雨季の始まり①~朝~
2020.11/2 更新分 2/2
・今回は全7話の予定です。
「アスタ、朝だぞ。いいかげんに、目を覚ますがいい」
その日の俺は、この世でもっとも大切な相手の凛々しい声音によって目を覚ますことになった。
重いまぶたを持ち上げると、金褐色の髪を綺麗に結いあげたアイ=ファが、近い距離から俺の顔を覗き込んでいる。部屋はずいぶんと薄暗かったが、アイ=ファの輝きがそれで損なわれることはなかった。
「もう朝か……反射的に、あと5分とか言いたくなるような朝だな……」
「わけのわからぬことを言っておらんで、とっとと起きるがいい。……どうにも雨季になると、お前は寝ざめが悪くなるようだな」
口では厳しいことを言いながら、アイ=ファの眼差しはどこか優しい。なんだかそれは幼子を見守る慈母のごとき眼差しであるように感じられて、俺はたちまち気恥ずかしくなってしまった。
「去年も言ったと思うけど、気温が下がると寝具の心地好さが倍増して、ついつい出たくなくなっちゃうんだよな……あっ! だからといって、朝の仕事を二の次にするつもりはないぞ?」
「何をいきなり慌てているのだ。寝具を燃やされたくなければ、行動で示してみせるがいい」
「はーい」と素直に言いながら、俺は寝具の上に身を起こした。
俺もアイ=ファも昨日から長袖の装束に衣替えをして、毛布の数も増やしている。そうして温かい毛布をはねのけると、予想通りの冷気が俺に襲いかかってきた。
「おお、寒い。……それに、ずいぶん薄暗いな。もしかしたら、外は雨なのか?」
「うむ。これは本格的に雨季が始まったと見なすべきであろうな」
雨季が近づくと、格子の窓にもカーテンのごとき帳が掛けられる。その帳はすでにアイ=ファによって半分ほど開かれていたが、その向こう側にはしとしとと降りそぼる細い雨が見え隠れしていた。
俺の故郷では梅雨入り宣言というものが存在したが、この世界にそのようなものは存在しない。じわじわと下降していく気温が下がりきって、朝から雨天を迎えた頃合いで、「雨季に突入した」と見なされるのだ。
本日は、赤の月の5日。城下町で行われた、ゲルドの貴人らによる返礼の晩餐会から、3日後のことである。気温もぞんぶんに下がりきっているし、窓の外が雨天だというのなら、ついに本格的な雨季がやってきたと判断するべきであろう。
俺は肌着で眠っていたので、枕もとに準備しておいた長袖の上衣を纏いつつ、すみやかに寝具を片付ける。
この時期だけは、俺もアイ=ファも同じような格好となる。渦巻模様の織り込まれた、襟のないざっくりとしたシャツのような長袖の装束と、膝丈ぐらいの腰巻きだ。まだ衣替えの2日目であるので、アイ=ファのこの姿もとても新鮮に見えてならなかった。
「……なんだ? 動きが止まっているぞ、アスタよ」
「ああ、いや、なんでもない。ちょっとアイ=ファの姿に見とれてただけだ」
虚言は罪であるから正直に答えたのに、頭をひっぱたかれてしまった。
その手加減された一撃に心を温かくしながら、すでに畳まれているアイ=ファの寝具に自分の寝具を重ねると、その内側から「なうう」という非難がましいうなり声が聞こえてきた。
「ごめんごめん。そんなところに潜ってたのか」
重ねられた寝具の隙間から、黒猫のサチがにゅっと顔を出した。
サチが我が家にやってきてから、ふた月と少し。彼女もずいぶん成長して、体長が40センチほどになり、俺の肩に乗ることも難しくなってきていた。
また、水浴びを嫌がるサチであるからして、雨天が多くなってからは、宿場町への同行を取りやめる日が増えている。今日もこの調子では、家でぬくぬくと過ごそうという所存であるようだった。
「まったく、怠惰なやつだ。雨季における寝具というのは、怠惰な気性を呼び起こす存在であるのだろうか」
「あはは。寝具の魔力ってやつかもな」
そうして寝所を出ようとしたとき、鼻のあたりがむずむずとした。
口もとに手をやって、「くしゅん」とひとつくしゃみをする。やはり今朝がたは、昨日まで以上に冷え込んでいるようだ。
「失礼。それじゃあ、朝の仕事に――」
