雨季の始まり②~宿場町の勉強会~
2020.11/3 更新分 1/1
下ごしらえの仕事を終えた俺たちは、ルウ家の面々と合流したのち、宿場町に向かうことになった。
その時間になっても、空模様に変化はない。夜明け頃からもう何時間も霧雨が降り続けているのだから、まごうことなき雨季であろう。宿場町に到着してみると、やはり昨日よりもいっそう人通りは減じているように感じられた。
「おお、来たか。雨の中を、ご苦労だったな」
《キミュスの尻尾亭》では、ご主人たるミラノ=マスに迎えられる。町の人々も、この時期には長袖の装束で寒冷をしのいでいた。
「レビたちが倉庫のほうにいるはずだから、そっちに回ってくれ。……今日は商売の後、そのまま《タントの恵み亭》に向かうんだな?」
「はい、そのつもりです」
本日は、月に1度の宿屋の寄り合いであった。なおかつ、ついに宿場町でもゲルドから買いつけた食材が売りに出される運びとなったので、俺やヤンがその扱い方を勉強会で手ほどきする予定になっていた。
「下りの二の刻の半に集合と言われても、この天気では日時計も役立たずなのでな。そちらが屋台を返しに来たら、俺も向かうことにしよう」
「はい。屋台は誰かしらが返しに来ますので。それでは、またそのときに」
裏手の倉庫でレビたちと合流し、いざ出陣である。
石造りの街道もしとどに濡れているので、足の不自由なラーズはいっそうの注意が必要なところであろう。杖をついて慎重に歩を進めながら、ラーズは俺に微笑みかけてきた。
「今日からついに、新たな食材ってやつが売りに出されるそうですねえ。うちのらーめんに合う食材はあるのかと、ちょいと楽しみにしてるんですよ」
「そうですね。野菜なんかは使い勝手のいいものばかりですし……調味料も、面白い使い方を考案できるかもしれませんよ」
「ええ、楽しみです」
外套のフードの陰で、ラーズはにこにこと笑っている。日を重ねるごとにかまど仕事が上達しているように見受けられるラーズが、新たな食材の使い道を見出せるかどうか、俺としても楽しみなところであった。
そうして露店区域に差し掛かると、「アスタおにいちゃん!」という元気な声が届けられてくる。俺をそのように呼ぶ相手はひとりしかいなかったので、誰かといぶかしむ必要もなかった。
「ちょうど今、布屋のおじさんが店番に来てくれたの。一緒にいってもいい?」
「うん、もちろん。準備でちょっと待たせちゃうけど、大丈夫かな?」
シンプルな革の外套を纏ったターラは、元気いっぱいに「うん!」とうなずいた。べつだん大人の着る外套と大きくデザインが異なるわけではないのだが、雨合羽を着た幼子のように見えて、とても可愛らしい。
すると、同じく外套を纏ったドーラの親父さんも、ひょこひょこと近づいてきた。
「やあ、アスタ。今日もいっそう冷えるねえ。美味しい汁物料理で温まりたいところだよ」
「はい。毎度ありがとうございます」
ドーラ家の父娘とも合流して、露店区域の北端を目指す。
その道中で、親父さんは「うん?」と首を傾げた。
「外套をかぶってるせいなのかな。アスタが、大きく感じるねえ」
「そうですか? さすがにもう、背丈はのびきったと思うんですが」
「うん。この2年足らずで、ずいぶん大きくなったんだろうねえ。最初に出会った頃なんかは、俺よりも拳ひとつ分は小さかったはずだもんなあ」
ドーラの親父さんはかなり体格がよく、背丈も177、8センチはあったはずだ。いっぽう俺などはせいぜい170センチていどであったのに、現在は目線の高さもほとんど変わらないぐらいになっている。
「ターラなんかは、きっと俺よりも成長しているんでしょうね。毎日のように顔をあわせているんで、いまひとつ実感がわかないんですけど」
「ああ。ターラももう10歳になっちまったからねえ。俺も年をくうはずだよ」
そんな風に語りながら、親父さんは幸福そうな笑顔であった。
かまど小屋で生まれていた和やかな空気が、ここにも発生しているようだ。現在は霧雨に打たれているためか、そこにしっとりとした情緒まで加えられているかのようだった。
すると、ドーラ家の父娘をはさんで反対側で屋台を押していたララ=ルウも会話に加わってきた。
「リミは黄の月の生まれだから、まだ9歳なんだよね。それじゃあそれまでは、ターラのほうがおねーさんってわけだ?」
