雨季の始まり③~定例会~
2020.11/4 更新分 1/1
二刻ほどの時間をかけて勉強会を終えたならば、その後は通常通りの定例会に移行である。
こちら陣営は、俺とララ=ルウとツヴァイ=ルティムが定例会に参加し、レイナ=ルウとトゥール=ディンとユン=スドラ、それに客分のプラティカが厨に居残って、晩餐の準備を進める手はずになっていた。視察役たる貴族たちは、好きに動いて両方を見学する心づもりのようだ。
「では、定例会を開始いたします。本日は、議題の種も尽きなそうなところでありますな」
タパスが予見した通り、その日の定例会はこれまで以上の熱を帯びているようだった。
最初に火がついたのは、やはり昨日まで続けられていた屋台村に関してである。
「うちはけっきょく最後まで、外れの料理扱いだったよ。売り上げとしては、決して悪くなかったんだが……だからといって、この立場に甘んじる気持ちにはなれねえな」
「うちだって赤字こそ免れたけど、苦労の甲斐が報われたとは言えねえよ。屋台の料理がお粗末だと思われたら、宿の評判にだって響いちまうからな」
そのように申し述べるのは、のきなみ俺とはご縁の薄い宿屋のご主人がただった。少なくとも、俺が名前をわきまえているような人々は、屋台村においても確かな成果をあげることがかなったのである。
「それじゃあお前さんがたは、雨季が明けても屋台を出すのは取りやめるのかい? そうしたら、ちっとばっかり店がまえが寂しくなっちまいそうだな」
「馬鹿を言うない。外れ扱いのまま、引き下がれるかってんだ。このままじゃあ、恥をかくために屋台を出したようなもんじゃねえか」
「それなら、どうすんだ? 森辺に通って、手ほどきでも頼むのか?」
どっと笑い声があがったが、幸いなことに森辺の民を揶揄するような響きは感じられなかった。冗談の種にされるぐらい、気安い関係性を構築できたということなのだろう。
が、気勢をあげていたご主人に関しては、笑っていられる状況ではないようだった。
「今日みたいに、森辺のお人らにはさんざん世話になってるんだから、これ以上の迷惑はかけられねえけどよ……でも、森辺のお人らに関わった宿屋ってえのは、おおかた成功を収めてるよな? 《南の大樹亭》も《西風亭》も、大した売り上げを叩き出してたし……《キミュスの尻尾亭》なんかは、言わずもがなだろ? 屋台を出してなかった《玄翁亭》だって、宿屋の食堂は毎日お客であふれかえってるって話じゃねえか」
「ふん。また泣き言かい。それだけ森辺の連中をありがたがってるんなら、好きなだけ泣きつきゃいいじゃないか」
巨鯨を思わせるレマ=ゲイトが、鼻息も荒くそのように言いたてた。
ご主人は、ずいぶん元気のなくなった目を俺たちのほうに向けてくる。
「俺はべつだん、森辺のお人らにゆかりがあるわけでもねえし……そんな人間に泣きつかれたって、迷惑なだけだろう?」
ララ=ルウは、強く明るく輝く瞳でその姿を見返した。
「それって、正式に助力を申し入れてるの? それとも、ただの冗談口?」
「え? いや、だって……本気で助力を申し入れたら、それで何とかなるってのかい?」
「それを決めるのは森辺の族長と、町の立場のある人間だよ。森辺の民はそうやって、城下町からの仕事を受け持ってるんだからね」
真っ直ぐに背筋をのばしたまま、ララ=ルウはそう言った。
「森辺の民はジェノスの民と正しく絆を深めないといけないんだから、立場のある人間に許しをもらわない限り、勝手な真似はできないでしょ? あんただけに肩入れしたら、他の人らとの絆に影響が出ちゃうかもしれないんだからさ」
「そりゃあそうだ。お前さんだけ森辺のお人らに手ほどきされるなんざ、そりゃあ不公平だろ」
「そうだよ。昔っから絆を深めていた連中とはわけが違うんだからよ」
