきて、トゥール=ディンだけに事情を話し――そしてトゥール=ディンが、悲壮なまでに思い詰めた様子をしていたことぐらいであった。


 しかしトゥール=ディンは、城下町まで出向いてすぐに、元気を取り戻していた。その翌日、「オディフィアもずいぶん元気になられたようです」と俺に告げてくれたときなどは、ハッとするほど大人びた表情で微笑んでいたのだった。


 やはりトゥール=ディンとオディフィアの間には、余人に計り知れない絆が結ばれているのだろう。

 そしてオディフィアの存在は、確実にトゥール=ディンを成長させている。年齢よりも幼げな見た目や、謙虚でつつましい気性はそのままに、トゥール=ディンは確かな包容力を育んでいるように思えてならなかった。


「トゥール=ディンと手伝いの女衆は、帰り道もそちらの荷車に乗れるのだな? よし! ならばもう2名、誰かを同行させるとしよう! 悪いが、しばし待っていてくれ!」


「何も急ぐ必要はありませんよ。俺たちも、アスタと同じ刻限に出発するのですからね」


 ジョウ=ランがそのように答えると、無言で人々のやりとりを見守っていたアイ=ファが「なに?」と眉をひそめた。


「アスタたちは、これから下ごしらえの仕事であるのだぞ? それを終えるのに二刻はかかるのに、お前たちはどうしてこのように早くから出向いてきたのだ?」


「それはもちろん、アイ=ファと絆を深めるためです」


 ジョウ=ランの返答に、アイ=ファはいっそう眉をひそめる。

 フォウとランの人々は、にこにこと笑いながらその様子を見守っていた。


「意味がわからんぞ。お前たちが交流を深めるべきは、宿場町の者たちであろうが?」


「それと同じぐらい、俺たちはアイ=ファとも絆を深めたいのですよ。ひさびさに、盤上遊戯などどうです?」


「……私には、薪割りの仕事がある」


「そのようなもの、この人数であればすぐに終わるでしょう。鉈も持参しましたので、ご心配なく」


 アイ=ファは口をぱくぱくとさせたが、それ以上の反論は思いつけないようであった。

 そして、八つ当たり気味に俺をにらみつけてきたので、フードの陰から笑いかけてみせる。


「たまにはそういう交流もいいじゃないか。俺じゃあ合戦遊びの相手も務まらないしな」


「いや、しかし――」


「それじゃあ俺は、下ごしらえの仕事を始めさせてもらうよ。ジョウ=ラン、後はよろしくね」


「はい。おまかせください」


 ぶすっとした顔のアイ=ファにもう一度笑いかけてから、俺はかまど小屋に向かうことにした。

 アイ=ファにはありがた迷惑なのかもしれないが、こうでもしないとなかなか近在の人々とも絆を深める機会は訪れないだろう。数ヶ月に1度しか訪れない収穫祭と休息の期間だけでは、やはり時間が足りていないのだ。


(それに今日は、アイ=ファの生誕の日なんだからな)


 このような出来事も、アイ=ファの大事な日の思い出となれば幸いであった。


                      ◇


 それから二刻ほどの間、アイ=ファたちがどのように交流を深めていたかは謎であるが――とりあえず、下ごしらえの仕事は無事に終了した。


「お待たせ。そろそろ出発しようかと思うんだけど、どうかな?」


 俺が玄関口から母屋に呼びかけると、ラッド=リッドが「ぬおー!」と雄叫びをほとばしらせた。


「もう出立の時間か! けっきょくアイ=ファには、一度も勝てなかったではないか! この続きは、また後日にな!」


 やはり、ひさびさの盤上遊戯で楽しんでいたらしい。フォウ、ラン、ディン、リッドと、男女6名ずつの客人が広間ではしゃいでいる姿は、なかなかに感慨深かった。


「それじゃあ、行ってくるよ。アイ=ファも、気をつけてな」


 玄関口まで出てきたアイ=ファは、なんとも複雑そうな面持ちで「うむ」と応じる。それは、微笑をこらえようとするプラティカにも通ずる表情であるように見えてしまった。


 ということで、ルウの集落に出発である。

 屋台の商売に出向くための2台と、調理の手ほどきに出向くための2台と、プラティカの1台で、荷車は合計5台にも及ぶ。

 そしてルウの集落には、さらに2台の荷車が待ちかまえていた。こちらは屋台の商売と調理の手ほどきで1台ずつである。


「やあ、アスタ。宿場町までは、あたしらもご一緒させていただくよ」


 ジドゥラの手綱を握っていたのは、護衛役のフォームで革の外套を纏った、バルシャであった。


「おはようございます。バルシャは、護衛役ですか?」


「うん。いちおうあたしとリャダ=ルウが出向くことになったんだよ」


 ルウの血族からは、ルウの分家とムファの女衆が調理の手ほどきに向かうことになっていた。ルウの分家の女衆とは、何を隠そうタリ=ルウである。

 いずれの氏族においても、調理に関しては若い人間が率先して修練を積んでいる。そんな中、タリ=ルウは早い段階からかまど番としての頭角を現していた、数少ない壮年の女衆であったのだ。