「うん、おねーさん! ララ=ルウは、いつ生まれたの?」
「あたしは、青の月だよ。うちは茶の月の終わり際に生まれた家人が多いから、ちょっと前まで豪勢な晩餐続きだったなあ」
「ああ、そんな話もあったねえ」と、俺も割り込ませていただく。
「えーと、ドンダ=ルウとジザ=ルウとルド=ルウと……それに、コタ=ルウやヴィナ・ルウ=リリンなんかも茶の月の生まれだったっけ?」
「うん。今回から、ヴィナ姉のお祝いはリリンの家だったけどねー」
「あ、そう考えるとシュミラル=リリンは、ヴィナ・ルウ=リリンのお祝いに参加できなかったのか。それは無念の極みだろうね」
「そんなのはふたりとも、覚悟の上でしょ。祝いの花を贈れない分、何かしらの贈り物を準備して戻ってくるさ」
そう言って、ララ=ルウは陽気に白い歯をこぼした。
すると今度は、斜め後方からプラティカが「アスタ」と呼びかけてくる。
「宿屋の屋台、存在しません。すべて、撤収ですか?」
「ああ、本当だ。雨季になったらいったん店じまいをするという話でしたから、朝方の雨で取りやめることになったのでしょうね」
料理の屋台が密集していたスペースはがらんと空いており、屋根を立てた食堂も縄で囲まれたままになっている。そんなわびしい情景が、閑散期の到来を如実に示していた。
雨季は客足が半減してしまうし、おまけにポイタンとフワノが値上がりしてしまう。食材費や人件費のことを考えれば、宿屋の人々が二の足を踏むのも当然であった。
「ただ、去年の雨季にもいくつかは料理の屋台が出ていたはずですからね。明日にはいくつかの屋台が商売を再開させると思いますよ」
「そうですか。新たな食材、屋台、使われる、楽しみです」
そうして所定のスペースに到着すると、そちらにもほとんど人気はなかった。
さすがにこの雨では、開店前から並ぼうというお客もいないか――と、空いたスペースに荷車を引いていくと、雑木林からわらわらと人影が出現する。
「おお、やっと来たか! いい加減に待ちくたびれちまったよ!」
「そら、さっさと準備をしてくれ!」
それはいずれも見覚えのある、宿場町の領民たる常連のお客たちであった。
荷車からルウルウを解放しつつ、ララ=ルウはうろんげにその姿を見回していく。
「そんなところで、何やってたの? 無法者が隠れてたのかと思っちゃったよ」
「雨が鬱陶しいから、木陰に潜ってたんだよ。無法者とは、ひでえ言い草だな」
「ごめんごめん。食堂の囲いをほどくから、準備ができるまでそっちで待ってなよ」
というわけで、青空食堂が早々に解放され、十数名ばかりのお客たちはそちらになだれこむことになった。
見知った相手を見つけたらしく、ドーラの親父さんとターラもそちらに向かっていく。卓の清掃は当番の女衆にまかせて、俺たちは屋台の準備だ。
これまでファとルウでは8名ずつの人員を準備していたが、それは7名ずつに減らしていた。青空食堂の当番は1名ずつとして、手が足りなくなったら屋台のほうから人員を出す格好だ。客足が半減することを考えれば、もう何名かは減らす余地があるのかもしれなかったが、それは今後の様子を見ながら検討する予定であった。
「去年の雨季は、屋台の数ももっと少なかったのですよね?」
本日のパートナーであるクルア=スンに問いかけられて、俺は「うん」とうなずいてみせた。
「その頃はまだ、ディン家と《キミュスの尻尾亭》の屋台がなかったはずだね。マイムはたしか、ルウ家でお世話になりながら、個人で屋台を出していたかな」
「なるほど。屋台の数が増えた分、ひとつの屋台で売る料理の数は減る可能性がある、ということでしょうか?」
「うん。ただし、ジェノスを訪れる人らの数も同一ではないだろうし、宿屋の人らが出す屋台との兼ね合いもあるから、売り上げがどう変動するかは予測しきれないんだよね」
そんな風に答えてから、俺はクルア=スンに笑いかけてみせた。
「クルア=スンは、かまど仕事だけじゃなく屋台の仕事に関しても熱心だよね。本当に心強く思っているよ」
「いえ。わたしは新参者なのですから、早くみんなに追いつきたいと願っているばかりです」
雨のよく似合う微笑をたたえながら、クルア=スンはそのように答えてくれた。やはり、15歳とは思えぬほどの落ち着きである。