他のご主人がたまで巻き込んで、さらなる熱気が生まれてしまっている。
それを見かねた様子で、タパスが発言した。
「森辺の方々は、かつて宿屋のご主人がたに調理の手ほどきをしたことがある、というお話でありましたが……それは、《キミュスの尻尾亭》と《西風亭》に限ったお話であるのでしょう? 《南の大樹亭》や《玄翁亭》には、完成した料理を卸していただけのはずですな?」
「はい。《キミュスの尻尾亭》にはずっとお世話になっていましたし、《西風亭》に関しては……完成した料理を買っていただくことができなかったので、ギバ肉を買っていただくためにギバ料理の手ほどきをすることになりました」
森辺の民を代表して、俺がそのように答えてみせた。
「また、《西風亭》の娘さんとは個人的に親しくさせていただいていましたので、ウスターソースやケチャップ、マヨネーズやドレッシングなどの作り方も早々に手ほどきすることになりました。ただ、それらの作り方は他のご主人がたにも勉強会でお伝えさせていただきましたよね」
「そうですな。ギバ肉の扱い方に関しても、我々は勉強会にて同じ手ほどきを受けております。そう考えると、《西風亭》の受けた恩恵とそれほど差はないように感じられますな」
悠揚せまらず、タパスはそのように応じてきた。
「《キミュスの尻尾亭》に関しては、それ以上の恩恵がもたらされているのやもしれませんが……それはそれこそ、森辺の方々との絆が深いゆえでありましょう。そもそも《キミュスの尻尾亭》の協力がなければ、森辺の方々が宿場町で店を出すことさえ難しかったのでしょうから、それを特別扱いと言いたてることはできないように思いますな」
「だから、俺だって最初からそう言ってるだろ。なんでこんな風に、やいやい言われなきゃいけねえんだよ」
屋台の商売で結果を出せなかったご主人のひとりが、すねたような口調でそう言いたてた。
するとララ=ルウが、またよく光る青い目でそちらを見やる。
「ね、あんたは何ていう宿屋のお人なの?」
「え? 俺かい? 俺は《ゼリアのつるぎ亭》って宿のもんだけど……」
その名を聞いて、ララ=ルウは「あは」と笑い声をこぼした。
「ゼリアって、おとぎ話に出てくる姫騎士ってやつでしょ? そっかそっか、その名前は覚えやすいから、あたしも忘れてなかったよ」
「え? なんであんたが、うちの宿屋の名前なんざ知ってるんだい?」
「あのゲルドのかまど番のプラティカをルウ家の晩餐に招いたとき、町のお人らが売ってるギバ料理の話になったんだよ。で、《ゼリアのつるぎ亭》って宿屋が出してる屋台の料理はひどい出来栄えだったなーって、プラティカが言ってたんだよねー」
屋台の看板には宿屋の名前が記されており、プラティカはニコラにその文字を判読してもらっていたのだ。1日に食することのできる料理には限りがあるので、そうして気に入った屋台の料理を優先的に購入していたのだろう。
それはともかくとして、《ゼリアのつるぎ亭》のご主人はがっくりと肩を落としてしまっていた。
「何もそんな、追い打ちをかけなくてもいいじゃねえか……せっかくのギバ肉で粗末な料理を出しちまってるから、怒ってるのかい?」
「違う違う。そこまでかまど仕事が苦手なんだったら、アスタやレイナ姉ぐらい腕の立つかまど番じゃなくっても力になれるのかもなーって思ったんだよ」
ララ=ルウは、元来の陽気さと最近になって獲得した思慮深さが入り混じったような面持ちで、そう言った。
「アスタやレイナ姉とかは自分の修練もあるし、もともと森辺でも他のかまど番に手ほどきしてるからさ。そうそう時間も取れないと思うんだよね。でも、たとえばルウの分家だとか眷族だとかの女衆でも、もう1年以上は修練を積んでるんだから、そこまでかまど仕事を苦手にしてる人間はほとんどいないだろうと思うよ」