 また、屋台の商売に関しても、もっぱら年若い人間が参戦している。唯一の例外は、リリ=ラヴィッツぐらいのものであろう。

 もちろん復活祭の期間などは、老いも若きも混ぜこぜで宿場町に下りていた。しかし、森辺の外で仕事を果たすのは、若い人間の役割であったのだ。そこであえてタリ=ルウを起用するというのは――俺からすると、なかなか小憎い采配であった。


(ジバ婆さんとミシル婆さんみたいに、年配の御方ならではの絆っていうものも存在するはずだからな。これでまた、交流の幅ってやつが広がるんじゃないだろうか)


 なおかつタリ=ルウは、屋台の取り仕切りを任されているシーラ=ルウの母親である。ネームバリューといっては言い過ぎかもしれないが、宿屋の人々も安心して手ほどきをお願いできるように思われた。


「それじゃあ、出発しましょう」


 合計7台に膨れ上がった荷車が、列を為して宿場町を目指す。

 今日も朝から霧雨であるが、なんとも賑やかな出陣であった。


 そうして《キミュスの尻尾亭》に到着すると、そこには4名の人間が待ち受けていた。森辺の民に手ほどきの仕事を依頼した、それぞれの宿屋の関係者たちである。よって、そこにはユーミも含まれていた。


「ああ、ユーミ、おひさしぶりです。お会いできる日を心待ちにしていました」


 手綱を引いたジョウ=ランがそのように呼びかけると、ユーミはたちまち顔を赤くした。


「あ、あんたねー! 人目をはばかるってことを知らないの?」


「人目をはばからなくてはならないのですか? 俺は、本心で言っているのですが」


 ジョウ=ランは森辺の民として変人の部類であるが、とにかく素直であることに疑いはない。そんなジョウ=ランにきょとんとした顔で見つめられて、ユーミは「もー!」と頭をかき回した。


「今日のあんたは、付き添いなんだからね! えーっと、うちの宿に来てくれるのは――」


「わたしです」と、ランの若い女衆が進み出る。

 そして、フォウの男衆が言葉を添えた。


「俺たち4名は、自由に宿場町を巡らせてもらう心づもりだ。ただ、ユーミの親たちに挨拶をさせてもらってもかまわないだろうか?」


「うん、そりゃあかまわないけど……あんまりおかしなことを口走らないでよ?」


 火照った頬をさすりつつ、ユーミは俺や他のご主人がたを見回した。


「それじゃあ、お先に失礼するよ。おたがい、実のある時間にしたいもんだね」


 ユーミとフォウの血族の一行が、煙る街道の向こうに立ち去っていく。

 残る3名は、いずれも壮年の男性だ。どうやら宿屋のご主人自らが出迎えにおもむいてきたらしい。その中から、《ゼリアのつるぎ亭》のご主人が進み出てきた。


「ええと、うちはルウ家のお人に頼みたいんだけど、かまわねえかな?」


「ええ。ララ=ルウからお話はうかがっておりますよ」


 伴侶のリャダ=ルウを引き連れて、タリ=ルウがそちらに笑顔を向けた。ちょっとふくよかで、とても柔和な面立ちをした、壮年の女衆である。

 リッドとムファの女衆も、それぞれのご主人がたと挨拶を交わす。俺にとっては、いずれも名前すら定かでない人々ばかりだ。そんな人々が俺のいない場所で調理の仕事に取り組むというのは、やはりずいぶんと感慨深かった。


 そうしてタリ=ルウたちも、それぞれの宿屋に導かれていく。

 その姿が十分に遠ざかってから、ララ=ルウがひょこりと顔を覗かせた。


「あれ? 今日の当番は、ララ=ルウだったんだね。挨拶をしなくてよかったのかい?」


「うん。あんまり世話を焼きすぎるのもよくないかと思ってね。ムファやフォウやリッドの連中だって、イチから絆を深めていくんだからさ」


 そう言って、ララ=ルウは白い歯をこぼした。


「これでどんな結果になるのか、楽しみなところだね。ま、たった1日で腕が上がるとは思えないけどさ」


「うん。たった1日で終わっちゃったら、つまらないしね」


 とりあえず、本日は屋台の営業時間と合わせて、三刻ばかりの時間を手ほどきする契約になっている。今後も契約を継続するかは、本日の成果次第であろう。他の宿屋から依頼の声があがるかどうかも、また然りであった。