その間に、鉄鍋の中身はくつくつと煮えている。本日の日替わり献立は、『ギバ肉のタラパ煮込み』だ。タラパは間もなく使えなくなってしまうので、今の内にと盛り込んだ次第であった。
「では、営業を開始します。お足もとにお気をつけくださいね」
青空食堂に避難していた人々が、ぱしゃぱしゃと水しぶきをあげながら殺到する。街道の南側からもお客はやってきて、気づけば雨季の前とさほど変わらぬ賑わいであった。
「今日は宿屋の屋台がいっせいに休んだから、その影響が出ているみたいだね」
そんな解説をクルア=スンに施しながら、俺は料理を受け渡していく。
最初にラーメンを注文した親父さんとターラは、それを食べ終えてからこちらの屋台に並んでくれた。
「タラパもそろそろ食べおさめだからねえ。そいつもふたり分いただくよ」
「ありがとうございます。トライプとレギィのほうはどうですか?」
「そっちの収獲は、あと半月ってところかな。ただ、城下町の貴族様からせっつかれちまってねえ。あれは、アスタも絡んでる話なんだろ?」
「はい。ゲルドの方々がジェノスを発つ前に、雨季の野菜を使った料理を食べてみたいと仰っているのですよね。本当は、5日後ぐらいに出立したかったようですが……」
「うん。5日は無理だから、せめて10日はお待ちくださいと申し出たところなんだよ。どんなに銅貨を積まれたって、野菜が育つ時間に変わりはないからね」
タラパの芳香に鼻をひくつかせながら、親父さんは朗らかに笑った。
「まあ、それ以上はごねられることもなかったよ。あっちはあっちで、粗末な野菜じゃ用事が足りないみたいだね」
「もちろん、そうでしょうね。ゲルドの方々は、美味なる料理をご所望なのですから」
そのためならば、帰国が数日ばかり遅れてもやむなしという考えであるのだろう。ナナクエムの溜め息をつく姿が、容易に想像できそうなところであった。
「俺自身も、トライプとレギィの美味い料理を楽しみにしているよ。それじゃあ、また後で」
木皿を手にしたドーラ父娘は、再び青空食堂に立ち去っていく。
その頃には、朝一番のピークも終了したようだった。
「ふー! けっこう売れましたね! これなら、昨日よりも早く売り切れるのではないでしょうか?」
隣の屋台で『ギバ・カレー』を受け持っていたレイ=マトゥアが、そのように呼びかけてきた。相方のガズの女衆は、青空食堂の手伝いに向かったようだ。
「そうだね。でも、明日からは宿屋の屋台がいくつか再開するだろうから……やっぱり、加減が難しいなあ」
しかしまた、宿屋の屋台がいっせいに休むというのは、おそらく本日限りのことであろう。今にして思えば、本日は勉強会と寄り合いが開催されるために、屋台の商売を控えたのかもしれなかった。
(そういう部分でも、もっと連絡を密にできるといいな。今日もぞんぶんに、宿屋のご主人がたと交流を深めさせていただこう)
雨は、変わらずに降っている。
しかし、俺の心が湿っぽくなることはなかった。
◇
そうして商売を終えた後は、勉強会と寄り合いのために、《タントの恵み亭》に出陣である。
もともと寄り合いの会場は別の宿屋であるはずだったが、勉強会を行うには広い厨が必要であったため、臨時に変更となったのだ。
この集まりに参ずるのは、荷車1台分の定員である、6名。俺、トゥール=ディン、ユン=スドラ、マルフィラ=ナハム、レイナ=ルウ、ララ=ルウ、ツヴァイ=ルティムという顔ぶれであった。これで、夕暮れ時には帰宅時の護衛役としてアイ=ファとルド=ルウがやってきてくれることになっている。
そして、特別講師として参じるのは、プラティカだ。屋台の返却はレイ=マトゥアたちにおまかせして、俺たちは《キミュスの尻尾亭》よりも手前にある《タントの恵み亭》に直行した。
「おお、ようこそいらっしゃいました。雨の中を、ご苦労様でございましたな」
《タントの恵み亭》では、商会長のタパスがお馴染みの笑顔で俺たちを出迎えてくれた。
食堂からは、この時間とは思えぬ賑わいが伝わってきている。すでに大勢の関係者が集まっているのだろう。雨天といえども、宿泊客たちは何かしらの商売に励んでいるはずであった。
「外套は、こちらにどうぞ。宿屋のご主人らも間もなく顔をそろえましょうから、それまではどうぞおくつろぎください」