「そ、そういったお人らが、俺なんかに力を貸してくれるってのかい?」
「だから、それを決めるのは族長たちと町の立場ある人間だってば。……ツヴァイ=ルティムは、どう思う?」
と、何故だかララ=ルウはそこでツヴァイ=ルティムに水を向けた。
無言でララ=ルウたちのやりとりを聞いていたツヴァイ=ルティムは、「フン!」とレマ=ゲイトにも負けない勢いで鼻を鳴らす。
「見も知らぬ相手に手ほどきをするってんなら、それこそ銅貨でもいただきたいところだネ。森辺の人間は、そこまでヒマじゃないんだからサ」
「うん。あたしもそう思う」と、ララ=ルウは首肯した。
「森辺の民は町のお人らと正しい絆を結ぶべきって話になってるけど、なんでもかんでも手を貸すべきだとは思わないんだよね。こっちが家の仕事を手伝ってほしいとか言い出したら、町のお人らだって困っちゃうでしょ?」
「そ、そりゃあまあ、俺たちにはギバなんて狩れねえけど……」
「そんな極端な話じゃなくってさ。うーん、たとえば……宿場町には、とーじとかいう皿があるでしょ? なんか、土をこねて焼きあげた、とかいうやつ」
「とーじ? ああ、陶磁か。陶磁の皿ぐらいなら、うちにもいくつか置いてるよ」
「うん。それじゃあ森辺の集落まで来て、そいつの作り方を教えてほしいってなったら、どうする? そこはやっぱり、こっちが代価を支払うべきじゃない?」
考え考え、ララ=ルウはそう言った。
「今日みたいに貴族に仕事を頼まれるときも、あたしらは代価をいただいてるからさ。南のお人らに祭祀堂の建てなおしを頼むときなんかは、こっちが代価を払ってるしね。普通、仕事を頼むときって、代価を払うもんなんでしょ?」
「なるほど。友人として助力を望むのではなく、正式な仕事として依頼をするということですか」
何やら感じ入った様子で、タパスが口をはさんだ。
「それならば、実に公正なお話でありますな。特別な恩恵を受けるわけではないのですから、どこからも文句があがることはないでしょうし……文句があるならば、同じだけの銅貨を支払って、手ほどきを依頼すればよいということになります」
「うん、そうそう。銅貨のために力を貸すって、なんかよそよそしいなーとか思うんだけどね。でも、アスタってナウディスやネイルともきっちり絆を深めてるじゃん? 銅貨のやりとりがあろうがなかろうが、仕事をともにするだけで絆を深めることはできると思うんだよね」
そう言って、ララ=ルウは白い歯をこぼした。
「まあ、森辺のかまど番がどれだけ力になれるかはわかんないけどさ。今だったら、ルウの分家や眷族の女衆でも、プラティカにああまでひどいことは言われないと思うんだよね」
「うちの料理は、そんなにひどい言われようだったのかよ」
泣き笑いのような顔で言ってから、《ゼリアのつるぎ亭》のご主人はタパスに向きなおった。
「な、なあ、こういう話は、いったい誰に話を通せばいいんだよ? やっぱり貴族様のお許しが必要になったりするんだろ?」
「そうですな。……如何でありましょうか、ポルアース殿?」
ポルアースたちは、会議の場のすぐ外側でこちらの様子をうかがっていたのだ。それに気づいていなかったらしい《ゼリアのつるぎ亭》のご主人は、悪さを見とがめられた幼子のように首をすくめていた。
「そうだねえ。僕の一存では、なんとも言えないけれども……ただ、そこまで貴族の許しが必要な話ではないように思えるね。許しではなく、話を通しておく必要はあるだろうけどさ」
「では、どのように取りはからうべきでございましょう?」