そんな風に言いかけた俺の両肩を、アイ=ファがいきなりわしづかみにしてきた。
切迫した光をたたえた青い瞳が、真正面から俺を見据えてくる。
「どうしたのだ? 身体に変調をきたしているのか?」
「え、いや、そんなことないよ。くしゃみひとつで、大げさじゃないか?」
「しかしお前は、昨年の雨季にも病魔を患っていたではないか?」
「《アムスホルンの息吹》ってのは、一生に一回しか発症しないんだろ? 体調はまったく問題ないって」
アイ=ファはしばらく俺の瞳を注視してから、ふっと息をついた。
「お前の目には、普段通りの力が宿されている。……しかし、体調を崩したときはすぐに報告するのだぞ? 決して無理をするのではないぞ?」
「うん、わかった。心配してくれて、ありがとうな」
俺が心をこめて笑いかけてみせると、アイ=ファは小石でも呑み込んだような顔をしてから、俺の頭をぐしゃぐしゃとかき回してきた。
「いきなりそのような笑顔を見せるな。……では、朝の仕事を片付けるぞ」
「了解であります、家長」
家の外に出る際は、雨よけの外套を着用する。狩人の衣と区別するために、ギバの毛皮を裏返しにしたフードつきの外套である。表に向けた毛皮の裏地には、赤や緑の染料でカラフルな紋様が染めあげられている。俺のは近在の女衆に頼んで作ったもらったものであり、アイ=ファのはフォウとランからの生誕の日の贈り物であった。
(アイ=ファの生誕の日も、もう5日後か)
そんな感慨を噛みしめながら、俺は雨よけの外套を着込んだ。
ひときわ柔らかくなめされたギバの毛皮は、肌触りも心地好くて温かい。これから雨の降る外界に踏み出すというのは憂鬱なことであったが、この温もりをよすがとするしかなかった。
家の外では、すでにブレイブたちが元気に走り回っており、ギルルは木の陰でもしゃもしゃと枝の葉をついばんでいる。ファの家の人間ならぬ家人において、雨を嫌がるのはサチのみであった。
雨はさあっと、静かに降っている。
雨季の間はスコールじみた雨ではなく、ほとんど霧雨となるのが常であった。
東の方向に目をやると、暗緑色のモルガの山が霧雨に煙っている。
ティアももう、目を覚まして朝の仕事に励んでいる頃合いであろうか。
ルジャの発案通りに、赤き民たちが山麓の森にまで狩り場を広げたのかどうか――俺たちに、それを確かめるすべはない。俺たちにできるのは、ティアとその同胞らが心健やかに過ごしているように祈ることだけであった。
◇
朝の仕事を片付けて、かまど小屋で下ごしらえの準備をしていると、すぐにあちこちから手伝いの女衆らが参じてくれた。
今日の手伝いは、屋台の商売に参加する面々と、フォウとランの女衆で、総勢は10名となる。日時計が使えないと正確な時刻に集合することも難しいが、雨季の間は売り上げも激減してしまうために、下ごしらえの仕事にもゆとりが生まれていた。
そうしてファの家にやってくる女衆らも、もちろん雨よけの外套を纏っている。
その下に纏っているのは、ポンチョのような上衣と、やはり膝丈ぐらいの腰巻きだ。膝から下は濡れるにまかせて、家にあがるときに足を清めるというのが、森辺における雨季の習わしであった。
「アスタ。見学、お願いいたします」
と、やがて姿を現したのは、プラティカであった。返礼の晩餐会を終えた後、彼女はすみやかにトトスと荷車を購入し、また森辺で夜を明かす生活を再開させていたのだ。
プラティカに続いて、ユン=スドラも「失礼します」と入室してくる。プラティカはファとルウばかりでなくさまざまな氏族の家を巡ることを希望し、昨日はスドラの家におもむいていたのだった。
「やあ、ユン=スドラ。プラティカを迎えての晩餐はどうだったかな?」
「はい。とても楽しい時間を過ごすことができました。他の家人たちも、またプラティカが来てくださる日を心待ちにしています」
そう言って、ユン=スドラはプラティカににこりと微笑みかけた。
いっぽうプラティカは、きゅっと眉を寄せてしまっている。まだ若年であるためか、プラティカは表情を動かしてしまうことが多いのだ。現在はちょっと険しそうに見えてしまう面持ちであるが、それは喜びの表情を抑制している結果であろうと思われた。