「ありがとうございます。それでは、勉強会の準備だけ先に済ませてしまいますね」
俺たちは、タパスの案内で厨に向かおうとした。
そこに、「失礼する」という慇懃な声が響きわたる。
「ジェノス城より、貴き方々をお連れした。主人は、おられるや?」
「おお、これはこれは。ご案内が遅れまして、申し訳ございません」
タパスは俺たちに一礼してから、そそくさと入り口に舞い戻った。本日も、貴き方々が勉強会と寄り合いの視察を申し入れていたのである。
トトス車を入り口に横づけしたため、さして濡れた様子もない。そこに立ち並んだのは、ポルアース、アルヴァッハ、ナナクエム、フェルメス、ジェムドという顔ぶれであった。
「やあやあ。アスタ殿たちも、ちょうど参じたところであったのかな?」
「はい。どうもお疲れ様です。……今日はメルフリードはご一緒ではないのですか?」
「うん。あまり人数を増やすと手狭だろうということで、僕が一任されたのだよ。まったくもって、大役だね」
ゲルドの貴人らと王都の外交官をエスコートするのだから、まごうことなき大役であろう。それでもポルアースは気負った様子もなく、にこにこと微笑んでいた。
返礼の晩餐会から3日しか経っていないので、みんな変わりはないようだ。というか、フェルメスは襟巻きで面相を隠しているし、それ以外の3名はのきなみ無表情であるため、微細な変化を読み取ることも難しかった。
「……プラティカ、変わり、なかろうか?」
アルヴァッハが重々しい声音で呼びかけると、プラティカが「はい」と進み出た。
「修練、たゆまず励んでいます。森辺の集落、学ぶこと、尽きません」
プラティカはいったん藩主の料理番を解任された身となるが、アルヴァッハが故郷の貴人であるという立場に変わりはない。また、ふたりの間に紡がれた絆にも変わりはないはずであった。
アルヴァッハたちは、あと10日ほどでジェノスを出立することになる。最後に雨季の食材を使った料理でジェノスの滞在を締めくくり、遥かなる故郷へと旅立つのだ。きっと数ヶ月後には、また追加の食材を携えてジェノスを訪れるのであろうが――別れの日は、もう目前に迫っていた。
「では、外套をお預かりいたします」
プラティカとの挨拶を終えたと見て、タパスがアルヴァッハのほうに手を差しのべる。が、アルヴァッハは無表情に「否」と答えた。
「我々、外套、脱がないこと、取り決めた。……ポルアース殿、説明、願いたい」
「はいはい、ただいま。……えーとだね、宿屋の内部にまで兵士たちを配置するのは難しいだろう? よって、アルヴァッハ殿とナナクエム殿には自衛の手段を保持していただくことになったのだよ」
「自衛の手段、と申しますと……毒の武具、でございましょうか?」
「そういうことだね。毒の武具は外套の内側に収納されているために、受け渡すことができないわけさ」
ポルアースはのほほんと笑っていたが、タパスはずいぶん恐ろしげな面持ちになってしまっていた。ただでさえ、ゲルドの人々というのは威圧感が尋常でないのだ。
「我、ナナクエム、ジェムド、武具あらば、50名の無法者、退けること、可能である。心配、無用であろう」
「さ、さようでございますか。もちろんこちらの宿では無法者の出入りなど許しておりませんので、どうぞ心安らかにお過ごしくださいませ」
タパスはなんとか愛想のよい笑顔をこしらえつつ、そのように言いたてた。貴族とゆかりの深いタパスでも、やはりゲルドの貴人というのは勝手が違うのであろう。
そうして他の人々はわずかに湿った外套をタパスに引き渡していたが、フェルメスは何やら普段と様子が異なっていた。襟巻きで口もとを隠しているのはいつも通りであるが、さらに亜麻色の長い髪は衣服の内側に収納し、頭には耳当てのついたフライトキャップのようなものをかぶっていたのである。さらに、首から下もゆったりとした長衣ではなく、ジャガル風の上衣に脚衣という装いであった。
「……ずいぶん寒さが厳しくなってきましたので、装いをあらためました。こういった帽子は、面相を隠すのにもうってつけですしね」
俺の視線に気づいたフェルメスが、帽子のつばの陰でヘーゼル・アイをきらめかせながら、そのように説明してくれた。まあ、あまりに印象的な容姿をしたフェルメスであるのだから、当然の用心であるのだろうか。以前に視察におもむいた際などは、ずっと東の民のように外套のフードを深く傾けていたのだ。