「ここはやっぱり、宿場町の領主たるサトゥラス伯爵と、森辺の民との調停官たるメルフリード殿には一報を入れておくべきだろうね。必要であれば、メルフリード殿には補佐官たる僕から伝えさせていただくよ」
「では、サトゥラス伯爵にはわたくしから。森辺の族長らに関しては、ララ=ルウ殿におまかせできますでしょうか?」
「うん。族長たちが駄目って言ったら駄目だから、それだけはよろしくね」
ということで、あれよあれよという間に話が締結してしまった。
《ゼリアのつるぎ亭》のご主人ばかりでなく、多くの人々が熱のこもったざわめきをあげている。それを静めるように、タパスが声をあげた。
「ちょうど我々は、屋台の商売をいったん取りやめたところでありますからな。雨季の間に腕を上げて、また商売を再開させることができれば幸いでありましょう」
そうしてタパスはにこにこと笑いつつ、ララ=ルウを振り返った。
「ちなみに、宿屋の屋台というのは森辺の方々にとって商売敵に他ならないわけでありますが……そこのところは、取り沙汰しなくてもよろしいのですね?」
「うん。それでいいんでしょ、アスタ?」
「もちろん。切磋琢磨が、商売の基本だからね。俺たちは、それにも負けない美味しい料理を作りあげられるように励むだけさ」
「フン。粗末なギバ料理を出されてたら、ギバ肉の価値が下がっちまうかもしれないしネ」
そうしてこの一件に関しては、それぞれの責任者の返事待ちということで締めくくられた。
「それでは、次の議題ですが……関連性の強い話題として、雨季における屋台の商売についても取り沙汰するべきでありましょう。共同で屋台を出すのは昨日までという取り決めにしておりましたが、明日からは如何いたしましょうかな?」
タパスが視線を巡らせると、それを受ける格好でナウディスが発言した。
「大変申し訳ないのですが、やはりわたしはしばらく屋台を休ませていただきたく思いますぞ。ゲルドから買いつけた食材の使い道を、あれこれ考えねばなりませんしな」
「はい。もとより雨季においては料理を売る屋台の数も半減するものでありますので、そのようにお考えになられる方も多いことでしょう」
すると、レマ=ゲイトが「あんたはどうすんのさ?」と問い質した。
タパスはにこやかに言葉を返す。
「もちろん我が宿は、明日から屋台の商売を再開させる予定となっております。新たな食材を宿場町に普及させるというのは、我が宿と森辺の方々が受け持った大事な依頼でありますので」
「ふん。あんたの宿は、とっくに目新しい食材の使い道ってやつを見つけ出してるんだろうしね。それでもって、引き立て役になりたい人間は名乗りをあげろってかい?」
「引き立て役などとは、とんでもない。目新しい食材を使うというだけでお客様を獲得できるほど、屋台の商売は簡単なものではないでしょう?」
さすがに商会長たるタパスは、レマ=ゲイトの扱い方もわきまえている。
いっぽうレマ=ゲイトは、ふてぶてしい感じに「ふふん」と口の端を上げた。
「どうせ他の連中は、二の足を踏むんだろうしね。あんたと森辺の連中ばっかりにうまい思いをさせやしないよ」
「では、《アロウのつぼみ亭》も屋台を出してくださるのでしょうか?」
「ああ。新しい食材を使おうと使うまいと、屋台で一番上等な菓子を売ってるのは、うちなんだからね。雨季でも何でも、稼がせていただくさ」
それは屋台で菓子を売っているトゥール=ディンに対する宣戦布告とも取れる言葉であったが、幸か不幸か当人は厨で仕事に励んでいる真っ最中であった。
まあ、トゥール=ディンであれば雨季でも屋台で《アロウのつぼみ亭》の菓子を口にできるのかと、瞳を輝かせるだけのことであろう。
「では、他の方々は如何でしょう? どうせ屋台を出すのであれば、また共同で出させていただければと思うのですが」