ともあれ、プラティカとユン=スドラも外套の水を払って、かまど小屋に入室する。これで本日のメンバーも、勢ぞろいしたようだった。
「それじゃあ、下ごしらを始めましょう。今日もよろしくお願いします」
そうしてかまどに火をともすと、その場には普段通りの明るさと熱気が満ちた。
雨というものは人を滅入らせる面が強かろうが、清廉にして強靭なる森辺の民の前では、何ほどのものでもない。
「つ、つ、ついに雨季ですね。雨季の間に屋台で働くのは初めてのことですので、何か不始末をしでかしてしまわないように、いっそう気を引き締めたく思います」
「わたしも、同じ思いです。やはり雨季では、色々と勝手が異なるのでしょうね」
作業をしながらそのように声をあげたのは、マルフィラ=ナハムとクルア=スンであった。新参に分類される彼女たちは、これが初めての雨季の商売となるのだ。
「そうだねえ。まあ、一番気をつけるべきは、往復の移動時間だろうと思うよ。視界も足もとも悪いから、いっそうの注意が必要だろうね」
「はい。それに、料理の内容なども変わってくるのでしょう?」
「それはもちろん、使える野菜の種類なんかも変わってくるわけだからね」
日照時間の減少は、畑の作物にも大きな影響を与えるのだ。
雨季の間はタラパとティノとプラが収獲できなくなり、その代わりに、カボチャに似たトライプとゴボウに似たレギィが市場に出回ることになる。
本来であればモヤシに似たオンダもそこに含まれるのであるが、ジェノスにおいては雨季でなくともオンダを買えるようになっていた。こちらは畑ではなく小屋で育てる作物であり、もともと天候に関わりなく栽培することが可能であったのだ。それで昨年の雨季が明けた後も、俺を言いだしっぺとする町からの要請で、オンダは季節を問わずに売買される販路が確立されたのだった。
そしてさらに重要であるのは、フワノとポイタンとアリアであろう。
フワノも収獲は不可となるが、これはもともと食事に必須な穀物と見なされていたため、雨季に備えた備蓄分が割高の値段で放出されることになる。そしてポイタンとアリアに関しては、収獲はできるものの実の大きさが極端に小さくなってしまうため、こちらも値段は3割から5割増しぐらいに跳ね上がってしまうのだ。
ただし本年は、十分な量のポイタンが準備されていた。昨年などはポイタン畑の拡張がおっつかず、俺たちの屋台でも高値のフワノを扱う羽目になってしまっていたのだが、本年はダレイムの人々の尽力によって、雨季の間もこれまで通りにポイタンを買えるだけの在庫が確保されたのだった。
俺がそういったことを説明していくと、クルア=スンは不思議そうに小首を傾げた。
「とはいえ、ポイタンの値が上がることに変わりはないのですものね。それでも、屋台で売る料理の値段は変えないのですか?」
「うん。去年なんかは、それより値の張るフワノを使っても、お値段は据え置きだったからね。値段を上げたらどうしたって客足は落ちるだろうから、それなら薄利多売で頑張ろうという結論になったわけさ」
「なるほど。町の人々にギバ料理の美味しさを伝えたいという思いで商売を手掛けるのでしたら、それが正しき姿なのでしょうね」
そんな風に言ってから、クルア=スンはひそやかに微笑んだ。
「ポイタンの話で思い出しましたが……実はスンの家でも、シャスカを買ってみようかという話が持ち上がっているのです」
「へえ。シャスカはちょっと値が張るから、スン家ではまだ買いつけていなかったんだよね?」
「はい。ですが、ポイタンの値が倍ほども上がってしまうなら、シャスカとの差も小さくなるということで……家長が、買うことを許してくれたのです」
「そっか。そうしたら、ついにクルア=スンの出番だね」
俺がそのように応じると、クルア=スンは銀灰色の瞳をいつになく明るく輝かせながら、「はい」とうなずいた。
スン家はまだそれほど大きな富を手にしたわけではないので、遠来より届けられる高値の食材には手を出していなかったのだ。それでもクルア=スンは可能な限り勉強会に参加して、さまざまな食材の扱い方を学んでいた。いつかスン家でも、それらの食材を手にできるぐらいの豊かさを得られるはずだと信じ、かまど番の修練に励んできたのである。