「では、自分たちは勉強会の準備がありますので、いったん失礼いたします」
タパスが宿の人間を呼んでくれたので、そちらの案内で俺たちは厨へと乗り込んだ。
厨には、すでに熱気がたちこめている。俺たちと入れ替わりで何名かの厨番が退室していき、あとに残されたのはヤンとニコラの師弟コンビであった。
「お待ちしておりました、森辺の皆様方。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
夜に備えて、晩餐の下準備を進めていたのだろう。そこには熱気ばかりでなく、さまざまな芳香もあふれかえっていた。
そうして俺が嗅覚を楽しませていると、仏頂面をしたニコラが進み出てくる。
「3日ぶりですね、プラティカ様。……予定通り、昨日も一昨日も森辺で過ごされたのでしょうか?」
「はい。ファの家、スドラの家、お世話、なりました。明日、ディンの家です」
「ディンの家……菓子作りの名手たる、トゥール=ディン様の家ですね」
ニコラの瞳がぎらりと光り、俺の横にいたトゥール=ディンが思わず身をすくめることとなった。
「よろしければ、わたしも同行をお願いしてよろしいでしょうか? もちろん、まずは森辺の方々にお許しをいただかなければなりませんけれども……」
「はい。私、問題ありません。以前、語った通りです」
3日前の祝宴の帰り際、プラティカはニコラにも自分がしばらくジェノスに逗留することを告げていたのだ。その際に、数日に1度は自分も森辺に同行させてほしいと、ニコラはそのように申し出ていたのだった。
「あー、あんたのことなら、ドンダ父さんにも話しておいたよ。これまで許してたんだから、この先も拒む理由はないだろうってさ」
と、ララ=ルウがすかさず言葉をはさんだ。
「ま、傀儡使いのリコたちを森辺に招いたたときと同じような状況だからね。森辺で騒ぎを起こさない限りは、文句を言われることもないはずだよ」
「ありがとうございます。族長ドンダ=ルウ様に、くれぐれもよろしくお伝えください」
ニコラはララ=ルウに向かって、深々とお辞儀をした。愛想はないが、礼儀正しい娘さんであるのだ。
そしてニコラのかたわらからは、ヤンも小さくお辞儀をした。
「ニコラの師匠として、わたしも感謝の言葉を伝えさせていただきたく思います。ニコラを、どうぞよろしくお願いいたします」
「うん。あんたのことは以前からリミが話に出してたから、ドンダ父さんも安心してニコラを集落に迎えられたんじゃないかな」
ララ=ルウは、にっと白い歯をこぼした。隣には姉たるレイナ=ルウも控えているのだが、こういう場ではララ=ルウに取り仕切りをまかせる機会が増えてきていたのだ。
数ヶ月後に生誕の日を控えて、ララ=ルウはめきめき頼もしくなっている様子である。もともとレイナ=ルウよりも長身の彼女であるが、さらにその差が開いてきたように感じられる。スレンダーかつシャープな体型に変わりはないものの、どことはなしに大人びてきたように思えてならなかった。
(出会ったときは12歳で、それがもうすぐ15歳なんだもんな。心身の成長が一番顕著に出る年頃なのかもしれない)
かくいう俺も、ララ=ルウよりひと足早く生誕の日を迎えることになる。なおかつ、アイ=ファなどはもう5日後に生誕の日が迫っているのだ。
俺が森辺にやってきてから、およそ1年と9ヶ月――思えば、遠くにきたものである。
しかしまだまだ、感傷にひたっているいとまはなかった。
「では、勉強会の下準備を始めようかと思うのですが……もしかしたら、それも済んでしまいましたか?」
「はい。野菜には熱を通し、香草はすり潰しておきました。味見の分は、もう十分であるかと思われます」
「そうですか。何から何までまかせきりになってしまって、申し訳ありません」
「とんでもありません。こちらは屋台の商売も取りやめていたので、手も空いていたのです」
ということで、約束の刻限まではヤンたちと旧交を温めることになった。
四半刻もせぬ内に、宿屋のご主人がたは大挙して厨に押し寄せてくる。貴き人々はすでに挨拶を済ませたらしく、最後方の入り口付近で、静かに厨の内部をうかがっていた。