何名か、ちらほらと名乗りをあげるご主人がいた。屋台村でも指折りの人気を誇っていた《タントの恵み亭》と《アロウのつぼみ亭》が一緒ならば――という思いもあるのだろうか。
それらの姿を満足そうに見回しながら、タパスはふっと《西風亭》の父娘を振り返る。
「《西風亭》は如何でしょう? またともに屋台を出すことがかなえば、非常に心強いのですが」
「そいつは光栄な申し出だが、うちはやめておく。ポイタンの値段がああまで跳ね上がっちまうと、稼ぎを出すのもひと苦労だからな」
ぶすっとした面持ちで、サムスはそのように答えていた。《西風亭》は高値の食材――つまりギバ肉の量を抑えて、ポイタンの生地で料理のボリュームを出していたため、ポイタンの高騰の影響が顕著に表れてしまうのだろう。また、お好み焼きには欠かせないティノを扱えなくなってしまうのも、大きな要因であるはずだった。
「それは残念です。もしもお気が変わりましたら、いつでもお声をおかけください。では、次の議題に移りますが――」
その後もタパスの進行によって、次々と議題があげられていった。
その過程で、大きな変革のさなかにあるトゥランについても触れられる。
「トゥランで働いていた北の民たちは去る茶の月にジャガルへと送られたため、すでに新たな領民をぞくぞくと迎え入れている状態にあります。今のところ、宿場町に大きな影響はないように思われますが……如何でありましょうな?」
「ああ。べつだん食材が足りなくなったって話も聞かねえな。今んところは、ダレイムから直接野菜を送りつけてるんだって?」
「はい。貴き方々の取り仕切りで、領民たちの食事を準備させているそうです。新たに移り住んできた人々の何割かが、それを仕事として受け持っているようですな」
俺も噂で聞いていたが、配給制のような形式で昼食や晩餐を準備しているのだそうだ。生活様式が整うまでは、そういうケアが必要であるのだろう。
なおかつ、トゥランにおける農作業は、雨季の到来とともに打ち切られたはずだ。これから雨季が明けるまでのふた月は、ダレイムにおける塀の建設などといった仕事が割り振られるようだった。
「雨季が明けて、トゥランにおける新しい生活が確立されれば、新たな領民が宿場町を訪れる機会も増えましょう。同じジェノスの民として、手を携えていかねばなりませんな」
タパスが穏便な形で話を締めくくり、また新たな話題を提示する。有能なる取り仕切り役のもと、定例会はつつがなく進行されていった。
そうしてしばらくすると、入り口のあたりがざわめいた。護衛役たるアイ=ファとルド=ルウが到着したのだ。
「場を騒がせちまって、悪いな。俺たちは帰り道の護衛役だから、気にせず話を進めてくれ」
森辺の狩人も雨季の間は、長袖の装束となる。ただし、狩人の衣にフードはついていないため、バンダナのようなもので頭を覆うのが常であった。フードは目や耳をふさいでしまうため、ギバ狩りの邪魔と見なされているのだ。
そしてアイ=ファもこの場においては、ルド=ルウと同じ格好をしていた。護衛の役目を果たすならば狩人の装束が相応しい、という判断であるのだろう。
狩人の衣とびしょ濡れのバンダナを宿の人間に託したアイ=ファとルド=ルウは、会議の場を見渡せる位置の席に陣取る。森辺の狩人が定例会に現れるのも毎度のことであるので、最初の驚きが過ぎ去ると、すみやかに場は静まった。
そして、森辺の狩人が現れたということは、日没が間近に迫っているということだ。俺の胃袋の具合からしても、そろそろ閉会の時間が近いように感じられた。
「さて、あとは……皆様もご存じの通り、雨季の間は夜間の物盗りが横行いたします。宿の戸締りは、くれぐれもご注意ください」
タパスの言葉に、席についたばかりのアイ=ファがぴくりと反応した。