「さ、それじゃあ俺たちも自分の仕事に取りかかろうか」


《キミュスの尻尾亭》で屋台を借り受けて、レビやラーズとともに露店区域を目指す。

 そのさなか、声をかけてきたのはラーズであった。


「アスタ。あのユラル・パってのは、なかなかの食材ですねぇ。ミラノ=マスと相談して、らーめんに使うことに決めやしたよ」


「あ、そうですか。やっぱりミャームーやケルの根みたいに別料金で?」


「ええ。ミャームーやらの食材より値が張るんで、そうせざるを得ませんでしょう。ひとたび口にしてもらえれば、喜んでもらえると思うんですがねえ」


 ユラル・パは、長ネギのごとき存在である。それを生のまま細かく刻んでラーメンにトッピングしてみてはどうかと、俺が助言していたのだった。


「あのファーナって野菜も悪くないんですが、ナナールの代わりにするにはちっとばっかり値が張っちまうんで、ひとまず見送ることになりやした。そこまで際立って味がよくなるわけではないようなんでねえ」


「そうですね。他に気になる食材はありましたか?」


「そりゃあやっぱり、マロマロのチット漬けでございやしょう。あいつを使えば、ミソ仕立てやタウ油仕立てともまったく違うらーめんが作れると思うんですが……ちょいと時間がかかっちまうでしょうねえ」


 豆板醤に似たマロマロのチット漬けを使えば、さぞかし刺激的なラーメンを作りあげることができるだろう。俺としても、腹案がないわけではない。

 ただ俺は、それをラーズたちに伝えることを差し控えていた。調理の手ほどきが仕事として認知された現在、たとえ相手が《キミュスの尻尾亭》の関係者でもむやみに肩入れするべきではないように思えてしまうし――そして俺はそれ以上に、ラーズたちの自主性を尊重したい気持ちになっていたのだった。


 特にラーズなどは、自分の舌を頼りに微調整を重ねて、現在のラーメンを完成させてみせたのだ。

 レイナ=ルウやシーラ=ルウ、トゥール=ディンやマルフィラ=ナハムも、独自の料理や菓子を完成させている。そんな彼女たちと同じように、俺はラーズの飛躍を見守りたいのかもしれなかった。


「あー、来た来た! おーい、アスター!」


 と、所定のスペースが近づくと、元気な声に呼びかけられた。

 外套のフードでまだ顔はよく見えないが、これはディアルの声である。その背後には、ラービスのがっしりとしたシルエットも見えた。


「やあ、ひさしぶりだね、ディアル。俺たちより早くやってくるなんて珍しいじゃないか」


「うん! 今日は朝から仕事もなかったんで、ついつい早く来すぎちゃった!」


 そぼ降る雨も何のその、ディアルはおひさまのような笑顔であった。

 俺たちが屋台の準備を始めても、尻尾を振る子犬のようにまとわりついてくる。


「雨季の間は、仕事もけっこう手が空くからさ! 心残りにならないように、これからはちょくちょく寄らせてもらうからね!」


「心残り? ……ああ、そうか。ゼランドに帰るのは、来月なんだっけ?」


「うん! 朱の月のいつになるかは、父さん次第だけどさ」


 ディアルはジェノスに駐在することが決定された代わりに、定期的に里帰りすることになったのだ。ひとたびジェノスを離れたならば、戻るのはふた月後という話であった。


「それでさ、森辺のお人らに相談したいことがあるんだけど……あ、今、忙しい?」


「喋るだけなら、大丈夫だよ。相談って何だろう?」


「ゼランドに戻るとき、ギバの肉を持ち帰らせてもらいたいんだよねー。家族に食べさせてあげたいからさ!」


 翡翠なような瞳をきらきらと輝かせながら、ディアルはそう言った。


「アスタたちは、バランたちに腸詰肉とかを渡してたでしょ? きちんと銅貨を払うから、僕にもそれを売ってくれない?」


「そういう話なら、問題ないよ。俺たちは、《銀の壺》やゲルドのお人らにも腸詰肉を売り渡していたからね。準備期間さえあれば、お望みの量を準備できるはずだよ」


「やったー!」と、ディアルは子供のように喜んだ。見ているだけで、微笑みを誘われる姿である。


「あ、それとね、レイナ=ルウが香味腸詰肉ってものを開発したところなんだよ。ゲルドのお人らには、次の取り引きから売り渡す予定なんだけど……ジャガルでは、そんなに喜ばれないのかな?」