「みなさん、おひさしぶりです。ご挨拶は寄り合いの時間を待つことにして、さっそく勉強会を始めさせていただきますね」
《キミュスの尻尾亭》のミラノ=マス、《南の大樹亭》のナウディス、《玄翁亭》のネイル、《西風亭》のサムスとユーミ、《ラムリアのとぐろ亭》のジーゼ、《アロウのつぼみ亭》のレマ=ゲイト――見知った相手は、のきなみ参上している。それらを相手に、俺とヤンは手分けをして新たな食材の紹介を果たしていくことになった。
長ネギのごときユラル・パ、小松菜のごときファーナ、キュウリのごときペレ、カブのごときビーツ、完熟コーンのごときメレスは、熱を通したものを味見していただく。ユラル・パとペレに関しては、生鮮の状態でもその清涼なる味を確かめていただいた。
お次は4種の香草と、夏みかんのごときワッチ、ブルーベリーのごときアマンサ。最後に調味料たる魚醤、およびマロマロのチット漬け。そして、ペルスラの油漬けにゲルド産のギャマの乾酪である。
「なんだい、こりゃ! こんなもんが、売り物になるのかい!?」
レマ=ゲイトがわめきたてたのは、ペルスラの油漬けを食した際であった。やはり宿場町においても、この発酵した海魚の油漬けは抵抗が生じてしまうようだ。
「城下町においては、こちらもじょじょに買い手がつくようになっております。このジェノスにおいて魚介の食材は希少でありますため、うまく扱えばマロールや貝類などに負けぬ評判を生むことができるのではないでしょうか?」
ヤンが慇懃に応じると、ナウディスが「そうですな」と応じた。
「わたしもこちらの食材は、いささかならず強烈な風味であるように思えてしまいますが……南のお客様には、魚介の料理をお求めになられる御方も少なくないのです。うまい扱い方が存在するならば、ご教示を願いたいものでありますな」
「東のお客様も、それは同様です。初めてジェノスを訪れたお客様は、魚料理が存在しないことを驚くというのが常でありますので」
と、ナウディスとは対極の立場であるネイルも便乗する。川魚が毒を帯びていて食用にならないというのはジェノス近在の特色であるため、遠来のお客にはやはり驚かれるものであるのだろう。
「最初にお話ししました通り、野菜に関してはゲルド産においてもマヒュドラ産においても使い勝手はいいように思います。熱を入れる時間さえお間違えなければ、既存の料理に転用することも難しくはないでしょう。ワッチやアマンサという果実も、また然りです。よって本日は、香草と調味料、およびペルスラの油漬けとギャマの乾酪に焦点を絞って、取り扱い方をご説明しようかと思います」
今日の進行役は、ヤンが主体となって受け持ってくれていた。《タントの恵み亭》は屋台村においても屈指の売り上げを叩き出していたという話であったので、その献立を開発したヤンに対しても、いっそう信頼は厚くなったことだろう。
俺たち森辺のかまど番は、実務において力を尽くすことにする。新たな香草と既存の香草の組み合わせに、大葉に似たミャンの特殊な扱い方、ヨモギに似たブケラを菓子に応用する手段など、レイナ=ルウやトゥール=ディンと力をあわせて、その役目を果たすことになった。
さらに、特別講師のプラティカなどはもっともこれらの食材の扱いに慣れ親しんでいるのだから、かつて城下町でそうしてくれたように、野菜と香草と調味料の基本的な扱い方を教示してくれた。本日の彼女はアルヴァッハを介さずに、あくまでひとりの料理人として、この仕事を城下町から受け持っていたのである。
「ちょうど雨季に入ってしまって、タラパなんかが使えなくなってしまうのは惜しいところですけれど……でも最近は扱える食材がうんと増えたので、困ることはなさそうでございますねえ」
そのような感想を述べたてたのは、この場で最年長かもしれないジーゼであった。東の血が入った、とても穏やかな老女である。
そちらに向かって、俺は「そうですね」と笑いかけてみせた。
「雨季にはトライプとレギィも使えるようになりますし、それらの食材ともどのように組み合わせるか、今から楽しみです。お客はずいぶん減ってしまいますけれど、雨季には雨季の楽しみがあると思っていただけたら幸いですね」
何か波乱が起きるでもなく、その日の勉強会は粛々と進められていった。
視察役たるポルアースたちも、その姿を満足そうに見守ってくれているようだった。