「失礼する。部外者である私が声をあげることを許してもらいたい。……雨季の間に物盗りが横行するとは、どういった理由からであろうか?」
「雨季の間は街道に火を焚くことも難しく、衛兵の方々も灯籠だけを頼りに巡回されているため、その隙を突こうとする無法者が少なくないのです。宿場町のみならず、ダレイムの畑でも盗難の被害が増える傾向にあるはずですな」
「それは、初めて聞く話となる。……日中における危険の度合いに変わりはないのであろうか?」
「日中に物盗りが横行することはないかと思われますが……夜に悪さを働くために、貧民窟においては無法者の滞在者が増える傾向にあるようですな」
そんな風に答えながら、タパスはサムスのほうに目をやった。
貧民窟へと通ずる裏通りに宿をかまえているサムスは、厳つい顔をしかめながら「ふん」と鼻を鳴らす。
「今のところ、そうまでタチの悪そうなやつは見かけねえな。そもそもそういう輩は衛兵の目を恐れて縮こまってるだろうから、明るい間に姿を見せたりはしねえだろうよ」
「そうか。余計な言葉をはさんでしまい、申し訳なく思う」
「いえいえ。森辺の方々はいずれの屋台よりも多くの稼ぎをあげているのですから、ご心配になるのも当然でありましょう。衛兵の方々は昼の間も入念に巡回をしてくださっておりますので、どうぞご安心ください」
タパスはそのように答えていたし、俺自身も雨季に無法者が増えるという印象はまったく持っていなかった。だけどやっぱり、夜間の犯罪率が上昇するという話は、初耳である。
(やっぱり俺たちも、まだまだ知らないことがたくさんあるんだな)
俺がそんな感慨を噛みしめている間に、客席には逗留客の姿が増えてきた。空いた席に腰を下ろしつつ、アイ=ファとルド=ルウの姿を物珍しげに見やっている。さらにアルヴァッハとナナクエムなどは、それ以上の注目を集めているようであった。
「では、定例会もここまででありましょうか。晩餐では、ゲルドから買いつけた食材をぞんぶんに味わっていただきたく思います」
タパスがそのように宣言すると、アイ=ファたちがこちらの卓に近づいてきた。気をきかせたご主人がたが席を空けてくれて、それに礼を言いながら着席する。晩餐の支度を受け持っていたレイナ=ルウたちも迎え入れなくてはならないので、こちらの卓にはミラノ=マスだけが居残ることになった。
「お前さんがたとは、前回の寄り合い以来になるのかな。壮健なようで、何よりだ」
ミラノ=マスがそのように呼びかけると、ルド=ルウが「そっちもなー」と笑顔で応じた。毎日のように顔をあわせている俺たちとは異なり、狩人の面々が宿屋の関係者と接する機会は少ないのだ。
そうしてアイ=ファたちを交えて楽しく語らっていると、タパスの先導で貴き人々が近づいてくる。用件は、なんとなく察しのつくところであった。
「失礼いたします。こちらの卓を使わせていただいてもよろしいでしょうか?」
そのように呼びかけられたのは、俺たちではなく隣の卓の面々である。ゲルドの貴人らの迫力に恐れをなした人々は「もちろんです!」という言葉を残して早々に席を移っていった。
「すまないねえ。料理の感想を伝えるには、やはり近くの席につく必要があるからさ」
無邪気に笑うポルアースを筆頭に、アルヴァッハたちも腰を下ろしていく。中央に背を向ける位置に陣取ったフェルメスは、口もとの襟巻きをずらして俺やアイ=ファに微笑みかけてきた。
「宿屋の定例会を視察させていただくのは、紫の月以来となりますね。本日も、非常に興味深い内容であったように思います」
「ふーん、そうなのか? 俺たちは、ほとんど話を聞いてねーからなー」
ルド=ルウが横から気安く応じると、フェルメスはいっそう楽しそうに目を細めた。