「こーみ腸詰肉って、香草を使ってるってこと? いいじゃん、それ! 家族のみんなは、シムの香草なんて口にしたこともないはずだからね! 内緒で食べさせたら、辛くて飛び上がるかも!」


「それじゃあ、どうする? 普通の腸詰肉も必要だよね?」


「うん、もちろん! まずはその、こーみ腸詰肉ってやつを味見させてもらいたいかな。レイナ=ルウに言えばいいの?」


「そうだね。何にせよ、ルウ家に話を通す必要があるだろうからさ」


「わかったー!」と、ディアルはぱしゃぱしゃと水しぶきをあげながら、ルウ家の屋台へと駆け寄っていった。

 小さく息をつきつつそれを追おうとするラービスにも、俺は声をかけておくことにする。


「なんだか今日のディアルは、ひときわ元気みたいですね。やっぱり故郷に帰るのが楽しみなのでしょうか?」


「……それもあるのでしょうが、あなたとゆっくり語らえるのが楽しいのだろうと思います」


 そんな言葉を残して、ラービスもディアルの後を追っていった。

 俺の手伝いをしていたラッツの女衆が、くすりと笑う。


「ディアルというのは、愛くるしい娘ですね。それほど言葉を交わしたことはありませんが、とても好ましく思います」


「ええ。南の民のいい面が、ぞんぶんに発露していますよね」


 今日も宿場町は平穏であり、ディアルはその象徴であるかのようだった。

 そうして料理が温まる頃には、他のお客たちもわらわらと近づいてくる。本日も、20名弱の人々が開店を待ちかまえてくれていたのだった。


「うん? なんだか今日は、嗅ぎなれない匂いがするな」


 と、行列の一番目に並んだお客が、鼻をひくつかせる。そちらに向かって、俺は「はい」と笑いかけてみせた。


「こちらはゲルドという土地から買いつけた、目新しい食材を使っています。よかったら、試してみてください」


 ヤンのプロデュースする《タントの恵み亭》の屋台でもついに新たな食材を使った料理を売り出し始めたので、こちらでも解禁することになったのだ。

 記念すべき最初の料理は、マロマロのチット漬けをフル活用した『麻婆チャン』である。ナスに似た食材が存在しないために、ズッキーニに似たチャンをもちいた、自信のひと品だ。


「ちょっと辛いけど、美味しいですよ。お代は、赤銅貨2枚です」


「新しい料理なら、まずは食べてみなくっちゃな! そいつをひと皿、お願いするよ」


「はい。少々お待ちくださいね」


 他の屋台も準備オーケーという合図をもらって、俺は商売をスタートさせる。

 すると、レイナ=ルウのもとで語らっていたディアルも、またせわしなく舞い戻ってきた。


「とりあえず、味見用に何本か分けてもらえることになったよ! アスタ、ありがとうねー!」


「どういたしまして。ついでに、こちらの新作の料理は如何かな?」


「うん、もちろん! 嗅ぎなれない香りがしてたから、ずーっと気になってたんだよ!」


 しかし屋台には先客が何名かいたので、まずはそちらに料理を受け渡していく。

 ディアルは満面の笑みで順番を待っていたが、いくぶん眼光を鋭くしたラービスが「ディアル様」と呼びかけた。ラービスの指し示す方向に目をやったディアルは、「んー?」とうろんげに眉をひそめる。


「あいつらって……いや、あんまり口にしないほうがいいのかな」


 いったい何事かと思って同じ方向に目をやった俺も、小さからぬ驚きにとらわれることになった。街道の北の果てから、やたらと体格のいい4つの人影が近づいてきていたのだ。

 先客たちが青空食堂に向かい、ディアルたちの順番になったところで、その4名が到着した。予想通り、それはゲルドの人々であった。


「アスタ、5日ぶりである。料理、購入したく思う」


 その中でもっとも身体の大きいアルヴァッハが、フードの陰から青い瞳で見下ろしてくる。隣にたたずむのはもちろんナナクエムで、残りの2名は彼らがジェノスに到着した日以来に見る、護衛役の面々であるようだった。


「いらっしゃいませ。ジェノスの方々はご一緒ではないのですか?」


「うむ。ジェノスの兵士、同行すれば、注目、集めること、必定である。よって、我々のみ、宿場町、向こうこと、了承いただいた」


 確かにまあ、かつては荷運びを受け持っていたゲルドの人々も、毎日のように屋台を訪れてくれていたのだ。アルヴァッハたちはその身に数々の宝石をぶら下げていたが、外套を纏っていれば貴人と気づかれることもないのかもしれなかった。