「それに今は、スン家が腸詰肉の準備をする当番を受け持っていますので……これまでからは考えられないほどの銅貨を手にすることができているのです。もちろんそれを無駄につかうことは許されませんが、家人の幸福のためには晩餐の内容を豊かにすることも必要だろうと……家長は、そのように言ってくれました」
家長家長と言っているが、それはクルア=スン自身の父親のことである。
あの誠実そうな家長の眼差しを思い出しながら、俺も「なるほど」と笑ってみせた。
「本当に、何よりの話だね。クルア=スンが腕をふるって、美味しいシャスカ料理を作りあげておくれよ」
「はい。ありがとうございます」
すると、『ギバまん』のためにギバ肉を刻んでいたレイ=マトゥアが、俺たちのほうににゅっと顔をのばしてきた。
「そういえば、今はスン家が腸詰肉を準備する当番だったのですよね。そちらは注文の量が減ったりはしていないのですか?」
「注文の量? はい。先月から、特に変わりはないように思いますが……」
「そうですかー。生鮮肉のほうは、ずいぶん減ってしまったようですよ」
それはまあ、生鮮肉の何割かは宿場町の宿屋に買いつけられているのだから、お客の減る雨季の間は買い控えが生じるものであろう。いっぽう腸詰肉のほうは貴族がらみの顧客が多いため、さしたる影響はないということだ。
「この調子だと、仕事を受け持った3ヶ月の内、まるまる2ヶ月は雨季で売り上げが落ちてしまいそうです。これって、ちょっと不公平ですよね」
そんな風に言ってから、レイ=マトゥアは慌てた様子でぶんぶんと手を振った。
「あ、違います違います! 決してスン家が得をしているとか言っているわけではありません! そうじゃなくって、雨季の間に生鮮肉の当番になった氏族が損しちゃうなーと思ったのです。雨季でなければ、もっとたくさんの肉を売れたはずなのですからね」
「ああ、なるほどね。えーと、先月から生鮮肉の当番になったのは……ベイムと、ダイだっけ」
昨年の白の月になってから、森辺の各氏族は生鮮肉と腸詰肉を売る商売を3ヶ月ごとのローテーションで受け持っている。現在は8ヶ月目であるので、3期目の当番ということだ。
「ただ、ベイムは以前に腸詰肉の当番も果たしていたし、ダイなんかは家長会議の前に生鮮肉の当番を受け持っていたから、それぞれこれが2度目の当番ってことになるんだよね。そういう意味では、まあつり合いが取れているのかな?」
「はい。本来であれば、ザザの血族が生鮮肉の当番を受け持つ順番であったのですよね?」
「うん、そうそう。でも、あちらは休息の期間にぶつかりそうだったから、あらかじめ順番がズラされることになったんだよ」
俺がそのように答えると、レイ=マトゥアはもじもじと身をよじり始めた。ついに14歳となった彼女であるが、小柄で愛くるしい姿にそれほど大きな変化は見られない。
「でも、そう考えると……ガズとラッツの血族は、すでに生鮮肉と腸詰肉の当番を1度ずつ担っています。それも両方、雨季ではない時期だったので……ガズとラッツの血族ばかりが、得をしているという話になってしまいませんか?」
俺は、「ああ」と笑ってみせた。
「そういうことか。レイ=マトゥアは、自分の血族ばかりが得をしてるんじゃないかって心配になってしまったわけだね?」
「はい。ベイムとダイも同じ立場でしたが、こうして雨季で生鮮肉の売り上げが落ちてしまいましたし……」
「でも、ガズとラッツが腸詰肉の準備を受け持っていたのは、青の月の終わりまでだったよね? それなら3ヶ月に満たないし、ラッツと富を分け合っていたんだから、稼ぎは半分以下ってことになるんじゃないのかな」
白の月になってからは、単独の氏族で腸詰肉の準備を受け持つことになったのだ。最初の3ヶ月がベイム、その次がザザ、そして現在がスンという順番である。
「それにさ、そういう意味ならどの氏族にだって偏りがあるはずだよ。たとえばザザなんかは、ディンとリッドを除く5氏族で腸詰肉の準備をしていたわけだけど、スンなんかは眷族もなく単独で受け持っているから、単純計算でザザの5倍の富を得ているわけだよ」