「森辺の民にゆかりの深い議題も、少なからず見受けられました。森辺の族長たちがどのような判断を下すのか、僕も楽しみにしています」
「親父たちの判断をあおぐような話が持ち上がったのか。そいつは家で、ゆっくり聞かせてもらうとするよ。今は腹ぺこで、頭が回らねーからなー」
ルド=ルウとフェルメスが言葉を交わす姿を拝見するのもずいぶんひさびさであるように思えるが、まあどちらもマイペースな気性であるため、普段と変わるところはない。
外套を纏ったままであるアルヴァッハとナナクエムは彫像のように背筋をのばしたまま座しており、ジェムドはフェルメスの影のように控えている。そうしてポルアースはというと――驚くべきことに、ミラノ=マスへと笑いかけていた。
「君とはずいぶんひさびさであるように感じられるね。森辺の方々との関係性も相変わらずなようで、何よりだ」
ミラノ=マスは感情を押し殺しつつ、目礼する。はて、両者が顔をあわせる機会などあっただろうかと、俺は記憶の奥底をまさぐることになった。
「ああ……そうか。俺たちがポルアースと知遇を得たとき、《キミュスの尻尾亭》の食堂で密談させていただいたことがありましたね」
「うん、そうそう。それに、ギバ肉の値段を改める際にも、主要の宿屋のご主人がたとは何度か対面させていただいているよ」
そういえば、そんな話もあった。トゥラン伯爵家を巡る騒動の前後には、ポルアースも今以上に足しげく宿場町に通っていたのである。
そしてフェルメスがジェノスにやってきた際には、森辺の民とゆかりの深い宿屋が視察されたのだと聞いている。森辺の民と関係を持つと、思わぬところで貴族と対面する機会が増えてしまうということだ。
(今回は、そこにアルヴァッハとナナクエムまで加わっちゃったからなあ。申し訳ないと思うべきなんだろうか)
俺がそんな風に考えていると、アルヴァッハが黒曜石の彫刻めいた顔をミラノ=マスのほうに傾けた。
「……其方、《キミュスの尻尾亭》、主人であろうか?」
さしものミラノ=マスもいくぶんのけぞりそうになりながら、それでも毅然とした面持ちで「ええ」と応じる。
「《キミュスの尻尾亭》、屋台、出している、『キミュス骨のラーメン』、美味であった。ミソ仕立て、タウ油仕立て、どちらも、秀逸である」
「……過分なお言葉、ありがとうございます」
「過分、ならぬ。もともとアスタ、考案した料理、自分たちの工夫、加えた、聞いている。もとの完成度、損なわぬまま、工夫、加える手際、見事である」
ミラノ=マスは何と答えていいかもわからぬ様子で、目を白黒とさせていた。
そんなミラノ=マスに、俺がこっそり耳打ちさせていただく。
「大丈夫ですよ。眼光の鋭さと口調の重々しさと無表情が相まってすごい迫力ですけれども、素直な心情を語られているだけのはずですから」
「……本当か? 俺は今にも斬り伏せられそうな心地であるのだが」
するとアルヴァッハが、木の幹のように逞しい首をわずかに傾げた。
「我、何か、非礼、働いただろうか?」
「いえいえ。俺もラーメンの作り方を伝授した身として、光栄に思っています」
「うむ。気温、下がれば、ラーメンの味、さらに際立つこと、確実である。ゲルド、帰る前、屋台、立ち寄りたい、願っている」
それだけ言って、アルヴァッハは正面に向きなおった。ミラノ=マスは冷や汗をぬぐいつつ、安堵の息をついている。
そこでようやく、《タントの恵み亭》の従業員やレイナ=ルウたちの手によって、本日の晩餐が運ばれてきた。
「お待たせいたしました。順番にお配りいたしますので、少々お待ちください」
アルヴァッハたちの目や耳を気にしてか、宿屋のご主人がたも大人しめの雰囲気である。しかし、料理に向けられる瞳には、いずれも期待の光が躍っているようだった。