 しかしまた、昼の食事に関しては、城下町の人々が毎日のように屋台を訪れて、アルヴァッハたちのために料理を購入していたのである。よって、アルヴァッハが自ら屋台に足を運ぶ必要はないはずであったが――俺もかろうじて、5日前の会話を記憶に留めていた。


「もしかしたら、あちらのラーメンを召しあがるためにいらしたのですか?」


「うむ。ラーメン、持ち帰ること、難しいため、食する機会、心待ちにしていた」


 それでアルヴァッハはいずれ屋台に出向くと、ミラノ=マスに宣言していたのだ。アルヴァッハの辞書に、社交辞令の文字は存在しないようだった。


「うむ? そちらは――」


 と、アルヴァッハは屋台の前にたたずむディアルを見下ろす。

 ディアルはつんとした面持ちで、それでもお行儀よく一礼した。


「ジャガルの鉄具屋、ディアルと申します。ジェノスの城下町において、何度かご挨拶をさせていただきましたね」


「うむ。城下町の外、出会うこと、奇遇である」


「そうでもないでしょう。おたがい、アスタと縁を結んでいるのですから」


 敵対国の貴人に対しても、ディアルは堂々としたものであった。

 いっぽうアルヴァッハも、ジャガルの貴族たちに対してさえ悪感情を抱いていなかったのだから、心を乱す理由もなかった。


「語らいの場、邪魔したなら、謝罪しよう。……アスタ、そちら、『麻婆チャン』であるな?」


「あ、はい。料理の名前まで覚えていただき、恐縮です」


「ラーメン、食した後、買いつけたい、願う。では」


 アルヴァッハたちはひたひたと、ラーメンの屋台に移動していった。これほどの巨体でありながら、ゲルドの民というのは大型の肉食獣のように動作がなめらかである。

 それを横目で見送りながら、ディアルは「ふん」と鼻を鳴らした。


「ゲルドの民ってのも、ジギの民に負けないぐらい変わり者が多いみたいだね。……それにしても、あいつらずいぶん長逗留じゃない?」


「うん。いちおう5日後ぐらいに帰国する予定みたいだよ」


「ふーん。ま、あいつらのおかげでジャガルの王都からも食材を届けられるようになるなら、悪いことばっかでもないのかな」


 と、ディアルはすみやかに機嫌を取り戻した。これだけ長きの時間をジェノスで過ごしていれば、東の民に対する敵対心や偏見というのも、ずいぶん緩和されるのだろう。


「そういえば、最近アリシュナと会ってないんだよね」


 俺がそのように言いだすと、ディアルは「ああ」と複雑そうな顔をした。


「あいつ、この寒さで体調を崩したみたいだね。あやしい占いの仕事も休んで、貴賓館に引きこもってるみたいだよ」


「あ、そうなんだ? それはちょっと心配だね」


「べっつにー! 僕が心配する筋合いじゃないし!」


 ディアルがいきなり大きな声をあげたので、俺はびっくりしてしまった。


「そっか。ただ俺は、自分の気持ちを表明しただけのつもりだったんだけど……」


 すると今度は、怒りながら顔を赤くするディアルである。


「な、なんだよー! 僕を引っかけようとしたの?」


「いや、そんなつもりはないんだけど……つまり、ディアルもアリシュナを心配していたということなのかな?」


「そうじゃないったら!」と憤慨しつつ、ディアルは俺の手から『麻婆チャン』の木皿をひったくっていった。

 ラービスはふたり分の銅貨を払ってから、その後を追っていく。最後に騒がしくなってしまったが、俺にとってはディアルのああいう部分も魅力のひとつであった。


「……アスタ、諍いであろうか?」


 と、ラーメンの木皿を手にしたアルヴァッハが、通りすがりに呼びかけてきた。

 俺は「いえいえ」と笑ってみせる。


「いつものことですので、おかまいなく。どうぞお熱いうちに、お召し上がりください」


「うむ。……のちほど、話、いいだろうか?」


「話? 何でしょう?」


「5日後、最後の晩餐会、関してである」


 それだけ言い残して、アルヴァッハもまた青空食堂へと向かっていった。大きな手の平で皿の表面を覆っていたが、うかうかしていると料理に雨が入ってしまうのだ。

 ともあれ、アルヴァッハがどれだけゴーイングマイウェイな人柄であっても、その根底には森辺の民に対する敬意と厚意があふれかえっている。俺はべつだん不安を抱え込むことなく、仕事の続きに取り組むことができた。

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