「はあ……」
「現在は、すべての氏族が生鮮肉と腸詰肉を売る仕事を習い覚えるっていうのを眼目にしているからね。それですべての氏族が体験し終えたら、今度は公平に富が行き渡るように順番とか期間とかが決められるんじゃないのかな」
「族長らの間では、すでにそのような話が為されているのでしょうか?」
「いや、そこまでは聞いていないけれど、公平さを重んじる森辺の民だったら、きっとそういう結論に至るだろうと思ってさ」
そう言って、俺はレイ=マトゥアに笑いかけてみせた。
「現にレイ=マトゥアは、自分たちばかりが得をしているんじゃないかって心配していただろう? 森辺の民は不当に損をすることよりも得をすることに過敏な気質だろうからね。次回の家長会議では、きっとそのあたりのことが議題にのぼるだろうと思うよ」
「そうですか……そうですよね。わたしあたりが思いつくことを、族長や家長たちが思いつかないはずがありませんものね」
レイ=マトゥアはようやく安心できた様子で、にこーっと微笑んだ。
「ありがとうございます! 誰に相談しようか迷っていたのですけれど、やっぱりアスタに聞いてもらってよかったです!」
「どういたしまして」と答えつつ、俺も何だか満ち足りた心地であった。雨の風情がよく似合うクルア=スンも、湿っぽい空気を吹き飛ばすようなレイ=マトゥアも、俺にはきわめて森辺の民らしい魅力が感じられてやまないのだ。
「なんというか……空気がやわらかく感じられますね」
と、ふいにユン=スドラがそのようなことを言いだした。
みんながそちらを振り返ると、ユン=スドラはいくぶん頬を染めながら「申し訳ありません」と頭を下げる。
「あ、頭に思い浮かんだ言葉をそのまま口にしてしまいました。どうぞ聞き流してください」
「いや、なんとなくわかるような気がするよ。復活祭の頃なんかと比べると、雰囲気がまったく違うよね」
笑いながら、俺はそのように答えてみせた。
「今日からは、屋台で扱う料理の分量も半分に絞ったし。仕事がそんなに詰まってないから、和やかな雰囲気になってるのかな」
「ほ、本当に申し訳ありません。決して、気をゆるめたつもりではないのですが……」
「大丈夫だよ。ユン=スドラがしっかり働いてくれていることは、手際を見ればわかるからね。どんなに和やかな空気になったって、みんなが気をゆるめることはないさ」
そうして視線を巡らせると、他の面々もゆったりとした表情ながら、手だけは普段通りに動かしている。どれだけ仕事にゆとりがあろうとも、それで手抜きをするような人間は森辺に存在しないのである。
「繁忙期も閑散期も、それぞれ楽しく働かないとね。雨季の間は、こういう和やかな空気を楽しむべきだろうと思うよ」
「はい! 去年なんかは雨季になるなり、アスタが《アムスホルンの息吹》で倒れてしまいましたものね!」
と、レイ=マトゥアがとびっきりの笑顔でそのように言いたてた。
「それに、サウティの集落では北の民たちの面倒を見ることになったり……あと、わたしは話で聞くばかりでしたが、シュミラル=リリンが狩りの仕事で手傷を負ったりもしていませんでしたか?」
「ああ、確かに。去年の雨季は、なかなか激動の始まりだったねえ。レイ=マトゥアたちの研修が始まるなり、俺が寝込むことになっちゃって、すごく申し訳ない気分だったよ」
「わたしもアスタが魂を返してしまったらどうしようと、気が気ではありませんでした! 今年は、平和な雨季になるといいですね!」
それは、まったくの同感であった。
5日後にはアイ=ファの生誕の日が迫っており、雨季の野菜が出回る頃にはアルヴァッハたちに料理をふるまう約束をしている。あとはそろそろ、ヴァルカスのもとにも向かいたい頃合いであるし――今のところは、心の弾むイベントばかりが待ちかまえているのだ。
(まあ、雨季はふた月もあるんだから、何かしらのアクシデントがあってもおかしくはないんだろうけど……何が来たって、乗り越えてみせるさ)
そんな思いを胸に、俺は下ごしらえの仕事を進めることになった。